ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:玉葉和歌集

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 今日は、鎌倉時代の1312年(正和元)に、京極為兼が『玉葉和歌集』(二十一代集の14番目)を撰進した日ですが、新暦では5月5日となります。
 『玉葉和歌集』(ぎょくようわかしゅう)は、第14勅撰和歌集で、1311年(応長元)5月3日に伏見上皇の院宣により、京極為兼が編纂し、翌年3月28日に撰進し奏覧されたものの、さらに改訂作業が続けられ、1312年(正和2)頃に完成しました。『万葉集』や『新古今和歌集』を中心とした古歌を尊重しているほか、持明院統・京極派が厚遇されているとされ、従来二条家で独占していた撰集とは歌風が異っています。
 全20巻で、勅撰和歌集最大の約2,800首が収載され、春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、賀、旅、恋(五巻)、雑(五巻)、釈教、神祇の10部門に分けて収められました。主な歌人は、伏見上皇(93首)、藤原定家(69首)、西園寺実兼(60首)、従二位為子(60首)、藤原俊成(59首)、西行(57首)、藤原為家(51首)、永福門院(49首)、京極為兼(36首)、和泉式部(34首)、西園寺実氏(31首)、従二位親子(30首)、慈円(27首)、紀貫之(26首)、柿本人麻呂(24首)、宗尊親王(22首)、鷹司基忠(21首)となっています。
 その後の歌壇を主導した二条派からは、長らく異端視されてきましたが、近年再評価が進み、鎌倉・室町期の勅撰和歌集の中では、歌風の清新さにおいて『風雅和歌集』と共に脚光を浴びるようになりました。

<収載されている代表的な歌>

・「宵のまの 村雲づたひ 影みえて 山の端めぐる 秋の稲妻」(伏見院)
・「木の葉なき 空しき枝に 年暮れて 又めぐむべき 春ぞ近づく」(京極為兼)
・「枝にもる 朝日のかげの すくなさに 涼しさふかき 竹のおくかな」(京極為兼)
・「音せぬが 嬉しきをりも ありけるよ 頼み定めて のちの夕暮」(永福門院)
・「入相の 声する山の かげくれて 花の木の間に 月いでにけり」(永福門院)

〇勅撰和歌集(二十一代集)とは? 

 天皇の綸旨や上皇・法皇の院宣下命に基づいて編集、奏覧された和歌集のことです。醍醐天皇の勅命によって編纂され、905年(延喜5)に奏上された『古今和歌集』に始まり、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。
 初めの3集(『古今和歌集』・ 『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)を三代集、8集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』)までを八代集、残り13集(『新勅撰集』から『新続古今和歌集』)を十三代集ともいいます。平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んでしたが、次第に衰え、室町時代に入って跡が絶えました。尚、14世紀末に南朝側で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされています。
 勅撰集を作成するには、まず撰和歌所を設置し、勅撰の下命があり、撰者の任命がされました。その後、資料が集成され、撰歌と部類配列が行われ、加除訂正の後、目録や序が作成それて清書されます。そして、奏覧され、祝賀の竟宴という過程によって行われました。
 収載されたのは、ほとんどが短歌でしたが、わずかに長歌、旋頭歌、連歌を加えた集もあります。巻数は最初の『古今和歌集』の20巻が継承されましたが、『金葉和歌集』と『詞花和歌集』は10巻となっています。部立(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異がありますが、基本的には、最初の『古今和歌集』の部立が受け継がれました。
 勅撰集に歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉とされ、和歌を発達させた文学史的意義は大きいとされています。

☆「二十一代集」(勅撰和歌集)一覧

1.『古今和歌集』905年成立(醍醐天皇下命・紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑撰)20巻・1,100首
2.『後撰和歌集』957-959年成立(村上天皇下命・大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城撰)20巻・1,425首
3.『拾遺和歌集』1005-07年成立(花山院下命・花山院、藤原公任撰)20巻・1,351首
4.『後拾遺和歌集』1086年成立(白河天皇下命・藤原通俊撰)20巻・1,218首
5.『金葉和歌集』1126年(三奏本)成立(白河院下命・源俊頼撰)10巻・650首(三奏本)
6.『詞花和歌集』1151年頃成立(崇徳院下命・藤原顕輔撰)10巻・415首
7.『千載和歌集』1188年成立(後白河院下命・藤原俊成撰)20巻・1,288首
8.『新古今和歌集』1205年成立(後鳥羽院下命・源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、飛鳥井雅経、寂蓮撰)20巻・1,978首
9.『新勅撰和歌集』1235年成立(後堀河天皇下命・藤原定家撰)20巻・1,374首
10.『続後撰和歌集』1251年成立(後嵯峨院下命・藤原為家撰)20巻・1,371首
11.『続古今和歌集』1265年成立(後嵯峨院下命・藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良撰)20巻・1,915首
12.『続拾遺和歌集』1278年成立(亀山院下命・二条為氏撰)20巻・1,459首
13.『新後撰和歌集』1303年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・1,607首
14.『玉葉和歌集』1312年成立(伏見院下命・京極為兼撰)20巻・2,800首
15.『続千載和歌集』1320年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・2,143首
16.『続後拾遺和歌集』1326年成立(後醍醐天皇下命・二条為藤、二条為定撰)20巻・1,353首
17.『風雅和歌集』1349年成立(花園院監修下命・光厳院撰)20巻・2,211首
18.『新千載和歌集』1359年成立(後光厳天皇下命・二条為定撰)20巻・2,365首
19.『新拾遺和歌集』1364年成立(後光厳天皇下命・二条為明、頓阿撰)20巻・1,920首
20.『新後拾遺和歌集』1384年成立(後円融天皇下命・二条為遠、二条為重撰)20巻・1,554首
21.『新続古今和歌集』1439年成立(後花園天皇下命・飛鳥井雅世撰)20巻・2,144首
準.『新葉和歌集』1381年成立(長慶天皇下命・宗良親撰)20巻・1,426首

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1682年(天和2)連歌師・俳人・談林派の祖西山宗因の命日(新暦5月5日)詳細
1868年(慶応4)神祇官事務局達(いわゆる神仏判然令)が出される詳細
1929年(昭和4)「国宝保存法」が公布される詳細
1940年(昭和15)内務省がミス・ワカナ、ディック・ミネ、藤原釜足ら16人に改名を命令する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1265年(文永2)に、第92代の天皇とされる伏見天皇の生まれた日ですが、新暦では5月10日となります。
 伏見天皇(ふしみてんのう)は、京都において、持明院統の後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれましたが、名は熈仁(ひろひと)と言いました。1275年(建治元)に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下され、1287年(弘安10)の23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚、翌年に第92代とされる天皇として即位、両統が交互に皇位に就く例(両統迭立)を開きます。
 1289年(正応2)に自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まったものの、翌年には院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政をとり、院評定衆の代わりに宮中に議定衆をおくなど公家政治振興に努めました。1290年(正応3)に宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起き、1298年(永仁6)には、胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して、院政を執り行ないます。
 しかし、1301年(正安3)に、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移りました。1303年(正応5)に十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめ、1308年(徳治3)には、後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷きます。
 1311年(応長元)に以前頓挫した勅撰集編纂を再企画し、京極為兼に単独撰進を命じ、翌年には、14番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧されました。自身も歌を能くし、歌集『伏見院御集』を成し、以後の勅撰集にも多く掲載されます。また、当代随一の能書家として知られ、宸翰の多くが後に国指定重要文化財となりました。
 1313年(正和2)に出家し、後伏見上皇が院政を引き継いだものの、1317年(文保元年9月3日)に京都において、数え年53歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区)とされます。

<代表的な歌>

・「更(ふ)けぬるか 過ぎ行く宿も しづまりて 月の夜道に あふ人もなし」(玉葉和歌集)
・「立ちかへる 月日やいつを まつら船 行方もなみの 千重に隔てて」(玉葉和歌集)
・「春をうくる 時のこころは ひとしきを 柳桜の おのがいろいろ」(伏見院御集)
・「秋風は 遠き草葉を わたるなり 夕日の影は 野辺はるかにて」(風雅和歌集)
・「星うたふ 声や雲ゐに すみぬらん 空にもやがて 影のさやけき」(新拾遺和歌集)

〇伏見天皇の主要な著作

・日記『伏見院御記』
・歌集『伏見院御集』

☆伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1265年(文永2年4月23日) 京都において、後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれる
・1275年(建治元年) 大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下される
・1287年(弘安10年10月21日) 23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚する
・1288年(正応元年3月3日) 藤原経子の腹に胤仁親王(のちの後伏見天皇)が生まれる
・1288年(正応元年3月15日) 第92代とされる天皇として即位する
・1288年(正応元年8月20日) 西園寺実兼の長女(のちの永福門院)を中宮とする
・1289年(正応2年4月) 自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる
・1290年(正応3年2月) 院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政となる
・1290年(正応3年3月9日) 宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きる
・1294年(永仁2年) 勅撰集の編纂を企図し、京極為兼・飛鳥井雅有・二条為世・九条隆博に撰進を命じるものの中断する
・1298年(永仁6年7月22日) 胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して院政を執り行なう
・1301年(正安3年1月21日) 大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移る
・1303年(正応5年) 十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめる
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷く
・1311年(応長元年) 再び勅撰集編纂を企画し、京極為兼に単独撰進を命ずる
・1312年(正和元年3月28日) 十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧される
・1313年(正和2年) 出家し、後伏見上皇が院政を引き継ぐ
・1317年(文保元年9月3日) 京都において、数え年53歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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