ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:猿蓑

naitoujyousou01

 今日は、江戸時代中期の1704年(元禄17)に、俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の亡くなった日ですが、新暦では3月29日となります。
 内藤 丈草(ないとう じょうそう)は、1662年(寛文2)に尾張国犬山(現在の愛知県犬山市)で、尾張藩犬山領主成瀬家家臣・内藤源左衛門の長子として生まれましたが、名は本常(もとつね)と言いました。3歳の時に生母と死別し、継母に育てられ、10歳頃から俳諧に親しむようになります。
 漢学を穂積武平に学び、漢詩に通じるようになり、禅を玉堂和尚に教えられて、20歳頃から傾倒しました。1688年(貞享5年)に病弱のため武士を捨て、異母弟に家督を譲り、出家して中村史邦を頼って上京し、向井去来と親交を結びます。
 翌年に落姉舎で松尾芭蕉に会い入門、1691年(元禄4)発刊の去来・凡兆撰『猿蓑』に発句12句が入集し、跋(ばつ)を書くまでになりました。蕉門俳壇の中でしだいに重きをなし、芭蕉の信頼も得て、1693年(元禄6)には近江国に移り、義仲寺無名庵に住みます。
 翌年10月12日に師の芭蕉が亡くなると、3年間の喪に服し、1696年(元禄9)には近江国竜が岡(現在の滋賀県大津市)に仏幻庵を結びました。1700年(元禄13)に郷里に一時帰省後、帰庵して3年間庵に籠り、芭蕉追善のために千部の法華経を読誦します。
 温厚篤実、名利に恬淡な人柄で、洒脱な面もあり諸人に慕われましたが、1704年(元禄17年2月24日)に近江において、数え年43歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「ほととぎす 啼くや枝も梅桜」(寝ころび草)
・「柊に さえかえりわたる月夜かな」(寝ころび草)
・「初秋や をのづととれし 雲の角」(寝ころび草)
・「郭公(ほととぎす)鳴や湖水のさゝにごり」(芭蕉庵小文庫)
・「狼の声そろふなり雪のくれ」
・「うづくまる薬缶の下の寒さ哉」(去来抄)
・「ねばりなき空に走るや秋の雲」
・「眞先に見し枝ならんちる櫻」(猿蓑)
・「角いれし人をかしらや花の友」(続猿蓑)
・「大はらや蝶の出てまふ朧月」(炭俵)

〇内藤丈草の主要な著作

・編著『寝ころび草』(1694年)
・漢詩集『驢鳴草』
・『丈草発句集』(1774年)

☆内藤丈草関係略年表(日付は旧暦です)

・1662年(寛文2年) 尾張国犬山(現在の愛知県犬山市)で尾張藩犬山領主成瀬家家臣・内藤源左衛門の長子として生まれる
・1664年(寛文4年) 3歳の時に生母と死別し、継母に育てられる
・1671年(寛文11年) 10歳頃から俳諧に親しむ
・1681年(天和元年) 20歳頃から禅に傾倒する
・1688年(貞享5年8月) 病弱のため武士を捨て、異母弟に家督を譲り出家する
・1689年(元禄2年) 落姉舎で松尾芭蕉に会い入門する
・1691年(元禄4年) 『猿蓑(さるみの)』に発句12句が入集し、跋(ばつ)を書く
・1693年(元禄6年) 近江国に移り、義仲寺無名庵に住む
・1694年(元禄7年10月12日) 師の松尾芭蕉が亡くなる
・1696年(元禄9年) 近江国竜が岡(現在の滋賀県大津市)に仏幻庵を結ぶ
・1700年(元禄13年) 郷里に一時帰省する
・1701年(元禄14年) 初春から3年間庵に籠り、芭蕉追善の為に千部の法華経を読誦する
・1704年(元禄17年2月24日) 近江において、数え年43歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1610年(慶長15)絵師長谷川等伯の命日(新暦3月19日)詳細
1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

mukaikyorai01

 今日は、江戸時代中期の1704年(宝永元)に、俳人(蕉門十哲の一人)向井去来の亡くなった日ですが、新暦では10月8日となります。
 向井去来(むかい きょらい)は、1651年(慶安4)に、肥前国長崎(現在の長崎市興善町)で、儒医向井元升の次男として生まれましたが、名は兼時、字は元淵(もとひろ)と言いました。1658年(万治元)に父に伴われて京都に移住しましたが、のち福岡の叔父のもとに身を寄せて武芸を学びます。
 しかし、結局仕官せず、1675年(延宝3)頃に武を捨てて京都に戻り、1677年(延宝5)に没した父を継いで典薬となった兄元端を助け、公家に出入りして神道家、陰陽家として天文や暦のことに携わりました。貞享年間 (1684~88年) 頃に、榎本其角を介してくげ松尾芭蕉に入門、嵯峨の落柿舎(らくししゃ)に隠棲して、俳諧に専心します。
 1689年(元禄2)に、近畿滞在中の芭蕉を落柿舎に招き、1691年(元禄4)の夏には、芭蕉の宿舎として提供、ここで『嵯峨日記』が執筆されました。同年、芭蕉の指導のもとで野沢凡兆と共に『猿蓑』を編纂し、蕉風を代表する撰集となります。
 1694年(元禄7)の芭蕉没後は、蕉風の忠実な伝え手として、其角や森川許六と論争し、『俳諧問答青根が峰』、『去来抄』、『旅寝論』など重要な蕉風俳論を執筆したものの、1704年(宝永元年9月10日)に、京都において、数え年54歳で亡くなりました。のちに、蕉門十哲の一人と言われるようになります。

<代表的な句>

・「秋風や 白木の弓に 弦はらん」
・「湖の水 まさりけり 五月雨」
・「をととひは あの山越つ 花盛り」
・「尾頭の こころもとなき 海鼠哉」
・「螢火や 吹とばされて 鳰の闇」
・「鳶の羽も 刷ぬ はつしぐれ」
・「応々と いへど敲くや 雪の門」
・「岩鼻や ここにもひとり 月の客」(去来抄)

〇向井去来の主要な著作

・『猿蓑』(1691年)野沢凡兆との共編
・『贈其角先生書』
・『答許子問難弁』
・『俳諧問答青根が峰』
・『去来抄』
・『旅寝論』

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ