ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:特別史跡

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 今日は、平成時代の1998年(平成10)に、奈良県のキトラ古墳で上下左右に向きを変えるCCDカメラの探査で、青龍、白虎、天文図が発見された日です。
 キトラ古墳(きとらこふん)は、奈良県高市郡明日香村阿部山にある二段築成の円墳で、直径約14m、高さ約3.3mあり、7世紀後半から8世紀にかけて築造された終末期古墳とされてきました。1978年(昭和53)頃から存在が知られるようになり、1983年(昭和58)のファイバースコープによる石室内探査によって、11月7日に北壁から、四神の一つ玄武の壁画が発見されて注目されます。
 15年後の1998年(平成10)3月6日の上下左右に向きを変えるCCDカメラの探査で、青龍、白虎、天文図が発見され、2000年(平成12)7月31日に古墳が国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に格上げされました。翌年のデジタルカメラを用いた調査で、南壁の朱雀が確認され、獣頭人身十二支像の存在も確認され、同年12月には国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区として新たに都市計画決定されます。
 2003年(平成15)から、文化庁による石室内調査が開始されましたが、壁画の描かれたしっくいが崩落寸前であることが判明しました。そこで、翌年6月から壁画修復のための調査が始まり、同年8月には、日本で初めての本格的な壁画の取り外しが開始されることとなります。
 2010年(平成22)に壁画の取り外し作業が終わり、2013年(平成25)には石室の考古学的調査が終了したので、古墳そのものは石室と同じ石材でふさぎ、埋め戻されました。2016年(平成28)9月24日に国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区が開園、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」が開館して、この古墳について学べるようになっています。古墳の彩色壁画としては、高松塚古墳と並んで大変貴重なので、2018年(平成30)10月31日に壁画と出土品が国の重要文化財に指定され、翌年7月23日には壁画が国宝に格上げ指定されました。

〇キトラ古墳の発掘保存関係略年表

・1983年(昭和58)11月7日 ファイバースコープによる探査により、石槨の奥壁に玄武と思われる壁画が発見される
・1998年(平成10)3月6日 上下左右に向きを変えるCCDカメラの探査で、青龍、白虎、天文図が発見される
・2000年(平成12)7月31日 古墳が国の史跡に指定される
・2000年(平成12)11月24日 古墳が特別史跡に指定される
・2001年(平成13) デジタルカメラを用いた調査で、南壁の朱雀が確認され、獣頭人身十二支像の存在も確認される
・2001年(平成13)12月 国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区が新たに都市計画決定される
・2003年(平成15) 文化庁が石室内調査を開始する
・2004年(平成16)6月 壁画修復のための調査が始まる
・2004年(平成16)8月 日本で初めての本格的な壁画の取り外しを開始する
・2010年(平成22) 壁画の取り外し作業が終了する
・2013年(平成25) 石室の考古学的調査が終了したので、石室が埋め戻されて墳丘の復元整備が開始される
・2016年(平成28)9月24日 国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区が開園、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」が開館する、
・2018年(平成30)10月31日 壁画と出土品が国の重要文化財に指定される
・2019年(令和元)7月23日 壁画が国宝に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

803年(延暦22)征夷大将軍・坂上田村麻呂に志波城の築城が命令される(新暦4月1日)詳細
1297年(永仁5)鎌倉幕府により「永仁の徳政令」が出される(新暦3月30日)詳細
1337年(延元2/建武4)金ヶ崎の戦いで金ヶ崎城が落城、恒良親王が捕われ尊良親王が自害、新田義貞が敗走する(新暦4月7日)詳細
1945年(昭和20)「国民徴用令」等5勅令を廃止・統合し、新たに「国民勤労動員令」が公布される詳細
1946年(昭和21)憲法改正過程において、日本政府より「憲法改正草案要綱」 が発表される詳細
2005年(平成17)新交通システムの一つで、日本初の実用磁気浮上式鉄道である、愛知高速交通東部丘陵線が開業する詳細
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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、文化財保護委員会が奈良市・大和郡山市の平城京跡の発掘を開始した日です。
 平城京跡の発掘・保存の動きは、古く江戸時代後期の1852年(嘉永5)に、北浦定政(1817~72年)が『平城宮大内裏跡坪割之図』を完成させたことがありました。明治時代になって、1899年(明治32)に、帝国議会の貴族院の第十三回議会で「御歴世宮趾保表ノ建議」が可決され、1901年(明治34)には、大極殿跡に木製標柱が建立されます。
 1902年(明治35)に棚田嘉十郎は地元の溝辺文四郎らと保存運動を始め、「平城神宮建設会」が組織されたものの、後に解散し、1906年(明治39)には、棚田らが主導して「平城宮址保存会」が設立されました。1910年(明治43)に、平城遷都千二百年にあたり、宮内省から記念碑建設の下賜金があり、大極殿跡で建碑地鎮祭と平城奠都千二百年祭が挙行されます。
 1922年(大正11)に、平城宮第二次大極殿・朝堂院跡が史蹟に指定され、1924年(大正13)には、「奈良大極殿保存会」により、平城宮の発掘調査も行われました。太平洋戦争後の1952年(昭和27)に、平城宮跡の一部が特別史跡に指定される(その後も順次追加指定)、文化財保護委員会に附属する調査研究機関の奈良文化財研究所が発足します。
 1954年(昭和29)1月12日に、文化財保護委員会による平城京跡の発掘が開始され、同年7月には、奈良文化財研究所が奈良国立文化財研究所と改称されました。1959年(昭和34)に、奈良国立文化財研究所による継続的な発掘調査が開始され、1961年(昭和36)には、初めて木簡が出土、宮跡内での鉄道検車区建設計画が国民的世論により中止となります。
 1968年(昭和43)に、平城宮跡を保存するため、国道24号線バイパス計画を変更し東に迂回させ、1969年(昭和44)には、「平城宮跡資料館」が建設されました。1978年(昭和53)に「平城宮跡保存整備基本構想」が策定され、1998年(平成10)には、朱雀門、東院庭園の復原が完成、平城宮跡を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されています。
 2008年(平成20)に、文化庁が「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想推進計画」を策定、国営公園として整備することが閣議決定されました。2009年(平成21)に、国営公園事業の一環として第一次大極殿院広場を整備、2010年(平成22)には、第一次大極殿の復原が完成、平成遷都1300年祭が行われています。

〇平城京(へいじょうきょう)とは?

 710年(和銅3)に元明天皇が藤原京から遷都し、784年 (延暦3) に桓武天皇が山城長岡京に移ったまでの74年間の都だったところです。707年(慶雲4)から遷都の審議が始まり、708年(和銅元年2月15日)には、元明天皇により造営の詔が出されました。
 「平城の地、四禽図(青龍、白虎、玄武、朱雀)に叶い、三山(春日山、奈良山、生駒山)鎮をなし、亀筮(亀の甲や筮竹を用いる卜占)並び従ふ。」と吉相の地で占いにもかなうとされていますが、その理由は、一定の広さがあり、水陸の交通便が良く、地元豪族の影響排除が可能だったこととされています。工事が進められて、710年(和銅3年3月10日)に平城京に遷都されましたが、内裏と大極殿などの主要な官舎が整った程度の状態だったとされ、その後順次整備されていきました。
 唐の長安京の都城制を模してつくられ、南北9条(約4.8km)、東西8坊(約4.3km)で約2,500ha面積を有し、全域72坊に区画設定されています。中央北域に平城宮(大内裏)をおき、その南の朱雀門から都の南端にある羅城門まで、中央を南北に走る幅75m、長さ3.7kmの朱雀大路(すざくおおじ)によって左京・右京に二分しました。
 さらに、南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画しています。平城京に居住した人口は、17万人前後ではないかと推定され、貴族(内五位以上は100人前後)や下級官人、一般庶民の住宅が立ち並んでいました。しかし、この間、740年(天平12)から745年(天平17)までの間は恭仁京・難波京に遷都されています。奈良時代の後半は、政治が混乱を深めたため、784年(延暦3)の長岡京遷都へ至ったとされてきました。
 尚、平城京の大内裏の跡(平城宮跡)は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備されつつあり、1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)にも登録されています。

〇平城宮跡(へいじょうきゅうあと)とは?

 奈良県奈良市にある奈良時代の平城京の大内裏の跡で、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、国営公園として整備される予定になっています。この間、文化庁が遺跡の整備・建造物の復原を進めてきていて、既に第一次大極殿、朱雀門、宮内省地区、東院庭園地区の復原が完了ました。
 1998年(平成10年)12月には、「古都奈良の文化財」として東大寺などと共に世界遺産(文化遺産)に登録されます。出土品などは、「平城宮跡資料館」で見ることができるようになりました。

☆平城京発掘・保存関係略年表

・1852年(嘉永5) 北浦定政(1817~72年)が『平城宮大内裏跡坪割之図』を完成させる
・1899年(明治32) 帝国議会の貴族院の第十三回議会で「御歴世宮趾保表ノ建議」が可決される
・1901年(明治34) 大極殿跡に木製標柱が建立される
・1902年(明治35) 棚田嘉十郎は地元の溝辺文四郎らと保存運動を始め、「平城神宮建設会」が組織される(後に解散)
・1906年(明治39) 棚田らが主導して「平城宮址保存会」が設立される
・1910年(明治43) 平城遷都千二百年にあたり、宮内省から記念碑建設の下賜金があり、大極殿跡で建碑地鎮祭と平城奠都千二百年祭が挙行される
・1913年(大正2) 大極殿跡の保存を大正天皇即位式の記念の一端とするため、徳川頼倫侯爵を会長とする「奈良大極殿阯保存会」が結成される
・1922年(大正11) 平城宮第二次大極殿・朝堂院跡が史蹟に指定される
・1924年(大正13) 「奈良大極殿保存会」により、平城宮の発掘調査が行われる
・1952年(昭和27) 平城宮跡の一部が特別史跡に指定される(その後も順次追加指定)、文化財保護委員会に附属する調査研究機関の奈良文化財研究所(奈良国立文化財研究所の前身)が発足する
・1954年(昭和29)1月 文化財保護委員会による平城京跡の発掘が開始される
・1954年(昭和29)7月 奈良文化財研究所が奈良国立文化財研究所と改称される、
・1959年(昭和34) 奈良国立文化財研究所による継続的な発掘調査が開始される
・1961年(昭和36) 初めて木簡が出土、宮跡内での鉄道検車区建設計画が国民的世論により中止となる
・1965年(昭和40) 国道24号線バイパスの計画に伴う調査により平城宮の東側に張り出し部が発見される
・1968年(昭和43) 平城宮跡を保存するため、国道24号線バイパス計画を変更し東に迂回させる
・1969年(昭和44) 「平城宮跡資料館」が建設される
・1970年(昭和45) 奈良国立文化財研究所は平城宮跡発掘調査部に計測修景調査室を設置する
・1974年(昭和49) 文化庁は、「平城宮跡保存整備委員会」を新たに発足させる
・1978年(昭和53) 「平城宮跡保存整備基本構想」が策定される
・1998年(平成10) 朱雀門、東院庭園の復原が完成、平城宮跡を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録される
・2001年(平成13) 第一次大極殿の復原工事に着手する
・2008年(平成20)5月 文化庁が「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想推進計画」を策定する
・2008年(平成20)10月 平城宮跡を国営公園として整備することが閣議決定される
・2008年(平成20)12月 「国営平城宮跡歴史公園の整備・管理にかかる基本計画」が策定する
・2009年(平成21) 国営公園事業の一環として第一次大極殿院広場を整備する
・2010年(平成22) 第一次大極殿の復原が完成、平成遷都1300年祭が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)洋画家岡田三郎助の誕生日(新暦1月22日)詳細
1874年(明治7)板垣退助らが日本初の政党となる愛国公党を結成する詳細
1903年(明治36)日本画家岩橋英遠の誕生日詳細
1914年(大正3)桜島大正大噴火が始まる詳細
2019年(平成31)哲学者梅原猛の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、奈良県のキトラ古墳で玄武の壁画が発見された日です。
 キトラ古墳(きとらこふん)は、奈良県高市郡明日香村阿部山にある二段築成の円墳で、直径約14m、高さ約3.3mあり、7世紀後半から8世紀にかけて築造された終末期古墳とされてきました。1978年(昭和53)頃から存在が知られるようになり、1983年(昭和58)のファイバースコープによる石室内探査によって、11月7日に北壁から、四神の一つ玄武の壁画が発見されて注目されます。
 15年後の1998年(平成10)3月の上下左右に向きを変えるCCDカメラの探査で、青龍、白虎、天文図が発見され、2000年(平成12)7月31日に古墳が国の史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に格上げされました。翌年のデジタルカメラを用いた調査で、南壁の朱雀が確認され、獣頭人身十二支像の存在も確認され、同年12月には国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区として新たに都市計画決定されます。
 2003年(平成15)から、文化庁による石室内調査が開始されましたが、壁画の描かれたしっくいが崩落寸前であることが判明しました。そこで、翌年6月から壁画修復のための調査が始まり、同年8月には、日本で初めての本格的な壁画の取り外しが開始されることとなります。
 2010年(平成22)に壁画の取り外し作業が終わり、2013年(平成25)には石室の考古学的調査が終了したので、古墳そのものは石室と同じ石材でふさぎ、埋め戻されました。2016年(平成28)9月24日に国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区が開園、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」が開館して、この古墳について学べるようになっています。
 古墳の彩色壁画としては、高松塚古墳と並んで大変貴重なので、2018年(平成30)10月31日に壁画と出土品が国の重要文化財に指定され、翌年7月23日には壁画が国宝に格上げ指定されました。

〇キトラ古墳の発掘保存関係略年表

・1983年(昭和58)11月7日 ファイバースコープによる探査により、石槨の奥壁に玄武と思われる壁画が発見される
・1998年(平成10)3月 上下左右に向きを変えるCCDカメラの探査で、青龍、白虎、天文図が発見される
・2000年(平成12)7月31日 古墳が国の史跡に指定される
・2000年(平成12)11月24日 古墳が特別史跡に指定される
・2001年(平成13) デジタルカメラを用いた調査で、南壁の朱雀が確認され、獣頭人身十二支像の存在も確認される
・2001年(平成13)12月 国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区が新たに都市計画決定される
・2003年(平成15) 文化庁が石室内調査を開始する
・2004年(平成16)6月 壁画修復のための調査が始まる
・2004年(平成16)8月 日本で初めての本格的な壁画の取り外しを開始する
・2010年(平成22) 壁画の取り外し作業が終了する
・2013年(平成25) 石室の考古学的調査が終了したので、石室が埋め戻されて墳丘の復元整備が開始される
・2016年(平成28)9月24日 国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区が開園、「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」が開館する、
・2018年(平成30)10月31日 壁画と出土品が国の重要文化財に指定される
・2019年(令和元)7月23日 壁画が国宝に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3)足利尊氏が室町幕府の基本的な政治方針「建武式目」を制定(新暦12月10日)詳細
1922年(大正11)学生連合会(社会科学研究会の連合組織)が結成される詳細
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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、佐賀県吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落発見と報道された日です。
 吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町にあり、邪馬台国の頃の“クニ”の一つだと考えられている大規模な環濠集落跡でした。工業団地造成計画の事前調査で発見され、開発が中止されて、保存されることになります。
 1991年(平成3)に、主要部分が国の特別史跡に指定されて、遺跡の大部分が保存(国営公園約51.3ha 、県立公園約35.4ha)され、「国営吉野ヶ里歴史公園」として整備が進めらてきました。当時を彷彿とさせる環濠、竪穴住居、高床住居、物見櫓、柵、逆茂木、高床式倉庫、墳丘墓などが復元されていて、見学するのには好都合です。
 また、出土品等は展示室で見ることができるようになりました。尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されています。

〇「弥生時代」とは?

 弥生時代は約紀元前3世紀~紀元後3世紀中頃までの時代で、水稲耕作による稲作の始まりによる弥生式土器に特徴づけられてきました。
 しかし、近年になって縄文時代の遺跡から、プラント・オパール(イネ科植物の葉などの細胞成分)が発見され、陸稲による稲作は縄文時代に始まっていたのではないかとの説が出されています。また、北海道と沖縄では弥生時代の区分は使われていません。
 時期区分は、前期、中期、後期の3つに分けるのが一般的ですが、稲作の開始された従来の縄文時代晩期に食い込んで早期を設けて4つに分ける考え方も提案されています。

☆主要な弥生遺跡一覧

・砂沢遺跡(青森県弘前市) 前期
・垂柳遺跡(青森県南津軽郡田舎館村) 中期---国史跡 2000年(平成12)指定
・地蔵田遺跡(秋田県秋田市) 前期---国史跡 1996年(平成8)指定
・弥生二丁目遺跡(東京都文京区)---国史跡 1976年(昭和51)指定
・大塚・歳勝土遺跡(神奈川県横浜市都築区) 中期---国史跡 1986年(昭和61)指定
・三殿台遺跡(神奈川県横浜市磯子区) 前~後期---国史跡 1966年(昭和41)指定
・神崎遺跡(神奈川県綾瀬市) 後期---国史跡 2011年(平成23)指定
・登呂遺跡(静岡県静岡市駿河区) 後期---特別史跡 1952年(昭和27)指定
・瓜郷遺跡(愛知県豊橋市) 中~後期---国史跡 1953年(昭和28)指定
・見晴台遺跡(愛知県名古屋市南区) 後期
・朝日遺跡(愛知県清須市・名古屋市西区) 前~後期---国史跡 1971年(昭和46)指定
・唐古・鍵遺跡(奈良県磯城郡田原本町) 後~晩期---国史跡 1999年(平成11)指定
・纏向遺跡(奈良県桜井市) 後期---国史跡 2006年(平成18)指定
・池上・曽根遺跡(大阪府和泉市・泉大津市) 中期---国史跡 1976年(昭和51)指定
・田能遺跡(兵庫県尼崎市) 前~後期  国史跡 1969年(昭和44)指定
・妻木晩田遺跡(鳥取県米子市・西伯郡大山町) 中~後期---国史跡 1999年(平成11)指定
・荒神谷遺跡(島根県出雲市) 中期---国史跡 1987年(昭和62)指定
・加茂岩倉遺跡(島根県雲南市) 中~後期---国史跡 1999年(平成11)指定
・百間川遺跡(岡山県岡山市) 前~後期
・土井ヶ浜遺跡(山口県下関市) 中~後期---国史跡 1962年(昭和37)指定
・紫雲出山遺跡(香川県三豊市) 中期
・板付遺跡(福岡県福岡市博多区) 前~後期---国史跡 1976年(昭和51)指定
・須玖岡本遺跡(福岡県春日市) 中期---国史跡 1986年(昭和61)指定
・平原遺跡(福岡県前原市) 後期---国史跡 1982年(昭和57)指定
・菜畑遺跡(佐賀県唐津市) 前~中期---国史跡 1983年(昭和58)指定
・原の辻遺跡(長崎県壱岐市) 前~後期---特別史跡 2000年(平成12)指定
・吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町) 前~後期---特別史跡 1999年(平成11)指定
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