前島密は、近代郵便制度の創設者の一人で、1円切手の図案にもなっていました。
1835年(天保6年1月7日)に、越後国頸城郡下池部村(現在の新潟県上越市)の豪農上野家の父助右衛門、母ていの次男として生まれ、幼名は房五郎と言います。
1845年(弘化2)に11歳で高田藩の儒学者倉石典太の門に入り、1847年(弘化4)、13歳で江戸に出て苦学の末に医学、蘭学を学びました。
その後、箱館で武田斐三郎の門下生となって、航海術、測量法を修得し、1865年(慶応元)薩摩藩の開成学校に英学教師として招かれます。翌年、江戸に帰って、幕臣前島家の養子となり、家督を継いで前島来輔と名乗ることになりました。
1869年(明治2)には、明治政府に出仕し、翌年に租税権正と駅逓権正を兼任し、郵便創業の建議を行います。そして、郵便制度調査のためイギリスに出張、1871年(明治4)帰国後、駅逓頭に就任して、東京~京都~大阪間に官営の郵便事業を開始しました。
そして、郵便、切手、葉書の名称を定めるなど、近代的郵便制度の確立に尽力し、“郵便制度の父”と呼ばれるようになります。
しかし、1881年(明治14)の政変で大隈重信らとともに政府を去り、立憲改進党の結成に参加しました。その後、1886年(明治19)には、東京専門学校(現在の早稲田大学)校長に就任し、晩年は実業界でも活動したのです。
1902年(明治35)男爵に、1904年(明治37)年には、貴族院議員にもなりましたが、1919年(大正8)4月27日に、84歳で亡くなりました。
尚、新潟県上越市の生家跡には、1931年(昭和6年)11月7日に「前島記念館」が建てられていて、前島密の業績を分かりやすく紹介するパネル展示をはじめ、当時の手紙や前島密の遺品、遺墨(絵や絵画)などが展示されています。