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 今日は、江戸時代中期の1738年(元文3)に、江戸時代の俳人上島鬼貫が亡くなった日ですが、新暦では9月15日となります。
 上島鬼貫(うえじま おにつら)は、江戸時代前期の1661年(万治4年4月4日)に、摂津国川辺郡伊丹郷(現在の兵庫県伊丹市)で、有数の酒造業者(屋号・油谷)の父・上島宗次の三男として生まれましたが、名は宗邇(むねちか)と言いました。8歳の時、初めての句「こいこいといへと蛍がとんでゆく」を詠み、13歳の時、松江重頼(維舟)に入門、16歳の頃には、西山宗因を尊敬するようになって談林派に近づき、維舟撰『武蔵野』にも初入集しています。
 伊丹風俳諧の中心となり、1678年(延宝6)に『当流籠抜』に伊丹派の五吟五百韻を発表したものの、古風俳人から「狂乱体」と難ぜられました。その後、大坂へ出て修業し、4年間にわたって沈思・独吟の末、25歳の時に「誠のほかに俳諧なし」と悟り、その実作面でも完成の域に達したのが、1690年(元禄3)に出した『大悟物狂』です。
 1691年(元禄4)に本多氏に鍼医として仕官し、1699年(元禄12)には、伊丹の領主である近衛家から家来分に取り立てられました。その中で、松尾芭蕉とも親交を持つようになり、蕉風の影響も受け、1718年(享保3)には、『獨言』を刊行し、すぐれた俳諧観を示し、「東の芭蕉・西の鬼貫」と称されたりもしています。
 1724年(享保9)に大坂で起きた享保の大火で自宅が焼けて、一時疎開するなど晩年は苦労をし、1738年(元文3年8月2日)に、大坂鰻谷(現在の大阪市中央区鰻谷)で、数え年78歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「春風や三穂の松原清見寺」(仏兄七久留万)
・「後のつき入りて貌よし星の空」
・「によつぽりと秋の空なる不尽(ふじ)の山」(古今句集)
・「行水の捨てどころなし虫の声」

〇上島鬼貫の主要な著作

・俳諧紀行『犬居士』(1690年)
・自撰集『大悟物狂(たいごものぐるい)』(1690年)
・俳論『独(ひとり)ごと』(1718年刊)
・句文集『仏兄七久留万(さとえななくるま)』(1728年)
・句文集『俳諧七車』

☆上島鬼貫関係略年表(日付は旧暦です)

・1661年(万治4年4月4日) 摂津国川辺郡伊丹郷(現在の兵庫県伊丹市)で、有数の酒造業者(屋号・油谷)の父・上島宗次の三男として生まれる
・1668年(寛文8年) 8歳の時、初めての句「こいこいといへと蛍がとんでゆく」を詠む
・1673年(延宝元年) 13歳の時、松江重頼(維舟)に入門する
・1676年(延宝4年) 16歳の頃、西山宗因を尊敬するようになり、維舟撰『武蔵野』に初入集する
・1678年(延宝6年) 『当流籠抜(とうりゆうかごぬけ)』に伊丹派の五吟五百韻を発表し,古風俳人から〈狂乱体〉と難ぜられる
・1685年(貞享2年) 25歳の時、医学を志し大坂に出る
・1686年(貞享3年) 仕官のため江戸へ下る
・1688年(元禄元年2月) 伊丹を立ち、清見寺を訪れる  
・1690年(元禄3年) 30歳の時、『大悟物狂(たいごものぐるい)』を出し、大坂福島村に移る
・1691年(元禄4年) 本多氏に鍼医として仕官する
・1699年(元禄12年) 伊丹の領主である近衛家から家来分に取り立てられる
・1700年(元禄13年1月) 長男の永太郎を亡く
・1718年(享保3年)『獨言(ひとりごと)』を刊行する
・1724年(享保9年3月) 大坂で起きた大火災で自宅が焼けてしまい、その年の10月まで伊丹に疎開する
・1738年(元文3年8月2日) 大坂鰻谷(現在の大阪市中央区鰻谷)で、数え年78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1721年(享保6)徳川吉宗の命で江戸・評定所の門前に目安箱が設置される(新暦9月23日)詳細
1947年(昭和22)中学校用『あたらしい憲法のはなし』・高校用『民主主義の手引』の副読本発行詳細