今日は、明治時代前期の1883年(明治16年)に、公卿・政治家岩倉具視が亡くなった日です。
岩倉具視(いわくら ともみ)は、江戸時代後期の1825年(文政8年9月15日)に、京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれましたが、幼名は周丸(かねまる)と言いました。1837年(天保8)に岩倉具慶の養子となり、岩倉具視を名乗るようになります。
1838年(天保9)に従五位下に叙位され、同年に元服し、昇殿を許されました。1853年(嘉永6)に、歌道を通じて関白鷹司政通に接するわうになり、1854年(安政元)には、孝明天皇の侍従となります。
1858年(安政5)に、幕府の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、88人の公家の列参(集団行動)で反対して、勅許を失敗させました。1860年(万延元)に、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、公武合体をとなえて、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現します。
1862年(文久2)に和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任して、洛北の岩倉村に蟄居し、落髪して法名を友山としました。1867年(慶応3)には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下すことに成功し、処分を解除され、尊王討幕派と結び、王政復古のクーデタを成功させます。
それによって、明治新政府の中枢にすわり、議定、副総裁、大納言を経て、1871年(明治4)には、右大臣となりました。また、同年特命全権大使となって、政府首脳を率い渡欧(岩倉使節団)、欧米の文化・制度を視察します。
1873年(明治6)帰国後は、征韓論に反対し、同年10月には太政大臣代理となり、征韓中止の勅裁を得ました。自由民権運動を弾圧し、天皇制による立憲制確立のために、井上毅に欽定憲法の原則「大綱領」を起草させます。
また、宮廷改革にも意を配り、皇室財産確立を意図し、華族の財産保護を目的とした第十五銀行、華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど華族の地位を擁護し、近代天皇制の確立に努めました。しかし、1883年(明治16)7月20日に、東京において、数え年59歳で亡くなり、太政大臣を追贈されると共に、国葬が執り行われています。
〇岩倉具視関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)
・1825年(文政8年9月15日) 京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれる
・1837年 (天保8年8月8日) 岩倉具慶の養子となる
・1838年(天保9年10月28日) 従五位下に叙位される
・1838年(天保9年12月11日) 元服し、昇殿を許される
・1841年(天保12年6月4日) 従五位上に昇叙される
・1845年(弘化2年2月18日) 正五位下に昇叙される
・1853年(嘉永6年) 歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接する
・1854年(安政元年3月20日) 孝明天皇の侍従となる
・1854年(安政元年6月10日) 従四位下に昇叙する
・1858年(安政5年2月) 幕府の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏する
・1860年(万延元年) 桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現する
・1860年(万延元年12月29日) 右近衛権少将に転任する
・1861年(万延2年1月5日) 正四位下に昇叙する
・1861年(文久元年) 和宮に随従し江戸に赴き帰京する
・1862年(文久2年4月) 島津久光に面会、「三事策」を提示して公武合体運動を支持する
・1862年(文久2年5月15日) 左近衛権中将に転任する
・1862年(文久2年8月20日) 和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任し、蟄居する
・1862年(文久2年8月22日) 落髪し、法名を友山とする
・1865年(慶応元年)春頃 非蔵人松尾相永の訪問を受けてより、同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し、政界復帰への意欲を深める
・1866年(慶応2年8月) 親幕派の関白二条斉敬、朝彦親王の追放を策謀、同志の大原重徳、中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗する
・1867年(慶応3年6月) 坂本竜馬、中岡慎太郎、次いで大久保利通との交流が始まる
・1867年(慶応3年10月) 中山忠能、正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す
・1867年(慶応3年12月8日) 処分を解除される
・1867年(慶応3年12月9日) 政変を断行し、明治政府参与を兼務する
・1867年(慶応3年12月27日) 明治新政府参与から議定に異動兼務する
・1868年(慶応4年1月9日) 明治新政府の副総裁を兼任する
・1868年(慶応4年1月27日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督兼務する
・1868年(慶応4年2月2日) 従三位昇叙し、右兵衛督に任官する(時に、政府副総裁議定会計事務総督海陸軍事務総督従三位行右兵衛督)
・1868年(慶応4年2月20日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督辞職する
・1868年(慶応4年閏4月20日) 政府副総裁を辞職する
・1868年(慶応4年閏4月21日) 政府制度改正により、議政官たる上局議定及び輔相を兼務する
・1868年(明治2年1月7日) 輔相を辞任する
・1868年(明治2年1月25日) 正二位に昇叙し、権大納言に転任する
・1868年(明治2年7月8日) 制度改正により、上局議定より大納言に異動する
・1868年(明治2年8月) 王政復古の功により永世禄として5,000石を授けられる
・1868年(明治2年11月23日) 兵部省御用掛兼務となる
・1869年(明治3年) 勅使として鹿児島,山口へ赴き、島津久光、毛利敬親に面会、新政府強化のため両藩の協力を要請する
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県に伴う官制改革で外務卿となる
・1871年(明治4年10月8日) 右大臣並びに遣外使節団特命全権大使に異動する
・1871年(明治4年11月12日) 条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国の巡回へ向かう
・1873年(明治6年)9月13日 米欧視察から帰国する
・1873年(明治6年)10月20日 太政大臣代理を兼任するが、同日のみとなる
・1873年(明治6年)10月24日 征韓中止の勅裁を得る
・1874年(明治7年)1月 赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる
・1876年(明治9年)4月9日 華族会館長に就任する
・1876年(明治9年)5月18日 従一位昇叙する
・1876年(明治9年)5月26日 華族督部長兼務する
・1876年(明治9年)12月29日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させる
・1882年(明治15年)11月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1882年(明治15年)11月15日 華族督部長職廃止に伴い止む
・1882年(明治15年)12月4日 華族会館長を辞職する
・1883年(明治16年)4月7日 宮内省編纂局総裁心得を兼務する
・1883年(明治16年)7月20日 東京において、数え年59歳で亡くなる
・1883年(明治16年)7月23日 太政大臣が追贈される
・1883年(明治16年)7月25日 国葬が行われる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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