ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:爆発事故

hokutanyuubaritankoudai2syh
 今日は、大正時代の1912年(大正元)に、北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)で爆発事故が起こり、死者216人、負傷者13人を出した日です。
 この事故は、北海道炭礦汽船(北炭)が経営する北炭夕張炭鉱の第二斜坑北三番坑で起きた、ガス爆発事故で、死者216人、負傷者13人という大惨事でした。この炭鉱の北一番坑道で、で8ヶ月前の4月29日に大爆発を起こし、死者・行方不明者276人を出したばかりで、続けての大惨事となります。
 さらに、21日後の翌年1月13日にも、同じ第一鉱の本抗第一ポンプ座で大事故を引き起こし、死者53人を引き起こしました。その3回の大事故が同じ月曜日に起きたことから、“呪われし夕張炭鉱”とか“妖雲閉ざす夕張炭山”などと報道されています。
 9ヶ月の間に3回もの大事故を引き起こした原因としては、一番経済効率が高い無充填長壁式採炭法が取り入れられていて、その採炭方法に問題があったのではないかとされました。この北炭夕張炭鉱では、昭和時代になっても、何度も爆発事故を起こし、多くの犠牲者も出しています。

〇北炭夕張炭鉱(ほくたんゆうばりたんこう)とは?

 北海道夕張市北西部にあった北海道炭礦汽船(北炭)が経営する炭鉱でした。1874年(明治7)お雇い外国人のベンジャミン・スミス・ライマン(アメリカ人地質学者)が、夕張川上流に石炭層の存在を推定し、1888年(明治21)に坂市太郎がシホロカベツ川上流で石炭の大露頭を発見します。
 翌年、堀基(もとい)により、北海道炭礦鉄道会社が発足、夕張採炭所創設され、1890年(明治23)から夕張炭鉱の開発に着手、第一鉱を開坑(以後第二鉱、第三鉱、清水沢鉱も開坑)しました。2年後には採炭が開始され、追分駅~夕張駅間に鉄道も敷設されます。
 1896年(明治29)に北海道炭礦鉄道株式会社に社名変更、1906年(明治39)の「鉄道国有法」公布に伴い、北海道の幹線鉄道約200kmを国に売却し、北海道炭礦汽船株式会社となりました。優良な鉄鋼コークス用原料炭を産出しましたが、1912年(明治45)4月29日に第二斜坑ほかの爆発事故(死者267人)を起こして以後、1920年(大正9)6月14日の北上坑(死者・行方不明者209人)、1938年(昭和13)10月6日の天龍坑(死者161人)など、何度も爆発事故を起こし、多くの犠牲者も出しています。
 1960年代の最盛期には、年間100~150万tの出炭量を誇りましたが、採炭条件の悪化などにより、1971年(昭和46)に第二鉱閉山、1973年(昭和48)に第一鉱閉山に追い込まれました。しかし、1975年(昭和50)に、東部地区に開発された北炭夕張新炭鉱の営業出炭を開始して挽回しつつ、1977年(昭和52)北炭夕張新第二炭鉱が閉山します。ところが、1981年(昭和56)10月16日に、夕張新鉱でのガス突出事故で死者93人を出す惨事を招いて経営が悪化、同年12月に「会社更生法」を申請して事実上倒産、この夕張新鉱も翌年10月に閉山して従業員約 2,000人全員が解雇されるに至りました。
 炭鉱の跡は、現在では「石炭博物館」という文化施設となり、見学することが可能となっています。石炭と炭鉱のテーマに分け、石炭の生成から開発、利用など技術や労働、生活を実物の資料、坑道、石炭層などから紹介し、採炭現場の動態展示など石炭産業関連としては世界でも有数の博物館となりました。 

☆北炭夕張炭鉱の主要な爆発事故

・1912年(明治45)4月29日 北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて爆発事故で死者267人
・1912年(大正元)12月23日 北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて爆発事故で死者216人
・1913年(大正2)1月13日 北炭夕張炭鉱(第一鉱)にて爆発事故で死者53人
・1920年(大正9)6月14日 北炭夕張炭鉱(北上坑)にて爆発事故で死者209人
・1938年(昭和13)10月6日 北炭夕張炭鉱(天竜坑)にて爆発事故で死者161人
・1960年(昭和35)2月1日 北炭夕張炭鉱(第二鉱)にて爆発で死者42人
・1965年(昭和40) 北炭夕張炭鉱(第二鉱)にて爆発で死者62人
・1981年(昭和56)10月16日 夕張新鉱でのガス突出・爆発事故で死者93人

☆日本の主な炭鉱事故

・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者243人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者276人]
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年1月13日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者53人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者101人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1916年 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者376人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天龍坑(北海道)爆発事故[死者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者61人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1613年(慶長18)徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布される(新暦1614年2月1日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1942年(昭和17)大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が結成される詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
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kaijimatankou01

 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、貝島炭鉱大之浦坑(福岡県)で爆発事故が起こり、死者・行方不明者259人を出した日です。
 貝島炭鉱大之浦坑爆発事故(かいじまたんこうおおのうらこうばくはつじこ)は、貝島炭鉱大之浦坑桐野第二坑で、午前9時50分に、ドーンという異様な音とともに坑口から白煙が吹きだしたことに始まりました。当時は、ふだんより多い290人が入坑していましたが、34人は生きて、救援隊によって坑外へ助け出されたものの、3人は間もなくガス中毒により死亡、4人は知覚精神を喪失し回復の見込みがない状態となります。
 残り256人は坑内で即死し、救出後死亡した3人を加えると、死者は計259人に上るという大惨事となりました。爆発個所は、坑道約1,080mの内、坑口から約990mの地点とされましたが、爆発原因は不明とされています。
 桐野二坑は、もともと発火ガスが多かったのですが、坑道主要部をレンガアーチにし、通気その他の設備も整えていたとのことで、炭塵の浮遊が関係していたのではとも言われてきました。
 その後、貝島大之浦炭鉱では、1917年(大正6)12月21日に、再び桐野第二坑で爆発事故を起こし、死者・行方不明者369人を出し、1939年(昭和14)1月21日にも、東三坑でガス炭塵爆発事故が起き、死者92人を出しています。

〇貝島炭砿とは?

 福岡県において、筑豊御三家の一人で炭鉱王と呼ばれた貝島太助氏が開いた炭鉱です。1884年(明治17)から貝島太助氏が福岡県で大之浦炭礦の経営を始め、翌年鞍手郡上大隈村字代ノ浦で大之浦竪坑(旧一坑)の開鑿に着手しました。
 その後、次々と鉱区を拡大、1894年(明治27)の日清戦争による好況で更に事業を拡大し、1896年(明治29)頃には、安川氏を追い抜いて、貝島氏が筑豊第一の地元炭鉱企業家の地位を固め、1898年(明治31)には、貝島鉱業合名会社(後の貝島炭礦)を設立します。1903年(明治36)に筑豊における出炭量は、三菱に次いで弟2位となり、全国でも第4位を占めるようになりました。
 1908年(明治41)頃には、炭坑を大きく四つの鉱山(菅牟田鉱山、桐野鉱山、満之捕鉱山、大辻鉱山)とその他に統一し、翌年には、株式会社に組織変更して石炭事業に専念します。しかし、1909年(明治42)11月24日に大之浦坑桐野第二坑で爆発事故が起き、死者・行方不明者259人を出し、1917年(大正6)12月21日にも、再び大之浦坑桐野第二坑で爆発事故が起き、死者・行方不明者369人(日本の炭鉱事故史上ワースト3)を出しました。
 1924年(大正13)に菅牟田、桐野、満之浦の三鉱山を一括して大之浦炭鉱と称するようになり、1931年(昭和6)には、貝島商業株式会社、大辻岩屋炭礦株式会社を吸収合併し、貝島炭礦株式会社(資本金3,000万円)に商号変更します。1939年(昭和14)1月21日に大之浦炭鉱東三坑でガス炭塵爆発事故が起き、死者92人を出しましたが、太平洋戦争後、1948年(昭和23)に大辻炭礦と岩屋炭礦を高倉鉱業株式会社に譲渡、翌年には、二坑、三坑、東三坑、五坑、西五坑、六坑、七坑、八坑、毛勝坑の9坑となりました。
 1953年(昭和28)に中央竪坑が完成し、三坑、東三坑を合併し、新菅牟田坑が発足、1961年(昭和36)には、最盛期となり、関係従業員1万2,000人以上を数えるまでに至ります。しかし、石炭から石油へとエネルギー革命により合理化を迫られるようになり、1963年(昭和38)に第五次合理化(二坑、五坑の第二会社移行、竪坑の黒字体制の確率、露天掘安定収益確保、人員整理)が提案され、翌年には合理化の結果、従業員は約2,600人となりました。
 そして、1967年(昭和42)に第二会社であった菅牟田炭砿(旧五坑)、満之浦炭鉱(旧六坑)が閉山、1971年(昭和46)には、第二大之浦炭砿(旧二坑)の閉山に至ります。1973年(昭和48)に新菅牟田の竪坑も終結し、筑豊炭田における坑内掘は姿を消し、1976年(昭和51)8月には、露天掘りも中止し、91年間続いた石炭採掘に終止符を打ち、貝島炭礦は会社更生法適用を申請しました。

〇貝島炭砿関係略年表

・1884年(明治17)4月 貝島太助が福岡県宮田村で大之浦炭礦の経営を始める
・1885年(明治18) 貝島太助41才の時、福岡県鞍手郡上大隈村字代ノ浦で大之浦竪坑(旧一坑)の開鑿に着手する
・1896年(明治29)頃 安川氏を追い抜いて、貝島氏が筑豊第一の地元炭鉱企業家の地位を固める
・1898年(明治31)5月 貝島鉱業合名会社を設立する
・1903年(明治36) 筑豊における出炭量は、最大級の三菱に次いで弟2位、全国では三井、北炭、三菱に次いで第4位を占める
・1907年(明治40)頃 宮田村大字磯光字本田、梅ノ木、野入、榎木、宮田村大字宮田字杉板、上大隈、笠松村大字四郎丸字満ノ浦、笠松村大字長井鶴字前田、遠賀郡香月村大字香月、佐賀県厳木村字本山に炭坑を広める 
・1908年(明治41)頃 炭坑を大きく四つの鉱山(菅牟田鉱山、桐野鉱山、満之捕鉱山、大辻鉱山)とその他に統一する
・1909年(明治42)11月24日 大之浦坑桐野第二坑で爆発事故が起き、死者・行方不明者259人を出す
・1909年(明治42)12月 貝島鉱業株式会社(資本金250万円)を設立する
・1917年(大正6)12月21日 再び大之浦坑桐野第二坑で爆発事故が起き、死者・行方不明者369人を出す
・1919年(大正8)11月 貝島商業株式会社(資本金1,000万円)を設立する
・1921年(大正10)2月 大辻岩屋炭礦株式会社(資本金1,000万円)を設立する
・1924年(大正13) 菅牟田、桐野、満之浦の三鉱山を一括して大之浦炭鉱と称する
・1931年(昭和6)8月 貝島商業株式会社、大辻岩屋炭礦株式会社を吸収合併し、貝島炭礦株式会社(資本金3,000万円)に商号変更する
・1937年(昭和12) 北支(河北省せいけい県崗頭村)のせいけい炭鉱の管理という事で海外にも進出する
・1939年(昭和14)1月21日 大之浦炭鉱東三坑でガス炭塵爆発事故が起き、死者92人を出す
・1948年(昭和23)8月 大辻炭礦と岩屋炭礦を高倉鉱業株式会社に譲渡する
・1949年(昭和24) 二坑、三坑、東三坑、五坑、西五坑、六坑、七坑、八坑、毛勝坑の9坑となる
・1950年(昭和25)5月 東部大之浦開発工事の中央竪坑開坑鍬入式が行われる
・1953年(昭和28)12月 中央竪坑が完成し、三坑、東三坑を合併し、新菅牟田坑が発足する
・1961年(昭和36) 最盛期となり、関係従業員1万2,000人以上を数える
・1963年(昭和38) 第五次合理化(二坑,五坑の第二会社移行、竪坑の黒字体制の確率、露天掘安定収益確保、人員整理)が提案される
・1963年(昭和38)4月 満之浦炭礦株式会社を設立する
・1963年(昭和38)10月 第二大之浦炭礦株式会社、菅牟田炭礦株式会社を設立する
・1964年(昭和39) 合理化の結果、従業員は約2,600人となる
・1966年(昭和41)11月 大之浦炭礦株式会社を設立する 
・1967年(昭和42)1月 第二会社であった菅牟田炭砿(旧五坑)が閉山する
・1967年(昭和42)4月 満之浦炭鉱(旧六坑)が閉山する
・1971年(昭和46) 第二大之浦炭砿(旧二坑)が閉山する
・1973年(昭和48)11月 新菅牟田の竪坑も終結し、筑豊炭田における坑内掘は姿を消す
・1976年(昭和51)8月 露天掘りも中止し、91年間続いた石炭採掘に終止符を打つ

☆日本の主な炭鉱事故一覧

<明治時代>
・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者259人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者276人]

<大正時代>
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者101人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1915年4月12日 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者369人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]

<昭和時代>
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天竜坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年9月20日 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年3月9日 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年3月16日 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年2月22日 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者61人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1842年(天保13)佐久間象山が藩主真田幸貫に対して、「海防に關する藩主宛上書」を行なう(新暦12月25日)詳細
1873年(明治6)日本画家河合玉堂の誕生日詳細
1919年(大正8)平塚らいてうにより新婦人協会の設立が発表される詳細
1945年(昭和20)GHQが「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」を出す詳細


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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、北海道の北炭夕張炭鉱(天竜坑)で爆発事故が起こり、死者161人、負傷者21人を出した日です。
 この事故は、北海道炭礦汽船(北炭)が経営する天竜坑の第二・六尺ロングで起きたもので、発破(ダイナマイトの爆発による掘削)により炭じん爆発が誘発され、ロング切羽(採掘場)だけでなくロング周辺の坑道から幹線坑道にまで及ぶ大災害となりました。被害は、死者161人、負傷者21人にも及び、これによって天竜坑は閉鎖されます。
 事故原因は、第二鉱で採用されていた運搬方式が、上下二つの切羽からの出炭を一本の坑道で運ぶもので、岩盤下の坑道に循環機を設置し、ロープによって運搬機を運転する方法だったのですが、保安上の通気対策や炭じん防止対策を無視していたため、爆発事故を引き起こしたとされ、以後この方式は中止されています。
 尚、その後は模擬坑道として鉱員養成の場として残され、さらに後に一般市民も見学可能な施設となりました。市民や小学生の社会科見学にも使用され、1980年(昭和55)に「夕張石炭の歴史村」計画の一環で博物館が開館、この時に模擬坑道も整備され、公開されています。
 しかし、2006年(平成18)6月20日に夕張市長が「財政再建団体」申請を行ったことなどにより、運営していた夕張市の第3セクター「石炭の歴史村観光」が自己破産して、閉館しました。2018年(平成30)4月28日に2年に渡る改修工事を終え、リニューアルオープンしたものの、翌年4月18日に模擬坑道で火災が発生し、現在は再び閉鎖されています。

〇北炭夕張炭鉱とは?

 北海道夕張市北西部にあった北海道炭礦汽船(北炭)が経営する炭鉱でした。1874年(明治7)お雇い外国人のベンジャミン・スミス・ライマン(アメリカ人地質学者)が、夕張川上流に石炭層の存在を推定し、1888年(明治21)に坂市太郎がシホロカベツ川上流で石炭の大露頭を発見します。翌年、堀基(もとい)により、北海道炭礦鉄道会社が発足、夕張採炭所創設され、1890年(明治23)から夕張炭鉱の開発に着手、第一鉱を開坑(以後第二鉱、第三鉱、清水沢鉱も開坑)しました。
 2年後には採炭が開始され、追分駅~夕張駅間に鉄道も敷設されます。1896年(明治29)に北海道炭礦鉄道株式会社に社名変更、1906年(明治39)の「鉄道国有法」公布に伴い、北海道の幹線鉄道約200kmを国に売却し、北海道炭礦汽船株式会社となりました。優良な鉄鋼コークス用原料炭を産出しましたが、1912年(明治45)4月に爆発事故(死者267人)を起こして以後、何度も爆発事故を起こし、多くの犠牲者も出しています。
 1960年代の最盛期には、年間100~150万tの出炭量を誇りましたが、採炭条件の悪化などにより、1971年(昭和46)に第二鉱閉山、1973年(昭和48)に第一鉱閉山に追い込まれました。しかし、1975年(昭和50)に、東部地区に開発された北炭夕張新炭鉱の営業出炭を開始して挽回しつつ、1977年(昭和52)北炭夕張新第二炭鉱が閉山します。
 ところが、1981年(昭和56)10月16日に、夕張新鉱でのガス突出事故で死者93人を出す惨事を招いて経営が悪化、同年12月に「会社更生法」を申請して事実上倒産、この夕張新鉱も翌年10月に閉山して従業員約 2,000人全員が解雇されるに至りました。

☆北炭夕張炭鉱の主要な爆発事故

・1912年(明治45)4月29日 北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて爆発事故で死者267人
・1912年(大正元)12月23日 北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて爆発事故で死者216人
・1920年(大正9)6月14日 北炭夕張炭鉱(北上坑)にて爆発事故で死者209人
・1938年(昭和13)10月6日 北炭夕張炭鉱(天竜坑)にて爆発事故で死者161人
・1960年(昭和35)2月1日 北炭夕張炭鉱(第二鉱)にて爆発で死者42人
・1965年(昭和40)2月22日 北炭夕張炭鉱(第二鉱)にて爆発で死者62人
・1981年(昭和56)10月16日 夕張新鉱でのガス突出・爆発事故で死者93人

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1937年(昭和12)日独伊防共協定」が調印される詳細
1945年(昭和20)「GHQが「持株会社の解体に関する覚書」により、四大財閥の解体を指令する詳細
1975年(昭和50)俳人・随筆家・小説家・編集者石川桂郎の命日(桂郎忌)詳細
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