ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:理化学研究所

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 今日は、昭和時代後期の1974年(昭和49)に、実験物理学者菊池正士の亡くなった日です。
 菊池正士(きくち せいし)は、明治時代後期の1902年(明治35)8月25日に、東京において、数学者・教育者・貴族院議員・枢密顧問官として活躍し男爵だった父・菊池大麓(だいろく)の四男として生まれました。東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1923年(大正12)に、東京帝国大学理学部物理学科へ入学します。
 1926年(大正15)に卒業し、理化学研究所(西川正治研究室)に入り、1928年(昭和3)には、雲母の単結晶による電子線回折の実験に成功、菊池線と名づけられ、世界的に認められました。1929年(昭和4)にドイツ留学に出発し、ボルン、ハイゼンベルクのもとで量子力学の理論を学び、1931年(昭和6)に帰国、服部報公会賞を受賞します。
 1932年(昭和7)に論文「Zur Theorie des Comptoneffektes(コンプトン効果に就て)」で、東京大学より理学博士を得、第1回帝国学士院メンデンホール記念賞を受賞、翌年には、大阪大学理学部助教授となりました。1934年(昭和9)に教授に昇進し、サイクロトロンを建設、原子核実験の新しい展開に寄与、戦時下において、1941年(昭和16)に海軍技師となりレーダーの研究に従事します。
 太平洋戦争後、1950年(昭和25)にベーテによって、米カリフォルニア大学、コーネル大学に招かれ、原子核実験を続け、1952年(昭和27)に帰国後、大阪大学に200万電子ボルト・サイクロトロンを再建しました。1951年(昭和26)に文化勲章を受章、1952年(昭和27)に文化功労者となり、1954年(昭和29)には、東京大学教授を兼任します。
 1955年(昭和30)に東大原子核研究所初代所長、1957年(昭和32)に東大宇宙線観測所長、学士院会員、1958年(昭和33)には、原子力委員となりました。1959年(昭和34)に日本原子力研究所(現在の日本原子力研究開発機構)理事長(~1964年)、1966年(昭和41)に東京理科大学学長(~1970年)、1968年(昭和43)には、原子力委核融合専門部会長として核融合研究開発の基本計画をまとめます。
 1972年(昭和47)に勲一等瑞宝章を受章しましたが、1974年(昭和49)11月12日に、東京において、72歳で亡くなり、正三位を追贈されました。

〇菊池正士の主要な著作

・『原子物理学概論』(1947年)
・『物理学の概説』(1947年)
・『原子論より素粒子論へ』(1948年)
・『物質の構造』(1948年)
・『粒子と波』(1948年)
・『原子核物理学』(1949年)
・『現代自然科學講座12・原子核の光分解』(1952年)
・『原子核の世界』第二版(1973年)

☆菊池正士関係略年表

・1902年(明治35)8月25日 東京において、数学者・教育者・貴族院議員・枢密顧問官として活躍し男爵だった父・菊池大麓(だいろく)の四男として、生まれる
・1915年(大正4) 東京高等師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を卒業する
・1920年(大正9) 東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業し、旧制第一高等学校へ入学する
・1923年(大正12) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部物理学科へ入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、理化学研究所(西川正治研究室)に入る
・1928年(昭和3) 雲母の単結晶による電子線回折の実験に成功、菊池線と名づけられ、世界的に認められる
・1929年(昭和4) ドイツ留学に出発し、ボルン、ハイゼンベルクのもとで量子力学の理論を学ぶ
・1931年(昭和6) ドイツ留学から帰国、服部報公会賞を受賞する
・1932年(昭和7) 論文「Zur Theorie des Comptoneffektes(コンプトン効果に就て)」で、東京大学より理学博士を得、第1回帝国学士院メンデンホール記念賞を受賞する
・1933年(昭和8) 大阪大学理学部助教授となる
・1934年(昭和9) 大阪大学理学部教授となり、サイクロトロンを建設、原子核実験の新しい展開に寄与する
・1941年(昭和16) 海軍技師となりレーダーの研究に従事する
・1950年(昭和25) ベーテによって、米カリフォルニア大学、コーネル大学に招かれ、原子核実験を続ける
・1952年(昭和27) 帰国後、大阪大学に200万電子ボルト・サイクロトロンを再建する
・1951年(昭和26) 文化勲章を受章する
・1952年(昭和27) 文化功労者となる
・1954年(昭和29) 東京大学教授を兼任する
・1955年(昭和30) 東大原子核研究所初代所長となる
・1957年(昭和32) 東大宇宙線観測所長、学士院会員となる
・1958年(昭和33) 原子力委員となる
・1959年(昭和34) 日本原子力研究所(現在の日本原子力研究開発機構)理事長となる
・1964年(昭和39) 日本原子力研究所理事長を辞任する
・1966年(昭和41) 東京理科大学学長(~1970年)となる
・1968年(昭和43) 原子力委核融合専門部会長として核融合研究開発の基本計画をまとめる
・1972年(昭和47) 勲一等瑞宝章を受章する
・1974年(昭和49)11月12日 東京において、72歳で亡くなり、正三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)岩倉使節団が欧米視察のために、横浜港を出港する(新暦12月23日)詳細
1898年(明治31)幕末の漂流民・幕臣・英語教育者・啓蒙家ジョン万次郎(中浜万次郎)の命日詳細
1945年(昭和20)GHQ「美術品、記念物、及文化的並に宗敎的地域、施設の保護に関する政策及手続に関する覚書」 が出る詳細
1946年(昭和21)「財産税法」が公布(施行は11月20日)される詳細
1986年(昭和61)小説家島尾敏雄の命日詳細
1988年(昭和63)詩人草野新平の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1864年(元治元)に、化学者池田菊苗の生まれた日ですが、新暦では10月8日となります。
 池田菊苗(いけだ きくなえ)は、山城国京都において、薩摩藩の京都藩邸の留守居役池田春苗の次男として生まれましたが、幼名は完二郎と言いました。9歳の時に東京に出て約2年間英語を勉強し、京都に帰ってからも宣教師から英語を学びます。
 1880年(明治13)の16歳の時、大阪衛生試験所長村橋次郎から化学を学び、翌年に親に内緒で家出して上京、1882年(明治15)には、大学予備門に入学しました。予備門理科を卒業後、東京帝国大学(現在の東京大学)理学部化学科に入学し、桜井錠二教授に師事、1889年(明治22)には、卒業して大学院へ進学します。
 1891年(明治24)に高等師範学校教授となり、1896年(明治29)には、東京帝国大学理科大学化学科の助教授に就任しました。1899年(明治32)に物理化学の研究のためドイツに留学、ドイツ・ライプツィヒ大学のオストワルド教授に師事、1901年(明治34)には、ロンドンに滞在し、夏目漱石と同じ下宿に住み親交を持ち、帰国後、東京帝国大学物理化学教授に昇進します。
 1902年(明治35)に理学博士の学位を取得、1907年(明治40)には、甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手しました。1908年(明治41)に昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見、グルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得します。
 1909年(明治42)にうまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売され、1912年(大正元)には、勲三等瑞宝章を受章しました。1913年(大正2)に日本化学会会長、1917年(大正6)に理化学研究所の創立に参加して化学部長、1919年(大正8)には、帝国学士院会員となります。
 1922年(大正11)に理化学研究所主任研究員となり、1923年(大正12)には、東京帝国大学を退職し、正三位となりました。1926年(大正15)に帝国発明協会恩賜記念賞・大賞を受賞、1931年(昭和6)には、自宅に研究室を設けて、香気、臭気など特異な分野を研究します。
 1932年(昭和7)に理化学研究所を退職、日本学術会議の化学関係担当常置委員長となったものの、1936年(昭和11)5月3日に、東京において、71歳で亡くなりました。尚、他に酸性白土を利用した乾燥剤など日本の特許40件、欧米などの特許20件を取得しています。
 没後の1985年(昭和60)には、日本の産業財産権制度百周年記念事業の一環で、日本の十大発明家として顕彰されました。

〇池田菊苗関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1864年(元治元年9月8日) 山城国京都において、薩摩藩の京都藩邸の留守居役池田春苗の次男として生まれる
・1880年(明治13) 大阪衛生試験所で化学を学び始める
・1881年(明治14) 親に内緒で家出して上京する
・1882年(明治15) 大学予備門に入学する
・1889年(明治22) 帝国大学理科大学化学科(現在の東京大学理学部化学科)を卒業し、大学院へ進学する
・1891年(明治24) 高等師範学校教授に就任し、従七位となる
・1896年(明治29) 東京帝国大学理科大学化学科の助教授に就任する
・1899年(明治32) 物理化学の研究のためドイツに留学、ドイツ・ライプツィヒ大学のオストワルド教授に師事する
・1901年(明治34) ロンドンに滞在し、夏目漱石と同じ下宿に住み親交を持ち、帰国後、東京帝国大学物理化学教授に昇進する
・1902年(明治35) 理学博士の学位を取得する
・1904年(明治37) 従五位となる
・1907年(明治40) 甘味、酸味、塩味、苦味の4基本味以外の味成分を「うま味」と名づけ、単離研究に着手する
・1908年(明治41) 昆布の旨み成分がグルタミン酸ナトリウムであることを発見、グルタミン酸ナトリウムを主成分とする調味料の製造方法を発明し特許を取得する
・1909年(明治42) うまみ調味料「味の素」が鈴木製薬所(現味の素株式会社)から発売される
・1912年(大正元) 勲三等瑞宝章を受章する
・1913年(大正2) 日本化学会会長となる
・1917年(大正6) 理化学研究所の創立に参加し、化学部長となる
・1919年(大正8) 帝国学士院会員となる
・1922年(大正11) 理化学研究所主任研究員となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学を退職し、正三位となる
・1926年(大正15) 帝国発明協会恩賜記念賞・大賞を受賞する
・1931年(昭和6) 自宅に研究室を設けて、香気、臭気など特異な分野を研究する
・1932年(昭和7) 理化学研究所を退職、日本学術会議の化学関係担当常置委員長となる
・1936年(昭和11)5月3日 東京において、71歳で亡くなる
・1985年(昭和60) 日本の産業財産権制度百周年記念事業の一環で、日本の十大発明家として顕彰される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1658年(万治元)江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消が始まる(新暦10月4日)詳細
1775年(安永4)俳人加賀千代女(千代尼)の命日(新暦10月2日)詳細
1873年(明治6)教育家・婦人ジャーナリストの先駆者羽仁もと子の誕生日詳細
1904年(明治37)「屯田兵条例」が廃止され、屯田兵制度が終わる詳細
1951年(昭和26)「サンフランシスコ平和条約」が調印される詳細
「日米安全保障条約」(旧)が調印される詳細
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nishikawashyouji01

 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、物理学者西川正治が生まれた日です。
 西川正治(にしかわ しょうじ)は、神奈川県南多摩郡八王子(現在の東京都八王子市)で生まれ、私立商工中学を経て、1904年(明治37)に旧制第一高等学校へ入学します。1907年(明治40)に東京帝国大学理学部物理学科へ入学、1910年(明治43)に卒業後、大学院へ進み、木下季吉や寺田寅彦の指導を受け、X線回折の研究に従事しました。
 1913年(大正2)に竹や麻等の天然繊維を用いて世界で初めて繊維構造物質のX線回折の実験を行ない、1915年(大正4)にスピネル群結晶内の電子配置を決定、翌年には、「スピネル」群の結晶構造により博士号を得ます。1917年(大正6)に「X線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞、理化学研究所の創設に参加、3年間の海外留学ののち、1921年(大正10)に理化学研究所の主任研究員となました。
 1922年(大正11)に理化学研究所西川研究室を主宰、東京帝国大学助教授となり、1924年(大正13)には教授に昇任します。理化学研究所では、菊池正士の研究に助力するとともに、長岡研究室、仁科研究室と共同で原子核実験室を開設し、サイクロトロン、コッククロフト加速装置を建設しました。
 1945年(昭和20)に東京帝国大学教授を辞め、1949年(昭和24)には、理化学研究所の主任研究員も辞め、小林理学研究所理事兼主任研究員となります。1937年(昭和12)に「スピネルの原子配置並に歪を受けたる物体のレントシェン線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞、1950年(昭和25)には、日本結晶学会の初代会長に就任しました。
 X線回折、電子線回折の研究で国際的にも高く評価され、1951年(昭和26)に文化勲章を受章、初の八王子市名誉市民となったものの、翌年(昭和27)1月5日に、東京において、67歳で亡くなっています。

〇西川正治の主要な著作

・菊池正士ほか〈物理實驗學〉 『原子核物理學』(1940年)
・西川正治ほか〈岩波講座物理學〉 『X線』(1940年)

☆西川正治関係略年表

・1884年(明治17)12月5日 神奈川県南多摩郡八王子(現在の東京都八王子市)で生まれる
・1904年(明治37) 旧制第一高等学校へ入学する
・1907年(明治40) 東京帝国大学理学部物理学科へ入学する
・1910年(明治43) 東京帝国大学理学部物理学科を卒業する
・1913年(大正2) 竹や麻等の天然繊維を用いて世界で初めて繊維構造物質のX線回折の実験を行なう
・1915年(大正4) スピネル群結晶内の電子配置を決定する
・1916年(大正5) 「スピネル」群の結晶構造により学位を得る
・1917年(大正6) 「X線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞、理化学研究所の創設に参加する
・1921年(大正10) 理化学研究所の主任研究員となる
・1922年(大正11) 理化学研究所西川研究室を主宰、東京帝国大学助教授となる
・1924年(大正13) 東京帝国大学教授となる
・1937年(昭和12) 学士院会員となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学教授を辞める
・1949年(昭和24) 理化学研究所の主任研究員を辞め、小林理学研究所理事兼主任研究員となる
・1937年(昭和12) 「スピネルの原子配置並に歪を受けたる物体のレントシェン線検査に関する研究」で帝国学士院賞を受賞する
・1945年(昭和20)10月30日 従三位となる
・1950年(昭和25) 日本結晶学会の初代会長に就任する
・1951年(昭和26) 文化勲章を受章、初の八王子市名誉市民となる
・1952年(昭和27)1月5日 東京において、67歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

603年(推古天皇11)日本最初の位階制度である冠位十二階が制定される(新暦604年1月11日)詳細
1899年(明治32)電気通信工学者・工学博士古賀逸策の誕生日詳細
1903年(明治36)物理学者長岡半太郎が原子模型の理論を発表する詳細
1912年(大正元)映画監督・脚本家木下惠介の誕生日詳細


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takaminejyoukichi01

 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、応用化学者・企業家高峰譲吉の亡くなった日です。
 高峰譲吉(たかみね じょうきち)は、江戸時代後期の1854年(嘉永7年11月3日)に、越中国高岡(現在の富山県高岡市)で、加賀藩典医高峰元陸(げんろく)の長男として生まれました。翌年に父の学問所「壮猶館」勤務のため加賀国金沢城下へ移住し、藩校明倫堂で学んだ後、12歳で選抜されて長崎に留学し、オランダ語や英語などを学びます。
 引き続き京都の安達兵学塾、大坂の適塾、七尾語学所、大坂医学校で学び、1872年(明治5)に上京して、工学寮(のち工部大学校)に入学しました。1879年(明治12)に工部大学校(現在の東京大学工学部)応用化学科をを首席で卒業、翌年からイギリスのグラスゴー大学へ3年間留学します。
 1883年(明治16)に帰国し、農商務省に入省、御用係として和紙、製藍、清酒醸造の研究に従事、翌年にはアメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣されました。1886年(明治19)に専売特許局局長代理となり、特許制度の整備に尽力するとともに、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立、翌年には、米国人キャロライン・ヒッチと結婚します。
 1890年(明治23)に渡米しアメリカへ永住することとし、パークデヴィス社顧問となり、1892年(明治25)には、強力消化剤“タカジアスターゼ”の創製に成功、1894年(明治27)にその特許を取得しました。1899年(明治32)に東京帝国大学から名誉工学博士号を授与され、1900年(明治33)に“アドレナリン”の結晶抽出に成功、1902年(明治35)には、ニューヨークに高峰研究所を開設、これらの業績により、1912年(大正元)に帝国学士院賞を受賞します。
 1913年(大正2)に一時帰国し、「国民科学研究所」を創立を説き(後に理化学研究所の創立となる)、また三共製薬を創設、帝国学士院会員ともなりました。日本初のアルミニウム製造事業の推進にも取り組み、1919年(大正8)に東洋アルミナムを設立、黒部川電源開発のため、その資材輸送手段として黒部鉄道を設立、1921年(大正10)には、鉄道免許状が下付されます。
 世界的名声を得て、巨万の財を成しましたが、1922年(大正11)7月22日に、アメリカのニューヨークで、腎臓炎のため69歳で亡くなりました。

〇高峰譲吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1854年(嘉永7年11月3日) 越中国高岡(現在の富山県高岡市)で、加賀藩典医高峰元陸(げんろく)の長男として生まれる
・1855年(嘉永8年) 父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀国金沢城下の梅本町(現:石川県金沢市大手町)へ移住する
・1865年(慶応元年) 12歳の時、選抜されて長崎に留学する
・1868年(明治元年) 京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)に入学する
・1869年(明治2年) 16歳の時、大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学ぶ
・1872年(明治5年) 工学寮(のち工部大学校)に入学する
・1879年(明治12年) 工部大学校(現在の東京大学工学部)応用化学科を卒業する
・1880年(明治13年) イギリスのグラスゴー大学への3年間の留学へ出発する
・1883年(明治16年) 帰国し、農商務省に入省、御用係として和紙、製藍、清酒醸造の研究に従事する
・1884年(明治17年) アメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣される
・1886年(明治19年) 専売特許局局長代理となり、特許制度の整備に尽力する
・1886年(明治19年) 東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立する
・1887年(明治20年) キャロライン・ヒッチと結婚する
・1890年(明治23年) 渡米しアメリカへ永住することとし、パークデヴィス社顧問となる
・1892年(明治25年) 強力消化剤“タカジアスターゼ”の創製に成功する
・1894年(明治27年) デンプンを分解する酵素を植物から抽出した“タカジアスターゼ”の特許を取る
・1899年(明治32年) 東京帝国大学から名誉工学博士号を授与される
・1900年(明治33年) “アドレナリン”の結晶抽出に成功する
・1902年(明治35年) ニューヨークに高峰研究所を開設する
・1912年(大正元年) 帝国学士院賞を受賞する
・1913年(大正2年) 帰国し、「国民科学研究所」を創立を説き、後に理化学研究所の創立となって実現する
・1913年(大正2年) 三共製薬を創設する
・1913年(大正2年)6月26日 帝国学士院会員となる
・1919年(大正8年) 高峰譲吉らによって 東洋アルミナムが設立される
・1921年(大正10年) 黒部鉄道に鉄道免許状が下付される
・1922年(大正11年)7月22日 アメリカのニューヨークで、腎臓炎のため69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1549年(天文18)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する(新暦8月15日)詳細
1924年(大正13)小作調停法」が公布(施行は同年12月1日)される詳細
1953年(昭和28)離島振興法」が公布・施行される詳細
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