ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:田中義一内閣

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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、田中義一内閣が「治安維持法」を改正のため、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」を公布・施行し、反国体の結社行為に死刑・無期刑を追加した日です。
 「治安維持法中改正ノ件(ちあんいじほうちゅうかいせいのけん)」は、「治安維持法」に反国体の結社行為に死刑・無期刑を追加などをした緊急勅令(昭和3年勅令第129号)でした。
 1928年(昭和3)2月20日に初めての男子普通選挙による第16回衆議院選挙が実施され、立憲政友会が218議席、立憲民政党が216議席を得ましたが、無産政党も8議席(社会民衆党4議席、労働農民党2議席、日本労農党1議席、九州民憲党1議席)を獲得します。無産政党の進出を恐れた田中義一内閣は、三・一五事件で、反体制派を大量検挙し、同年4月20日召集の第55回帝国議会に「治安維持法」改正案を上程、この最高刑を死刑とし、反体制勢力の壊滅を図ろうとしました。
 しかし、死刑を含む刑罰の強化は、弾圧的過ぎるとして野党や言論界の強い反対で改正案は審議未了となります。そこで、田中義一内閣は、議会の審議を経ずに改正を強行するため、同年6月29日に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」を公布・施行しました。
 これによって、法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑とし、また、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行の為にする行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとします。これにより、犯罪を実行していなくても、当局が危険と判断するすべての人を合法的に逮捕、処罰することができる根拠とし、さらに、全国主要府県の警察部にも特高警察を設置すると共に、特高警察と両輪的役割りを果たす、思想問題専従の思想検事を同年7月に正式に設置し、反体制勢力を抑え込みを強化していきました。
 その一方で、山東出兵などで中国大陸への軍事進出を図っていくこととなります。
 以下に、「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年勅令第129号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年勅令第129号)1928年(昭和3)6月29日公布・施行

朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ帝國憲法第八條第一項ニ依リ治安維持法中改正ノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム

御名御璽
昭和三年六月二十九日
                内閣總理大臣兼
                   外務大臣 男爵 田中  義一 
                   鐡道大臣   小川  平吉 
                   海軍大臣   岡田  啓介 
                   陸軍大臣   白川  義則 
                   商工大臣   中橋 徳五郎 
                   大藏大臣   三土  忠造 
                   農林大臣   山本 悌二郎 
                   内務大臣   望月  圭介 
                   司法大臣   原   嘉道 
                   逓信大臣   久原 房之助 
                   文部大臣   勝田  主計 

勅令第百二十九號

治安維持法中左ノ通改正ス

第一條 國體ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ從事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ處シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス

私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス

前二項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二條中「前條第一項」ヲ「前條第一項又ハ第二項」ニ改ム

第三條及第四條中「第一條第一項」ヲ「第一條第一項又ハ第二項」ニ改ム

第五條中「第一條第一項及」ヲ「第一條第一項又ハ第二項又ハ」ニ改ム

附則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

   「ウィキソース」より

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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、田中義一内閣の下で、満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策を決定するために「東方会議」が開始(~7月7日)された日です。
 東方会議(とうほうかいぎ)は、外相兼任の首相田中義一(長州閥の陸軍軍人出身)が、5月27日の第1次山東出兵の1ヶ月後に対中国政策を決めるために開いた会議でした。森恪外務政務次官のほか、外務省各局長、陸海軍次官、関東庁長官、関東軍司令官ら陸海軍関係者が参集します。
 関東軍や森恪外務政務次官らは張作霖を下野させ、満蒙を中国本部から分離することを構想しましたが、田中首相らは張を擁立して満蒙を支配する考えでした。その結果、これらの考えを折衷し、最終日の7月7日に「対支政策綱領」が発表されましたが、対中国権益擁護のためには軍事力行使もありうること、特に満蒙地域の権益保持には積極的な行動をとる旨が強調されています。
 中国革命に対抗して、中国本土では現地保護主義を、満蒙では積極的介入主義を採る、対中国「積極」外交の方針(いわゆる田中外交)を確立したものとして内外の注目を集めました。しかし、満蒙の位置づけについて奉天総領事吉田茂、駐華公使芳沢謙吉、在満陸軍武官の間に意見の相違があり、その調整をめぐって、森務政務次官が渡満し第2次東方会議ともいうべき会議が大連で開かれています。
 その後、南京政府の抗議や国際的な反対が強まると共に、国民党軍が北上を中止したので8月には撤兵を決め、9月8日に完了しました。ところが、1928年(昭和3)に、蒋介石が北伐を再開すると、4月20日に支那駐屯軍の天津部隊3個中隊と内地から第6師団の一部が派遣され、4月26日には済南に到着し、6千人が山東省に展開する第二次山東出兵などの強硬策を導くこととなります。
 尚、原敬内閣が1921年(大正10)5月に開催した対中国・シベリア政策に関する会議も「東方会議」と呼ばれてきました。
 以下に、東方会議最終日に出された「対支政策綱領」に関する田中外相訓令を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇東方会議「対支政策綱領」に関する田中外相訓令 1927年(昭和2)7月7日

(昭和二年七月七日來電合第一八五號竝七月十一日附來信亞一機密合第六三六號)

東方會議ハ本大臣主宰ノ下ニ本省幹部、在支公使、在上海、在漢口、在奉天各總領事竝陸海軍、大藏、關東廳、朝鮮總督府各代表者ヲ會シ、六月二十七日開會以來支那時局竝之レカ對策ニ關シ隔意ナキ意見ヲ聽取シタル上、本七日ノ最終會議ニ於テ本大臣ヨリ對支政策綱領トシテ左ノ通訓示セリ

極東ノ平和ヲ確保シ日支共榮ノ實ヲ擧クルコト我對支政策ノ根幹ナリトス。而シテ之カ實行ノ方法ニ至ツテハ日本ノ極東ニ於ケル特殊ノ地位ニ鑑ミ、支那本土ト滿蒙トニ付自ラ趣ヲ異ニセサルヲ得ス。今此根本方針ニ基ク當面ノ政策綱領ヲ示サンニ

一、支那國內ニ於ケル政情ノ安定ト秩序ノ回復トハ現下ノ急務ナリト雖モ其ノ實現ハ支那國民自ラ之ニ當ルコト最善ノ方法ナリ。

從テ支那ノ內亂政爭ニ際シ一黨一派ニ偏セス專ラ民意ヲ尊重シ苟モ各派間ノ離合集散ニ干涉スルカ如キハ嚴ニ避ケサルヘカラス

二、支那ニ於ケル穩健分子ノ自覺ニ基ク正當ナル國民的要望ニ對シテハ滿腔ノ同情ヲ以テ其ノ合理的達成ニ協力シ努メテ列國ト共同其ノ實現ヲ期セムトス

同時ニ支那ノ平和的經濟的發達ハ中外ノ均シク熱望スル所ニシテ支那國民ノ努力ト相俟テ列國ノ友好的協力ヲ要ス

三、叙上ノ目的ハ畢寛鞏固ナル中央政府ノ成立ニ依リ初メテ達成スヘキモ現下ノ政情ヨリ察スルニ斯ル政府ノ確立容易ナラサルヘキヲ以テ當分各地方ニ於ケル穩健ナル政權ト適宜接洽シ漸次全國統一ニ進ムノ氣運ヲ俟ツノ外ナシ

四、從テ政局ノ推移ニ伴ヒ南北政權ノ對立又ハ各種地方政權ノ聯立ヲ見ルカ如キコトアラムカ日本政府ノ各政權ニ對スル態度ハ全然同樣ナルヘキハ論ヲ侯タス、斯ル形勢ノ下ニ對外關係上共同ノ政府成立ノ氣運起ルニ於テハ其ノ所在地ノ如何ヲ問ハス日本ハ列國ト共ニ之ヲ歡迎シ統一政府トシテノ發達ヲ助成スルノ意圖ヲ明ニスヘシ

五、此間支那ノ政情不安ニ乗シ往々ニシテ不逞分子ノ跳梁ニ因リ治安ヲ紊シ不幸ナル國際事件ヲ惹起スルノ虞アルハ爭フヘカラサル所ナリ、帝國政府ハ是等不逞分子ノ鎭壓及秩序ノ維持ハ共ニ支那政權ノ取締竝國民ノ自覺ニ依リ實行セラレムコトヲ期待スト雖支那ニ於ケル帝國ノ權利利益竝在留邦人ノ生命財產ニシテ不法ニ侵害セラルル虞アルニ於テハ必要ニ應シ斷乎トシテ自衛ノ措置ニ出テ之ヲ擁護スルノ外ナシ

殊ニ日支關係ニ付揑造虚構ノ流說ニ基キ妄リニ排日排貨ノ不法運動ヲ起スモノニ對シテハ其ノ疑惑ヲ排除スルハ勿論權利擁護ノ爲進ムテ機宜ノ措置ヲ執ルヲ要ス。

六、滿蒙殊ニ東三省地方ニ關シテハ國防上竝國民的生存ノ關係上重大ナル利害關係ヲ有スルヲ以テ我邦トシテ特殊ノ考量ヲ要スルノミナラス同地方ノ平和維持經濟發展ニ依リ內外人安住ノ地タラシムルコトハ接壌ノ隣邦トシテ特ニ責務ヲ感セサルヲ得ス然リ而シテ滿蒙南北ヲ通シテ均シク門戸開放機會均等ノ主義ニ依リ內外人ノ經濟的活動ヲ促スコト同地方ノ平和的開發ヲ速カナラシムル所以ニシテ我旣得權益ノ擁護乃至懸案ノ解決ニ關シテモ亦右ノ方針ニ則リ之ヲ處理スヘシ

七、(本項ハ公表セサルコト)

若夫レ東三省ノ政情定ニ至テハ東三省人自身ノ努力ニ待ツヲ以テ最善ノ方策ト思考ス

三省有力者ニシテ満蒙ニ於ケル我特殊地位ヲ尊重シ眞面目ニ同地方ニ於ケル政情安定ノ方途ヲ講スルニ於テハ帝國政府ハ適宜之ヲ支持スヘシ

八、萬一動亂滿蒙ニ波及シ治安亂レテ同地方ニ於ケル我特殊ノ地位權益ニ對スル侵害起ルノ虞アルニ於テハ其ノ何レノ方面ヨリ來ルヲ問ハス之ヲ防護シ且內外人安住發展ノ地トシテ保持セラルル樣機ヲ逸セス適當ノ推置ニ出ツルノ覺悟アルヲ要ス

終リニ東方會議ハ支那南北ノ注意ヲ喚起シタルモノノ如クナルヲ以テ此機ヲ利用シ各位歸任ノ上ハ文武各官協力以テ對支諸問題乃至懸案ノ解決ヲ促進スルコトトシ、本會議ヲシテ益々有意義ナラシムルニ努メラレタク、將又叙上我對支政策實施ノ具體的方法ニ關シテハ各位ニ對シ本大臣ニ於テ別ニ協議ヲ遂クル所アルヘシ

   「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、「山東派兵に関する政府声明」が出されて、第一次山東出兵が始まった日です。
 山東出兵(さんとうしゅっぺい)は、1927年(昭和2)から翌年にかけて、田中義一内閣が在留邦人保護の名目で、三次にわたって、中国山東省に出兵した事件でした。蔣介石の率いる中国国民党革命軍の北伐を阻止し、満州・華北への勢力拡大をねらったものでしたが、たび重なる出兵は中国の抗日民族運動を強め、日本国内でも対華非干渉運動を巻き起こすことになります。
 1926年(大正15/昭和元)に、蔣介石は中国国民党による中国革命を進め、国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始しました。翌年4月17日に、不干渉主義を保持していた若槻内閣が総辞職し、同月20日に田中義一(長州閥の陸軍軍人出身)内閣が発足すると、中国革命に干渉し、国民党軍から親日の張作霖政権を守るため、5月27日に「山東派兵に関する政府声明」を出し、不祥事件予防、居留民保護と称して、在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令(第一次山東出兵)を下します。
 6月1日には、青島上陸を完了し、山東省に展開したものの、南京政府の抗議や国際的な反対が強まると共に、国民党軍が北上を中止したので8月には撤兵を決め、9月8日に完了しました。1928年(昭和3)に、蒋介石が北伐を再開すると、4月20日に支那駐屯軍の天津部隊3個中隊と内地から第6師団の一部が派遣され、4月26日には済南に到着し、6千人が山東省に展開(第二次山東出兵)します。
 そして、5月3日には、日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突が発生(済南事件)しました。その状況下で、緊急閣議を開いて、出兵の増派を決定、5月9日には、第3師団の山東派遣が命令(第三次山東出兵)されます。
 5月11日には、日本軍が山東半島全域とその主要都市済南を占領(済南事変)したため、国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京を目指すこととし、6月8日に北京に入城しました。1929年(昭和4)3月末に、和平交渉がようやく成立し、5月には、済南城から日本軍が撤退して、山東出兵は終結しましたが、反日運動の激化を招き、同時に英米の日本批判も強まることとなります。
 以下に、「山東派兵に関する政府声明」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「山東派兵に関する政府声明」 1927年(昭和2)5月28日

支那二於ケル最近ノ動亂殊ニ南京、漢口其ノ他ノ地方ニ於ケル事件ノ實跡ニ徴スルニ兵亂ノ際支那官憲ニ於テ保護十分ナルヲ得サリシ爲在留帝國臣民ノ生命財産ニ對スル重大ナル危害ヲ被リ甚シキハ帝國ノ名譽毀損ノ暴擧ヲ見タリ從テ現下北支ノ動亂切迫ノ際此ノ種事件再發ノ虞ナキヲ保セス今ヤ右戰亂ハ濟南地方ニ波及セムトシ同地在留帝國臣民ノ生命財産ノ安全ニ付危惧ノ念措ク能ハサルモノアリ同地ニハ帝國臣民ノ居住スルモノニ千ノ多數ニ上リ而モ同地ハ海岸ヲ距ルコト遠キ奥地ニ在ルヲ以テ長江沿岸各地ニ於ケル如ク海軍力ニ依リ之ヲ保護スルコト到底不可能ナルニ依リ帝國政府ニ於テハ不祥事件ノ再發ヲ豫防スル爲陸兵ヲ以テ在留邦人ノ生命財産ヲ保護スルノ已ムヲ得サルニ至レリ然ルニ右保護ノ爲派兵ノ手配ヲ爲スニハ相當日子ヲ要シ而モ戰局ハ刻々攣化シツツアルニ顧ミ應急措置トシテ在滿部隊ヨリ約二千ノ兵ヲ不取敢靑島ニ派遣シ置クコトニ決セリ右陸軍力ニ依ル保護ハ固ヨリ在留邦人ノ安全ヲ期スル自衞上已ムヲ得サルノ緊急措置ニ外ナラスシテ支那國及其ノ人民ニ對シ何等非友好的意圖ヲ有セサルノミナラス南北兩軍何レノ軍隊ニ對シテモ其ノ作戰ニ干渉シ軍事行動ヲ妨礙スルモノニ非ス

帝國政府ハ斯ノ如ク自衛上已ムヲ得サル措置トシテ派兵ヲ行フト雖モ初メヨリ永ク駐屯セシムルノ意圖ナク同地方ノ邦人ニシテ戰亂ノ患ヲ受クルノ虞ナキニ至ラハ直ニ派遣軍全部ヲ撤退スヘキコトヲ茲ニ聲明ス

   「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より

☆山東出兵関係略年表

<1915年(大正4)>
・1月18日 中華民国政府に対しドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した「21か条の要求」を提出する
・5月25日 「山東省に関する条約」、「山東省に於ける都市開放に関する交換公文」、「膠洲湾租借地に関する交換公文」として承認される

<1918年(大正7)>
・9月 満蒙四鉄道および膠済鉄道の延長線である済順鉄道(済南‐順徳)、高徐鉄道(高密‐徐州)の借款仮契約が締結されるとともに、山東問題処理に関する取極めが交わされる

<1919年(大正8)> 
・パリ講和会議およびヴェルサイユ条約で、山東問題について、大日本帝国は対支21ヶ条要求を中華民国が受諾したと主張したが、中華民国は対支21ヶ条要求は強要されたもので、山東は自国に復帰すると主張した[4]。イギリスとフランスは前者を支持したが、アメリカ合衆国は後者に同情的だったため、大日本帝国は要求が拒否されるなら国際連盟規約に調印しないと迫ったため、アメリカ合衆国が譲歩した[4]。中華民国は、大日本帝国によるドイツ山東省権益の継承に反発し、ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり五・四運動となり、ヴェルサイユ条約の調印を拒否した。状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、

<1922年(大正11)> 
・2月4日 「山東還付条約」締結によって、青島を含んだ山東省を中国に還付することとなる

<1926年(大正15/昭和元)>
・中国の蔣介石は国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の北京政府撲滅を目指して北伐を開始する

<1927年(昭和2)>
・1月 イギリス租界奪取事件が起き、イギリスは租界の居留民を保護するため、日本に共同出兵を要請したが断る
・3月 揚子江下流の南京での国民革命軍と軍閥部隊との衝突に巻き込まれた日本を含む居留民に多くの被害が出る(南京事件)
・4月3日 漢口事件が起きる
・4月18日 上海を制圧した北伐軍は、上海クーデターによって共産党を排除し、国民党による南京国民政府を樹立、イギリス公使が2個師団増派を提議したが、日本側はいまだその必要がない旨を回答する
・4月17日 若槻内閣は総辞職する
・4月20日 立憲政友会の田中義一を首班とする田中義一内閣が誕生する
・5月27日 政府は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、陸海軍を派遣することを決定する
・5月28日 「山東派兵に関する政府声明」が出され、陸軍中央部は在満洲の歩兵第33旅団を青島に派遣待機させる旨の命令を下す(第一次山東出兵)
・5月30日 歩兵第33旅団は大連を出発する
・5月31日 歩兵第33旅団が青島に入港する
・6月1日 歩兵第33旅団が青島上陸を完了する
・7月3日 北軍の孫伝芳系の周蔭人の指揮下の軍が南軍に加担して、青島奪取を企図し、済南にあった北軍の張宗昌軍がこれを討伐しようとする
・7月4日 藤田栄介済南総領事は外務大臣に旅団の西進を申請する
・7月5日 閣議で旅団の西進の必要が認められる
・7月8日 旅団は済南に進出、閣議で兵力増派の要請が承認される、
・7月12日 在満第10師団の残余と第14師団の一部、内地より鉄道、電信各一個班が、青島に上陸する
・8月13日 蔣介石は武漢政府(汪兆銘政権)との合流を優先させてに下野を宣言し、北伐は一時的に中断する
・8月24日 日本政府は閣議で撤兵を決定する
・9月8日 撤兵を完了する

<1928年(昭和3)>
・3月、蔣介石の北伐軍は広州を出発し山東省に接近する
・4月末 10万人の北伐軍が市内に突入する
・4月20日 支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、臨時済南派遣隊が済南到着する
・4月26日 第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着し、6千人が山東省に展開する(第二次山東出兵)
・5月3日 日本軍の一部は済南まで進出し、国民革命軍と軍事衝突が発生する(済南事件)
・5月4日 日本は緊急閣議を開いて、関東軍より歩兵1旅団、野砲兵1中隊、朝鮮より混成1旅団、飛行1中隊の増派を決定する
・5月8日 閣議において、動員1師団の山東派遣および京津方面への兵力増派を承認する
・5月9日 第3師団の山東派遣が命じられる(第三次山東出兵)
・5月10日から11日 北伐軍は城外へ脱出し北伐を再開する
・5月11日 済南城ならびに済南全域を占領する(済南事変)
・6月8日 国民革命軍は日本軍との決戦を避けて、北京に入城する

<1929年(昭和4)>
・3月末 和平交渉がようやく成立する
・5月 済南城から日本軍が撤退して終結する

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