ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:玄昉

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 今日は、奈良時代の746年(天平18)に、法相宗の僧玄昉が亡くなった日ですが、新暦では7月15日となります。
 玄昉(げんぼう)は、生年不詳ですが、俗姓は阿刀氏で大和(現在の奈良県)の出とされ、出家して法相宗の義淵の弟子となりました。716年(霊亀2)に学問僧に任じられ、翌年には遣唐使に学問僧として随行して入唐し、法相宗の智周について学びます。
 その後、玄宗皇帝に認められて、三品の位に准じられ、紫衣を賜りました。在唐18年の後、遣唐大使の大使多治比真人広成に随い、仏教経典・注釈書等5,000巻と諸々の仏像を携えて、735年(天平7)に帰国、日本へ法相宗を伝えた4番目の人(第四伝)とされます。
 736年(天平8)に封戸を与えられ、翌年には、僧正に任じられて紫袈裟を賜り、皇太夫人藤原宮子の看病によって功績があり、宮中の内道場の出入りを許されました。それを機会に、聖武天皇の信頼も得て、吉備真備と共に橘諸兄政権の担い手として出世し、国分寺を創設を進言するなど宮廷に権勢を得ます。
 しかし、人格に対して人々の批判も強く、740年(天平12)に藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと九州で兵を起こしました(藤原広嗣の乱)。乱は鎮圧され、広嗣も敗死したものの、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると橘諸兄は権勢を失い、玄昉も745年(天平17)に官位を下げられ、筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収されます。
 興福寺法相宗の基を築き、慈訓、善珠などの弟子も育てましたが、746年(天平18年6月18日)に左遷先の筑紫国において亡くなり、「広嗣の霊に害された」とのうわさも広まったとされています。
 以下に、『続日本紀』巻第十六の天平18年(746年)6月18日の条に書かれている玄昉に関する記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第十六 天平18年(746年)6月18日の条

<原文>

己亥。僧玄昉死。玄昉俗姓阿刀氏。靈龜二年入唐學問。唐天子尊昉。准三品令着紫袈裟。天平七年隨大使多治比眞人廣成還歸。齎經論五千餘卷及諸佛像來。皇朝亦施紫袈裟着之。尊爲僧正。安置内道塲。自是之後。榮寵日盛。稍乖沙門之行。時人惡之。至是死於徙所。世相傳云。爲藤原廣嗣靈所害。
 
<読み下し文>

己亥。僧玄昉死ス。玄昉俗姓ハ阿刀氏。靈龜二年入唐シテ學問す。唐ノ天子[1]昉ヲ尊ビテ、三品[2]ニ准シテ紫ノ袈裟[3]ヲ着セ令ム。天平七年大使多治比ノ真人広成ニ随テ還帰ス。經論[4]五千餘巻及ヒ諸ノ佛像ヲ齎シテ來レリ。皇朝亦タ紫ノ袈裟[3]ヲ施シテ之を着セシム。尊テ僧正[5]ト爲ス、内道場[6]ニ安置ス。是ヨリノ後、栄耀日ニ盛ニシテ、稍ク沙門ノ行ニ乖ケリ。時ノ人之ヲ悪ム。是ニ至テ、徙所[8]ニ死ス。世相傳ヘテ云フ、藤原広嗣[9]カ霊ノ爲ニ害セルト。

【注釈】

[1]唐の天子:とうのてんし=当時の唐の皇帝玄宗のこと。
[2]三品:さんぼん=中国・日本の位階の第三位。三位。
[3]紫の袈裟:むらさきのけさ=紫色の法衣。勅許などによって高位・高徳の僧に着用が許された。紫衣。
[4]経論:きょうろん=仏の教えを記した経と、経の注釈書である論。
[5]僧正:そうじょう=僧官僧綱の最上位。また、その人。
[6]内道場:ないどうじょう=宮中に設けられた仏事を行う堂宇。内寺。
[7]沙門:しゃもん=出家して修行に専念する人。求道者。
[8]徙所:としょ=移動先。移転先。この場合は、左遷先。
[9]藤原広嗣:ふじわらのひろつぐ=奈良時代の公卿。天平10年に大宰少弐となったが、橘諸兄と対立、その顧問である吉備真備・玄昉らを除こうとして反乱を起こしたが、敗れる(藤原広嗣の乱)。
 
<現代語訳>

6月18日。僧の玄昉が死んだ。玄昉は俗姓を阿刀氏と言い。靈龜2年(716年)に入唐して学問を学んだ。唐の天子(玄宗)は玄昉を尊く思い、三品に准じさせて紫の袈裟の着用を許した。天平7年(735年)に大使多治比真人広成(遣唐大使)に随って帰還した。仏教経典・注釈書5千余巻と諸々の仏像とを持ち帰った。朝廷も同様に紫の袈裟を下賜して着用を許した。尊んで僧正に任命し、内道場への出入りを許した。これより後、栄耀が日々に盛んになり、次第に僧侶としての行いに背いた。時の人々はこれを悪く思うようになった。ここに至って、左遷された地で死ぬこととなった。世間の言い伝えでは、「藤原広嗣の霊の為に殺されたのだ。」という。


☆玄昉関係略年表(日付は旧暦です)

・716年(霊亀2年) 学問僧に任じられる
・717年(養老元年) 遣唐使に学問僧として随行して入唐する
・735年(天平7年) 遣唐使の帰国に随い、経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国する
・736年(天平8年) 封戸を与えられる
・737年(天平9年) 僧正に任じられて内道場の出入りを許される
・740年(天平12年) 藤原広嗣が吉備真備と玄昉を排除しようと九州で兵を起こす(藤原広嗣の乱)
・741年(天平13年7月15日) 千手経1000巻を発願、書写・供養する
・745年(天平17年) 筑紫観世音寺別当に左遷される
・746年(天平18年6月18日) 筑紫国において亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、奈良時代の740年(天平12)に、藤原広嗣の乱が起きた日ですが、新暦では9月28日となります。
 これは、九州地方でおきた内乱で、大宰少弐藤原広嗣が政権への不満から大宰府で挙兵しましたが、官軍によって鎮圧されたものでした。
 738年(天平10)末に、大養徳守から大宰少弐に左遷されて、不満を持っていた藤原広嗣が、740年(天平12)8月下旬に玄昉と吉備真備を中央政界から除くことを要求する上表文を提出し、中央政府の返事を待たずに挙兵に踏み切ります。
 9月3日には反乱を起こし、大宰府管内諸国の1万に及ぶ兵を集めて、東上を開始したことが伝わりました。これに対し、朝廷では大野東人を大将軍とし、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の1万7千の兵を集めて、征討軍として鎮圧にあたります。
 9月21日に大野東人は長門国へ到着し、翌日九州へ渡海、豊前国の主要地が征討軍に抑えられました。その後、北九州各地で激戦が続きましたが、10月初旬に板櫃川の対陣で、広嗣軍1万余は渡河を阻まれ、隼人の降伏も続出し、10月23日には、藤原広嗣が五島列島の宇久島で捕らえられ、鎮圧されます。
 この結果、11月1日に肥前国唐津で広嗣は処刑され、その藤原式家は一時衰えて南家が台頭することになりました。
 また、乱の京内への波及を恐れた聖武天皇は、勃発とともに伊賀・伊勢方面の行幸によって退避し、鎮定後も平城宮に帰らず、山背国相楽郡の恭仁京に遷都、また折からの天然痘流行とあいまって国分寺・東大寺造営の直接の契機となります。
 尚、大宰府は742年(天平14)から3年余りの間廃止されることとなり、玄昉は745年(天平17)に筑紫観世音寺別当に左遷、吉備真備も750年(天平勝宝2)から一時筑前守・肥前守に左遷されました。

〇藤原広嗣の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<740年(天平12)>
・8月下旬 藤原広嗣は玄昉と吉備真備を中央政界から除くことを要求する上表文を提出する
・9月3日 藤原広嗣挙兵が伝わり、朝廷は大野東人を大将軍として征討軍の編成を命じる
・9月21日 大野東人は長門国へ到着する
・9月22日 征討軍は九州へ渡海、豊前国の主要地が抑えられる
・9月25日 豊前国の諸郡司が官軍に投降する
・10月初旬 板櫃川の対陣で、広嗣軍1万余は渡河を阻まれ、隼人の降伏も続出する
・10月23日 藤原広嗣が五島列島の宇久島で捕らえられる
・11月1日 肥前国唐津で藤原広嗣は処刑される
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