ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:版画家

takeitakeo01
 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、童画家・版画家・童話作家・造本作家武井武雄が亡くなった日です。
 武井武雄(たけい たけお)は、明治時代後期の1894年(明治27)6月25日に、長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)西堀の裕福な地主だった父・武井慶一郎、母・さちの子として生まれました。平野村小井川尋常小学校、長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1919年(大正8)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業します。
 1922年(大正11)に東京社が創刊した絵雑誌「コドモノクニ」創刊号のタイトル文字及び表紙絵を担当し、童画家として出発しました。1923年(大正12)に処女童話集『お伽の卵』を刊行、1924年(大正13)には、東京銀座資生堂にて初の個展「武井武雄童画展」を開き、「童画」という言葉を創造します。
 1926年(大正15)に郷土玩具の収集が一万点に及び北原白秋より”蛍の塔”と名づけられ、長篇童話『ラムラム王』を刊行、1927年(昭和2)には、岡本帰一、清水良雄、深沢省三、川上四郎、初山滋、村山知義と共に日本童画協会を結成、特集『花園の車』を刊行しました。1929年(昭和4)に自ら創案した新作の玩具・小手工芸品「イルフ・トイス」展を開催、1930年(昭和5)には、「日本郷土玩具・東西篇」を刊行しています。
 1935年(昭和10)に私刊本『十二支絵本』を創始し、芸術の分野に造本美術を新しく加えることを提唱、1938年(昭和13)には、エッチング(銅版、絵本の名作「地上の祭」)を発刊しました。1941年(昭和16)の4月から3年がかりで『武井武雄愛蔵こけし図譜・全60葉』を刊行開始、1945年(昭和20)には、空襲で池袋の家が全焼、作品および貴重な資料を失ない、岡谷に疎開、文化団体「双燈社」を起こし、芸術文化の運動を行います。
 1946年(昭和21)に日本童画会が結成され会員となり、文化団体「双燈社」を起こし、1948年(昭和23)に東京の荏原に単身仮寓、1949年(昭和24)には、東京都板橋区南常盤台に新居を構え、「一掬庵」と称しました。1959年(昭和34)に児童文化に貢献した功績により紫綬褒章を受章、1962年(昭和37)には、旧同志とともに戦争で解散されていた日本童画協会を復活、この時より毎年秋に白木屋(現東急)にて童画展を開催しています。
 1967年(昭和42)に勲四等旭日小綬章を受章、1968年(昭和43)には、ソ連文化団体の招請により「児童文化訪ソ団」を結成し、その団長としてソビエト各地を歴訪しました。1975年(昭和50)に童画の代表作をのせた本「武井武雄作品集」が東ドイツのライプチッヒにて「世界で最も美しい本」として1975年のグランプリに選ばれ、1979年(昭和54)には、紺綬褒章および賜杯を受けています。
 1982年(昭和57)に第四書票集、書票原画を中心として、市立岡谷美術考古館で「武井武雄作品展」を開催しましたが、1983年(昭和58)2月7日に、東京都板橋区の自宅において、心筋梗塞のため89歳で亡くなりました。

〇武井武雄の主要な著作

・童話集『お噺の卵』(1923年)
・童話『ペスト博士の夢』(1924年)
・童話『ラムラム王』(1926年)
・エッセイ『日本の郷土玩具』(1930年)
・童画・絵本論集『本とその周辺』(1960年)
・画文集『戦中年儘画帖』(1973年)
・画文集『戦後年儘画帖』(1973年)
・『武井武雄作品集』全三冊(1974年)

☆武井武雄関係略年表

・1894年(明治27)6月25日 長野県諏訪郡平野村(現在の岡谷市)西堀の裕福な地主だった父・武井慶一郎、母・さちの子として生まれる
・1908年(明治41) 平野村小井川尋常小学校 高等3年終了。
・1913年(大正2) 長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)を卒業する
・1919年(大正8) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業する
・1922年(大正11) 東京社が創刊した絵雑誌「コドモノクニ」創刊号のタイトル文字及び表紙絵を担当する
・1923年(大正12) 処女童話集『お伽の卵』を目白書房より刊行する
・1924年(大正13) 東京銀座資生堂にて初の個展「武井武雄童画展」を開き、「童画」という言葉を創造する
・1926年(大正15) 郷土玩具の収集が一万点に及び北原白秋より”蛍の塔”と名づけられる。長篇童話『ラムラム王』を叢文閣より刊行する
・1927年(昭和2) 岡本帰一、清水良雄、深沢省三、川上四郎、初山滋、村山知義と共に日本童画協会を結成、特集『花園の車』をフタバ書房より刊行する
・1929年(昭和4) 自ら創案した新作の玩具・小手工芸品「イルフ・トイス」展を開催する
・1930年(昭和5) 「日本郷土玩具・東西篇」を地平社より刊行する
・1935年(昭和10) 私刊本『十二支絵本』を創始し、芸術の分野に造本美術を新しく加えることを提唱する
・1938年(昭和13) 母、長男、次男を失う、エッチング(銅版、絵本の名作「地上の祭」)を発刊する
・1941年(昭和16) 4月から3年がかりで『武井武雄愛蔵こけし図譜・全60葉』を吾八より刊行開始する
・1945年(昭和20) 5月の空襲で池袋の家が全焼、作品および貴重な資料を失ない、岡谷に疎開、文化団体「双燈社」を起こし、芸術文化の運動を行う
・1946年(昭和21) 日本童画会が結成され、会員となる、文化団体「双燈社」を起こす
・1948年(昭和23) 東京の荏原に単身仮寓する
・1949年(昭和24) 東京都板橋区南常盤台に新居を構え、「一掬庵」と称する
・1959年(昭和34) 児童文化に貢献した功績により紫綬褒章を受章する
・1962年(昭和37) 旧同志とともに戦争で解散されていた日本童画協会を復活、この時より毎年秋に白木屋(現東急)にて童画展を開催する
・1967年(昭和42) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1968年(昭和43) ソ連文化団体の招請により「児童文化訪ソ団」を結成し、その団長としてソビエト各地を歴訪する
・1971年(昭和46) 市立岡谷美術考古館にて「武井武雄作品展」を開催する
・1975年(昭和50) 童画の代表作をのせた本「武井武雄作品集」が東ドイツのライプチッヒにて「世界で最も美しい本」として1975年のグランプリに選ばれる
・1979年(昭和54) 紺綬褒章および賜杯を受ける
・1982年(昭和57) 第四書票集、書票原画を中心として、市立岡谷美術考古館で「武井武雄作品展」を開く
・1983年(昭和58)2月7日 東京都板橋区の自宅において、心筋梗塞のため89歳で亡くなる
・1984年(昭和59) 市立岡谷美術考古館で特別展「武井武雄の世界」(展示作品700点)を開催する
・2015年(平成27) 岡谷市のデザインナンバープレートと家屋調査済証に武井の童画を使用する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1184年(治承8)一ノ谷の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に圧勝する(新暦3月20日)詳細
1681年(天和元)江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が、母・桂昌院の発頓で、江戸に護国寺創建を命じる(新暦3月26日)詳細
1692年(元禄4)孔子を祭る湯島聖堂が完成する(新暦3月17日)詳細
1731年(享保16)俳人・蕉門十哲の一人各務支考の命日(新暦3月14日)詳細
1873年(明治6)「敵討禁止令」(明治6年太政官布告第37号)が布告される詳細
1899年(明治32)「実業学校令」(明治32年勅令第29号)が公布(同年4月1日施行)される詳細
1998年(平成10)長野オリンピック(第18回冬季オリンピック・長野大会)が開幕する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kimurashyouhachi01
 今日は、明治時代後期の1893年(明治26)に、洋画家・随筆家・版画家木村荘八の生まれた日です。
 木村荘八(きむら しょうはち)は、東京市日本橋区吉川町(現在の東京都中央区)において、「第八いろは牛肉店」を経営する父・木村荘平の八男として生れました。1910年(明治43)に京華中学を卒業、1911年(明治44)に白馬会葵橋洋画研究所に入学し画家を目差し、翌年には、岸田劉生と交友、フューザン会を結成します。
 1913年(大正2)にフューザン会解散、この頃から美術書の翻訳、新美術の紹介などを盛んに行い、1914年(大正3)には、南品川宿、及び大崎に居住、岸田劉生、高村光太郎等と「生活社」をつくり展覧会を開催、翌年には、更に岸田劉生等と草土社を創立しました。1918年(大正7)には、第5回日本美術院展洋画部に「二本潅木」他3点出品し、第5回樗牛賞を受賞します。
 1922年(大正11)に春陽会結成に招かれ客員となり、草土社は第9回展を開いて解散しました。1923年(大正13)に春陽会々員となり、白井喬二著『富士に立つ影』の新聞挿絵を執筆、東京市復興局参与となります。
 1928年(昭和3)に代表作と名る油絵『パンの会』を発表、1936年(昭和11)からは春陽会の事務所を引き継ぎ、会の運営に携わりました。1937年(昭和12)には、東京朝日新聞に4月~6月まで連載の永井荷風著『墨東綺譚』に挿絵を描きます。
 1945年(昭和20)頃、加藤潤二の加藤版画研究所から新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表、1947年(昭和22)には、大仏次郎著の小説『霧笛』の挿絵を描きました。1955年(昭和30)には、「新橋演舞場上演の浜松風恋歌装置」で第7回毎日演劇賞美術賞を受賞します。
 しかし、1958年(昭和33)11月18日に、東京の東大病院において、転移性脳腫瘍及び肺臓癌によって、65歳で亡くなりました。尚、没後出版された『東京繁昌記』の文と絵に対し、翌年に日本芸術院恩賜賞が贈られています。

〇木村荘八の主要な作品

<絵画>
・『自画像』(1913年)東京国立近代美術館蔵
・『お七櫓にのぼる』(1923年)
・油絵『パンの会』(1928年) 
・『牛肉店帳場』(1932年)北野美術館蔵
・『新宿駅』(1935年)
・木版画『猫の銭湯』(1945年頃)

<挿絵>
・樋口一葉著『にごりえ』
・永井荷風著『 濹東綺譚』
・白井喬二著『富士に立つ影』
・大佛次郎著『霧笛』

<著書>
・随筆『後期印象派論』
・随筆『ロダンの芸術観』
・随筆『ミケランジェロ』
・随筆『明治挿絵変遷史』
・随筆『東京の風俗』
・随筆『風俗帳』
・随筆『続現代風俗帳』
・随筆『現代挿絵考』
・随筆『東京今昔帳』
・随筆『東京繁昌記』(1958年)日本芸術院恩賜賞受賞

☆木村荘八関係略年表

・1893年(明治26)8月21日 東京市日本橋区吉川町(現在の東京都中央区)において、「第八いろは牛肉店」を経営する父・木村荘平の八男として生れる
・1910年(明治43) 京華中学を卒業する
・1911年(明治44) 白馬会葵橋洋画研究所に入学し画家を目差す
・1912年(明治45) 岸田劉生と交友、フューザン会を結成する
・1913年(大正2) フューザン会解散、この頃から美術書の翻訳、新美術の紹介など盛んに行う。「ボティチェリ」「エル・グレコ」などの訳書を出版する
・1914年(大正3) 南品川宿、及び大崎に居住、岸田劉生、高村光太郎等と「生活社」をつくり展覧会をひらく
・1915年(大正4) 田中屋、三笠で個展を開催、現代の美術社主催洋画展に参加し、「桐谷展望」他11点出品、更に岸田劉生等と草土社を創立する
・1916年(大正5) 本郷に転居、草土社第2回展に「築地グラムマア・スクール附近」等47点出品、草土社第3回展に46点出品する
・1918年(大正7) 第5回二科会展「土と草」(夏)(秋)を出品、第5回日本美術院展洋画部に「二本潅木」他3点出品、第5回樗牛賞を受賞する
・1919年(大正8) 第6回日本美術院展洋画部に「朝の雲」「夕焼」等9点を出品、少年美術史「二一ル河の草」を出版する
・1920年(大正9) 中国に旅行、第7回院展に「老虎灘の支那家屋」他4点の中国風景を出品する
・1922年(大正11) 春陽会結成に招かれ客員となり、草土社は第9回展を開いて解散する
・1923年(大正12) 春陽会第1回展に「大学構内」「郊外風景」を出品する
・1924
年(大正13) 春陽会第2回展に「演劇図」外7点を出品、春陽会々員となり、「富士に立つ影」の新聞挿絵執筆、東京市復興局参与となる
・1926年(大正15) 春陽会第4回展に「たけくらべ絵巻」「お七」「桜丸切腹」を出品、聖徳太子奉讃展に「たけくらべ絵巻第2巻」を出品
・1927年(昭和2) 春陽会第5回展に「たけくらべ絵巻第3巻」「風景習作」、挿絵画稿類を出品する
・1928年(昭和3) 春陽会第5回展に「パンの会」を出品する
・1929年(昭和4) 春陽会第7回展に「室内婦女」を出品する
・1930年(昭和5) 春陽会第8回展に「歌妓支度」を出品する
・1931年(昭和6) 杉並区に転居、春陽会第9回展に「牛肉店帳場」(未完)、「夜楽」、挿絵原稿「ラグーザ玉」「祖国は何処へ」他を出品する
・1932年(昭和7) 春陽会第10回展に「牛肉店帳場」を出品する
・1933年(昭和8) 春陽会第11回展に「東京風景に因む挿絵」38点を出品する
・1934年(昭和9) 春陽会第12回展に「わたしのラバさん一駒」「小説霧笛の場面」8点その他挿絵2点を出品する
・1935年(昭和10) 春陽会第13回展に「新宿駅(東京風景第5)稿」、「同習作」を出品する
・1936年(昭和11) 春陽会第14回展に「新宿駅(東京風景第5)」「浅草寺春(東京風景6)」のほか「女人横躰」など9点を出品、春陽会の事務所を引き継ぎ、会の運営に携わる
・1937年(昭和12) 春陽会第15回展に「盛綱陣屋」「浅草元旦」「夜の宿」など5点を出品、東京朝日新聞に4月から6月迄連載の永井荷風「墨東綺譚」に挿絵をかく
・1938年(昭和13) 杉並区に新築成り、春陽会第16回展に「暫」「夜の宿」「墨東綺譚小説挿絵」などを出品する
・1943年(昭和18) 春陽会第21回展に「銀座なにわ橋」を出品する
・1945年(昭和20) この頃、加藤潤二の加藤版画研究所から新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表する
・1947年(昭和22) 春陽会第24回展に「庭木」「春雪」「日没」を出品、大仏次郎の小説「霧笛」の挿絵を描く
・1951年(昭和26) 春陽会第28回展に「窓外晴」など5点、他小説挿絵を出品する
・1952年(昭和27) 春陽会第29回展に「窓外風景」など6点を出品する
・1953年(昭和28) 春陽会第30回展に「樹の中の家」「三の酉」の外、「花の生涯挿絵」を出品する
・1954年(昭和29) 春陽会第31回展に「窓外風景」など3点の外「雨月物語、白峰」などを出品する
・1955年(昭和30) 春陽会第32回展に「窓外晴」など3点を出品、「新橋演舞場上演の浜松風恋歌装置」で第7回毎日演劇賞美術賞を受賞する
・1956年(昭和31) 春陽会第33回展に「窓外晴」「窓外日没」「酉の市」を出品する
・1957年(昭和32) 春陽会第34展に「どん底」など3点を出品する
・1958年(昭和33) 春陽会第35回展に「窓外風景」「和田本町日没」など。他に日本画「たけくらべ」など5点を出品する
・1958年(昭和33)11月18日 東京の東大病院において、転移性脳腫瘍及び肺臓癌によって亡くなる
・1959年(昭和34) 『東京繁昌記』の文と絵に対し、日本芸術院恩賜賞が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(宝亀元)皇太子の白壁王により、道鏡が造下野国薬師寺別当に左遷される(新暦9月14日)詳細
1264年(文永元)鎌倉幕府第6代執権北条長時の命日(新暦9月12日)詳細
1611年(慶長16)慶長会津地震が起き、若松城下などで寺社・家屋が倒壊し死者3,700余人を出す(新暦9月27日)詳細
1862年(文久2)生麦事件が起きる(新暦9月14日)詳細
1877年(明治10)東京の上野公園で第1回内国勧業博覧会が開会される詳細
1909年(明治42)数学者・教育家遠山啓の誕生日詳細

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

koitogentarou01
 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、洋画家・版画家小絲源太郞の生まれた日です。小絲源太郞(こいと げんたろう)は、東京市上野(現在の東京都台東区)において、祖々父の代から庶民的な料理屋を営む父・小糸源四郎、母・はなの長男として生まれましたが、本姓は小糸でした。
 1904年(明治37)に東京中学校を卒業し、両親とともに初めて白馬会展にゆき、藤島武二の「蝶」に感動、洋画家になることを決意します。1905年(明治38)に藤島武二の指導する本郷曙町の白馬会駒込研究所に入り素描を学び、海野美盛に塑像の手ほどきをうけ、翌年に東京美術学校西洋画科を受験しましたが、金工科入学となりました。
 在学中の1910年(明治43)の第4回文展に「魚河岸」が初入選し、これが黒田清輝に認められ、西洋画科へ転科をすすめられ、翌年に金工科を卒業し、改めて西洋画科に入学します。1914年(大正3)に糖尿病のため美術学校を休学し、そのまま中途退学し、1918年(大正7)には、病気療養のため画壇を離れることとなりました。
 1922年(大正11)に池之端の生家に戻り、自ら『小絲源太郎画集明治四十三年―大正十一年』を刊行します。1923年(大正12)の関東大震災のため上野池之端の家が焼失、1925年(大正14)に大田区田園調布にアトリエを新築して、画壇に復帰し、翌年には、第1回聖徳太子奉讃展に「秋林暮色」「薬草園」、第7回帝展に「遅日」を出品しました。
 1930年(昭和5)の第11回帝展で「暮春閑情」、翌年の第11回帝展で「暮春閑情」が、続けて特選となり、光風会会員となります。1933年(昭和8)に帝展の審査員、1942年(昭和17)には、文展審査員に就任しました。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に日展審査員に就任、美術団体連合展、日本国際美術展にも出品します。1954年(昭和29)に第2回日本国際美術展出品の「春雪」などで日本芸術院賞を受賞、1959年(昭和34)には、日本芸術院会員となりました。
 1960年(昭和35)に日展理事、1961年(昭和36)に日展常務理事となり、1965年(昭和40)には文化功労者となって、文化勲章も受章します。1969年(昭和44)に改組日展の顧問となり、1974年(昭和49)には、米寿を記念して編集された『小絲源太郎画集1911-1974』が刊行されました。
 1976年(昭和51)に「小絲源太郎展」(渋谷東急本店)が開かれ、初期から近作までの80余点を出品したものの、1978年(昭和53)2月6日に、老衰のため東京都大田区の自宅において、90歳で亡くなっています。

〇小絲源太郞の主要な作品

<絵画>
・「魚河岸」(1910年)第4回文展入選
・「暮春閑情」(1930年) 第11回帝展特選
・「獺祭 (だっさい) 図」(1931年)第12回帝展特選
・「惜春賦」(1932年)第13回帝展出品
・「嬋娟」(1937年)
・「春雪」(1954年)日本芸術院賞受賞
・「山粧ふ」(1956年)
・「田園調布」(1958年)
・「遠雷」(1961年)東京国立近代美術館蔵

<著作>
・随筆集『冬の虹』(1948年)
・随筆集『猿と話をする男』(1952年)
・随筆集『風神雷神』(1954年)

☆小絲源太郞関係略年表

・1887年(明治20)7月13日 東京市上野(現在の東京都台東区)において、祖々父の代から庶民的な料理屋を営む父・小糸源四郎、母・はなの長男として生まれる
・1892年(明治25) 本郷区湯島天神下の練雪小学校へ入学する
・1898年(明治31) 小学校高等科3年のとき、慶応義塾に転学したが寄宿生活を嫌って退学、湯島天神町の医者で漢学者鵜沢正躬の許に預けられ、神田の東京中学校に入学する
・1904年(明治37) 東京中学校卒業、両親とともに初めて白馬会展にゆき、藤島武二の「蝶」に感動、洋画家になることを決意する
・1905年(明治38) 藤島武二の指導する本郷曙町の白馬会駒込研究所に入り素描を学び、海野美盛に塑像の手ほどきをうける
・1906年(明治39) 東京美術学校西洋画科を受験したが金工科入学となり、一方で、白馬会菊坂研究所で素描を学ぶ
・1910年(明治43) 第13回白馬会展「静物」「海辺」「雪」「四条橋」、第4回文展に「魚河岸」が初入選し、これが黒田清輝に認められ、西洋画科へ転科をすすめられる
・1911年(明治44) 東京美術学校金工科を卒業、改めて西洋画科に入学、第5回文展に「屋根の都」を出品、東京美術学校買上げとなる
・1912年(明治45) 第1回光風会に「7月頃」を出品する
・1913年(大正2) 日本橋区本石町泰文社で小糸源太郎洋画小品展覧会を開き、国民美術協会第1回西部展覧会に「静物」「道頓堀」を出品する
・1914年(大正3) 糖尿病のため美術学校を休学し、そのまま中途退学し、第8回文展に「曇り日」(褒状)「雨」「温泉場の夏」を出品する
・1915年(大正4) 初めて長崎を見て感激、第9回文展に「雨のあと」(褒状)、「湯野村」を出品する
・1918年(大正7) 病気療養のため画壇を離れる(8年間)
・1922年(大正11) 池之端の生家に戻り、自ら『小絲源太郎画集明治四十三年―大正十一年』を刊行する
・1930年(昭和5) 第11回帝展で「暮春閑情」が特選となる
・1931年(昭和6) 第12回帝展で「獺祭図」が特選となり、光風会会員となる
・1933年(昭和8) 帝展の審査員に就任する
・1942年(昭和17) 文展審査員に就任する
・1946年(昭和21) 日展審査員に就任する
・1948年(昭和23) 随筆集『冬の虹』を朝日新聞社から出版する
・1952年(昭和27) 東京都大田区田園調布に転居し、随筆集『猿と話をする男』を筑摩書房から出版する
・1954年(昭和29) 第2回日本国際美術展出品の「春雪」などで日本芸術院賞を受賞、随筆集『風神雷神』を読売新聞社から出版する
・1959年(昭和34) 日本芸術院会員となる
・1960年(昭和35) 日展理事となり、朝日新聞主催「小絲源太郎画業五十年展」が銀座松屋で開かれる
・1961年(昭和36) 日展常務理事となる
・1965年(昭和40) 文化功労者となり、文化勲章を受章、第16回NHK紅白歌合戦で審査員の一人を務める
・1969年(昭和44) 改組日展の顧問となる
・1974年(昭和49) 米寿を記念して編集された『小絲源太郎画集1911-1974』が求龍堂から発行される
・1976年(昭和51) 「小絲源太郎展」(渋谷東急本店)が開かれ、初期から近作までの80余点を出品する
・1978年(昭和53)2月6日 老衰のため東京都大田区の自宅において、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1221年(承久3)承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流される(新暦8月2日)詳細
1596年(文禄5)慶長伏見地震が起き、伏見城天守が倒壊するなど死者1,000人以上を出す詳細
1882年(明治15)洋画家青木繁の誕生日詳細
1886年(明治19)東経135度の時刻を日本標準時と定める勅令を公布(日本標準時制定記念日)詳細
1948年(昭和23)優生手術、人工妊娠中絶等について定めた旧「優生保護法」が公布(施行は同年9月11日)される詳細
1967年(昭和42)歌人・書家・文学研究者吉野秀雄の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

saitoukiyoshi01

 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、国際的に活躍した版画家斎藤清の生まれた日です。
 斎藤清(さいとう きよし)は、福島県河沼郡会津坂下町に生まれましたが、1912年(明治45)に父の事業の失敗により北海道夕張市に転居しました。1921年(大正10)に夕張尋常小学校卒業後、小樽の薬局に奉公に出、その後、北海道ガス小樽支店の見習い職工、小樽、札幌の看板店で働いてから、看板店を自営します。
 1929年(昭和4)に小学校の図画教師であった成田玉泉にデッサンや油彩画を習い、1931年(昭和6)には、上京し、宣伝広告業のかたわら独学で油絵を学びました。1932年(昭和7)に第9回白日会展に油彩画『高円寺風景』が初入選、翌年の第1回東光会展にも入選、1935年(昭和10)には、第10回国画会展に油彩画『樹間雪景』が入選します。
 1936年(昭和11)に安井曽太郎に触発され、初めて木版画を制作して、第5回日本版画協会展に木版画『少女』出品、入選を果たし、翌年の第12回国画会展版画部門にも『郷の人』、『子供坐像』で入選し、版画に傾倒していきました。1944年(昭和19)に朝日新聞者に入社し、文字・カットなどを担当し、太平洋戦争後も日本版画協会、国画会版画部に参加します。
 1949年(昭和24)にサロン・ド・プランタン展に『ミルク』を出品して1等賞を受賞、1951年(昭和26)には、サンパウロ・ビエンナーレに『凝視 (花)』を出品、サンパウロ日本人賞を受賞し国際的に注目されました。1954年(昭和29)に朝日新聞社を退社して、版画制作に専念し、世界を巡り、海外の美術展で度々受賞、国際的な声価を得ます。
 日本の伝統表現に、西洋の近代造形を取り入れた詩情あふれる作品を得意とし、国内でも展覧会が何度も開催されました。1970年(昭和45)に、連作『会津の冬』最初の20点を発表。鎌倉市に転居しましたが、1987年(昭和62)には、故郷会津の柳津町に移ります。
 1995年(平成7)に文化功労者に選ばれ、1997年(平成9)には町立斎藤清美術館が開館しましたが、同年11月14日に90歳で亡くなりました。

〇斎藤清の主要な作品

・油彩画『高円寺風景』(1932年)第9回白日会展入選
・油彩画『樹間雪景』(1936年)第11回国画会展入選
・木版画『少女』(1936年)第5回日本版画協会展入選
・木版画『郷の人』(1937年)第12回国画会展版画部門入選
・木版画『子供坐像』(1937年)第12回国画会展版画部門入選
・油彩画『裸婦と少女』(1939年)第26回二科展入選
・木版画『ミルク』(1949年)サロン・ド・プランタン展1等賞受賞
・木版画『凝視 (花)』(1951年)サンパウロ・ビエンナーレでサンパウロ日本人賞受賞
・木版画『館』(1957年)第2回リュブリアナ国際版画ビエンナーレで受賞
・連作『会津の冬』(1970年)

☆斎藤清関係略年表

・1907年(明治40)4月27日 福島県河沼郡会津坂下町に生まれる
・1912年(明治45) 父の事業の失敗により北海道夕張市に転居する
・1921年(大正10) 14歳、夕張尋常小学校卒業後、小樽の薬局に奉公に出る
・1924年(大正13) 17歳、北海道ガス小樽支店の見習い職工となる
・1927年(昭和2) 20歳、小樽、札幌の看板店で働いた後、看板店を自営する
・1929年(昭和4) 22歳、小学校の図画教師であった成田玉泉にデッサンや油彩画を習う
・1930年(昭和5) 23歳、一時上京する
・1931年(昭和6) 24歳、再度上京し、宣伝広告業のかたわら独学で油絵を学ぶ
・1932年(昭和7) 25歳、第9回白日会展に油彩画『高円寺風景』を出品、初入選する
・1933年(昭和8) 26歳、第1回東光会展に油彩が入選する。
・1935年(昭和10) 28歳、第10回国画会展に油彩画『樹間雪景』を出品、初入選する
・1936年(昭和11) 29歳、安井曽太郎に触発され、初めて木版画を制作。第5回日本版画協会展に木版画『少女』出品、初入選する
・1937年(昭和12) 30歳、第12回国画会展版画部門に『郷の人』、『子供坐像』で初入選、離郷後初めて会津坂下町の叔母を訪ねる
・1939年(昭和14) 32歳、第26回二科展に油彩画『裸婦と少女』で初入選する、造型版画協会会員となる
・1940年(昭和15) 33歳、『会津の冬』の第1号を制作する
・1943年(昭和18) 36歳、一木会に入会する
・1944年(昭和19) 37歳、朝日新聞社に入社する、第13回日本版画協会展に『会津の冬 坂下』を出品して同会会員となる
・1946年(昭和21) 39歳、第14回日本版画協会展に「会津の冬(A)(B)(C)」「会津の冬(子供)」などを出品する
・1949年(昭和24) 42歳、国画会会員に推挙される。サロン・ド・プランタン展に『ミルク』を出品、1等賞を受賞する
・1951年(昭和26) 44歳、サンパウロ・ビエンナーレに『凝視 (花)』を出品、サンパウロ日本人賞受賞、東京・三越で「斎藤清創作版画展」を開催する
・1952年(昭和27) 45歳、アメリカ (ニューヨーク)での初の個展を開催する
・1954年(昭和29) 47歳、朝日新聞社を退社して、版画制作に専念することとする
・1955年(昭和30) 48歳、アメリカ・シアトル美術館で「斎藤清と彼の仲間たち展」開催する
・1956年(昭和31) 49歳、アメリカ、メキシコを訪問、各地の実技指導を実施して個展を開催、東京で「第1回棟方志功・斎藤清近作発表展」を開催する
・1957年(昭和32) 50歳、第2回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに『館』を出品し受賞、アジア・アフリカ諸国国際美術展に出品し受賞する
・1959年(昭和34) 52歳、訪仏し、パリに滞在してスケッチを重ねる
・1962年(昭和37) 55歳、「斎藤清版画展」のためニューヨークを訪問する
・1964年(昭和39) 57歳、ハワイ大学芸術祭に招待される。ホノルル美術館で版画展を開催する
・1965年(昭和40) 58歳、版画展のためオーストラリア訪問、帰途タヒチを取材する
・1967年(昭和42) 60歳、インド文化省主催による版画展のためインドを訪れる
・1969年(昭和44) 62歳、カナダ・グレータービクトリア美術館、アメリカ・サンディエゴ美術館で「斎藤清展」を開催する
・1970年(昭和45) 63歳、連作『会津の冬』最初の20点を発表。鎌倉市に転居する
・1976年(昭和51) 69歳、福島県より県外在住者知事表彰を受け、柳津町名誉町民となる
・1977年(昭和52) 70歳、「斎藤清展」のためチェコスロヴァキアを訪れる
・1981年(昭和56) 74歳、秋の叙勲で勲四等瑞宝章の栄誉を受ける
・1983年(昭和58) 76歳、「斎藤清展」を神奈川県立近代美術館で開催する
・1987年(昭和62) 80歳、鎌倉市から柳津町に転居する
・1989年(昭和64) 81歳、第38回河北文化賞を受賞する
・1993年(平成5) 86歳、夕張市栄誉賞を受ける
・1995年(平成7) 88歳、国の文化功労者に顕彰される。
・1997年(平成9) 90歳、やないづ町立斎藤清美術館が開館する
・1997年(平成9)11月14日 90歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1897年(明治30)帝国図書館官制が公布され、上野の東京図書館を帝国図書館とする詳細
2013年(平成25)推理作家・評論家佐野洋の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

itoushinsui01

 今日は、明治時代後期の1898年(明治31)に、日本画家・版画家伊東深水が生まれた日です。
 伊東深水(いとう しんすい)は、東京府東京市深川区(現在の東京都江東区)で、伊東半三郎の長男として生まれましたが、本名は一(はじめ)と言いました。1907年(明治40)に深川尋常小学校(現在の江東区立深川小学校)を3年で中退し、看板屋、職工となり、日本画家の中山秋湖に日本画を習います。
 1911年(明治44)、14歳の時に鏑木清方へ入門し、「深水」の号を与えられ、夜間学校で苦学しながらも精進しました。美人画を描き、『のどか』(1912年)が第12回巽画会展、『桟敷の女』(1914年)が再興第1回院展、『十六の女』(1915年)が第9回文展と初入選を果たします。
 1916年(大正5)に版元渡辺庄三郎の主唱する画家・彫師・摺師三者分業の「新版画」運動に参加、『対鏡』(1916年)、『近江八景』(1917年)、『新美人十二姿の内』(1922~23年)などの版画を製作しました。1922年(大正11)に平和記念東京博覧会で『指』が2等銀牌となり、1927年(昭和2)に大井町に深水画塾を設立、『羽子の音』(1927年)と『秋晴れ』(1929年)が帝展特選となり、帝展の審査員も務めます。
 1932年(昭和7)に人物画の再興を目指し「青々会」を設立、1935年(昭和10)には料亭「勝田」の女将であった勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)をもうけました。1943年(昭和18)に召集され海軍報道班員として南方諸島へ派遣、外地で4000枚ものスケッチをしましたが、1945年(昭和20)には空襲の激化により、長野県小諸市に疎開しています。
 太平洋戦争後は、1948年(昭和23)に第3回日展出品の『鏡』で第4回日本芸術院賞を受賞、翌年には鎌倉に転居しました。1950年(昭和25)に白鳥映雪、児玉希望、奥田元宋、佐藤太清等と日月社を結成、後進の育成にあたり、1958年(昭和33)には日本芸術院会員に推挙されています。
 美人画の巨匠として知られましたが、1972年(昭和47)5月8日に癌により、74歳で亡くなりました。

〇伊東深水の主要な作品

・『のどか』(1912年)第12回巽画会展入選
・『桟敷の女』(1914年)再興第1回院展入選
・『十六の女』(1915年)第9回文展入選
・版画『対鏡』(1916年)東京国立近代美術館蔵
・版画『近江(おうみ)八景』(1917年)
・版画『新美人十二姿の内』(1922~23年)
・『指』(1922年)平和記念東京博覧会2等銀牌受賞
・『湯気』(1924年)郷土会展出品
・『羽子の音』(1927年)第8回帝展特選
・『秋晴れ』(1929年)第10回帝展特選
・『浄晨(じょうしん)』(1930年)第11回帝展出品 目黒雅叙園蔵
・『麗日』(1934年)
・『銀河祭』(1946年)
・『対鏡』(1947年)第3回日展出品 第4回日本芸術院賞受賞
・『聞香(もんこう)』(1950年)第6回日展出品 東京国立近代美術館蔵
・『清方先生像』 (1951年)東京国立近代美術館所蔵

☆伊東深水関係略年表

・1898年(明治31)2月4日  東京府東京市深川区深川西森下町(現在の東京都江東区森下一丁目)で、伊東半三郎の長男として生まれる
・1905年(明治38) 深川尋常小学校(現在の江東区立深川小学校)に入学する
・1907年(明治40) 小学校3年で中退し、以後は看板屋に奉公し住み込みで働く
・1908年(明治41) 職工となり深川区深川東大工町(現在の江東区白河四丁目)の東京印刷株式会社の活字工になる。日本画家の中山秋湖に日本画を習う
・1911年(明治44) 14歳の時、鏑木清方へ入門、「深水」の号を与えられ、夜間学校で苦学しながら精進する
・1912年(明治45) 第12回巽画会展に『のどか』が初入選する
・1913年(大正2) 巽画会1等褒状を得る
・1914年(大正3) 再興第1回院展に『桟敷の女』が入選、東京印刷を退社する
・1915年(大正4) 第9回文展に『十六の女』が初入選する
・1916年(大正5) 渡辺版画店から第1作『対鏡』を発表、伝統的技法による新版画運動に参加、東京日日新聞などに挿絵を描く
・1919年(大正8) 好子と結婚する
・1920年(大正9) 長男が誕生する
・1921年(大正10) 次男が誕生する
・1922年(大正11) 平和記念東京博覧会で『指』が2等銀牌となる
・1927年(昭和2) 大井町に深水画塾を設立する
・1927年(昭和2) 『羽子の音』が第8回帝展特選となる
・1929年(昭和4) 『秋晴れ』が第10回帝展特選となる
・1932年(昭和7) 人物画の再興を目指し「青々会」を設立する
・1935年(昭和10) 料亭「勝田」の女将であった勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)をもうける
・1943年(昭和18) 召集され海軍報道班員として南方諸島へ派遣、外地で4000枚ものスケッチをする
・1945年(昭和20) 長野県小諸市に疎開する
・1948年(昭和23) 第3回日展出品の『鏡』で第4回日本芸術院賞受賞する
・1949年(昭和24) 鎌倉に転居する
・1950年(昭和25) 白鳥映雪、児玉希望、奥田元宋、佐藤太清等と日月社を結成、後進の育成にあたる
・1958年(昭和33) 日本芸術院会員に推挙される
・1972年(昭和47)5月8日 癌により、74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1181年(養和元)平安時代末期の武将・公卿平清盛の命日(新暦3月20日)詳細
1604年(慶長9)江戸幕府が街道に日本橋を起点とした一里塚の設置を命ずる(新暦3月4日)詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ