
今日は、江戸時代中期の1769年(明和6)に、江戸幕府第10代将軍徳川家治の側用人・田沼意次が侍従に就任し、老中格になった日ですが、新暦では9月17日となります。
田沼意次(たぬま おきつぐ)は、江戸時代中期の1719年(享保4)7月27日に、江戸本郷弓町(現在の東京都文京区)において、旗本の田沼意行の嫡男として生まれましたが、幼名は龍助といいました。1734年(享保19)、数え年16歳のとき第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となり、1735年(享保20)には、父の死去に伴って家督を継ぎ、1737年(元文2)に主殿頭に叙任されます。
1751年(宝暦元)に第9代将軍徳川家重の御側衆となり、1758年(宝暦8)には、加増により1万石を与えられて大名へ出世しました。1767年(明和4)に、側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城します。
1769年(明和6)には侍従に就任して老中格となり、1772年(安永元)には老中に進んで、たびたびの加封で5万7千石を領するに至りました。この間、幕政の実権を掌握するようになり、印旛沼・手賀沼の干拓による新田開発等の積極的な経済政策をとり、いわゆる田沼時代を現出します。
しかし、物価が騰貴し、賄賂政治を横行させることにもなり、折しも明和の大火(1772年)、浅間山の天明大噴火(1783年)などの災害が続き、さらに天明の大飢饉が起こるにおよんで、批判が高まりました。その中で、1784年(天明4)に子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に、将軍家治が死去すると勢力を失って失脚、老中も辞任させられ、藩領収公により、1万石に減封されます。
これらにより、失意のうちに1788年(天明8年6月24日)、江戸において、数え年70歳で亡くなりました。
1751年(宝暦元)に第9代将軍徳川家重の御側衆となり、1758年(宝暦8)には、加増により1万石を与えられて大名へ出世しました。1767年(明和4)に、側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城します。
1769年(明和6)には侍従に就任して老中格となり、1772年(安永元)には老中に進んで、たびたびの加封で5万7千石を領するに至りました。この間、幕政の実権を掌握するようになり、印旛沼・手賀沼の干拓による新田開発等の積極的な経済政策をとり、いわゆる田沼時代を現出します。
しかし、物価が騰貴し、賄賂政治を横行させることにもなり、折しも明和の大火(1772年)、浅間山の天明大噴火(1783年)などの災害が続き、さらに天明の大飢饉が起こるにおよんで、批判が高まりました。その中で、1784年(天明4)に子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に、将軍家治が死去すると勢力を失って失脚、老中も辞任させられ、藩領収公により、1万石に減封されます。
これらにより、失意のうちに1788年(天明8年6月24日)、江戸において、数え年70歳で亡くなりました。
〇田沼意次関係略年表(日付は旧暦です)
・1719年(享保4)7月27日 旗本の田沼意行の嫡男として生まれる
・1734年(享保19) 第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となる
・1735年(享保20) 父の死去に伴って家督(600石)を継ぐ
・1737年(元文2) 従五位下主殿頭に叙任される
・1747年(延享4) 小姓組番頭格となる
・1748年(寛延元) 1,400石を加増され、合計2,000石となる
・1751年(宝暦元)4月18日 第9代将軍徳川家重の御側衆となる
・1755年(宝暦5) 3,000石を加増され、合計5,000石となる
・1758年(宝暦8) 5,000石の加増により、合計1万石を与えられて大名となる
・1767年(明和4)7月1日 側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城する
・1769年(明和6)8月18日 侍従にあがり老中格となる
・1772年(明和9)1月15日 老中に進む
・1772年(明和9)2月29日 明和の大火が起こる
・1783年(天明3) 浅間山の天明大噴火が起こる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉が始まる
・1784年(天明4)4月2日 子の意知が江戸城内で暗殺される
・1786年(天明6)8月25日 第10代将軍家治が死去する
・1786年(天明6)8月27日 老中を辞任させられる
・1786年(天明6)閏10月5日 家治時代の加増分の2万石を没収される
・1787年(天明7)10月2日 石高3万7,000石が召上げられ蟄居となる
・1788年(天明8)6月24日 江戸において、数え年70歳で亡くなる
☆田沼時代(たぬまじだい)とは?
江戸時代中期に、田沼意次が側用人・老中として、長男の意知と共に、江戸幕政の実権を掌握していた時期を言います。期間は、意次が側御用人となった1767年(明和4)から、老中を辞任させられた1786年(天明6)の間とされてきました。
この時代は、幕藩体制を解体に導く要因が一斉に展開した時代で、幕藩体制の転換期とも、維新変革の起点の時期とも言われています。その政策は、享保の改革の緊縮財政策を捨て、商人資本を利用したところに特徴があるとされきました。
具体的には、運上・冥加金収入を目的に、問屋、株仲間の育成を強化し、さらに貨幣の増鋳、貿易量の増加、下総印旛沼の開拓、蝦夷地の開発、商品農産物栽培の奨励などの積極策を打出したものの、賄賂政治に堕するなどの弊害もみられます。一方で、自由な世情のなかで、新しい学問(古学、国学、蘭学など)や庶民文化の発達の機運が高まりました。
文化的には江戸時代の中で最も自由な時代といわれ、『解体新書』の訳出、平賀源内の活動、三浦梅園の哲学探究や江戸庶民文学(川柳、俳諧、狂歌、読本、絵画など)の成立期でもあります。その中で、膨張した貨幣経済は武士を一層困窮させ、うちつづく凶作や飢饉に対する解決策もなく、百姓一揆が続発し、江戸の打ちこわしも起きました。
このような政治に対する不信が意次に対する反感となり、1784年(天明4)4月2日に、子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に第10代将軍徳川家治が死去すると、老中を辞任させられて、田沼時代は終わります。
この時代は、幕藩体制を解体に導く要因が一斉に展開した時代で、幕藩体制の転換期とも、維新変革の起点の時期とも言われています。その政策は、享保の改革の緊縮財政策を捨て、商人資本を利用したところに特徴があるとされきました。
具体的には、運上・冥加金収入を目的に、問屋、株仲間の育成を強化し、さらに貨幣の増鋳、貿易量の増加、下総印旛沼の開拓、蝦夷地の開発、商品農産物栽培の奨励などの積極策を打出したものの、賄賂政治に堕するなどの弊害もみられます。一方で、自由な世情のなかで、新しい学問(古学、国学、蘭学など)や庶民文化の発達の機運が高まりました。
文化的には江戸時代の中で最も自由な時代といわれ、『解体新書』の訳出、平賀源内の活動、三浦梅園の哲学探究や江戸庶民文学(川柳、俳諧、狂歌、読本、絵画など)の成立期でもあります。その中で、膨張した貨幣経済は武士を一層困窮させ、うちつづく凶作や飢饉に対する解決策もなく、百姓一揆が続発し、江戸の打ちこわしも起きました。
このような政治に対する不信が意次に対する反感となり、1784年(天明4)4月2日に、子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に第10代将軍徳川家治が死去すると、老中を辞任させられて、田沼時代は終わります。
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