ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:生化学者

hayaishiosamu01
 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、医師・生化学者・分子生物学者早石修が生まれた日です。
 早石修(はやいし おさむ)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ストックトンにおいて生まれましたが、旧制北野中学校を4修で卒業後、旧制大阪高校を経て、大阪帝国大学医学部医学科に入学しました。1942年(昭和17)に卒業後、同大学医学部副手となりましたが、太平洋戦争中に海軍軍医(中尉)として従軍し、戦後の1946年(昭和21)には、医化学第一講座助手に昇任します。
 1949年(昭和24)に「抗菌性物質に関する研究」で、大阪大学より博士号を授与され、アメリカ留学して、ウィスコンシン大学酵素研究所研究員となりました。1950年(昭和25)にカリフォルニア大学研究員、1951年(昭和26)にアメリカ国立衛生研究所研究員となり、1952年(昭和27)には、セントルイス・ワシントン大学医学部助教授(微生物学教室)となります。
 1954年(昭和29)にアメリカ国立衛生研究所(N.I.H)毒物学部長となり、1956年(昭和31)には、酸素添加酵素「オキシゲナーゼ」を発見しました。1958年(昭和33)に帰国して、京都大学医学部(生化学)教授となり、1961年(昭和36)には、大阪大学医学部(生化学第一講座)教授併任(~1963年)となります。
 1964年(昭和39)に「トリプトファンによるNADの生合成に関する研究」で日本ビタミン学会賞、「酸素添加酵素の研究」で松永賞を受賞、1965年(昭和40)に「酸素添加酵素の発見と研究」で朝日文化賞、1967年(昭和42)には、「酸素添加酵素の研究」で日本学士院賞を受賞しました。1968年(昭和43)にヴァンダービルト大学教授、1970年(昭和45)に東京大学医学部(栄養学講座)教授併任(~1974年)となり、1972年(昭和47)には、文化功労者となり、文化勲章を受章します。
 1973年(昭和48)に国際生化学・分子生物学連合の総裁を務め(~1976年)、1974年(昭和49)に日本学士院会員となり、1975年(昭和50)に「POLY(ADP-RIB)の発見、その合成分解酵素の生物学的意義に関する研究」で、第16回藤原賞を受賞、パリ市長ブロンズメダルを得て、1976年(昭和51)には、ニューヨーク科学アカデミー生化学賞を受賞、イギリス・チバ金牌を得ました。1978年(昭和53)にWHO医学研究顧問、1979年(昭和54)に京都大学評議員(~12月)、京都大学医学部長(~1981年)となり、スペイン ヒメネス・ディアズ記念賞受賞、1983年(昭和58)には、京都大学を退官して名誉教授となり、大阪医科大学学長(~1989年)となります。
 1984年(昭和59)に京都市名誉市民、1986年(昭和61)にウルフ賞医学部門受賞、1987年(昭和62)に財団法人大阪バイオサイエンス研究所所長、1990年(平成2)にニューオーリンズ市国際名誉市民、1993年(平成5)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1995年(平成7)にイタリア ルイジ・ムサジョ賞受賞、1998年(平成10)に財団法人大阪バイオサイエンス研究所名誉所長、1999年(平成11)にルイジアナ州立大学医学部・神経科学センター総長賞、カルフォルニア酸素クラブ賞・終身名誉会員、第3回世界睡眠学会連合総会(WFSRS)第1回優秀科学者賞を受賞します。
 2004年(平成16)に財団法人大阪バイオサイエンス研究所理事長、2007年(平成19)に大阪医科大学賞を受賞しましたが、2015年(平成27)12月17日に、京都府京都市の病院において、老衰のために、95歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇早石修の主要な著作

・『酸素と生命』(1984年)
・『プロスタグランジンの基礎と臨床 研究の歴史・現況と将来への展望』(1988年)

☆早石修関係略年表

・1920年(大正9)1月8日 アメリカ合衆国カリフォルニア州ストックトンにおいて、生まれる
・1942年(昭和17) 大阪帝国大学医学部医学科を卒業し、同大学医学部副手となる
・1946年(昭和21) 大阪帝国大学医学部医化学第一講座助手に昇任する
・1949年(昭和24) 「抗菌性物質に関する研究」で、大阪大学より博士号を授与され、アメリカ留学して、ウィスコンシン大学酵素研究所研究員となる
・1950年(昭和25) カリフォルニア大学研究員となる
・1951年(昭和26) アメリカ国立衛生研究所研究員となる
・1952年(昭和27) セントルイス・ワシントン大学医学部助教授(微生物学教室)となる
・1954年(昭和29) アメリカ国立衛生研究所(N.I.H)毒物学部長となる
・1956年(昭和31) 酸素添加酵素「オキシゲナーゼ」を発見する
・1958年(昭和33) 帰国して、京都大学医学部(生化学)教授となる
・1961年(昭和36) 大阪大学医学部(生化学第一講座)教授併任となる(~1963年)
・1964年(昭和39) 「トリプトファンによるNADの生合成に関する研究」で、日本ビタミン学会賞、「酸素添加酵素の研究」で、松永賞を受賞する
・1965年(昭和40) 「酸素添加酵素の発見と研究」で、朝日文化賞を受賞する
・1967年(昭和42) 「酸素添加酵素の研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1968年(昭和43) ヴァンダービルト大学教授となる
・1970年(昭和45) 東京大学医学部(栄養学講座)教授併任となる(~1974年)
・1972年(昭和47) 文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1973年(昭和48) 国際生化学・分子生物学連合の総裁を務める(~1976年)
・1974年(昭和49) 日本学士院会員(第7分科(医学・薬学・歯学))となる
・1975年(昭和50) 「POLY(ADP-RIB)の発見、その合成分解酵素の生物学的意義に関する研究」で、第16回藤原賞を受賞、パリ市長ブロンズメダルを得る
・1976年(昭和51) ニューヨーク科学アカデミー生化学賞を受賞、イギリス・チバ金牌を得る
・1978年(昭和53) WHO医学研究顧問となる
・1979年(昭和54) 京都大学評議員(~12月)、京都大学医学部長となり(~1981年)、スペイン ヒメネス・ディアズ記念賞を受賞する
・1983年(昭和58) 京都大学を退官して名誉教授となり、大阪医科大学学長となる(~1989年)
・1984年(昭和59) 京都市名誉市民となる
・1986年(昭和61) ウルフ賞医学部門を受賞する
・1987年(昭和62) 財団法人大阪バイオサイエンス研究所所長となる
・1990年(平成2) ニューオーリンズ市国際名誉市民となる
・1993年(平成5) 勲一等瑞宝章を受章する
・1995年(平成7) イタリア ルイジ・ムサジョ賞を受賞する
・1998年(平成10) 財団法人大阪バイオサイエンス研究所名誉所長となる
・1999年(平成11) ルイジアナ州立大学医学部・神経科学センター総長賞、カルフォルニア酸素クラブ賞・終身名誉会員、第3回世界睡眠学会連合総会(WFSRS)第1回優秀科学者賞を受賞する
・2004年(平成16) 財団法人大阪バイオサイエンス研究所理事長となる
・2007年(平成19) 大阪医科大学賞を受賞する
・2015年(平成27)12月17日 京都府京都市の病院において、老衰のために、95歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1173年(承安3)華厳宗の学僧明恵の誕生日(新暦2月21日)詳細
1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1892年(明治25)詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の誕生日詳細
1912年(明治45)映画監督今井正の誕生日詳細
1917年(大正6)農芸化学者・富山県立技術短大学長田村三郎の誕生日詳細
1941年(昭和16)陸軍大臣東條英機によって、陸訓第一号「戦陣訓」が発表される詳細
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、生化学者江上不二夫が生まれた日です。
 江上不二夫(えがみ ふじお)は、1910年(明治43)11月21日に東京において生まれ、1933年(昭和8)には、東京帝国大学理学部化学科を卒業しました。1934年(昭和9)にフランス政府の招聘留学生としてストラスブール大学、パリ生物物理化学研究所に学びましたが、1937年(昭和12)には帰国し、東京帝国大学理学部助手となります。
 1942年(昭和17)に、名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授となり、東京大学より「スルファターゼ模型に関する研究」で理学博士を得ました。1943年(昭和18)に同大学理学部教授に昇進し、1953年(昭和28)には、「生体酸化環元の研究」で中日文化賞、翌年には、日本化学会賞を受賞しています。
 1957年(昭和32)にタカジアスターゼから核酸分解酵素の1種であるリボヌクレアーゼ T1を分離・精製に成功し、国際的に知名度を高め、1958年(昭和33)には、東京大学理学部教授となりました。1961年(昭和36)に国際生化学連合の評議員(~1970年)となり、1966年(昭和41)に「リボヌクレアーゼT1に関する研究」で、朝日賞、1967年(昭和42)には、『生命を探る』で、毎日出版文化賞を受賞、国際生化学会議を日本に誘致して事務局長を務めています。
 1968年(昭和43)に埼玉大学理工学部教授を併任、日本生化学会会長となり、1969年(昭和44)には、日本学術会議会長(~1972年)となりました。1971年(昭和46)に三菱化成生命科学研究所初代所長となって、“生命の起源”の研究に打ち込み、「リボヌクレアーゼに関する研究」で日本学士院賞を受賞、レジオン・ドヌール勲章も受章し、1977年(昭和52)には、国際生命の起源学会会長に就任します。
 1980年(昭和55)には、三菱化成生命科学研究所名誉所長となりましたが、1982年(昭和57)7月17日に、東京において、71歳で亡くなりました。尚、兄は東洋史学・考古学者で「騎馬民族説」を唱えた江上波夫です。

〇江上不二夫の主要な著作

・『生体の化学』(1946年)
・『生化学研究の進み方』(1950年)
・『核酸および核蛋白質』(1951年)
・『生命を探る』(1967年)
・『生物化学概説』(1975年)

☆江上不二夫関係略年表

・1910年(明治43)11月21日 東京において、生まれる
・1933年(昭和8) 東京帝国大学理学部化学科を卒業する
・1934年(昭和9) フランス政府の招聘(しょうへい)留学生としてストラスブール大学、パリ生物物理化学研究所に学ぶ
・1937年(昭和12) 帰国し、東京帝国大学理学部助手となる
・1942年(昭和17) 名古屋帝国大学理学部化学科第三講座(有機化学)助教授となり、東京大学より「スルファターゼ模型に関する研究」で理学博士を得る
・1943年(昭和18) 名古屋帝国大学理学部教授となる
・1953年(昭和28) 「生体酸化環元の研究」で、中日文化賞を受賞する
・1954年(昭和29) 日本化学会賞を受賞する
・1957年(昭和32) タカジアスターゼから核酸分解酵素の1種であるリボヌクレアーゼ T1を分離・精製に成功し、国際的に知名度を高める
・1958年(昭和33) 東京大学理学部教授となる
・1961年(昭和36) 国際生化学連合の評議員となる(~1970年)
・1966年(昭和41) 「リボヌクレアーゼT1に関する研究」で、朝日賞を受賞する
・1967年(昭和42) 『生命を探る』で、毎日出版文化賞を受賞、国際生化学会議を日本に誘致して事務局長を務める
・1968年(昭和43) 埼玉大学理工学部教授併任となり、日本生化学会会長となる
・1969年(昭和44) 日本学術会議会長(~1972年)となる
・1971年(昭和46) 三菱化成生命科学研究所初代所長となり、「リボヌクレアーゼに関する研究」で日本学士院賞を受賞、レジオン・ドヌール勲章を受章する
・1977年(昭和52) オパーソン博士の後を継いで、国際生命の起源学会会長となる
・1980年(昭和55) 三菱化成生命科学研究所名誉所長となる
・1982年(昭和57)7月17日 東京において、71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

734年(天平6)「得度・授戒の制」が定められる(新暦12月20日)詳細
1889年(明治22)東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区銀座四丁目)に歌舞伎座が開場する詳細
1956年(昭和31)歌人・美術史家・書道家会津八一の命日(八一忌・秋艸忌)詳細
1903年(明治36)小説家伊藤永之介の誕生日詳細
1969年(昭和44)俳人石田波郷の命日詳細
1978年(昭和53)第20回ユネスコ総会で「体育およびスポーツに関する国際憲章」が採択される詳細
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 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、医学者・生化学者西塚泰美が亡くなった日です。
 西塚泰美(にしづか やすとみ)は、1932年(昭和7)7月12日に、兵庫県芦屋市において生まれましたが、愛知県名古屋市で育ちました。1951年(昭和26)に愛知県立瑞陵高校を卒業して京都大学医学部へ入学し、1957年(昭和32)には卒業します。
 1962年(昭和37)に京都大学医学部助手となり、翌年に博士号を取得、1964年(昭和39)には助教授に昇任し、ロックフェラー大学客員研究員ともなりました。1968年(昭和43)に神戸大学医学部教授となり、1975年(昭和50)には、「ホルモンによる代謝の調節機構に関する研究」により、松永賞を受賞します。
 1977年(昭和52)に、細胞の外から内へ情報を伝える物質を牛の脳細胞から取り出すことに成功、「蛋白質リン酸化酵素C (プロテインキナーゼC) 」と命名されたこの酵素が情報を伝えるだけでなく情報のあと始末役もすることを解明しました。1982年(昭和57)に、「ホルモン及び神経伝達物質の受容機構に関する研究」で、武田医学賞を受賞、1984年(昭和59)には、ハーバード大学医学部客員教授となります。
 1986年(昭和61)に、「ホルモンおよび神経伝達物質の作用機構に関する研究」で、朝日賞、「ホルモン作用における情報の受容伝達機構に関する研究」で日本学士院賞を受賞、翌年には、文化功労者にもなりました。1988年(昭和63)に、スローン賞(米国)、アルフレッド賞、ガードナー国際賞を受賞、文化勲章も受章します。
 1989年(平成元)に、アメリカ医学会の最高賞であるアルバート・ラスカー基礎医学研究賞を受賞、1990年(平成2)には、タンフォード大学客員教授となり、ロンドン王立協会外国人会員に選出されました。1991年(平成3)にバレンシア細胞研究所(スペイン)客員研究員、1992年(平成4)にワシントン大学客員教授ともなり、国際的に活躍します。
 これにより、1992年(平成4)にブレメンダル賞(オランダ)、1994年(平成6)にウルフ賞医学部門、デールメダル(英国内分泌学会)、1995年(平成7)にディアズ賞(スペイン)、エルンスト・シエーリング賞を受賞するなど、国際的に評価されました。1995年(平成7)~2001年(平成13)まで神戸大学長も務め、退官後は名誉教授ともなります。
 2001年(平成13)に兵庫県成人病センター総長となったものの、2004年(平成16)11月4日に、兵庫県神戸市において、72歳で亡くなり、従三位と銀杯一組を追贈されました。

〇西塚泰美関係略年表

・1932年(昭和7)7月12日 兵庫県芦屋市において、生まれる
・1951年(昭和26) 愛知県立瑞陵高校を卒業し、京都大学医学部へ入学する
・1957年(昭和32) 京都大学医学部を卒業する
・1962年(昭和37) 京都大学医学部助手となる
・1963年(昭和38) 京都大学大学院医学研究科博士課程を修了する
・1964年(昭和39) 京都大学医学部助教授となり、ロックフェラー大学客員研究員ともなる
・1968年(昭和43) 神戸大学医学部教授となる
・1975年(昭和50) 「ホルモンによる代謝の調節機構に関する研究」により、松永賞を受賞する
・1977年(昭和52) 細胞の外から内へ情報を伝える物質を牛の脳細胞から取り出すことに成功、「蛋白質リン酸化酵素C (プロテインキナーゼC) 」と命名されたこの酵素が情報を伝えるだけでなく情報のあと始末役もすることを解明する
・1980年(昭和55) 生物科学総合研究機構基礎生物学研究所教授を併任(1981年4月まで)
・1981年(昭和56) 岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所教授を併任(1985年3月まで)
・1982年(昭和57) 「ホルモン及び神経伝達物質の受容機構に関する研究」で、武田医学賞を受賞する
・1984年(昭和59) ハーバード大学医学部客員教授となる
・1986年(昭和61) 「ホルモンおよび神経伝達物質の作用機構に関する研究」で、朝日賞、「ホルモン作用における情報の受容伝達機構に関する研究」で日本学士院賞を受賞する
・1987年(昭和62) 文化功労者に選出される
・1988年(昭和63) スローン賞(米国)、アルフレッド賞、ガードナー国際賞を受賞、文化勲章も受章する
・1989年(平成元) 神戸大学理学部教授併任(1992年3月まで)、アルバート・ラスカー基礎医学研究賞を受賞する
・1990年(平成2) スタンフォード大学客員教授となり、ロンドン王立協会外国人会員に選出される
・1991年(平成3) バレンシア細胞研究所(スペイン)客員研究員となる
・1992年(平成4) ワシントン大学客員教授となり、神戸大学バイオシグナル研究センター長ともなる(1995年2月まで)、京都賞基礎科学部門、ブレメンダル賞(オランダ)を受賞する
・1994年(平成6) 京都大学ウイルス研究所教授を併任(1995年2月まで)、ウルフ賞医学部門、デールメダル(英国内分泌学会)を受賞する
・1995年(平成7) 神戸大学学長となる(2001年2月まで、医療技術短期大学部学長兼務(1998年3月まで))、ディアズ賞(スペイン)、エルンスト・シエーリング賞を受賞する
・1996年(平成8) バナジーメダル(インド・カルカッタ大学学術賞)を受賞する
・2001年(平成13) 神戸大学を退官して名誉教授となり、兵庫県成人病センター総長となる
・2003年~2004年 トムソン・ロイター引用栄誉賞を受賞する
・2004年(平成16)11月4日 兵庫県神戸市において、72歳で亡くなり、従三位と銀杯一組を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)武将・戦国大名・後北条氏5代目当主北条氏直の命日(新暦12月19日)詳細
1854年(嘉永7)安政東海地震が起き、甚大な被害が出る(新暦12月23日)詳細
1946年(昭和21)「国際連合教育科学文化機関憲章(ユネスコ憲章)」が発効する詳細
1974年(昭和49)薬学者・薬化学者落合英二の命日詳細
2000年(平成12)宮城県上高森遺蹟等で発見の前期旧石器が捏造と判明(旧石器捏造事件の発覚)詳細
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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、生化学者赤堀四郎が生まれた日です。
 赤堀四郎(あかほり しろう)は、静岡県小笠郡干浜村(現在の掛川市千浜)において、小学校教師だった父・赤堀秀雄の四男として生まれました。1913年(大正2)に千浜尋常小学校を卒業し、翌年には、大蔵省主税局関税課給仕となり、錦城尋常中学校夜間部へ入学します。
 1916年(大正5)に錦城尋常中学校昼間部4年へ編入、1918年(大正7)に同校を卒業、千葉医学専門学校薬学科へ入学しました。1921年(大正10)に同校薬学科を卒業、桃谷順天館入社して東京帝国大学(現・東京大学)理学部講師の西沢勇志智の助手として派遣されます。
 1922年(大正11)に東北帝国大学理学部へ入学、1924年(大正13)には眞島研究室に配属されました。1925年(大正14)に東北帝国大学理学部を卒業、同大学大学院に進学し、醤油の香り成分の抽出に取り組みます。
 1930年(昭和5)に東北帝国大学大学院を修了し、同大学理学部講師となり、翌年には、「アミノ酸及その誘導體に關する研究」で、理学博士を取得しました。1932年(昭和7)に欧米留学へ出発、ドイツ、チェコ、アメリカで学び、1935年(昭和10に帰国、大阪帝国大学理学部助教授となり、有機化学講座を担当します。
 1936年(昭和11)にしょうゆの香気成分メチオノールの合成に成功、1939年(昭和14)には、大阪帝国大学理学部教授に昇任しました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に大阪大学理学部学部長となり、1949年(昭和24)には、大阪大学一般教養部部長となります。
 1950年(昭和25)に「酵素およびアミノ酸に関する研究」で、日本化学会賞を受賞、翌年には、タカアミラーゼの結晶化に成功、1952年(昭和27)には、タンパク質をヒドラジン分解することによりカルボキシ(カルボキシル)末端アミノ酸残基を決定する方法を創始しました。1953年(昭和28)に大阪大学理学部学部長となり、東京大学応用微生物研究所教授も兼任、1955年(昭和30)には、「たんぱく質を構成するアミノ酸の結合状態に関する研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1958年(昭和33)に大阪大学蛋白質研究所所長、1960年(昭和35)に大阪大学総長、1964年(昭和39)には、日本学士院会員となりました。1965年(昭和40)に文化勲章を受章、翌年に退官して大阪大学名誉教授、理化学研究所理事長となり、大浜町名誉市民ともなり、1967年(昭和42)には、国際生化学会議(東京)会長を務めます。
 1968年(昭和43)に大阪府教育委員会委員長、1969年(昭和44)に日本化学会会長、1975年(昭和50)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1983年(昭和58)に夫妻そろってカトリックの洗礼を受けたものの、1992年(平成4)11月3日に、兵庫県において、92歳で亡くなっています。

〇赤堀四郎の主要な著作

・水島三一郎と共編『蛋白質化学』(1969年)
・『有機化学の進歩』
・『酵素化学の進歩』
・『生命とは何か』
・『タンパク質栄養』

☆赤堀四郎関係略年表

・1900年(明治33)10月20日 静岡県小笠郡干浜村(現在の掛川市千浜)において、小学校教師だった父・赤堀秀雄の四男として生まれる
・1913年(大正2) 千浜尋常小学校を卒業する
・1914年(大正3) 大蔵省主税局関税課給仕となり、錦城尋常中学校夜間部へ入学する
・1916年(大正5) 錦城尋常中学校昼間部4年へ編入する
・1918年(大正7) 錦城尋常中学校を卒業し、千葉医学専門学校薬学科へ入学する
・1921年(大正10) 千葉医学専門学校薬学科を卒業、桃谷順天館入社して東京帝国大学(現・東京大学)理学部講師の西沢勇志智の助手として派遣される
・1922年(大正11) 東北帝国大学理学部へ入学する
・1924年(大正13) 眞島研究室に配属される
・1925年(大正14) 東北帝国大学理学部を卒業、同大学大学院に入学する
・1930年(昭和5) 東北帝国大学大学院を修了し、同大学理学部講師となる
・1931年(昭和6) 「アミノ酸及その誘導體に關する研究」で、理学博士を取得する
・1932年(昭和7) 欧米留学へ出発する
・1935年(昭和10) 欧米留学から帰国し、大阪帝国大学理学部助教授となり、有機化学講座を担当する
・1936年(昭和11) しょうゆの香気成分メチオノールの合成に成功する
・1939年(昭和14) 大阪帝国大学理学部教授に昇任される
・1947年(昭和22) 大阪大学理学部学部長となる
・1949年(昭和24) 大阪大学一般教養部部長となる
・1950年(昭和25) 「酵素およびアミノ酸に関する研究」で、日本化学会賞を受賞する
・1951年(昭和26) タカアミラーゼの結晶化に成功する
・1952年(昭和27) タンパク質をヒドラジン分解することによりカルボキシ(カルボキシル)末端アミノ酸残基を決定する方法を創始する
・1953年(昭和28) 大阪大学理学部学部長となり、東京大学応用微生物研究所教授も兼任する
・1955年(昭和30) 「たんぱく質を構成するアミノ酸の結合状態に関する研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1958年(昭和33) 大阪大学蛋白質研究所所長となる
・1960年(昭和35) 大阪大学総長となる
・1964年(昭和39) 日本学士院会員となる
・1965年(昭和40)11月 文化勲章を受章する
・1966年(昭和41) 退官して大阪大学名誉教授となり、理化学研究所理事長となり、大浜町名誉市民ともなる
・1967年(昭和42) 国際生化学会議(東京)会長を務める
・1968年(昭和43) 大阪府教育委員会委員長となる
・1969年(昭和44) 日本化学会会長となる
・1973年(昭和48) 大東町名誉市民となる
・1975年(昭和50)4月 勲一等瑞宝章を受章する
・1983年(昭和58) 夫妻そろってカトリックの洗礼を受ける
・1992年(平成4)11月3日 兵庫県において、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)源平合戦の富士川の戦いが行われる(新暦11月9日)詳細
1856年(安政3)農政家・思想家二宮尊徳の命日(新暦11月17日)詳細
1879年(明治12)経済学者・社会思想家河上肇の誕生日詳細
1937年(昭和12)第1次近衛文麿内閣が「九国条約国会議不参加に関する政府声明」を出す詳細
2009年(平成21)小説家原田康子の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、医学者・細菌学者・生化学者梅澤濱夫の亡くなった日です。
 梅澤濱夫(うめざわ はまお)は、1914年(大正3)10月1日に、福井県小浜市において、医師で小浜病院院長であった父・梅澤純一(医学博士)の次男としてて生まれましたが、1923年(大正12)に父・純一が札幌鉄道病院長に任命されたのを機に、家族で札幌へ移住しました。1931年(昭和6)に東京の武蔵高校に入学し、1933年(昭和8)に卒業後、東京帝国大学医学部へ進みます。
 1937年(昭和12)に東京帝国大学医学部を卒業後、同大学の細菌学教室に入り、細菌の取り扱い方などを学びました。その後、千葉県習志野の陸軍病院に召集されましたが、1943年(昭和18)に召集解除され、東京帝国大学医学部細菌学教室の助手に就任します。
 1944年(昭和19)につくられたペニシリンの開発研究組織(後の碧素委員会)に参加、藤原工業大学(現、慶応義塾大学工学部)助教授の長兄純夫と共に日本で初めてペニシリンの分離に成功しました。同年に東京帝国大学助教授ともなり、翌年には、「ヘンリー氏マラリア血清反応に関する研究」で医学博士を取得しています。
 1947年(昭和22)に国立予防衛生研究所の抗生物質部長となり、1953年(昭和28)に、抗生物質ザルコマイシンを発見しました。1954年(昭和29)に東京大学応用微生物研究所の教授を兼任、1957年(昭和32)には、結核治療薬カナマイシンを発見、それにより、翌年に朝日賞を受賞、また、その特許料で財団法人微生物化学研究会を設立して理事長となります。
 そして、科学技術庁長官賞科学技術功労者表彰(1959年)、レジオンドヌール勲章(1961年)、日本学士院賞、フランス政府から衛生保健文化賞、文化勲章(1962年)など数々の栄誉にも輝きました。その後も、ブレオマイシン発見(1963年)、カスガマイシン発見(1964年)、ジョサマイシン発見(1965年)、アルベカシン創製(1973年)、ピラルビシン創製(1979年)など、抗生物質の研究で世界をリードします。
 これらの功績により、1980年(昭和55)にパウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞受賞、1981年(昭和56)にレオポルド・グリフエル賞受賞、1983年(昭和58)に国際化学療法学会賞受賞など国際的に評価されたものの、1986年(昭和61)12月25日に、東京において、72歳で亡くなりました。

〇梅澤濱夫関係略年表

・1914年(大正3)10月1日 医師梅澤純一(医学博士、元小浜病院院長、元札幌鉄道病院院長)の次男として福井県小浜市にて生まれる
・1923年(大正12) 父・純一が札幌鉄道病院長に任命されたのを機に、家族で札幌へ移住する
・1931年(昭和6) 武蔵高校に入学する
・1933年(昭和8) 武蔵高校を卒業し、東京帝国大学医学部へ入学する 
・1937年(昭和12) 東京帝国大学医学部を卒業、同大学の細菌学教室に入り、細菌の取り扱い方などを学ぶ。
・1943年(昭和18) 召集解除され、東京帝国大学医学部細菌学教室の助手に就任する
・1944年(昭和19) 東京帝国大学助教授となり、梅澤純夫と共に日本で初めてペニシリンの分離に成功する
・1945年(昭和20) 「ヘンリー氏マラリア血清反応に関する研究」で東京大学から医学博士を得る 
・1947年(昭和22) 国立予防衛生研究所の抗生物質部長となる
・1953年(昭和28) 抗生物質ザルコマイシンを発見する
・1954年(昭和29) 東京大学応用微生物研究所の教授を兼任する
・1957年(昭和32) 結核治療薬カナマイシンを発見する
・1958年(昭和33) 朝日賞(抗生物質の研究、とくにカナマイシンの発見)
・1959年(昭和34) カナマイシンの特許料で財団法人微生物化学研究会を設立して理事長となり、科学技術庁長官賞科学技術功労者の表彰を受ける
・1961年(昭和36) レジオンドヌール勲章を受章する
・1962年(昭和37) 財団法人微生物化学研究会微生物化学研究所所長となり、日本学士院賞、フランス政府から衛生保健文化賞、文化勲章を受章する
・1963年(昭和38) ブレオマイシンを発見する
・1964年(昭和39) イネのいもち病にきくカスガマイシンを発見する
・1965年(昭和40) ジョサマイシンを発見する
・1966年(昭和41) ブレオマイシンという抗生物質を制癌剤として利用する方法を創始する
・1971年(昭和46) 藤原賞を受賞する
・1973年(昭和48) アルベカシンを創製する
・1976年(昭和51) 高松宮妃癌研究基金学術賞を受賞する
・1977年(昭和52) 東京大学名誉教授となる
・1979年(昭和54) ピラルビシンを創製する
・1980年(昭和55) パウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞を受賞する
・1981年(昭和56) レオポルド・グリフエル賞を受賞する
・1983年(昭和58) 国際化学療法学会賞 (ISC Award)を受賞する
・1986年(昭和61)12月25日 東京において、72歳で亡くなり、勲一等瑞宝章、従三位が追贈される 

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