ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:生麦事件

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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20年)に、幕末明治維新期の政治家・薩摩藩主忠義の父島津久光が亡くなった日です。
 島津久光(しまづ ひさみつ)は、1817年(文化14年10月24日)に、薩摩国鹿児島郡(現在の鹿児島県鹿児島市)の鹿児島城内において、薩摩藩第10代藩主島津斉興の五男(母は側室お由羅の方)として生まれましたが、幼名は普之進(かねのしん)と言いました。翌年に種子島久道の養子となり、公子(藩主の子)の待遇を受けましたが、1825年(文政8)には島津宗家へ復帰します。
 1825年(文政8)に島津一門家筆頭の重富島津家の次期当主で叔父にあたる島津忠公の娘・千百子と婚姻し、同家の婿養子となり、1828年(文政11)には、元服して忠教(ただゆき)と名乗りました。1839年(天保10)に重富家の家督を相続し、1851年(嘉永4)には島津氏家督の座の争いで、斉興が隠退、斉彬が薩摩藩主となりましたが、1858年(安政5)に斉彬が死去すると、遺言により実子・忠徳が、藩主に就任することとなります。
 1859年(安政6)に斉興がに没すると、藩主の実父として政治的影響力が増大し、1861年(文久元)には宗家へ復帰して、「国父」の礼をもって遇されることになり、藩政の実権を掌握、久光に名を改めました。1862年(文久2年)に公武合体運動推進のため兵を率いて京都に上りましたが、滞在中に寺田屋事件が起きます。
 同年に、幕政改革を要求するためにの勅使随従を命じられ、一橋慶喜の将軍後見職と松平春嶽の政事総裁職の就任を実現(文久の改革)させました。しかし、その帰途、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷する「生麦事件」を起こします。
 京都へ到着し、参内して幕政改革の成功を復命した後、鹿児島へ帰りましたが、翌年7月に、「生麦事件」が薩英戦争へと発展しました。同年に京都へ上がり、朝廷会議(朝議)に有力諸侯を参与させることになり、翌年に参預に任命され、同時に従四位下・左近衛権少将に叙任されます。
 しかし、3月には参預を辞任して鹿児島に帰り、1864年(元治元)の禁門の変、翌年の第一次長州征討、条約勅許を経て、1866年(慶応2)には 薩長盟約へと至りました。同年の第二次長州征討で、将軍・徳川家茂が亡くなると、徳川慶喜が第15代将軍に就き、また、孝明天皇が亡くなると祐宮睦仁親王(明治天皇)が践祚して、世代交代が起こります。
 1867年(慶応3)に京都に上がり(4回目)、二条城における慶喜との会談で、長州処分問題の先決を唱えますが、朝議の結果、長州処分問題と兵庫開港問題を同時に勅許することとなり、病身の久光は鹿児島へ戻りました。同年10月に久光・茂久へ討幕の密勅が下され、徳川慶喜による大政奉還の奏請があり、状況が大きく変わり、王政復古のクーデターを経て、明治新政府の樹立へと至ります。
 1869年(明治2)に勅使・柳原前光が大久保利通を随伴して鹿児島に下向し、その働きかけに応じて再び京都に上がり、従三位・参議兼左近衛権中将に叙任されました。1871年(明治4)に廃藩置県が断行されると明治新政府から分家するよう命じられ、島津忠義の賞典禄10万石のうち5万石を家禄として分賜され玉里島津家が創立されます。
 1872年(明治5)の明治天皇が西国巡幸の一環として鹿児島に来ると明治新政府の改革方針に反する守旧的内容を含んだ14ケ条の意見書を奉呈しました。1873年(明治6)に勅使・勝安芳(海舟)および西四辻公業が鹿児島に下向し、その要請に応じて東京へ上り、麝香間祗候を命じられ、内閣顧問にもなります。
 翌年4月には左大臣に就任しましたが、封建的思想から抜けきれず、西洋心酔に反対し、また強い排外論者でもあったため用いられず、1876年(明治9)に辞官するに至りました。翌年の西南戦争の際には、西郷軍に加担せず中立を守り、以後は隠退して修史の業に従事し、1884年(明治17)に公爵となったものの、1887年(明治20)12月6日に、数え年71歳で病死し、国葬とされます。

〇島津久光関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1817年(文化14年10月24日) 鹿児島城内において、薩摩藩第10代藩主島津斉興の五男(母は側室お由羅の方)として生まれる
・1818年(文政元年3月1日) 種子島久道の養子となり、公子(藩主の子)の待遇を受ける
・1825年(文政8年3月13日) 島津宗家へ復帰する
・1825年(文政8年4月) 又次郎と改称する
・1825年(文政8年11月1日) 島津一門家筆頭の重富島津家の次期当主で叔父にあたる島津忠公の娘・千百子と婚姻し、同家の婿養子となる
・1828年(文政11年2月19日) 斉興が烏帽子親となり元服、忠教(ただゆき)の諱を授かる
・1836年(天保7年2月) 千百子と婚礼の式を挙げる
・1839年(天保10年11月) 重富家の家督を相続する
・1839年(天保10年12月) 通称を山城と改める
・1847年(弘化4年10月) 通称を山城から周防へ改める
・1847年(弘化4年)  斉彬より軍役方名代を仰せつかり、海岸防備を任される
・1851年(嘉永4年2月2日) 島津氏家督の座を争い、斉興が隠退、斉彬が薩摩藩主となる
・1858年(安政5年7月16日) 斉彬が死去する
・1858年(安政5年12月28日) 遺言により忠教の実子・忠徳が、藩主に就任する
・1859年(安政6年9月12日) 斉興がに没すると、藩主の実父として茂久の藩内における政治的影響力が増大する
・1861年(文久元年4月19日) 宗家へ復帰、「国父」の礼をもって遇されることになり、藩政の実権を掌握する
・1861年(文久元年4月23日) 通称を和泉、諱を久光に改める
・1862年(文久2年2月24日) 重富邸から新築の鹿児島城二の丸邸へ移る
・1862年(文久2年) 西郷隆盛を遠島処分(徳之島、のち沖永良部島に配流)とする藩内有志の嘆願により
・1864年(元治元年) 西郷隆盛を赦免する
・1861年(文久元年12月) 伊地知貞馨は芝の藩邸を燃やして参勤交代は不可能と申し開きをする
・1862年(文久2年4月16日) 公武合体運動推進のため兵を率いて上京する
・1862年(文久2年4月23日) 京都滞在中に伏見の寺田屋に集結した有馬新七ら自藩の尊攘派過激分子を粛清する事件が起きる(寺田屋事件)
・1862年(文久2年5月9日) 朝廷に対する久光の働きかけにより、幕政改革を要求するために勅使の江戸派遣が決定し、勅使随従を命じられる
・1862年(文久2年6月7日) 勅使が江戸へ到着する
・1862年(文久2年7月6日) 一橋慶喜の将軍後見職を実現する
・1862年(文久2年7月9日) 松平春嶽の政事総裁職の就任を実現させる(文久の改革)
・1862年(文久2年8月21日) 東海道を帰京の途上、武蔵国橘樹郡生麦村で大名行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺傷する(生麦事件)
・1862年(文久2年閏8月9日) 京都へ到着し、参内して幕政改革の成功を復命する
・1862年(文久2年閏9月7日) 鹿児島へ帰る
・1863年(文久3年3月14日) 2回目の上京をし、京都に着く
・1863年(文久3年4月11日) 鹿児島へ帰り着く
・1863年(文久3年7月) 生麦事件が薩英戦争へと発展する
・1863年(文久3年8月18日) 長州藩の勢力を京都から追放する(八月十八日の政変)
・1863年(文久3年10月3日) 3回目の上京をし、京都に着く
・1863年(文久3年12月30日) 朝廷会議(朝議)に有力諸侯を参与させることになり、一橋慶喜、松平春嶽らが朝議参預を命じられる
・1864年(元治元年1月14日) 参預に任命され、同時に従四位下・左近衛権少将に叙任される
・1864年(元治元年3月14日) 参預を辞任する
・1864年(元治元年5月8日) 鹿児島に帰る
・1864年(元治元年7月19日) 禁門の変が起こる
・1865年(慶応元年5月16日) 第一次長州征討へ将軍家茂が進発する
・1865年(慶応元年10月5日) 条約が勅許される
・1866年(慶応2年1月21日) 薩長盟約が締結される
・1866年(慶応2年)6月16日~20日) イギリス公使ハリー・パークスの一行を鹿児島に迎えて、薩摩藩とイギリスの間の友好関係を確認する
・1866年(慶応2年7月20日) 第二次長州征討で、将軍・徳川家茂が亡くなる
・1866年(慶応2年12月5日) 徳川慶喜が第15代将軍に就く
・1866年(慶応2年12月25日) 孝明天皇が亡くなる
・1867年(慶応3年1月9日) 祐宮睦仁親王(明治天皇)が践祚する
・1867年(慶応3年4月12日) 4回目の上京で京都に着く
・1867年(慶応3年5月14、19、21日) 二条城における慶喜との会談で、長州処分問題の先決を唱える
・1867年(慶応3年5月23、24日) 朝議の結果、長州処分問題と兵庫開港問題を同時に勅許することとなる
・1867年(慶応3年8月15日) 病身の久光は大坂へ移る
・1867年(慶応3年9月21日) 帰藩して鹿児島へ着く
・1867年(慶応3年10月14日) 久光・茂久へ討幕の密勅が下され、徳川慶喜による大政奉還の奏請がある
・1867年(慶応3年10月15日) 朝廷より久光に対し上京が命じられる
・1867年(慶応3年11月13日) 病のためそれに応じられず、代わって藩主・茂久が藩兵3,000人を率いて鹿児島を出発する
・1869年(明治2年2月) 勅使・柳原前光が大久保利通を随伴して鹿児島に下向する
・1869年(明治2年3月2日) 勅使の働きかけに応じて上京し、京都に着く
・1869年(明治2年3月6日) 従三位・参議兼左近衛権中将に叙任される
・1869年(明治2年3月21日) 鹿児島へ帰着する
・1870年(明治3年12月) 勅使・岩倉具視が大久保等とともに鹿児島に下向し、久光および西郷に上京を要請する
・1871年(明治4年2月) 鹿児島・山口・高知3藩の兵力で編成される御親兵の設置が決定する
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県が断行される
・1871年(明治4年9月10日) 明治新政府から分家を命じられ、島津忠義の賞典禄10万石のうち5万石を分賜される(玉里島津家の創立)
・1872年(明治5年6月22日) 明治天皇が西国巡幸の一環として鹿児島に来る(7月2日まで滞在) 
・1872年(明治5年6月28日) 明治新政府の改革方針に反する守旧的内容を含んだ14ヶ条の意見書を奉呈する
・1873年(明治6年)3月 勅使・勝安芳(海舟)および西四辻公業が鹿児島に下向する
・1873年(明治6年)4月23日 勅使の要請に応じて上京し東京へ着く
・1873年(明治6年)5月10日 麝香間祗候を命じられる
・1873年(明治6年)12月25日 内閣顧問に任じられる
・1874年(明治7年)2月20日 佐賀の乱の勃発を受けて、明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため、鹿児島に帰郷する
・1874年(明治7年)4月21日 勅使・万里小路博房および山岡鉄太郎(鉄舟)が鹿児島に派遣され、その命に従って帰京し東京へ着く
・1874年(明治7年)4月27日 左大臣となる
・1874年(明治7年)5月23日 旧習復帰の建白を行うが、明治新政府の意思決定からは実質的に排除される
・1875年(明治8年)10月27日 左大臣の辞表が許可される
・1875年(明治8年)11月2日 麝香間祗候を命じられる
・1876年(明治9年)4月13日 帰郷し、鹿児島へ着く
・1877年(明治10年)2月 西郷隆盛らが蜂起して西南戦争が勃発すると、太政大臣・三条実美への上書において中立の立場を表明する
・1884年(明治17年) 公爵となる
・1887年(明治20年)12月6日 鹿児島において、数え年71歳で病死し、国葬をもって送られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1918年(大正7)大学令」、「高等学校令」が公布される詳細
1927年(昭和2)政治雑誌「労農」が創刊される詳細


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 今日は、1863年(文久3)に薩英戦争の起きた日ですが、新暦では8月15日のこととなります。
 これは、江戸時代末期の1863年(文久3年7月2~4日)、薩摩国鹿児島で行われた、薩摩藩とイギリス艦隊との戦闘でした。1862年(文久2年8月21日)に起きた生麦事件に対して、イギリス代理公使 E.ニールは、江戸幕府に対して公式謝罪状および償金10万ポンドを要求し、薩摩藩に対しては、犯人の処刑と償金2万5千ポンドを要求します。
 しかし、江戸幕府は従ったものの、薩摩藩は拒否したため、ニール公使は、みずからの力で事態の解決をはかり、翌年6月27日に、イギリス艦隊を鹿児島湾に侵入させ、翌日犯人の処刑と前記償金の支払いを求めました。
 これに対し、薩摩藩が回答しなかったため、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸、白鳳丸、青鷹丸を拿捕し、鹿児島に砲撃を加え、薩摩藩も応戦したので、戦闘状態となります。戦闘は4日まで続きましたが、鹿児島城下は砲火を浴びて、鹿児島城内の櫓、門等を損壊、集成館、鋳銭局など重要施設を含む市街地の1割を焼亡し、イギリス側も艦船を損傷、死傷者63人を出し、食料・弾薬・石炭の欠乏、船体修理のため退去し、横浜に帰りました。
 同年10月横浜で交渉の結果、薩摩藩は償金を江戸幕府の立替え払いで支払い、イギリス側も薩摩藩の軍艦購入を周旋するなどの条件で和議が成立し、以後両者の提携が進むことになります。

〇生麦事件とは?

 幕末の1862年(文久2年8月21日)に、神奈川の生麦村(現在の横浜市鶴見区)で起こった薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件です。薩摩藩の島津久光一行が、江戸からの帰途、騎馬のイギリス人リチャードソンら4名と行き会い、馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、供頭の奈良原喜左衛門が突然斬りつけ、続いて多数で襲撃し、リチャードソンは絶命、2人が重傷を負いました。
 イギリスは幕府と薩摩藩に犯人引き渡しと賠償金を要求し、幕府はこれに応じましたが、薩摩藩はあくまで拒否したため、薩英戦争の原因となりました。

☆薩英戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1862年(文久2)>
・8月21日 神奈川の生麦村で薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件が起こる(生麦事件)
・8月23日 ニール公使は横浜において外国奉行津田正路と会談し、幕府の責任を問う
・8月30日 ニール公使と老中板倉・水野忠精との折衝が行われ、犯人の差し出しを要求する
・11月20日 ヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で武力制裁に関する勅令が可決される

<1863年(文久3)>
・2月4日 幕府に生麦事件と東禅寺事件の賠償(合計11万ポンド)について最後通牒を突きつける
・2月19日 ニール公使は幕府に対して、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉することを通告する
・5月9日 ニール公使と江戸幕府代表の小笠原長行との間で賠償交渉(賠償金10万ポンド)がまとまる
・6月22日 ニール公使は薩摩国との直接交渉のため、7隻の艦隊と共に横浜を出港し、薩摩へ向かう
・6月27日 イギリス軍艦7隻が鹿児島湾に入る
・6月28日 イギリス艦隊は鹿児島城下前之浜沖合に投錨し、薩摩の使者に対しイギリスの国書を提出する
・7月1日 ニール公使は島津家の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告する
・7月2日 イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸、白鳳丸、青鷹丸を拿捕し、鹿児島に砲撃を加え、薩摩藩も応戦する
・7月3日 イギリス艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地1割と島津屋敷を延焼させる
・7月4日 イギリス艦隊は死傷者63人を出し、弾薬や石炭燃料の消耗もあって薩摩を撤退する
・7月11日 イギリスの全艦隊が横浜に帰着する
・9月28日 横浜の英国公使館の応接室にて、第1回和睦の談判が行われ、紛糾・決裂するものの次回を決める
・10月4日 第2回和睦の談判が行われ、紛糾・決裂するものの翌日の継続を決める
・10月5日 第3回和睦の談判が行われ、イギリスからの軍艦購入を条件に扶助料を出すことで決着する
*島津家は6万300両(2万5000ポンド相当)を幕府から借用してイギリス側に支払うが、これを幕府に返却しなかった
*講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されずに終わる
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 今日は、江戸時代末期の1862年(文久2)に、生麦事件の起きた日ですが、新暦では9月14日となります。
 この事件は、神奈川の生麦村(現在の横浜市鶴見区)で起こった薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件です。
 薩摩藩の島津久光一行が、江戸からの帰途、騎馬のイギリス人リチャードソンら4名と行き会い、馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、供頭の奈良原喜左衛門が突然斬りつけ,続いて多数で襲撃し、リチャードソンは絶命、2人が重傷を負いました。
 イギリスは幕府と薩摩藩に犯人引き渡しと賠償金を要求し、幕府はこれに応じましたが、薩摩藩はあくまで拒否したため、薩英戦争の原因となりました。
 
〇「薩英戦争」とは?
 江戸時代末期の1863年(文久3年7月2~4日)、薩摩国鹿児島で行われた、薩摩藩とイギリス艦隊との戦闘です。
 1862年(文久2年8月21日)に起きた生麦事件に対して、イギリス代理公使 E.ニールは、江戸幕府に対して公式謝罪状および償金10万ポンドを要求し、薩摩藩に対しては、犯人の処刑と償金2万5千ポンドを要求しました。
 しかし、江戸幕府は従ったものの、薩摩藩は拒否したため、ニール公使は、みずからの力で事態の解決をはかり、翌年6月27日に、イギリス艦隊を鹿児島湾に侵入させ、翌日犯人の処刑と前記償金の支払いを求めたのです。
 これに対し、薩摩藩が回答しなかったため、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸、白鳳丸、青鷹丸を拿捕し、鹿児島に砲撃を加え、薩摩藩も応戦したので、戦闘状態となりました。
 戦闘は4日まで続きましたが、鹿児島城下は砲火を浴びて、鹿児島城内の櫓、門等を損壊、集成館、鋳銭局など重要施設を含む市街地の1割を焼亡し、イギリス側も艦船を損傷、死傷者63人を出し、食料・弾薬・石炭の欠乏、船体修理のため退去し、横浜に帰ったのです。
 同年11月横浜で交渉の結果、薩摩藩は償金を江戸幕府の立替え払いで支払い、イギリス側も薩摩藩の軍艦購入を周旋するなどの条件で和議が成立し、以後両者の提携が進むことになりました。
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