ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:無着成恭

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 今日は、令和時代の2023年(令和5)に、教育者・禅宗の僧侶無着成恭が亡くなった日です。
 無着成恭(むちゃく せいきょう)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)3月31日に、山形県南村山郡本沢村(現在の山形市本沢)の沢泉寺の長男として生まれました。山形県立山形中学校(現在の山形県立山形東高等学校)を経て、1948年(昭和23)には、 山形師範学校(現在の山形大学地域教育文化学部)を卒業し、山形県南村山郡山元村立山元中学校(僻地1級校)に国語教師として赴任します。
 須藤克三からの助言を得て、「生活綴方運動」に取り組み、1950年(昭和25)には、クラス文集『きかんしゃ』所収の「母の死とその後」(江口江一作)が日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞しました。1951年(昭和26)にクラス文集を『山びこ学校:山形県山元村中学校生徒の生活記録』として刊行し、ベストセラーとなり、翌年には、今井正監督によって映画化されたものの、地元の恥を世間にさらしたとして、村から追放されます。
 1953年(昭和28)に上京して、駒澤大学仏教学部に編入し、1955年(昭和30)には、第1回斎藤茂吉文化賞を受賞しました。卒業後、1956年(昭和31)に東京にある私立明星学園教諭に就任し、その後、教頭に昇格、教育科学研究会・国語部会のメンバーとして、科学的・体系的な言語教育に没頭します。
 一方で、1964年(昭和39)からTBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者として出演を開始し、28年間務めました。1970年(昭和45)に『続・山びこ学校』を刊行、1979年(昭和54)には、第3回正力松太郎賞を受賞しています。
 1983年(昭和58)に私立明星学園を退職し、1987年(昭和62)には、千葉県の一鍬山福泉寺の住職に就任、人間道場と名づけて独自の民間教育を行いました。2001年(平成13)には、カンボジア・シハヌーク国王から「国家再建勲一等功労賞」を授与されています。
 2003年(平成15)に大分県国東市の泉福寺に転任し、2004年(平成16)には、山形県上山市立山元小中学校に「山びこ学校」石碑が建立されました。2011年(平成23)に妻が寝たきりとなり介護が必要となったため、大分県別府市鉄輪温泉の高齢者向けマンションに移ります。
 2023年(令和5)7月21日に、千葉県香取郡多古町の病院において、敗血症性ショックのため、96歳で亡くなりました。

<主要な著作>

・編著『山びこ学校』(1951年)
・『教育ノート』(1959年)
・『ぼくの青年時代』(1960年)
・『第2教育ノート』(1963年)
・編著『続・山びこ学校』(1970年)
・『無着成恭の詩の授業』(1982年)
・『無着成恭の昭和教育論』(1989年)

〇『山びこ学校』(やまびこがっこう)とは?

 山形県南村山郡山元村(現在の上山市)の中学校教師だった、無着成恭(むちゃくせいきょう)が、教え子の中学生たちの詩・作文・日記などをまとめた生活記録文集で、1951年(昭和26)3月5日に青銅社から刊行されています。正式名称は、『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』で、山元中学校の学級文集『きかんしゃ』の作品を中心に編まれたもので、学級全員43名の散文、詩、日記、版画などが収められていました。
 日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した江口江一の作文「母の死とその後」などが収録されていて、農山村の生活に密着した学習を展開するなかで生まれたもので、戦後の「生活綴り方運動」復活の契機となったとされてきました。この本は刊行直後の2年間で、18刷を重ね12万部を売り上げ、教育界のみならず、文学、芸術、思想にわたる社会的関心を呼び起こします。
 1952年(昭和27)には、監督:今井正、脚本:八木保太郎で映画化され、舞台でも取り上げられ、翻訳もされています。

☆無着成恭関係略年表

・1927年(昭和2)3月31日 山形県南村山郡本沢村(現在の山形市本沢)沢泉寺の長男として生まれる
・1948年(昭和23)  山形師範学校(現在の山形大学地域教育文化学部)卒業し、山形県南村山郡山元村立山元中学校(僻地1級校)に赴任する
・1950年(昭和25) クラス文集『きかんしゃ』所収の「母の死とその後」(江口江一作)が日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞する
・1951年(昭和26) クラス文集を『山びこ学校:山形県山元村中学校生徒の生活記録』として刊行し、ベストセラーとなる
・1952年(昭和27) 『山びこ学校』が今井正監督によって映画化されるが、地元の恥を世間にさらしたとして、村から追放される
・1953年(昭和28) 上京して、駒澤大学仏教学部に編入する
・1955年(昭和30) 第1回斎藤茂吉文化賞を受賞する
・1956年(昭和31) 私立明星学園教諭に就任する
・1964年(昭和39) TBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者として出演を開始(28年間務める)する
・1970年(昭和45) 『続・山びこ学校』を刊行する
・1979年(昭和54) 第3回正力松太郎賞を受賞する
・1983年(昭和58) 私立明星学園を退職する
・1987年(昭和62) 千葉県の一鍬山福泉寺の住職に就任する
・2001年(平成13) カンボジア・シハヌーク国王から「国家再建勲一等功労賞」を授与される
・2003年(平成15) 大分県国東市の泉福寺に転任する
・2004年(平成16) 山形県上山市立山元小中学校に「山びこ学校」石碑が建立される
・2006年(平成18) 山元小学校閉校式が行われる
・2009年(平成21) 山元中学校閉校式が行われる
・2011年(平成23) 妻が寝たきりとなり介護が必要となったため、大分県別府市鉄輪温泉の高齢者向けマンションに移る
・2023年(令和5)7月21日 千葉県香取郡多古町の病院において、敗血症性ショックのため、96歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)「開拓使官有物払下げ事件」のきっかけとなった官有施設・設備払い下げを決定詳細
1896年(明治29)北京において「日清通商航海条約」が締結される詳細
1940年(昭和15)日本労働総同盟が自主解散を決議し、産業報国会への合流を決める詳細
1941年(昭和16)文部省教学局から『臣民の道』が刊行される詳細
1952年(昭和27)「破壊活動防止法」(昭和27年法律第240号)が、公布・施行される詳細
1999年(平成11)文芸評論家江藤淳の命日詳細
2000年(平成12)写真家渡辺義雄の命日詳細
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yamabikogattkou01
 今日は、昭和時代中期の1951年(昭和26)に、無着成恭編『山びこ学校』が刊行された日です。
 『山びこ学校』(やまびこがっこう)は、山形県南村山郡山元村(現在の上山市)の中学校教師だった、無着成恭(むちゃくせいきょう)が、教え子の中学生たちの詩・作文・日記などをまとめた生活記録文集で、1951年(昭和26)3月5日に青銅社から刊行されました。正式名称は、『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』で、山元中学校の学級文集『きかんしゃ』の作品を中心に編まれたもので、学級全員43名の散文、詩、日記、版画などが収められています。
 日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した江口江一の作文「母の死とその後」などが収録されていて、農山村の生活に密着した学習を展開するなかで生まれたもので、戦後の「生活綴り方運動」復活の契機となったとされています。この本は刊行直後の2年間で、18刷を重ね12万部を売り上げ、教育界のみならず、文学、芸術、思想にわたる社会的関心を呼び起こしました。
 1952年(昭和27)には、監督:今井正、脚本:八木保太郎で映画化され、舞台でも取り上げられ、翻訳もされました。

〇生活綴方運動(せいかつつづりかたうんどう)とは?

 大正時代~昭和時代前期にかけて成立し、弾圧されながらも太平洋戦争中も活動を継続、さらに戦後にも復活した、作文(綴方)によって教育全体の改革をはかろうとする民間教育運動です。大正時代初期 芦田恵之助らが「綴方科」における自由選題主義(子供たちに自由な題材で文を綴らせる考え方)提唱し実践、1918年(大正7)に、鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊し、「ありのまま綴方」の文章表現指導運動が推進され、自然主義文学やプロレタリア文学なども関わって、前駆となりました。
 その中で、1929年(昭和4)10月に、小砂丘忠義(1897―1937年)らによって雑誌『綴方生活』が創刊され、翌年10月号に「『綴方生活』第二次同人宣言」を発表し、「生活教育」を目的とし、「綴方」を内容、方法と位置づける考え方が示されます。1934年(昭和9)に、東北地方の青年教師らによって北日本国語教育連盟が結成され、「北方性教育運動」が開始され、1935年(昭和10)には、百田宗治らが『工程』を創刊するなどして広がりました。
 しかし、1940年(昭和15)に国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断され、さらに、1940~42年(昭和15~17)に、いわゆる「生活綴方事件」が起き、検挙者は約300人に及び衰退します。太平洋戦争後は復活して、1950年(昭和25)に、「日本綴方の会」が誕生、翌年に国分一太郎著『新しい生活綴方』や 無着成恭編『山びこ学校』が刊行されて注目されます。その後、「日本綴方の会」は「日本作文の会」と改称し、現在まで続いてきました。

☆生活綴方運動関係略年表

・大正時代初期 芦田恵之助らが「綴方科」における自由選題主義(子供たちに自由な題材で文を綴らせる考え方)提唱し実践する
・1918年(大正7) 鈴木三重吉が児童雑誌『赤い鳥』を創刊し、「ありのまま綴方」の文章表現指導運動が推進される
・1929年(昭和4)10月 小砂丘忠義(1897―1937)らによって雑誌『綴方生活』が創刊される
・1930年(昭和5) 雑誌『綴方生活』10月号に「『綴方生活』第二次同人宣言」を発表し、「生活教育」を目的とし、「綴方」を内容、方法と位置づける考え方を示す
・1934年(昭和9) 東北地方の青年教師らによって北日本国語教育連盟が結成され、「北方性教育運動」が開始される
・1935年(昭和10) 百田宗治らが『工程』を創刊する
・1937年(昭和12)8月3日 大木顕一郎の指導・編集・解説で、『綴方教室』(中央公論社)が刊行される
・1938年(昭和13) 『綴方教室』が山本嘉次郎監督で東宝より映画化される
・1939年(昭和14) 大木顕一郎の指導・編集・解説で、豊田正子著『続綴方教室』(中央公論社)が刊行される
・1940年(昭和15) 国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断される
・1941年(昭和16) 豊田正子著『粘土のお面』(中央公論社)が刊行される
・1940~42年(昭和15~17) いわゆる「生活綴方事件」が起き、検挙者は約300人に及ぶ
・1950年(昭和25)7月1日 「日本綴方の会」が誕生する
・1951年(昭和26)2月28日 国分一太郎著『新しい生活綴方』が刊行される
・1951年(昭和26)3月5日 無着成恭編『山びこ学校』が刊行される
・1951年(昭和26) 「日本綴方の会」が「日本作文の会」と改称する
・1957年(昭和32) 国分一太郎著『生活綴方読本』が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

765年(天平神護元)称徳天皇が「墾田永年私財法」の停止(加墾禁止令)を勅する(新暦3月30日)詳細
1870年(明治3)日本3番目の洋式灯台である品川灯台が初点灯する(新暦4月5日)詳細
1897年(明治30)法学者・中国現代史研究者・平和運動家平野義太郎の誕生日詳細
1926年(大正15)「労働農民党」(委員長:杉山元治郎)が結成される詳細
1929年(昭和4)社会運動家・政治家・生物学者山本宣治の命日詳細
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