ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:瀬戸内海

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 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、瀬戸内海をまたいで、本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が開通した日です。
 瀬戸大橋(せとおおはし)は、瀬戸内海をまたいで本州(岡山県倉敷市)と四国(香川県坂出市)を結ぶ10の橋の総称で、下津井瀬戸大橋(吊り橋:1,447m)、櫃石島高架橋(高架橋:1,316m)、櫃石島橋(斜張橋:792m)、岩黒島高架橋(高架橋:93m)、岩黒島橋(斜張橋:792m)、与島橋(トラス橋:877m)与島高架橋(高架橋:717m)、北備讃瀬戸大橋(吊り橋:1,611m)、南備讃瀬戸大橋(吊り橋:1,723m)、番の州高架橋(高架橋:2,939m)からなっています。その中で最長の南備讃瀬戸大橋は、当時日本最長の吊り橋で、1998年(平成10)に、明石海峡大橋が開通するまでその座にありました。
 1970年(昭和45)7月1日に、本州四国連絡橋公団が設立され、調査と設計を経て、1978年(昭和53)に着工、総事業費1兆1,338億円と9年6ヶ月の工期をかけて、1988年(昭和63)4月10日に供用開始されています。2階建て構造で、上部が4車線の瀬戸中央自動車道用、下部がJR本四備讃線が走る鉄道用ですが、さらに新幹線が敷設できるようになっていて、橋梁部は9,368m、高架部を含めると13.1kmの延長がありました。
 尚、香川県坂出市番の州緑町に「瀬戸大橋記念館」、岡山県倉敷市児島に「倉敷市瀬戸大橋架橋記念館」があって、瀬戸大橋に関するいろいろな展示がされています。 

〇「吊り橋」とは?

 空間に張り渡したケーブルに沿って橋床をつるした橋のことで、ケーブルを空中高く支持するための塔、ケーブルを地盤に定着させるためのアンカー、つりケーブルでつり下げた補剛桁などから構成されます。古くから、原始的な形態のものが存在したと考えられますが、現在でも山間部に見られ、徳島県祖谷の蔓橋などが残されていました。近代の吊橋では、床の部分をプレートガーダーまたはトラスを組み合わせて剛性を高める構造が用いられています。世界の代表的な吊り橋としては、1937年に完成したサンフランシスコのゴールデン・ゲート橋(中央径間1,280m)が著名です。
 日本においても、太平洋戦争後に計画されるようになり、その長大吊り橋の嚆矢としては、1961年に完成した徳島県の小鳴門橋(中央径間160m)と1962年(昭和37)に完成した北九州市の若戸大橋(中央径間367m)があげられます。
 その後、1973年(昭和48)に関門橋(中央径間712m)、1983年(昭和58)に因島大橋(中央径間770m)、1985年(昭和60)に大鳴門橋(中央径間876m)、1988年(昭和63)に南備讃瀬戸大橋(中央径間1,100m)、1998年(平成10)に明石海峡大橋(中央径間1,991m)と次々に建設されていきました。

☆日本の長大吊り橋ベスト15(中央径間の長さで比較しています)

1. 明石海峡大橋(兵庫県神戸市垂水区・淡路市)中央径間1,991m…1998年開通
2. 南備讃瀬戸大橋(香川県坂出市)中央径間1,100m…1988年開通
3. 来島海峡第三大橋(愛媛県今治市)中央径間1,030m…1999年開通
4. 来島海峡第二大橋(愛媛県今治市)中央径間1,020m…1999年開通
5. 北備讃瀬戸大橋(香川県坂出市)中央径間990m…1988年開通
6. 下津井瀬戸大橋(岡山県倉敷市・香川県坂出市)中央径間940m…1988年開通
7. 大鳴門橋(徳島県鳴門市・兵庫県南あわじ市)中央径間876m…1985年開通
8. 因島大橋(広島県尾道市)中央径間770m…1983年開通
9. 安芸灘大橋(広島県呉市)中央径間750m…2000年開通
10. 白鳥大橋(北海道室蘭市)中央径間720m…1998年開通
11. 関門橋(福岡県北九州市門司区・山口県下関市)中央径間712m…1973年開通
12. 来島海峡第一大橋(愛媛県今治市)中央径間600m…1999年開通
13. 東京港連絡橋<レインボーブリッジ>(東京都)中央径間570m…1993年開通
14. 大島大橋(広島県尾道市・愛媛県今治市)中央径間560m…1988年開通
15. 豊島大橋(広島県呉市)中央径間540m…2008年開通

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)板垣退助らが高知で、日本初の政治結社「立志社」を結成する詳細
1886年(明治19)「師範学校令」が公布される詳細
「小学校令」が公布される詳細
「中学校令」が公布される詳細
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 今日は、昭和時代中期の1957年(昭和32)に、芸備商船の定期客船「第5北川丸」が瀬戸内海の暗礁で座礁・沈没し、死者・行方不明113名を出した日(第五北川丸沈没事故)です。
 第五北川丸沈没事故(だいごきたがわまるちんぼつじこ)は、4月12日12時40分に芸備商船の旅客船「第五北川丸」が瀬戸内海の三原瀬戸の寅丸礁付近で座礁して沈没した事件でした。瀬戸内海の瀬戸田~尾道航路を定期運航していた芸備商船「第五北川丸」(総トン数39t、旅客定員77名、船員7名、合計定員84名、大正13年6月進水の木造旅客船)が、瀬戸田港から尾道港へ向かって、定員の3倍近い235名を乗せて航行中、佐木島西方にある寅丸礁で座礁・転覆し、すぐに沈没します。
 付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たりましたが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名(乗客112名、乗員1名)、負傷者49名(全員乗客)を出す大惨事となりました。行楽シーズンにおける、観光船の海難事故として社会に大きな反響を呼び、戦後の大規模な海難事故の一つとされています。
 海難審判の結果、高等海難審判庁で1959年(昭和34)3月26日に裁決が言い渡され、「本件沈没は、船長の運航に関する職務上の過失に因って発生したものであるが、本船の運航管理が適当でなかったこともその一因である。」とされました。尚、三原市の佐木島の高台で、現場海域を見渡せる所に慰霊碑が建てられ、事故日には慰霊祭が行われています。
 以下に、この事故の第二審にあたる高等海難審判庁の1959年(昭和34)3月26日裁決を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇「機船第五北川丸沈没事件海難審判裁決」 高等海難審判庁の1959年(昭和34)3月26日裁決

(船舶の要目)
船種船名 機船第五北川丸
総トン数 39トン
最大搭載人員 旅客77人、 船員7人 計84人

 (関係人の明細)
受審人 船長
指定海難関係人 船舶所有者

 (損 害)
第五北川丸 船体沈没後引揚、 船客112名及び甲板員見習1名死亡、 船客49名負傷

主文
 本件沈没は、船長の運航に関する職務上の過失に因って発生したものであるが、本船の運航管理が適当でなかったこともその一因である。

理由
 第五北川丸は、大正13年6月進水の木造旅客船で、昭和31年3月指定海難関係人の所有となり、根拠地を広島県豊田郡豊浜村大浜に置き、大浜・尾道間の定期旅客輸送に従事していたが、翌32年3月観光季節に入り、西日光と通称される瀬戸田町の耕三寺観光の旅客の多いときには、尾道・瀬戸田間1往復の旅客輸送にあたることもあった。
 こうして本船は、同32年4月12日09時35分ごろ、大浜から尾道駅前桟橋に到着したところ、尾道支社の指示により、同10時尾道発瀬戸田行きの便をとることになり、本船の乗組員は通常5名であったが、1人が所要で上陸したため、4名で瀬戸田に向け出港することとなった。
 船長は、本船で瀬戸田航路の旅客輸送に従事するのは、今回が6回目であったが、旅客定員厳守の重要性を深く認識せず、本船の最大搭載人員が旅客77人、船員7人であるのを知りながら、200名程度を載せても危険はないものと考え、乗船客のおさまり具合をみて、乗船させており、当日も定員をはるかに超える約230名の旅客を載せ、10時尾道を発し、11時瀬戸田に入港して旅客を降ろした後、12時20分の便に就航するため待機した。
 当日の同便には、旅客が相当多いとみて発船時刻の約10分前から改札をはじめたが、およそ200名程度と見当をつけていたところ、客室に入りきれない者が上甲板上の通路に立ち並び、ほとんど立すいの余地がない有様で、乗船実員合計235名(小人12名を含む)に達していた。
 かくして、本船は、同日12時22分瀬戸田を発し、尾道に向かい、船長は、途中見習甲板員に操舵をゆずり、自らはその背後に腰掛けて運航の指揮にあたるうち、機関長が昇橋して瀬戸田桟橋で受けとった乗船切符の整理をはじめたので、これを手伝っていたところ、同時34分少し過ぎ、和霊石鼻45メートル頂を右舷正横北89度東450メートルばかりに並航したとき、強い逆潮流を避けるため、佐木島に接航して布袋岩鼻・寅丸礁間を通航するつもりで、徐々に右舵をとらせ、同鼻を正船首よりわずかに右舷に望む北27度東の針路とし、この針路で続航するよう命じ、布袋岩鼻の沖合には岩があると教えた後、引き続いて切符の整理にあたった。
 当時寅丸礁の頂部は水面下約0.4メートルのところまで潜没しており、見習甲板員は、岩があると聞いたものの、それが現実にどの辺にあるのか、どのように見えるのか知る由もなく、船長も気づかぬ間に、本船は、寅丸礁に向首する針路で進行していた。
 同時40分少し前切符の整理が終った船長は、どのあたりかと前方を見ると、予定針路と違っており、至近距離に茶かっ色の水面を認め、自ら舵輪をとって左舵一杯をとり、船体は、右舷に傾斜しながら左舷に回頭しはじめたが、同時40分、20度ばかり回転したとき、軽い衝激を感じ、船尾船底を寅丸礁の西斜面に乗り揚げて擦過した。
 その直後、船体は、急激に右舷傾斜の度を増し、多量の海水を一挙にすくい上げて、船尾から沈没しはじめ、機関室に浸水して船体後部が水面下に没し、船首を北方に向けて沈没した。
 船客は、予期しない海水の急襲を受け、上甲板にいたものは、海中に投げ出され、あるいは、遊歩甲板によじ登ってから水面に浮び、客室内のものは、出入口や窓から必死の脱出をはかったが、沈没が早かったのと多客で混雑したため、脱出できずに船体とともに海中深く沈んだものも相当数に上り、沈没後直ちに、付近にいた漁船、土運船など数隻が救助にあたったにもかかわらず、船客112名と見習甲板員が死亡し、船客49名が負傷した。
 本件沈没は、第五北川丸は、船体構造上乾舷及び初期復原力が比較的少ない船であったが、法定の最大搭載人員の範囲内であれば、通常の航海に安全を保ち得るものであったところ、最大搭載人員の約3倍もの多数の人員を載せて、復原力が著しく減少し、たとい、残存するわずかの復原力と舷しょうによる一時的復原性範囲の増大とで、直ちに転覆することはなかったにせよ、極めて危険な状態となり、このような状態で急転舵したため、旋回に伴う船体傾斜により、ようやく復原力が失われようとするとき、底触による反動や潮流の影響も加わり、急激に傾斜の度を増して浸水沈没したものであって、船長が、本船船長として、旅客定員厳守の重要性を認識せず、船舶安全法の定むる最大搭載人員を著しく超えた旅客を載せて発航し、且つ、暗岩の存在する水域を通航するにあたり、乗船切符を数えなおすことに専念し、前路の看視をなおざりにしたため、暗岩に著しく接近するまでこれに気づかず、急転舵も及ばず、底触擦過するにいたった同人の運航に関する職務上の過失に因って発生したものである。船舶所有者代表取締役社長は、尾道支社に常駐し、また、尾道・瀬戸田航路同盟の理事として、本航路の定期旅客船につき、船舶の旅客定員と密接な関係をもつ配船、乗船券の発売、改札などに関する運営を支配していたのであるが、旅客定員が船舶運航の安全に重要な関係をもつことについて認識を欠き、所属船舶が法定の旅客定員を厳守していない実情にあるのを知りながら、これを容認し、且つ、乗船券の発売や改札などで乗船客の員数を制限する方法がとられず、改札を経た旅客が無制限に船に赴くという、船長1人では定員厳守の維持が困難な情勢のままで、乗船客の処理を船長に一任していたものであって、このような運航管理が適当でなかったことは、定員の約3倍もの旅客を乗船させる結果となり、遂に本件沈没を発生せしめるにいたった一因をなすものである。

☆太平洋戦争後(1946年以降)日本近海での主な海難事故(死者・行方不明100名以上)

・1948年(昭和23)1月28日 - 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)
・1954年(昭和29)9月26日 - 青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で洞爺丸台風の暴風により転覆・沈没し乗員乗客1,155名が死亡する(洞爺丸事故)
・1955年(昭和30)5月11日 - 宇高連絡船「紫雲丸」と「第3宇高丸」が濃霧の中で衝突し「紫雲丸」が沈没して死者166名、負傷者122名を出す(紫雲丸事故)
・1957年(昭和32)4月12日 - 瀬戸内海の定期客船「第5北川丸」が暗礁で座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)
・1958年(昭和33)1月26日 - 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)
・1963年(昭和38)8月17日 - 那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出す(みどり丸沈没事故)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1573年(元亀4)戦国大名武田信玄の命日(新暦5月13日)詳細
1967年(昭和42)歌人・国文学者窪田空穂の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、関西汽船の「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出した日です。
 女王丸沈没事故(じょおうまるちんぼつじこ)は、瀬戸内海の阪神~多度津航路を運行していた関西汽船「女王丸」(401総トン、長さ48.9m、速力10ノット、乗客定員366名、明治37年4月に進水した鋼船)が、大阪から多度津(香川県)に向かって、乗客269名と乗組員35名の計304名を乗せて航行中、この日の午前3時頃に、岡山県牛窓沖合で機雷に触れて爆発を生じ、僅か20~30分で沈没して引き起こされました。懸命の救助活動にもかかわらず、死者・行方不明188名を出す大惨事となり、戦後の大規模な海難事故の一つとされています。
 機雷は、水中に設置され、物理的刺激や磁気などに反応して爆発する水中兵器で、太平洋戦争末期にアメリカ軍が、日本近海の船舶交通を封鎖するために、爆撃機B29等により大量に投下(1万発以上)したものでした。1945年(昭和20)に「ポツダム宣言」受諾による敗戦後、同年9月2日に降伏文書署名に至り、日本を占領した連合国軍は、その日の内に連合軍最高司令官指令(SCAPIN)の第1号を発令、その中で日本政府は、「すべての機雷と機雷原および航行の障害物を除去すること」をはじめ,船舶航行の安全確保にかかわるさまざまな義務を負うことになります。
 機雷除去作業は、東京湾、呉、佐世保、長崎、神戸などの重要港から順次進められたものの、まだ瀬戸内海航路には危険が潜んでいる状況で、前年7月には「第二日航丸」(500トン)が、続いて9月には「馬山丸」(8700トン)、が触雷していました。そんな状況下で起きた、戦後の悲惨な事故の一つとされています。
 尚、沈没現場を見下ろす高台に本蓮寺があり、この事故の際に遺体が安置された場所で、現在境内には事故で犠牲になった方々の為の慰霊碑が立ち、事故日には法要も営まれて来ました。

〇太平洋戦争後(1946年以降)日本近海での主な海難事故(死者・行方不明100名以上)

・1948年(昭和23)1月28日 - 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)
・1954年(昭和29)9月26日 - 青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で洞爺丸台風の暴風により転覆・沈没し乗員乗客1,155名が死亡する(洞爺丸事故)
・1955年(昭和30)5月11日 - 宇高連絡船「紫雲丸」と「第3宇高丸」が濃霧の中で衝突し「紫雲丸」が沈没して死者166名、負傷者122名を出す(紫雲丸事故)
・1957年(昭和32)4月12日 - 瀬戸内海の定期客船「第5北川丸」が暗礁で座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)
・1958年(昭和33)1月26日 - 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)
・1963年(昭和38)8月17日 - 那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出す(みどり丸沈没事故)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

712年(和銅5)太安万侶が編纂した『古事記』が完成し、元明天皇に献上される(新暦3月9日)詳細
1582年(天正10)天正遣欧使節がローマに向かって長崎港を出港する(新暦2月20日)詳細


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