
9ヶ月の間に3回もの大事故を引き起こした原因としては、一番経済効率が高い無充填長壁式採炭法が取り入れられていて、その採炭方法に問題があったのではないかとされました。この北炭夕張炭鉱では、昭和時代になっても、何度も爆発事故を起こし、多くの犠牲者も出しています。
翌年、堀基(もとい)により、北海道炭礦鉄道会社が発足、夕張採炭所創設され、1890年(明治23)から夕張炭鉱の開発に着手、第一鉱を開坑(以後第二鉱、第三鉱、清水沢鉱も開坑)しました。2年後には採炭が開始され、追分駅~夕張駅間に鉄道も敷設されます。
1896年(明治29)に北海道炭礦鉄道株式会社に社名変更、1906年(明治39)の「鉄道国有法」公布に伴い、北海道の幹線鉄道約200kmを国に売却し、北海道炭礦汽船株式会社となりました。優良な鉄鋼コークス用原料炭を産出しましたが、1912年(明治45)4月29日に第二斜坑ほかの爆発事故(死者267人)を起こして以後、1920年(大正9)6月14日の北上坑(死者・行方不明者209人)、1938年(昭和13)10月6日の天龍坑(死者161人)など、何度も爆発事故を起こし、多くの犠牲者も出しています。
1960年代の最盛期には、年間100~150万tの出炭量を誇りましたが、採炭条件の悪化などにより、1971年(昭和46)に第二鉱閉山、1973年(昭和48)に第一鉱閉山に追い込まれました。しかし、1975年(昭和50)に、東部地区に開発された北炭夕張新炭鉱の営業出炭を開始して挽回しつつ、1977年(昭和52)北炭夕張新第二炭鉱が閉山します。ところが、1981年(昭和56)10月16日に、夕張新鉱でのガス突出事故で死者93人を出す惨事を招いて経営が悪化、同年12月に「会社更生法」を申請して事実上倒産、この夕張新鉱も翌年10月に閉山して従業員約 2,000人全員が解雇されるに至りました。
炭鉱の跡は、現在では「石炭博物館」という文化施設となり、見学することが可能となっています。石炭と炭鉱のテーマに分け、石炭の生成から開発、利用など技術や労働、生活を実物の資料、坑道、石炭層などから紹介し、採炭現場の動態展示など石炭産業関連としては世界でも有数の博物館となりました。
・1913年(大正2)1月13日 北炭夕張炭鉱(第一鉱)にて爆発事故で死者53人
・1913年1月13日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者53人]
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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