ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:生態学者

morishitamasaki01
 今日は、大正時代の1913年(大正2)に、生態学者森下正明の生まれた日です。
 森下正明(もりした まさあき)は、大正時代の1913年(大正2)1月27日に、大阪市東区東雲町59番地(現在の大阪市中央区玉造2丁目)において生まれました。土佐中学校(現在の土佐高校)、官立高知高等学校(現在の高知大学)を経て、1932年(昭和7)に、京都帝国大学(現在の京都大学)農学部農林生物学科へ入学します。
 1935年(昭和10)に卒業後、京都帝国大学副手となり、1937年(昭和12)には、立命館商業学校(現在の立命館高校)講師となって、グライダー部顧問(2級滑空士免許取得)となりました。1939年(昭和14)に立命館商業学校講師を退職をして、今西錦司と二人で蒙古馬車探検へ出かけ、1941年(昭和16)にポナペ島(ミクロネシア連邦ポナペ島)、1942年(昭和17)には、大興安嶺(中華人民共和国・黒龍江省)を探検(副隊長・漠河隊長)します。
 1946年(昭和21)に京都府立嵯峨野高等女学校(現在の嵯峨野高等学校)教諭となり、1948年(昭和23)には、京都府立鴨沂高等学校(新制)教諭(学制変更により移動)となりました。1950年(昭和25)に学位論文『ヒメアメンボの棲息密度と移動』で、京都大学から理学博士を得て、1952年(昭和27)には、九州大学理学部生物学科助教授(生態学講座)となります。
 1964年(昭和39)に日本動物学会賞を受賞し、1965年(昭和40)には、京都大学理学部動物学科教授(動物生理・生態学講座)となりました。1967年(昭和42)に京都大学理学部付属瀬戸臨海実験所(のち京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所水族館)所長(兼担)となりましたが、1976年(昭和51)には、定年退官し、京都大学名誉教授となっています。
 1986年(昭和61)に勲三等旭日中綬章を授章、1992年(平成4)に京都府教育委員会から文化財専門委員として表彰を受け、1994年(平成6)には、Distinguished Statistical Ecologist Award 国際生態学会賞を受賞しました。1996年(平成8)には、種多様性指数値に対するサンプルの大きさの影響、最後の論文を発表したものの、1997年(平成9)2月25日に、84歳で亡くなり、正四位を追贈されています。
 尚、アリの生態研究で世界的に知られ、数理生態学の第一人者とされ、生物の分布集中度指数「モリシタ-インデックス」は国際的に使用されてきました。

〇森下正明の主要な著作

・『動物の社会』(1977年)
・『森下正明生態学論集(1〜2)』(1979年)

☆森下正明関係略年表

・1913年(大正2)1月27日 大阪市東区東雲町59番地(現在の大阪市中央区玉造2丁目)において、生まれる
・1929年(昭和4) 土佐中学校(現在の土佐高校)を卒業する
・1929年(昭和4) 官立高知高等学校(現在の高知大学)へ入学する
・1932年(昭和7) 官立高知高等学校(現在の高知大学)を卒業し、京都帝国大学(現在の京都大学)農学部農林生物学科へ入学する
・1935年(昭和10) 京都帝国大学(現在の京都大学)農学部農林生物学科を卒業し、京都帝国大学副手となる
・1937年(昭和12) 立命館商業学校(現在の立命館高校)講師となり、グライダー部顧問(2級滑空士免許取得)となる
・1939年(昭和14) 立命館商業学校講師を退職をして、今西錦司と二人で蒙古馬車探検へ出かける
・1941年(昭和16) ポナペ島(ミクロネシア連邦ポナペ島)を探検する
・1942年(昭和17) 大興安嶺(中華人民共和国・黒龍江省)を探検(副隊長・漠河隊長)する
・1946年(昭和21) 京都府立嵯峨野高等女学校(現在の嵯峨野高等学校)教諭となる
・1948年(昭和23) 京都府立鴨沂高等学校(新制)教諭(学制変更により移動)となる
・1950年(昭和25) 学位論文『ヒメアメンボの棲息密度と移動』で、京都大学から理学博士を得る
・1952年(昭和27) 九州大学理学部生物学科助教授(生態学講座)となる
・1964年(昭和39) 日本動物学会賞を受賞する
・1965年(昭和40) 京都大学理学部動物学科教授(動物生理・生態学講座)となる
・1967年(昭和42) 京都大学理学部付属瀬戸臨海実験所(のち京都大学フィールド科学教育研究センター瀬戸臨海実験所水族館)所長(兼担)となる
・1976年(昭和51) 京都大学を定年退官し、京都大学名誉教授となる
・1984年(昭和59) 京都府教育委員会から文化財保護審議会委員として表彰を受ける
・1986年(昭和61) 勲三等旭日中綬章を授章する
・1992年(平成4) 京都府教育委員会から文化財専門委員として表彰を受ける
・1994年(平成6) Distinguished Statistical Ecologist Award 国際生態学会賞を受賞する
・1996年(平成8) 種多様性指数値に対するサンプルの大きさの影響、最後の論文を発表する
・1997年(平成9)2月25日 84歳で亡くなり、正四位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1219年(建保7)鎌倉の鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁により暗殺される(新暦2月13日)詳細
1713年(正徳3)狩野派の絵師狩野常信の命日(新暦2月21日)詳細
1770年(明和7)商人・随筆家・文人鈴木牧之の誕生日(新暦2月22日)詳細
1870年(明治3)「郵船商船規則」を布告、日本の商船は日章旗を掲揚するとし、日章旗規格を定める(新暦2月27日)詳細
1885年(明治18)日本画家前田青邨の誕生日詳細
1967年(昭和42)「宇宙条約」が署名開放され、日本が署名する詳細
1998年(平成10)小説家・放送作家・エッセイスト景山民夫の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

imanishikinji01

 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の生まれた日です。
 今西錦司(いまにし きんじ)は、京都府京都市で、西陣の帯問屋の長男として生まれ、京都府立第一中学校、第三高等学校を経て、1925年(大正14)に京都帝国大学農学部農林生物学科へ入学しました。1928年(昭和3)に卒業後、1933年(昭和8)に京都帝国大学理学部講師嘱託となり、カゲロウの種間の比較観察による発見から、棲み分けの理論を唱え、種社会の概念を基礎とする生物社会構造の理論を立てます。
 1938年(昭和13)に京都帝国大学内蒙古学術調査隊に参加、翌年には、興亜民族生活科学研究所研究員となり、「日本渓流産蜉蝣目」により京都帝国大学理学博士を得ました。1941年(昭和16)にポナペ島を探検、翌年には北部大興安嶺を探検、京都高等蚕糸学校非常勤講師となり、1943年(昭和18)に民俗学研究所嘱託、1944年(昭和19)には蒙古善隣協会西北研究所所長となります。
 1948年(昭和23)に京都大学理学部講師、1950年(昭和25)には、同大学人文科学研究所講師に移り、翌年には『人間以前の社会』を刊行しました。1952年(昭和27)にマナスル踏査隊長となり、1955年(昭和30)に「高崎山のサル」(編)で、第9回毎日出版文化賞を受賞、1955年(昭和30)には、京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊隊長となります。
 1956年(昭和31)に日本モンキーセンターを設立、1958年(昭和33)に同センターのアフリカ類人猿学術調査隊隊長となり、翌年には、京都大学人文科学研究所教授となりました。1961年(昭和36)から3年にわたり、第一次~第三次の京都大学アフリカ類人猿学術調査隊隊長となり、1965年(昭和40)には京都大学を退官し、岡山大学教養部教授となります。
 1967年(昭和42)に京都大学霊長類研究所を設立、1967年(昭和42)には岐阜大学学長となりました。1968年(昭和43)に朝日賞受賞、1972年(昭和47)に勲二等瑞宝章受章、文化功労者など数々の栄誉にも輝きます。
 1973年(昭和48)に岐阜大学退職、日本山岳会会長(1977年まで)となり、1979年(昭和54)には、文化勲章も受章しました。日本の霊長類学の基礎を築き、独自の進化論を唱え、1982年(昭和57)に京都市名誉市民となりましたが、1992年(平成4)6月15日に、京都府京都市において、90歳で亡くなっています。

〇今西錦司の主要な著書

・『生物の世界』(1941年)
・『遊牧論そのほか』(1948年)
・『生物社会の論理』(1949年)
・『人間以前の社会』(1951年)
・『私の進化論』(1970年)
・『ダーウィン論』(1977年)
・『日本山岳研究』
・『山岳省察』
・『自然学の提唱』

☆今西錦司関係略年表

・1902年(明治35)1月6日 京都府京都市で、西陣の帯問屋の長男として生まれる
・1920年(大正9)3月 京都府立第一中学校卒業
・1925年(大正14)3月 第三高等学校卒業
・1928年(昭和3)3月 京都帝国大学農学部農林生物学科卒業
・1933年(昭和8)3月 京都帝国大学理学部講師嘱託となる
・1936年(昭和11)5月 京都帝国大学理学部講師となる
・1938年(昭和13)8月 京都帝国大学内蒙古学術調査隊に参加する
・1938年(昭和13)12月 京都探検地理学会
・1939年(昭和14)6月 興亜民族生活科学研究所研究員となる
・1939年(昭和14)12月 「日本渓流産蜉蝣目」により京都帝国大学理学博士を得る
・1941年(昭和16)夏 ポナペ島を探検する
・1942年(昭和17)5月-7月 北部大興安嶺探検、京都高等蚕糸学校非常勤講師となる
・1943年(昭和18) 民俗学研究所嘱託となる
・1944年(昭和19) 蒙古善隣協会西北研究所所長となる
・1948年(昭和23)4月 京都大学理学部講師(有給)
・1950年(昭和25)4月 京都大学人文科学研究所講師となる
・1951年(昭和26) 『人間以前の社会』を刊行する
・1952年(昭和27)8月 マナスル踏査隊長となる
・1955年(昭和30) 「高崎山のサル」(編)で、第9回毎日出版文化賞を受賞する
・1955年(昭和30)5月 京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊隊長となる
・1956年(昭和31)1月 日本モンキーセンターを設立する
・1958年(昭和33)2月 日本モンキーセンターアフリカ類人猿学術調査隊隊長となる
・1959年(昭和34)6月 京都大学人文科学研究所教授となる
・1961年(昭和36)10月 第一次京都大学アフリカ類人猿学術調査隊隊長となる
・1963年(昭和38)5月 第二次京都大学アフリカ類人猿学術調査隊隊長となる
・1964年(昭和39)9月 第三次京都大学アフリカ類人猿学術調査隊隊長となる
・1965年(昭和40)4月 京都大学を退官する
・1965年(昭和40)5月 岡山大学教養部教授となる
・1967年(昭和42)4月 京都大学霊長類研究所を設立する
・1967年(昭和42)6月 岐阜大学学長(第4代)となる
・1968年(昭和43) 朝日賞を受賞する
・1970年(昭和45) 『私の進化論』を刊行する
・1971年(昭和46)10月 日本山岳会岐阜支部長(初代)となる
・1972年(昭和47) 勲二等瑞宝章を受章、文化功労者となる
・1973年(昭和48)5月 - 岐阜大学退職、日本山岳会会長となる
・1973年(昭和48)6月 - 岐阜大学名誉教授となる
・1974年(昭和49)6月 - 京都大学名誉教授となる
・1977年(昭和52)4月 日本山岳会会長を辞める
・1979年(昭和54) 文化勲章を受章する
・1982年(昭和57) 京都市名誉市民となる
・1992年(平成4)6月15日 京都府京都市において、90歳で亡くなる
・1992年(平成4) 贈従三位、贈勲一等瑞宝章(没時叙位陞勲)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1215年(建保3)鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日)詳細
1822年(文政5)洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の命日(新暦2月27日)詳細
1831年(天保2)禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日)詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ