ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:狂歌師

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 今日は、江戸時代後期の寛政10年に、戯作者・狂歌師で狂歌三大家の一人とされた朱楽菅江が亡くなった日ですが、新暦では、1799年1月17日となります。
 朱楽菅江(あけら かんこう)は、江戸時代中期の1740年(元文5年10月24日)に、江戸において、幕臣の家に生まれた(元文3年生まれの異説あり)とされますが、本名は山崎景基(後に景貫と改名)と言いました。江戸幕府の与力として市谷(現在の東京都新宿区)に居を構えますが、内山賀邸に学び、和歌と雑俳に親しんだとされます。
 安永年間(1772~1781年)の初め頃に、同門の四方赤良(太田南畝)、唐衣橘洲らに誘われて狂歌を始め、しだいに普及流行するとともに、天明狂歌壇の中心的人物となり、赤良、橘洲と並ぶ狂歌三大家の一人とされるようになりました。その中で、洒落本も出筆し、1777年(安永6年)に『売花新駅(ばいかしんえき)』、1779年(安永8年)に『大抵御覧(たいていごらん)』、『雑文穿袋(ざつもんせんてい)』を刊行しています。
 1780年(安永9年)に、牛込蓬莱連に所属するようになり『川傍柳』の編纂に協力し、1783年(天明3年)には、『万載狂歌集』を大田南畝とともに編纂し、天明狂歌ブームの火付け役となりました。1785年(天明5年)には、狂歌集『故混馬鹿集(ここんばかしゅう)』を刊行、妻の「節松嫁々」(ふしまつのかか)とともに狂歌集団「朱楽連」(しゅらくれん)を結成し、江戸狂歌界の中心的人物として活動します。
 寛政年間(1789~1801年)に入ると、『狂歌大体』を著し、狂歌の作風を和歌に近いものへと変化させました。1791年(寛政3年)には、不忍池のほとりに隠居し、芬陀利華庵と号したものの、1799年(寛政11年12月12日)に、この場所において、数え年59歳で亡くなっています。

<朱楽菅江の代表的な狂歌>

・「立て見し 柱暦も 寝転んで 読めるばかりに 年は暮れにき」(古今狂歌袋)
・「借金も 今はつゝむに つゝまれず やぶれかぶれの ふんどしの暮」(万載狂歌集)
・「執着の 心や娑婆に 残るらん 吉野の桜 さらしなの月」(辞世の句)

〇朱楽菅江の主要な著作

・洒落本『売花新駅』朱楽舘主人作、桃江(1777年)
・洒落本『雑文穿袋』(1779年)
・洒落本『大抵御覧』(1779年)
・狂歌集『万載狂歌集』四方赤良(太田南畝)共撰(1783年)
・『鸚鵡盃』(1788年)
・『八重垣縁結』(1788年)
・狂歌集『故混馬鹿集』(1785年)
・『狂言鶯蛙集』(1785年)
・『絵本江戸爵』朱楽館主人著、蔦唐丸編、喜多川歌麿画(1786年)
・『潮干のつと』あけら菅江編、喜多川歌麿画(1790年)
・『狂歌大体』朱楽菅江編(1791年)

☆朱楽菅江関係略年表

・1740年(元文5年10月24日)? 江戸に生まれる
・1772年(安永5年)頃 四方赤良(太田南畝)、唐衣橘洲らとともに狂歌を始める
・1777年(安永6年) 洒落本『売花新駅(ばいかしんえき)』を刊行する
・1779年(安永8年) 洒落本『大抵御覧(たいていごらん)』、「雑文穿袋(ざつもんせんてい)」を刊行する
・1780年(安永9年) 牛込蓬莱連に所属するようになり、『川傍柳』の編纂に協力する
・1783年(天明3年) 『万載狂歌集』を大田南畝とともに編纂し、天明狂歌ブームの火付け役となる
・1785年(天明5年) 狂歌撰集『故混馬鹿集』を刊行する
・1791年(寛政3年) 不忍池のほとりに隠居し、芬陀利華庵と号する
・1799年(寛政11年12月12日) 江戸・池之端の芬陀利華庵において、数え年59歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1568年(永禄11)武田信玄軍と今川氏真・北条氏政軍との間で薩埵峠の戦いが始まる(新暦12月30日)詳細
1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細
1908年(明治41)北原白秋、木下杢太郎らが青年文芸・美術家の懇談会「パンの会」を結成する詳細
1947年(昭和22)「児童福祉法」が公布される詳細
1963年(昭和38)映画監督・脚本家小津安二郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家田河水泡の命日詳細
1994年(平成6)小説家・歌人中河与一の命日詳細
2015年(平成27)「気候変動に関する国際連合枠組み条約第21回締約国会議」(COP21)で「パリ協定」を採択する詳細
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 今日は、江戸時代後期の1823年(文政6)に、狂歌三大家の一人とされる狂歌師・戯作者・御家人大田南畝の亡くなった日ですが、新暦では5月16日となります。
 大田南畝(おおた なんぽ)は、江戸時代中期の1749年(寛延2年3月3日)に、江戸の牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)で、御徒の父・大田正智(吉左衛門)と母・利世の嫡男として生まれましたが、本名は覃(ふかし)と言いました。15歳の時、江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門、国学や漢学のほか、漢詩、狂詩などを学び、17歳の時には、父に倣い御徒見習いとして幕臣となったものの、学問は続けます。
 1766年(明和3)頃に、荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事、作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行、翌年には、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、狂詩文『寝惚先生文集』(平賀源内の序)を刊行しました。1769年(明和6)頃より、「四方赤良」と号し、1779年(安永8)に、高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会を催し、翌年には、黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版します。
 1783年(天明3)に、朱楽菅江とともに『万載狂歌集』を編纂、1785年(天明5年)には、『徳和歌後万載集』を編し、当時の天明調狂歌の一大集成をなしました。1787年(天明7)に、横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂・出版、翌年には、重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出したりしています。
 寛政改革による粛正政策の台頭を機に、いったん幕吏の仕事に専念、1794年(寛政6)に、幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格、1796年(寛政8)には支配勘定に任用されました。1799年(寛政11)に孝行奇特者取調御用、1800年(寛政12)に御勘定所諸帳面取調御用、1801年(享和元)に大坂銅座に約一年間赴任、1804年(文化元)に長崎奉行所へ赴任、1808年(文化5)には、堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就きます。
 1812年(文化9)に息子の定吉が支配勘定見習として召しだされたものの、自身は心気を患って失職しました。この間、江戸文人の代表格として名声をあげ、晩年の1820年(文政3)には、『杏園詩集』を出版したりしましたが、1823年(文政6年4月6日)に、江戸において、数え年75歳で亡くなっています。
 尚、号を蜀山人、狂歌名を四方赤良、戯作名を山手馬鹿人、狂詩名を寝惚先生などと称しました。

<代表的な狂歌>

・「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」
・「世の中は 酒と女が 敵なり どうか敵に めぐりあいたい」
・「一刻を 千金づつに つもりなば 六万両の 春のあけぼの」
・「いまさらに 何をかをしまん 神武より 二千年来 くれてゆくとし」
・「世の中に 絶えて女の なかりせば をとこの心 のどけからまし」
・「昨日まで ひとが死ぬると 思ひしが おれが死ぬとは こいつはたまらん」
・「ほととぎす 鳴きつるかたみ 初鰹 春と夏との 入相の鐘」(辞世)

〇大田南畝の主要な著作

・狂詩文『寝惚先生文集』(1767年)
・洒落本『甲駅新話』(1775年)
・咄本『鯛の味噌津』(1779年)
・洒落本『粋町甲閨』(1779年)
・洒落本『変通軽井茶話』(1780年頃)
・黄表紙『虚言八百万八伝』(1780年)
・黄表紙評判記『菊寿草』(1781年)
・黄表紙評判記『岡目八目』(1782年)
・狂歌集『万載狂歌集』朱楽菅江と共編(1783年)
・狂歌集『徳和歌後万載集』(1785年)
・狂歌狂文集『四方のあか』(1787年)
・随筆『俗耳鼓吹』(1788年序)
・狂歌狂文集『千紅万紫』(1817年)
・狂歌狂文集『万紫千紅』(1818年)
・狂歌狂文集『蜀山百首』(1818年)
・漢詩集『杏園詩集』(1820年)
・随筆『一話一言』全56巻(1820年成立)
・随筆『奴師労之(やっこだこ)』(1821年成立)
・随筆『仮名世説』(1825年) 
・狂歌狂文集『狂歌百人一首』(1843年)

☆大田南畝関係略年表(日付は旧暦です)

・1749年(寛延2年3月3日) 江戸の牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)で、御徒の父・大田正智(吉左衛門)、母・利世の嫡男として生まれる
・1763年(宝暦13年) 15歳の時、江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門、国学や漢学のほか、漢詩、狂詩などを学ぶ
・1765年(明和2年) 17歳の時、父に倣い御徒見習いとして幕臣となるが学問を続ける
・1766年(明和3年) 18歳の頃、荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事、作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行する
・1767年(明和4年) 19歳の頃、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、平賀源内に認められて狂詩文『寝惚先生文集』を刊行する
・1769年(明和6年) この頃より自身を「四方赤良」と号する
・1779年(安永8年) 高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会を催す
・1780年(安永9年) 黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版する
・1783年(天明3年) 朱楽菅江とともに『万載狂歌集』を編纂する
・1785年(天明5年) 『徳和歌後万載集』を出版する
・1787年(天明7年) 横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂、出版する
・1788年(天明8年) 重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出す
・1792年(寛政4年) 「学問吟味登科済」が創設される
・1794年(寛政6年) 幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格する
・1796年(寛政8年) 支配勘定に任用される
・1799年(寛政11年) 孝行奇特者取調御用を命ぜられる
・1800年(寛政12年) 御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられる
・1801年(享和元年) 大坂銅座に約一年間赴任(旅の日記『改元紀行』を著している)する
・1804年(文化元年) 長崎奉行所へ赴任する
・1807年(文化4年) 隅田川に架かる永代橋が崩落するという事故を目撃し、自ら取材して証言集『夢の憂橋』を出版する
・1808年(文化5年) 堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就く
・1812年(文化9年) 息子の定吉が支配勘定見習として召しだされる
・1820年(文政3年) 『杏園詩集』が出版される
・1823年(文政6年4月6日) 江戸において、数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3/延元元)第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)の命日(新暦5月17日)詳細
1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
2017年(平成29)「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される詳細
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