ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:物理学者

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 今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、トンネル効果を発見した江崎玲於奈のノーベル賞(物理学賞)受賞が決定した日です。
 ノーベル賞(のーべるしょう)は、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベル(1833~96)の遺言と遺産によって、1901年(明治34)から始まった世界で最も権威のある賞とされてきました。毎年、物理学・化学・生理学および医学・文学・平和の5部門において、顕著な功績のあった人に授与されるようになりましたが、1969年(昭和44)からは、スウェーデン銀行創立300年を記念し、その寄付により経済学賞も同様に授与されるようになり、メダル・賞状・賞金がノーベルの命日に当たる12月10日に贈られています。
 賞の授与機関については、ノーベルの遺志により、物理学部門と化学部門はスウェーデン王立科学アカデミー、生理学・医学部門は王立カロリンスカ医学研究所、文学部門はスウェーデン・アカデミー、平和賞はノルウェー国会ノーベル委員会と定められ、経済学部門については、スウェーデン王立科学アカデミーが賞の授与にあたってきました。日本人の最初の受賞者は、1949年(昭和24)物理学賞の湯川秀樹「中間子の存在の予想」で、2022年(令和4)までに25名と1団体(日本出身の他国籍者を除く)が、物理学賞(9名)、化学賞(8名)、生理学・医学賞(5名)、文学賞(2名)、平和賞(1名と1団体)にわたって受賞していまのす。

〇江崎玲於奈(えざき れおな)とは?

 江崎玲於奈(えさき れおな)は、大正時代の1925年(大正14)3月12日に、大阪府中河内郡高井田村(現在の東大阪市)において、建築技師である父・江崎壮一郎の長男として生まれました。兵庫県師範学校御影附属小学校高等科、同志社中学校、第三高等学校を経て、1944年(昭和19)に東京帝国大学に入学します。
 1947年(昭和22)に同大学理学部物理学科を卒業し、川西機械製作所(後の神戸工業株式会社、現在のデンソーテン)に入社、真空管の陰極からの熱電子放出の研究を行なしました。1956年(昭和31)に東京通信工業株式会社(現在のソニー)に移籍し、翌年には、東京通信工業研究部で、不純物原子を多量に含んだゲルマニウムによる薄いp-n接合を作成し、その電流電圧特性が特異な非線形特性を示すことを発見し、仁科記念賞を受賞しています。
 1959年(昭和34)に、論文「薄いp-n接合における新現象」で、東京大学から理学博士の学位を授与され、朝日賞を受賞しました。1960年(昭和35)に東レ科学技術賞を受賞、米国IBM トーマス・J・ワトソン研究所に移籍して磁場と電場の下における新しいタイプの電子-フォノン相互作用や、トンネル分光の研究を行ないます。
 1961年(昭和36)にモーリス・N・リーブマン記念賞(米IRE、後のIEEE)、スチュアート・バレンタイン・メダル(米フランクリン協会)、1965年(昭和40)には、日本学士院賞を受賞しました。1969年~70年(昭和44~45)に、現在、分子線エピタキシー法(MBE法)と呼ばれる層状人工結晶作成の方法を開発します。
 1973年(昭和48)に「半導体におけるトンネル現象の実験的発見」により、ノーベル賞(物理学賞)を受賞、1974年(昭和49)に文化勲章を受章、1975年(昭和50)には、日本学士院会員となりました。1976年(昭和51)に全米科学アカデミー外国会員となり、1985年(昭和60)にジェームス・C・マックグラディ新材料賞、1991年(平成3)には、IEEE栄誉賞を受賞します。
 1992年(平成4)に帰国して、筑波大学学長(~1998年)に就任、1998年(平成10)に日本国際賞を受賞、勲一等旭日大綬章を受章、2000年(平成12)には、教育改革国民会議座長、芝浦工業大学学長に就任しました。2003年(平成15)にナノサイエンス分野の業績を顕彰する科学賞として江崎玲於奈賞が創設され、その選考委員長、2006年(平成18)には、横浜薬科大学学長に就任しています。

<江崎玲於奈の主要な著作>

・『トンネルの長い旅路』(1974年)
・『新・日本イソップ物語 一科学者の提言』(1978年)
・『アメリカと日本 ニューヨークで考える』(1980年)
・『日本とアメリカ 甲南大学創立30周年記念講演会・講演録』(1983年)
・『創造の風土 ニューヨークから』(1984年)
・『アメリカと日本』(1987年)
・『創造の風土』(1987年)
・『個人人間の時代 ニューヨークから』(1988年)
・『個性と創造』(1993年)
・『サイエンスの進歩が意味するもの』(1994年)
・『創造力の育て方・鍛え方』(1997年)
・『「未知」という選択 世界のレオ創造の軌跡』(2017年)

☆江崎玲於奈関係略年表

・1925年(大正14)3月12日 大阪府中河内郡高井田村(現在の東大阪市)において、建築技師である父・江崎壮一郎の長男として生まれる
・1944年(昭和19) 東京帝国大学に入学、杉山報公会奨学生となる
・1947年(昭和22) 東京帝国大学理学部物理学科を卒業し、川西機械製作所(後の神戸工業株式会社、現在のデンソーテン)に入社、真空管の陰極からの熱電子放出の研究を行なう
・1956年(昭和31) 東京通信工業株式会社(現在のソニー)に移籍する
・1957年(昭和32) 東京通信工業研究部で、不純物原子を多量に含んだゲルマニウムによる薄いp-n接合を作成し、その電流電圧特性が特異な非線形特性を示すことを発見し、仁科記念賞を受賞する
・1959年(昭和34) 論文「薄いp-n接合における新現象」で、東京大学から理学博士の学位を授与され、朝日賞を受賞する
・1960年(昭和35) 東レ科学技術賞を受賞、米国IBM トーマス・J・ワトソン研究所に移籍して磁場と電場の下における新しいタイプの電子-フォノン相互作用や、トンネル分光の研究を行なう
・1961年(昭和36) モーリス・N・リーブマン記念賞(米IRE、後のIEEE)、スチュアート・バレンタイン・メダル(米フランクリン協会)を受賞する
・1965年(昭和40) 日本学士院賞を受賞する
・1969年~70年(昭和44~45) 現在、分子線エピタキシー法(MBE法)と呼ばれる層状人工結晶作成の方法を開発する
・1973年(昭和48) 「半導体におけるトンネル現象の実験的発見」により、ノーベル賞(物理学賞)を受賞する
・1974年(昭和49) 文化勲章を受章する
・1975年(昭和50) 日本学士院会員となる
・1976年(昭和51) 全米科学アカデミー外国会員となる
・1985年(昭和60) ジェームス・C・マックグラディ新材料賞を受賞する
・1991年(平成3) IEEE栄誉賞を受賞する
・1992年(平成4) 帰国して、筑波大学学長(~1998年)に就任する
・1998年(平成10) 日本国際賞を受賞、勲一等旭日大綬章を受章する
・2000年(平成12) 教育改革国民会議座長、芝浦工業大学学長に就任する
・2003年(平成15) ナノサイエンス分野の業績を顕彰する科学賞として江崎玲於奈賞が創設され、その選考委員長に就任する
・2006年(平成18) 横浜薬科大学学長に就任する。

☆日本人のノーベル賞受賞者一覧(受賞時に外国籍の人は除く)

<物理学賞>9名

・1949年 湯川秀樹「中間子の存在の予想」
・1965年 朝永振一郎「量子電気力学分野での基礎的研究」
・1973年 江崎玲於奈「半導体におけるトンネル効果の実験的発見」
・2002年 小柴昌俊「天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」
・2008年 小林誠「小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献」
・2008年 益川敏英「小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献」
・2014年 赤﨑勇「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」
・2014年 天野浩「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」
・2015年 梶田隆章「ニュートリノが質量を持つことを示すニュートリノ振動の発見」

<化学賞>8名

・1981年 福井謙一「化学反応過程の理論的研究」
・2000年 白川英樹「導電性高分子の発見と発展」
・2001年 野依良治「キラル触媒による不斉反応の研究」
・2002年 田中耕一「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」
・2008年 下村脩「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と生命科学への貢献」
・2010年 根岸英一「クロスカップリングの開発」
・2010年 鈴木章「クロスカップリングの開発」
・2019年 吉野彰「リチウムイオン二次電池の開発」

<生理学・医学賞>5名

・1987年 利根川進「多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明」
・2012年 山中伸弥「様々な細胞に成長できる能力を持つiPS細胞の作製」
・2015年 大村智「線虫の寄生によって引き起こされる感染症に対する新たな治療法に関する発見」
・2016年 大隅良典「オートファジーの仕組みの解明」
・2018年 本庶佑「免疫チェックポイント阻害因子の発見とがん治療への応用」

<文学賞>2名

・1968年 川端康成「『伊豆の踊子』『雪国』など、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による叙述の卓越さに対して」
・1994年 大江健三郎「『個人的な体験』『万延元年のフットボール』など、詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにした功績に対して」

<平和賞>1名と1団体

・1974年 佐藤栄作「非核三原則の提唱」
・2024年 日本原水爆被害者団体協議会「核兵器のない世界を実現するための努力と、目撃証言を通じて核兵器が二度と使用されてはならないことを実証したことに対して」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)「蓄銭叙位令」が出される (新暦12月7日)詳細
765年(天平神護元)第47代天皇とされる淳仁天皇が、配流先の淡路島で亡くなる(新暦11月10日)詳細
1669年(寛文9)日高アイヌの総酋長シャクシャインの命日 (新暦11月16日)詳細
1871年(明治4)詩人・英文学者土井晩翠の誕生日(新暦12月5日)詳細
1873年(明治6)明治六年政変が起き、西郷隆盛が参議などを含む官職からの辞表を提出し、帰郷の途に就く詳細
1901年(明治34)田中正造が足尾鉱毒事件で衆議院議員を辞職する詳細
2004年(平成16)新潟県中越地震(マグニチュード6.8)が起こり、死者68人、重軽傷者4,805人が出る詳細
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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、物理学者朝永振一郎にノーベル賞(物理学賞)が贈られることが決定した日です。
 ノーベル賞(のーべるしょう)は、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベル(1833~96)の遺言と遺産によって、1901年(明治34)から始まった世界で最も権威のある賞とされてきました。毎年、物理学・化学・生理学および医学・文学・平和の5部門において、顕著な功績のあった人に授与されるようになりましたが、1969年(昭和44)からは、スウェーデン銀行創立300年を記念し、その寄付により経済学賞も同様に授与されるようになり、メダル・賞状・賞金がノーベルの命日に当たる12月10日に贈られています。
 賞の授与機関については、ノーベルの遺志により、物理学部門と化学部門はスウェーデン王立科学アカデミー、生理学・医学部門は王立カロリンスカ医学研究所、文学部門はスウェーデン・アカデミー、平和賞はノルウェー国会ノーベル委員会と定められ、経済学部門については、スウェーデン王立科学アカデミーが賞の授与にあたってきました。日本人の最初の受賞者は、1949年(昭和24)物理学賞の湯川秀樹「中間子の存在の予想」で、2022年(令和4)までに25名と1団体(日本出身の他国籍者を除く)が、物理学賞(9名)、化学賞(8名)、生理学・医学賞(5名)、文学賞(2名)、平和賞(1名と1団体)にわたって受賞していまのす。

〇朝永振一郎(ともなが しんいちろう)とは?

 日本を代表する物理学者の一人です。明治時代後期の1906年(明治39)3月31日に、東京市小石川区小日向三軒町(現在の文京区小日向)で、哲学者の父・朝永三十郎の長男として生まれました。
 1913年(大正2)に父の京都帝国大学教授就任に伴い一家で京都に引っ越します。京都府立京都一中(現在の府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、第三高等学校へ進み、1926年(大正15)に卒業後、京都帝国大学理学部物理学科へ入学し、湯川秀樹と共に学びました。
 1929年(昭和4)に卒業後は、京都帝国大学の無給副手に着任します。1931年(昭和6)に理化学研究所仁科研究室の研究員となり、1937年(昭和12)からドイツへ留学し、ライプツィヒ大学のハイゼンベルクのもとで原子核物理学や場の量子論を学びました。
 2年後に第2次世界大戦勃発のため帰国し、留学中の論文で東京帝国大学から理学博士号を取得します。1941年(昭和16)に東京文理科大学(現在の筑波大学)教授となり、中間子の中間結合論(場の理論)や超多時間理論を発表しました。
 太平洋戦争後は、1947年(昭和22)にくりこみ理論を発表、翌年「磁電管の発振機構と立体回路の理論的研究」により小谷正雄と共に日本学士院賞を受賞します。1949年(昭和24)には、東京教育大学教授となり、プリンストン高等研究所に滞在して、量子多体系の研究を行いました。
 これらの業績により、1951年(昭和26)に日本学士院会員となり、翌年には文化勲章を受章します。1956~61年には東京教育大学長となり、1963年から日本学術会議会長も務めました。
 そして、1965年(昭和40)にジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞(湯川秀樹に続き日本二人目)するに至ります。一方で、原水爆禁止と原子力平和利用などを訴え、世界平和アピール7人会に参加するなど、平和運動にも尽力しましたが、 1979年(昭和54)7月8日に、東京において、73歳で亡くなりました。

☆日本人のノーベル賞受賞者一覧(受賞時に外国籍の人は除く)

<物理学賞>9名

・1949年 湯川秀樹「中間子の存在の予想」
・1965年 朝永振一郎「量子電気力学分野での基礎的研究」
・1973年 江崎玲於奈「半導体におけるトンネル効果の実験的発見」
・2002年 小柴昌俊「天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」
・2008年 小林誠「小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献」
・2008年 益川敏英「小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献」
・2014年 赤﨑勇「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」
・2014年 天野浩「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」
・2015年 梶田隆章「ニュートリノが質量を持つことを示すニュートリノ振動の発見」

<化学賞>8名

・1981年 福井謙一「化学反応過程の理論的研究」
・2000年 白川英樹「導電性高分子の発見と発展」
・2001年 野依良治「キラル触媒による不斉反応の研究」
・2002年 田中耕一「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」
・2008年 下村脩「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と生命科学への貢献」
・2010年 根岸英一「クロスカップリングの開発」
・2010年 鈴木章「クロスカップリングの開発」
・2019年 吉野彰「リチウムイオン二次電池の開発」

<生理学・医学賞>5名

・1987年 利根川進「多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明」
・2012年 山中伸弥「様々な細胞に成長できる能力を持つiPS細胞の作製」
・2015年 大村智「線虫の寄生によって引き起こされる感染症に対する新たな治療法に関する発見」
・2016年 大隅良典「オートファジーの仕組みの解明」
・2018年 本庶佑「免疫チェックポイント阻害因子の発見とがん治療への応用」

<文学賞>2名

・1968年 川端康成「『伊豆の踊子』『雪国』など、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による叙述の卓越さに対して」
・1994年 大江健三郎「『個人的な体験』『万延元年のフットボール』など、詩趣に富む表現力を持ち、現実と虚構が一体となった世界を創作して、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにした功績に対して」

<平和賞>1名と1団体

・1974年 佐藤栄作「非核三原則の提唱」
・2024年 日本原水爆被害者団体協議会「核兵器のない世界を実現するための努力と、目撃証言を通じて核兵器が二度と使用されてはならないことを実証したことに対して」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1684年(貞享元)江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の誕生日(新暦11月27日)詳細
1800年(寛政12)伊能忠敬が180日間の第1次測量(奥州街道・蝦夷地太平洋岸)を終え、江戸に帰着する(新暦12月7日)詳細
1818年(文政元)洋風画家・蘭学者・随筆家司馬江漢の命日(新暦11月19日)詳細
1943年(昭和18)学徒出陣のため、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれる詳細
1946年(昭和21)「農地調整法」改正、「自作農創設特別措置法」公布により、第二次農地改革が開始される詳細
1971年(昭和46)小説家志賀直哉の命日(直哉忌)詳細
1973年(昭和48)民法学者我妻栄の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、物理学者・冶金学者本多光太郎が亡くなった日です。
 本多光太郎(ほんだ こうたろう)は、明治時代前期の1870年(明治3年2月23日)に、三河国碧南郡新堀村(現在の岡崎市新堀町字大庭)において、農業を営む父・本多兵三郎の三男として生まれました。1885年(明治18)に随念寺高等小学校を卒業後、1887年(明治20)に上京し、大学予備門を経て、1889年(明治22)には、第一高等中学校へ入学します。
 1894年(明治27)に東京帝国大学理科大学物理学科へ進学し、地球物理学・磁気学等を専攻、1897年(明治30)に卒業後、大学院へ進み、長岡半太郎の指導下で強磁性金属の磁化、応力、ひずみの相互関係について研究しました。1901年(明治34)に東京帝国大学理科大学物理学科講師となり、1906年(明治39)に理学博士の学位を得て、翌年からドイツ・イギリスに留学、物理学の研究に没頭します。
 1911年(明治44)に帰国後、東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となり、1915年(大正4)には、加熱しながら化学反応の測定ができる本多式熱天秤を開発しました。1916年(大正5)に臨時理化学研究所第二部研究主任となり、高木弘と共にKS鋼を発明、鉄に関する研究で、帝国学士院賞を受賞、翌年には、従五位となります。
 1919年(大正8)に東北帝国大学附属鉄鋼研究所初代所長に就任、1922年(大正11)に東北帝国大学附属金属材料研究所初代所長に就任、英国鉄鋼協会ベッセマー賞を受賞、帝国学士院会員となり、1924年(大正13)には、米国金属学会名誉会員ともなりました。1931年(昭和6)に東北帝国大学総長に就任、米国フランクリン協会エリオット・クレッソン・メダルを授与され、1933年(昭和8)にドイツ、ゲッティンゲン大学名誉理学博士となり、1934年(昭和9)には、KS磁石鋼より更に強力な新KS鋼を発明します。
 1937年(昭和12)に日本金属学会設立に尽力して初代会長となり、第1回文化勲章を受章、1940年(昭和15)に東北帝国大学総長を退任、名誉教授となり、興亜工業大学(現在の千葉工業大学)設立に参画、正三位となり、勲一等瑞宝章を受章しました。1944年(昭和19)に金属材料研究所長事務取扱として戦時研究を指導、1949年(昭和24)に東京理科大学初代学長に就任、仙台名誉市民となり、1951年(昭和26年)には。文化功労者に選ばれています。
 1953年(昭和28)に東京理科大学学長を辞めましたが、1954年(昭和29年)2月12日に、東京都において、83歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されました。尚、1956年(昭和31)に、その業績を記念する財団法人本多記念会が発足、金属に関する優れた研究に贈る本多記念賞が設けられています。

〇本多光太郎の主要な著作

・『物理学本論』
・『新制物理学本論』(上・下)

☆本多光太郎関係略年表

・1870年(明治3年2月23日) 三河国碧南郡新堀村(現在の岡崎市新堀町字大庭)において、農業を営む父・本多兵三郎の三男として生まれる
・1877年(明治10年) 桑子小学校に入学する
・1881年(明治14年) 桑子尋常小学校を卒業し、随念寺の高等小学校に進学しましたが、学校嫌いで成績も悪かった
・1885年(明治18年) 随念寺高等小学校を卒業する
・1887年(明治20年) 上京し、大学予備門に入学する
・1889年(明治22年) 第一高等中学校へ入学する
・1894年(明治27年) 東京帝国大学理科大学物理学科へ入学、地球物理学・磁気学等を専攻する
・1897年(明治30年) 東京帝国大学理科大学物理学科を卒業後、大学院へ進む
・1901年(明治34年) 東京帝国大学理科大学物理学科講師となる
・1906年(明治39年) 理学博士の学位を得る
・1907年(明治40年) ドイツ・イギリスに留学、物理学の研究に没頭する
・1911年(明治44年) 帰国後、東北帝国大学理科大学開設時に物理学科教授となる
・1915年(大正4年) 加熱しながら化学反応の測定ができる本多式熱天秤を開発する
・1916年(大正5年) 臨時理化学研究所第二部研究主任となり、高木弘と共にKS鋼を発明、鉄に関する研究で、帝国学士院賞を受賞する
・1917年(大正6年) 従五位となる
・1919年(大正8年) 東北帝国大学附属鉄鋼研究所初代所長に就任する
・1922年(大正11年) 東北帝国大学附属金属材料研究所初代所長に就任、英国鉄鋼協会ベッセマー賞を受賞、帝国学士院会員となる
・1924年(大正13年) 米国金属学会名誉会員となる
・1931年(昭和6年) 東北帝国大学総長に就任、米国フランクリン協会エリオット・クレッソン・メダルを得る
・1933年(昭和8年) ドイツ、ゲッティンゲン大学名誉理学博士となる
・1934年(昭和9年) KS磁石鋼より更に強力な新KS鋼を発明する
・1937年(昭和12年) 日本金属学会設立に尽力して初代会長となり、第1回文化勲章を受章する
・1940年(昭和15年) 東北帝国大学総長を退任、名誉教授となり、興亜工業大学(現在の千葉工業大学)設立に参画、正三位となり、勲一等瑞宝章を受章する
・1944年(昭和19年) 金属材料研究所長事務取扱として戦時研究を指導する
・1949年(昭和24年) 東京理科大学初代学長に就任、仙台名誉市民となる
・1951年(昭和26年) 文化功労者に選ばれる
・1953年(昭和28年) 東京理科大学学長を辞める
・1954年(昭和29年)2月12日 東京都において、83歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される
・1956年(昭和31年) 業績を記念する財団法人本多記念会が発足、金属に関する優れた研究に贈る本多記念賞が設けられる
・1961年(昭和36年) 岡崎市名誉市民となる
・1985年(昭和60年) 工業所有権制度100周年記念行事委員会により、日本の発明家10傑の1人に選ばれる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

729年(神亀6)長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(新暦3月16日)詳細
1231年(寛喜3)第87代の天皇とされる四条天皇の誕生日(新暦3月17日)詳細
1386年(至徳3/元中3)室町幕府第4代将軍足利義持の誕生日(新暦3月12日)詳細
1823年(文政6)写真業創始者・写真家・画家下岡蓮杖の誕生日(新暦3月24日)詳細
1889年(明治22)黒田清隆内閣総理大臣が鹿鳴館において、地方長官らに対し超然主義演説をする詳細
1996年(平成8)小説家司馬遼太郎の命日詳細
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yonezawafumiko01
 今日は、平成時代の2019年(平成31)に、物理学者米沢富美子が亡くなった日です。
 米沢富美子(よねざわ ふみこ)は、昭和時代前期の1938年(昭和13)10月19日に、大阪府吹田市において、奥家に生まれましたが、5歳の時に父親がニューギニアで戦死しました。母の影響で数学に目覚め、1948年(昭和23)の小学校5年生の時、知能テストでIQ175と判明、1950年(昭和25)の小学校卒業に際して、成績優秀につき、大阪府知事賞を受けています。
 中学時代は数学部に所属し、高校課程の数学の多くを修得、1957年(昭和32)に大阪府立茨木高等学校を卒業後、京都大学理学部物理学科へ進学しました。1961年(昭和36)に卒業後、同大学大学院理学研究科物理学専攻に進学し、松原武生の指導を受け、山一證券に勤務していた米沢允晴と結婚します。
 1963年(昭和38)に夫がロンドン単身赴任、それを追いかけて渡英し、京都大学博士課程1年在学のまま、キール大学大学院に留学、ロイ・マクウィーニ(Roy McWeeny)に師事しました。1964年(昭和39)に英国留学を終えて日本に帰国し、博士課程2年に復学、1966年(昭和41)に京都大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了し、理学博士となり、京都大学基礎物理学研究所助手となり、コヒーレントポテンシャル近似(CPA)に関する理論を発表します。
 1972年(昭和47)に夫のニューヨーク転勤に伴って渡米し、イェシヴァ大学客員研究員となり、1974年(昭和49)には、ニューヨーク市立大学大学院センター客員研究員となりました。1975年(昭和50)に日本に帰国し、翌年には、京都大学基礎物理学研究所助教授となり、手島工学研究賞を受賞しています。
 1981年(昭和56)に新設された慶應義塾大学理工学部に助教授として招聘され、1983年(昭和58)には教授に昇任しました。1984年(昭和59)に「非結晶物質基礎物性の理論的研究」で第4回猿橋賞を受賞しましたが、乳癌の宣告を受け、1996年(平成8)には夫・允晴が病死しています。
 同年に、女性として初の日本物理学会会長(~1997年)となり、エイボン女性大賞を受賞しました。1998年(平成10)に大佛次郎賞選考委員(~2000年)、2000年(平成12)には、日本学術会議第18期会員(~2003年)となります。
 2001年(平成13)に「複雑系・不規則系の基礎理論を確立、日本物理学会長を勤めるなど物理学研究に貢献」で第6回日本女性科学者の会・功労賞、2002年(平成14)には、福澤賞を受賞しました。2004年(平成16)に慶應義塾大学を定年退職し、名誉教授となり、2005年(平成17)には、ロレアル-ユネスコ女性科学賞、内閣総理大臣賞、大阪府知事賞、吹田市長賞を受賞します。
 2008年(平成20)に朝日賞選考委員(~2012年)となったものの、2018年(平成30)に脳梗塞で倒れ、一時は回復しましたが、2019年(平成31)1月17日に、東京都内の自宅において、心不全のため亡くなりました。尚、日本物理学会はその功績をたたえて、米沢富美子記念賞を設立しています。

〇米沢富美子の主要な著作

・『ブラウン運動』(1986年)
・『アモルファスな話』(1988年)
・『ランダムな構造に秩序をみる』(1990年)
・『人生は夢へのチャレンジ 女性科学者として』(1991年)
・『複雑さを科学する』(1995
・『科学する楽しさ 21世紀へのチャレンジ』(1996年)
・『科学の世界にあそぶ』オーム社 (1996年)
・『心が空を駆ける』(2000
・『真理への旅人たち 物理学の20世紀』(2003年)
・『人物で語る物理入門(上、下)』(2005~06年)
・『〈あいまいさ〉を科学する』(2007年)
・『猿橋勝子という生き方』(2009年)
・『まず歩きだそう 女性物理学者として生きる』(2009年)
・『朗朗介護』(2011年)
・『金属-非金属転移の物理』(2012年)
・『人生は、楽しんだ者が勝ちだ』(2014年)
・『不規則系の物理 コヒーレント・ポテンシャル近似とその周辺』(2015年)

☆米沢富美子関係略年表

・1938年(昭和13)10月19日 大阪府吹田市において、奥家に生まれる
・1943年(昭和18) 5歳の時に、元証券マンの父親がニューギニアで戦死する
・1948年(昭和23) 小学校5年生の時、知能テストでIQ175と判明する
・1950年(昭和25) 小学校卒業に際して、成績優秀につき、大阪府知事賞を受ける
・1957年(昭和32) 大阪府立茨木高等学校を卒業し、京都大学理学部物理学科へ進学する
・1961年(昭和36) 京都大学理学部物理学科卒業後、大学院理学研究科物理学専攻に進学し、松原武生の指導を受け、結婚する
・1963年(昭和38) 夫がロンドン単身赴任、それを追いかけて渡英し、京都大学博士課程1年在学のまま、キール大学大学院に留学、ロイ・マクウィーニ(Roy McWeeny)に師事する
・1964年(昭和39) 英国留学を終えて日本に帰国し、博士課程2年に復学する
・1966年(昭和41) 京都大学大学院理学研究科物理学専攻博士課程修了し、理学博士となり、京都大学基礎物理学研究所助手となり、コヒーレントポテンシャル近似(CPA)に関する理論を発表する
・1972年(昭和47) 夫のニューヨーク転勤に伴って渡米し、イェシヴァ大学客員研究員となる
・1974年(昭和49) ニューヨーク市立大学大学院センター客員研究員となる
・1975年(昭和50) 日本に帰国する
・1976年(昭和51) 京都大学基礎物理学研究所助教授となり、手島工学研究賞を受賞する
・1981年(昭和56) 新設された慶應義塾大学理工学部に助教授として招聘される
・1983年(昭和58) 慶應義塾大学理工学部教授となる
・1984年(昭和59) 「非結晶物質基礎物性の理論的研究」で第4回猿橋賞を受賞、乳癌の宣告を受ける
・1996年(平成8) 夫・允晴が病死、女性として初の日本物理学会会長(~1997年)となり、エイボン女性大賞を受賞する
・1998年(平成10) 大佛次郎賞選考委員(~2000年)となる
・2000年(平成12) 日本学術会議第18期会員(~2003年)となる
・2001年(平成13) 「複雑系・不規則系の基礎理論を確立、日本物理学会長を勤めるなど物理学研究に貢献」で第6回日本女性科学者の会・功労賞を受賞する
・2002年(平成14) 福澤賞を受賞する
・2004年(平成16) 慶應義塾大学を定年退職し、名誉教授となる
・2005年(平成17) ロレアル-ユネスコ女性科学賞、内閣総理大臣賞、大阪府知事賞、吹田市長賞を受賞する
・2008年(平成20) 朝日賞選考委員(~2012年)となる
・2018年(平成30) 脳梗塞で倒れるが、一時は回復する
・2019年(平成31)1月17日 東京都内の自宅において、心不全のため亡くなり、日本物理学会米沢富美子記念賞が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)民撰議院設立建白書が出される詳細
1885年(明治18)思想家・作家・ジャーナリスト・社会運動家大杉栄の誕生日詳細
1943年(昭和18)戦費捻出目的でたばこが大幅値上げ(金鵄10銭→15銭、ひかり18銭→30銭、朝日25銭→45銭)される詳細
1944年(昭和19)「緊急国民勤労動員方策要綱」が閣議決定される詳細
1995年(平成7)兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起き、死者・行方不明者 6,437人を出す詳細
2017年(平成29)発生生物学者・生物科学の権威岡田節人の命日詳細
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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、物理学者(流体力学)今井功の生まれた日です。
 今井功(いまい いさお)は、中国関東州大連において、生まれましたが、兵庫県神戸市で育ち、幼少時より学業に秀で、第一神戸中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学理学部物理学科に進みました。寺沢寛一教授に師事し、1936年(昭和11)に卒業後、大阪帝国大学理学部の友近晋研究室の助手となり、流体力学の研究に従事することになります。
 1938年(昭和13)に東京帝国大学に戻って、理学部講師となり、1942年(昭和17)には、助教授に昇任しました。1943年(昭和18)に、論文『一般ジュコフスキー (Joukowski) 翼型の周りの圧縮性流体の流れに就て(英文)』で、理学博士を取得、1950年(昭和25)には、教授(1975年3月まで)に昇任します。
 流体の流れる早さが音速に近い亜音速流、あるいは部分的に音速をこえる遷音速流について理論的に研究し、複素関数論などを駆使して世界的な成果を上げて、1951年(昭和26)に朝日文化賞、1959年(昭和34)には、日本学士院賞、恩賜賞を受賞し、日本物理学会会長(~1960年)となりました。1963年(昭和38)に再度、日本物理学会会長(~1964年)となり、1967年(昭和42)に『統計力学』、1970年(昭和45)に『流体力学』を岩波書店より刊行します。
 1975年(昭和50)に東京大学を定年退官し、東京大学名誉教授となり、大阪大学教授となりました。1978年(昭和53)に大阪大学教授を定年退官し、工学院大学教授となり、国際純粋応用物理学連合(IUPAP)副会長(~1984年)ともなります。
 1979年(昭和54)に文化功労者となり、1981年(昭和56)に『流体力学と複素解析』(日本評論社)、1982年(昭和57)には、『応用超関数論』(サイエンス社)を刊行しました。1984年(昭和59) 国際理論応用力学連合(IUTAM)理事(~1992年)となり、1987年(昭和62)には、工学院大学を退職して名誉教授、工学院大学顧問となります。
 1988年(昭和63)に文化勲章を受章、1990年(平成2)に『電磁気学を考える』を岩波書店より刊行、1992年(平成4)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1994年(平成6)には、日本学士院会員となったものの、2004年(平成16)10月24日に、東京において、90歳で亡くなっています。

〇今井功の主要な著作

・『統計力学』(1967年)
・『流体力学』(1970年)
・『等角写像とその応用』(1979年)
・『流体力学と複素解析』(1981年)
・『応用超関数論』(1982年)
・『電磁気学を考える』(1990年)
・『古典物理の数理』(2003年)
・『新感覚物理入門』(2003年)

☆今井功関係略年表

・1914年(大正3年)10月7日 中国関東州大連において、生まれる
・1933年(昭和8) 第一高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部物理学科に入学する
・1936年(昭和11) 東京帝国大学理学部物理学科卒業後、大阪帝国大学理学部助手となる
・1938年(昭和13) 東京帝国大学理学部講師となる
・1942年(昭和17) 東京帝国大学助教授(理学部勤務)となる
・1943年(昭和18) 論文『一般ジュコフスキー (Joukowski) 翼型の周りの圧縮性流体の流れに就て(英文)』で、理学博士を取得する
・1950年(昭和25) 東京大学教授(~1975年)となる
・1951年(昭和26) 朝日文化賞 (1950年度)を受賞する
・1959年(昭和34) 日本学士院賞、恩賜賞を受賞、日本物理学会会長(~1960年)となる
・1963年(昭和38) 再度、日本物理学会会長(~1964年)となる
・1967年(昭和42) 『統計力学』が岩波書店より刊行される
・1970年(昭和45) 『流体力学』が岩波書店より刊行される
・1975年(昭和50) 東京大学を定年退官し、東京大学名誉教授となり、大阪大学教授(~1978年)となる
・1978年(昭和53) 大阪大学教授を定年退官し、工学院大学教授(~1987年)となり、国際純粋応用物理学連合(IUPAP)副会長(~1984年)ともなる
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1981年(昭和56) 『流体力学と複素解析』が日本評論社より刊行される
・1982年(昭和57) 『応用超関数論』がサイエンス社より刊行される
・1984年(昭和59) 国際理論応用力学連合(IUTAM)理事(~1992年)となる
・1987年(昭和62) 工学院大学名誉教授、工学院大学顧問となる
・1988年(昭和63) 文化勲章を受章する
・1990年(平成2) 『電磁気学を考える』が岩波書店より刊行される
・1992年(平成4) 勲一等瑞宝章を受章する
・1994年(平成6) 日本学士院会員となる
・2004年(平成16)10月24日 東京において、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

715年(霊亀元)元正天皇が「陸田での麦・粟を奨励する詔」を出す(新暦11月7日)詳細
1859年(安政6)安政の大獄で、橋下佐内、頼三樹三郎、飯泉喜内が斬首される(新暦11月1日)詳細
1899年(明治32)箒川鉄橋列車転落事故が起き、死者19人、負傷者38人が出る詳細
1948年(昭和23)芦田均内閣が「昭和電工事件」によって、総辞職に追い込まれる詳細
1949年(昭和24)弁護士・政治家斎藤隆夫の命日詳細
1986年(昭和61)小説家石坂洋二郎の命日詳細
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