ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:漫画家

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 今日は、平成時代の2006年(平成18)に、漫画家・放送タレント加藤芳郎の亡くなった日です。
 加藤芳郎(かとう よしろう)は、大正時代の1925年(大正14)6月25日 東京府豊多摩郡代々幡町(のちの東京都渋谷区)において、公務員の家庭に生まれ、幼い頃から絵を描くのが好きでした。10歳の頃に父親が定年を迎え、嘱託契約に切り替わって以降は、生活が苦しくなり、病院の給仕として昼間に働きながら、旧制東京府立第六中学校夜間部に通学するようになります。
 1939年(昭和14)に雑誌『アサヒグラフ』の投稿欄に漫画が掲載され、賞金を受け取ったのを契機として、投稿を重ね「週刊少国民」「オール讀物」「モダン日本」などで入選を重ね、1941年(昭和16)には、近藤日出造編集の月刊誌「漫画」に投稿し1等となりました。中学卒業後、川端画学校で学び、1943年(昭和18)には、東京都防衛局に就職し、夜は画学校に通います。
 しかし、1944年(昭和19)に召集されて、中国へ従軍し、1945年(昭和20)に復員、東京都公園緑地課に勤務の傍ら漫画を描き続けました。1948年(昭和23)に東京都職員を退職し、フリーの漫画家生活に入り、1951年(昭和26)に『あほだら兄弟』を講談社『キング』に描き、1954年(昭和29)には、「サンデー毎日」にホームレスの生活を描く『オンボロ人生』(~1960年)、「毎日新聞」夕刊に、四コマ漫画『まっぴら君』(~2001年)の連載を開始します。
 1957年(昭和32)に『芳郎傑作漫画集』で、第3回文藝春秋漫画賞を受賞、1968年(昭和43)から、NHKテレビ『連想ゲーム』の白組・男性軍のキャプテン(~1969年、1970~1991年)となりました。1975年(昭和50)から日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」の司会(~1984年)を担当し、1981年(昭和56)には、日本漫画家協会の理事長となります。
 1986年(昭和61)に紫綬褒章を受章、1988年(昭和63)に第36回菊池寛賞、1989年(平成元)にNHK放送文化賞を受賞し、1992年(平成4)には、日本漫画家協会の会長(~1996年)となりました。1996年(平成8)に勲四等旭日小綬章を受章、1999年(平成11)に四コマ漫画「まっぴら君」で、第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞、2000年(平成12)には、東京都文化賞を受賞します。
 2001年(平成13)には、「毎日新聞」夕刊四コマ漫画『まっぴら君』の連載を病気で終了し、2006年(平成18)1月6日に、東京都新宿区の病院において、呼吸不全のため80歳で亡くなりました。

〇加藤芳郎の主要な著作

<漫画集>
・『あほだら漫画集』(1955年)
・現代漫画 第1期4巻『加藤芳郎集』(1969年)

<エッセイ> 
・『雷おやじの本』(1982年)
・『加藤芳郎のまっぴらごめん』(1984年)

☆加藤芳郎関係略年表

・1925年(大正14)6月25日 東京府豊多摩郡代々幡町(のちの東京都渋谷区)において、公務員の家庭に生まれる
・1939年(昭和14) 雑誌『アサヒグラフ』の投稿欄に漫画が掲載され、賞金を受け取る
・1941年(昭和16) 近藤日出造編集の月刊誌『漫画』に投稿し1等となる
・1943年(昭和18) 東京都防衛局に就職し、夜は川端画学校に通う
・1944年(昭和19) 召集されて、中国へ従軍する
・1945年(昭和20) 中国から復員、東京都公園緑地課に勤務の傍ら漫画を描きつづける
・1948年(昭和23) 東京都職員を退職し、フリーの漫画家生活に入る
・1951年(昭和26) 『あほだら兄弟』を講談社『キング』に描く
・1954年(昭和29) 「サンデー毎日」にホームレスの生活を描く『オンボロ人生』、「毎日新聞」夕刊に、四コマ漫画『まっぴら君』の連載を開始する
・1957年(昭和32) 『芳郎傑作漫画集』で、第3回文藝春秋漫画賞を受賞する
・1960年(昭和35) 「サンデー毎日」にホームレスの生活を描く『オンボロ人生』の連載が終わる
・1968年(昭和43) NHKテレビ『連想ゲーム』の白組・男性軍のキャプテン(~1969年)となる
・1970年(昭和45) 再び、NHKテレビ『連想ゲーム』の白組・男性軍のキャプテン(~1991年)となる
・1975年(昭和50) 「テレビ三面記事 ウィークエンダー」(日本テレビ)の司会を担当する
・1981年(昭和56) 日本漫画家協会の理事長となる
・1984年(昭和59) 「テレビ三面記事 ウィークエンダー」(日本テレビ)の司会が終わる
・1986年(昭和61) 紫綬褒章を受章する
・1988年(昭和63) 第36回菊池寛賞を受賞する
・1989年(平成元) NHK放送文化賞を受賞する
・1992年(平成4) 日本漫画家協会の会長(~1996年)となる
・1996年(平成8) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1999年(平成11) 四コマ漫画「まっぴら君」で、第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞する
・2000年(平成12) 東京都文化賞を受賞する
・2001年(平成13) 「毎日新聞」夕刊四コマ漫画『まっぴら君』の連載を病気で終了する
・2006年(平成18)1月6日 東京都新宿区の病院において、呼吸不全のため80歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

757年(天平宝字元)皇族・公卿・歌人橘諸兄の命日(新暦1月30日)詳細
1215年(建保3)鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日)詳細
1822年(文政5)洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の命日(新暦2月27日)詳細
1831年(天保2)禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日)詳細
1902年(明治35)生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の誕生日詳細
1977年(昭和52)国鉄が「一枚のキップから」キャンペーンを開始する詳細
2010年(平成22)鋳金作家蓮田修吾郎の命日詳細
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 今日は、昭和時代後期の1979年(昭和54)に、漫画家近藤日出造の亡くなった日です。
 近藤日出造(こんどう ひでぞう)は、明治時代後期の1908年(明治41)2月15日に、長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)において、洋品小間物商を営む父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれましたが、本名は秀蔵と書きました。1921年(大正10)に、稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業したものの、半年後に退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就職します。
 1922年(大正11)に仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事、この間に、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受けました。1928年(昭和3)に再度上京、紹介者を得て岡本一平の門下生となり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表します。
 1929年(昭和4)に、九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書き、近藤日出造のペンネームを使用するようになり、1932年(昭和7)に岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成、翌年には、読売新聞社に嘱託として入社、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行しました。1936年(昭和11)に「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、ストーリー漫画「ミスパン子」が収録され、1938年(昭和13)には、満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなります。
 1940年(昭和15)に「新日本漫画家協会」を設立、「漫画」の編集にたずさわり、翌年に「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたり、1943年(昭和18)には、海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、翌年には、月刊誌「漫画」の責任編集者として復帰、表紙画を描きます。
 1947年(昭和22)に、読売新聞社に復職、1948年(昭和23)には、戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位を固めました。1955年(昭和30)に第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となり、1956年(昭和31)には、日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼びます。
 1964年(昭和39)に日本漫画家協会初代理事長に就任、1965年(昭和40)には、東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設しました。1974年(昭和49)に紫授褒章を受章、1975年(昭和50)には、「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章します。
 1976年(昭和51)に脳卒中で倒れて入院、療養生活を送り、1977年(昭和52)には、読売新聞社を退職しました。漫画の質的向上、漫画家の地位向上のために活躍しましたが、1979年(昭和54)3月23日に、東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなっています。
 尚、1990年(平成2)に故郷の長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示されるようになりました。

〇近藤日出造の主要な著作

<漫画>
・矢部友衛共著『漫画研究資料講座 第2輯 漫画デツサン論』(1935年)
・『家庭科学漫画』(1942年)
・『にっぽん人物画』 正・続(1964年)
・『人の顔はなにを語るか』(1970年)

<エッセイ・コラム>
・共著 東京産業報国会編『模範産業戦士訪問記』(1943年)
・『日出造膝栗毛』(1954年)
・『やァこんにちわ』第1‐2集(1954年)
・『絵のない漫画』(1956年)
・『海道うらばなし』(1958年)
・編『わが青春の懺悔録』(1958年)
・杉浦幸雄共著『この道ばかりは』(1960年)
・『孫子の兵法』(1962)
・『金 欲の皮の人間学』(1963年)

<小説>
・『恐妻会』(1955)

☆近藤日出造関係略年表

・1908年(明治41)2月15日 長野県更級郡稲荷山町(現在の千曲市)において、洋品小間物商を営む父・近藤三津蔵、母・くめの次男として生まれる
・1914年(大正3) 稲荷山尋常高等小学校に入学する
・1921年(大正10) 稲荷山尋常高等小学校高等科を卒業後上京、日本橋三越に見習定員として就業、半年後に三越を退職して帰郷、長野市内の洋服店に仕立職人として就業する
・1922年(大正11) 仕立職人も長続きせず、退職して家業に従事。この間、新聞・雑誌の投稿漫画欄に入選、また、一般公募の企業漫画(国分商店のポスター)で二等を受ける
・1928年(昭和3) 母方の叔父・宮沢治平を頼って再度上京。紹介者を得て岡本一平の門下生となり、師の指導を受けながら「一平全集」全15巻(先進社)発行の準備にたずさわり、第四次「東京パック」に近藤秀三の名で初期作品を発表する
・1929年(昭和4) 九州日報の嘱託となり、斬新な筆致で政治漫画、インタビュー記事を書く、「東京パック」3月号より「近藤日出造」のペンネームを使用、創刊された「月刊マンガマン」に数多くの作品を寄稿する
・1932年(昭和7) 岡本一平門下生の杉浦幸雄、矢崎茂四、漫画雑誌で知遇を得た横山隆一らと共に「新漫画派集団」を結成する
・1933年(昭和8) 読売新聞社に嘱託として入社、横山隆一の妹・英と結婚、新漫画派集団「漫画年鑑」を発行する
・1936年(昭和11) 「現代連続漫画全集」第4巻(アトリエ社)に、最初にして最後のストーリー漫画「ミスパン子」(講談社「婦人倶楽部」連載)が収録される
・1938年(昭和13) 満州鉄道の招待により、横山隆一、清水崑らと共に大陸を旅行、読売新聞社を退職してフリーとなる
・1940年(昭和15) 「新日本漫画家協会」を設立、設立委員として、機関誌、月刊・“眼で見る時局誌”「漫画」の編集にたずさわる
・1942年(昭和17) 執筆、出版事情が悪化する中、「漫画」誌の責任編集者としてその発行にあたる
・1943年(昭和18) 海軍報道班員として南方を一巡し、帰国後「大東亜漫画研究所」、「報道漫画研究会」の設立に参加する
・1945年(昭和20) 応召(九州・熊本県)、終戦で妻子の疎開先の上田市に復員後上京し、漫画家・新聞・雑誌関係者らと再会、「新漫画派集団」を「漫画集団」と改称し、再発足のため仲間を集う
・1946年(昭和21) 月刊誌「漫画」1月号より責任編集者として復帰、表紙画を描く
・1947年(昭和22) 読売新聞社に復職、10月16日号より執筆を開始する
・1948年(昭和23) 戦後政界の混乱期を描き、政治漫画の第一人者としての地位をかためる
・1951年(昭和26) サンフランシスコ対日講和会議取材に読売新聞社より派遣され、会議終了後、米国各地を取材旅行する
・1953年(昭和28) 「週刊読売」誌上に、各界第一人者との対談記事「やァこんにちわ、日出造見参」がスタートする
・1954年(昭和29) 文化人訪中団の一員として視察旅行へ行き、郭沫若ほか中国要人と会見する
・1955年(昭和30) 第1回「文芸春秋漫画賞」選考委員となる
・1956年(昭和31) 日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」に司会・インタビュアーとして登場、絶妙の対話術で人気を呼ぶ
・1957年(昭和32) 流感がもとで肺炎、心臓病を併発し、東京・聖路加病院、東大病院に入院加療する
・1958年(昭和33) 東大病院を退院し、那須高原にて静養する
・1959年(昭和34) 日本テレビ(NTV)の番組「雨・風・曇」を改題した「春夏秋冬」に、ホストとして出演する
・1960年(昭和35) 五輪ローマ大会取材のためイタリアに渡る
・1964年(昭和39) 日本漫画家協会初代理事長に就任する
・1965年(昭和40) 東京デザインカレッジの理事に就任し、新たに漫画科を創設する
・1970年(昭和45) 日本万国博覧会(大阪)に漫画集団として参加、「自由新報」に「日本安全運転」の連載を開始する
・1972年(昭和47) 月刊「漫画」復刊にたずさわった樋口信と共に、株式会社漫画社を設立、社主として就任、東京銀座・松屋にて、横山隆一、杉浦幸雄と共に「漫画御三家展」を開催する
・1973年(昭和48) 東京・大丸にて「顔・近藤日出造が描く一五〇人展」を開催する
・1974年(昭和49) 全国の原子力発電所取材記事を読売新聞に連載、紫授褒章を受章する
・1975年(昭和50) 「漫画で政治を大衆に近づけた功績」で、第23回菊池寛賞を受け、漫画家として初めて勲三等瑞宝章を受章する
・1976年(昭和51) 脳卒中で意識を失い、慈恵医大病院に入院、小康を得て中伊豆温泉病院にて療養生活を送る
・1977年(昭和52) 東京・武蔵野療園病院に転院、読売新聞社を退職する
・1978年(昭和53) 妻・英がくも膜下出血により急逝する
・1979年(昭和54)3月23日 東京において、加療中に肺炎を併発し、71歳で亡くなる
・1990年(平成2) 長野県千曲市稲荷山に「ふる里漫画館」が開館となり、日出造の作品が収蔵・常設展示される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1238年(暦仁元)僧・浄光が鎌倉大仏(木造仏)の建立を開始する(新暦5月8日)詳細
1883年(明治16)陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の誕生日詳細
1898年(明治31)東京市本郷区で本郷大火があり、1,478戸を焼失する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
1950年(昭和25)世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー)詳細
1981年(昭和56)国語審議会が当用漢字表に代わる「常用漢字表」を答申する詳細
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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、漫画家長谷川町子が亡くなった日です。
 長谷川町子(はせがわ まちこ)は、大正時代の1920年(大正9)1月30日に、佐賀県小城郡東多久村別府(現在の多久市東多久町)で、ワイヤーロープの会社を営んでいた、父・長谷川勇吉、母・サタの三女として生まれました。1922年(大正11)に、一家で福岡県福岡市大字住吉に転居、1932年(昭和7)には、福岡市立春吉小学校卒業後、福岡県立福岡高等女学校(現在の福岡中央高校)へ入学します。
 1933年(昭和8)に父・勇吉が亡くなると、翌年には、一家で上京、山脇高等女学校3年に編入、「のらくろ」で有名な漫画家・田河水泡に入門しました。1935年(昭和10)に『少女倶楽部』10月号にデビュー作「狸の面」を発表、1936年(昭和11)に山脇高等女学校卒業後、田河水泡の内弟子となりましたが、ホームシックに耐え兼ね一年で自宅に戻ったものの、『東京日日新聞』日曜版に「チャッピーフーチャン」を連載します。
 1937年(昭和12)に『講談社の繪本』に「オテガラポンチャン」、1939年(昭和14)に『国民新聞』で「ヒィフゥみよチャン」、1940年(昭和15)に『少女倶楽部』に「仲よし手帖」、1941年(昭和16)に『週刊アサヒグラフ』に「翼賛一家大和さん」を次々と連載しました。太平洋戦争が激しくなると、1944年(昭和19)に福岡に一家で疎開、西日本新聞社に入社、編集局整理部絵画係に配属されます。
 戦後の1945年(昭和20)に西日本新聞社を退社、翌年から『夕刊フクニチ』で「サザエさん」の連載を開始しましたが、福岡の家を売却し、一家で再び上京し世田谷区新町三丁目に住み、姉妹社を設立しました。1948年(昭和23)に『漫画少年』で「サザエさん」連載開始、初の「サザエさん」実写映画化もされています。
 1951年(昭和26)に『朝日新聞』朝刊で、「サザエさん」連載が開始(~1974年2月21日)、1955年(昭和30)には、ニッポン放送でラジオドラマ「サザエさん」(~1965年4月)、KRテレビ(現TBS)で「サザエさん」の放送が開始されました。1956年(昭和31)に東宝が映画「サザエさん」を制作・配給(監督・青柳信雄、主演・江利チエミ)、1967年(昭和42)に日本テレビでドラマ「意地悪ばあさん」放送開始(~1969年9月25日、主演・青島幸男)、1969年(昭和44)には、フジテレビでアニメ「サザエさん」の放送が開始され、人気を博します。
 1978年(昭和53)に『朝日新聞』日曜版で「サザエさんうちあけ話」連載開始(~11月12日号)し、翌年には、NHK朝の連続テレビ小説「マー姉ちゃん」(原作「サザエさんうちあけ話」)放送されました。1982年(昭和57)に紫綬褒章を受章、1985年(昭和60)には、財団法人長谷川美術館が開館しています。
 1988年(昭和63)に第4回東京都文化賞、1990年(平成2)に勲四等宝冠章、1991年(平成3)に第20回日本漫画家協会賞・文部大臣賞など数々の栄誉にも輝きました。漫画の主人公のサザエさんは国民的アイドルになるほどの人気を博しましたが、1992年(平成4)5月27日に、東京において、心不全のため、72歳で亡くなり、国民栄誉賞が追贈されています。

〇長谷川町子の代表的作品

・『サザエさん』
・『いじわるばあさん』
・『エプロンおばさん』

☆長谷川町子関係略年表

・1920年(大正9)1月30日 佐賀県小城郡東多久村別府(現在の多久市東多久町)で、ワイヤーロープの会社を営んでいた、父・長谷川勇吉、母・サタの三女として生まれる
・1922年(大正11) 一家で福岡県福岡市大字住吉に転居する
・1926年(大正15)4月 福岡市立春吉小学校に入学する
・1932年(昭和7) 福岡市立春吉小学校卒業、福岡県立福岡高等女学校(現在の福岡中央高校)へ入学する
・1933年(昭和8)3月3日 父・勇吉が亡くなる(享年50歳)
・1934年(昭和9) 一家で上京、山脇高等女学校3年に編入、「のらくろ」で有名な漫画家・田河水泡に入門する
・1935年(昭和10) 『少女倶楽部』10月号にデビュー作「狸の面」を発表する
・1936年(昭和11) 山脇高等女学校卒業後、田河水泡の内弟子となるが、ホームシックに耐え兼ね一年で自宅に戻る、『東京日日新聞』日曜版に「チャッピーフーチャン」を連載する
・1937年(昭和12)10月 『講談社の繪本』に「オテガラポンチャン」掲載、以降1942年まで延べ20回掲載する
・1939年(昭和14)3月 『国民新聞』で「ヒィフゥみよチャン」を連載。小学館の学年誌に漫画掲載(~1943年)
・1940年(昭和15) 『少女倶楽部』1月号より「仲よし手帖」連載(~1942年12月号)
・1941年(昭和16)2月 『週刊アサヒグラフ』に「翼賛一家大和さん」連載する
・1942年(昭和17)4月 『翼賛漫画進メ大和一家』に3作品掲載する
・1944年(昭和19) 福岡に一家で疎開、西日本新聞社に入社、編集局整理部絵画係に配属される
・1945年(昭和20)11月 西日本新聞社を退社する
・1946年(昭和21) 『夕刊フクニチ』で「サザエさん」の連載を開始、福岡の家を売却し、一家で再び上京し世田谷区新町三丁目に住み、姉妹社を設立する
・1947年(昭和22) 『夕刊フクニチ』で「サザエさん」連載再開する
・1948年(昭和23) 『漫画少年』で「サザエさん」連載開始する、『新夕刊』で「サザエさん」連載開始(~1949年4月2日)、初の「サザエさん」実写映画化される
・1949年(昭和24) 『少女』2月号より「仲よし手帖」連載開始(~1951年8月号)
・1951年(昭和26) 『こどもクラブ』で「わかめちゃん」連載開始(~1954年8月号)、『朝日新聞』朝刊で、「サザエさん」連載開始(~1974年2月21日)
・1955年(昭和30) ニッポン放送でラジオドラマ「サザエさん」放送開始(~1965年4月)、KRテレビ(現TBS)で「サザエさん」放送開始
・1956年(昭和31) 東宝が映画「サザエさん」制作・配給(監督・青柳信雄、主演・江利チエミ)
・1957年(昭和32) 『サンデー毎日』1月6日号より「エプロンおばさん」連載開始(~1967年7月25日号)、『若い女性』1月号より「サザエさん」連載開始(~1959年1月号)
・1960年(昭和35) 病気療養のため『朝日新聞』朝刊で「サザエさん」休載する
・1961年(昭和36) 『朝日新聞』朝刊で「サザエさん」連載再開する
・1962年(昭和37) 「サザエさん」と「エプロンおばさん」で第8回文藝春秋漫画賞を受賞する
・1964年(昭和39) 初の海外旅行、ヨーロッパ各国を旅する
・1965年(昭和40) TBSでドラマ「サザエさん」放送開始(~1967年9月26日、主演・江利チエミ)
・1966年(昭和41) 『サンデー毎日』1月2日号より「意地悪ばあさん」連載開始(~1971年7月18日号)
・1967年(昭和42) 日本テレビでドラマ「意地悪ばあさん」放送開始(~1969年9月25日、主演・青島幸男)
・1969年(昭和44) フジテレビでアニメ「サザエさん」放送開始する
・1974年(昭和49) 『朝日新聞』朝刊で「サザエさん」連載終了
・1976年(昭和51) 「サザエさんえほん」シリーズ第1巻を発行(全9巻を順次発行)
・1978年(昭和53) 『朝日新聞』日曜版で「サザエさんうちあけ話」連載開始(~11月12日号)
・1979年(昭和54) NHK朝の連続テレビ小説「マー姉ちゃん」(原作「サザエさんうちあけ話」)放送開始(~9月)
・1982年(昭和57)11月 紫綬褒章を受章する
・1985年(昭和60)11月3日 財団法人長谷川美術館が開館する
・1987年(昭和62) 『朝日新聞』朝刊に「サザエさん旅あるき」連載開始、6月13日、母・サタ死去(享年91歳)
・1988年(昭和63)2月 第4回東京都文化賞を受賞する
・1990年(平成2)4月 勲四等宝冠章を受章する
・1991年(平成3) 第20回日本漫画家協会賞・文部大臣賞を受賞する
・1992年(平成4)5月27日 東京において、心不全のため、72歳で亡くなる
・1992年(平成4)7月 国民栄誉賞を受賞する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

743年(天平15)「墾田永年私財法」が出される(新暦6月23日)詳細
1235年(文暦2)藤原定家によって「小倉百人一首」が完成された(百人一首の日)詳細
1273年(文永10)鎌倉幕府第7代執権北条政村の命日(新暦6月13日)詳細
1901年(明治34)山陽鉄道(後の山陽本線)の神戸駅~馬関駅(現在の下関駅)間が全通する詳細
1938年(昭和13)「日独防共協定」締結による同盟強化に伴い、大日本青少年独逸派遣団が出発する詳細
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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、漫画家・アニメ監督・医師手塚治虫の亡くなった日です。
 手塚治虫(てづか おさむ)は、昭和時代前期の1928年(昭和3)11月3日に、大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)で、住友金属に勤めるサラリーマンだった父・手塚粲(ゆたか)、母・文子の長男として生まれましたが、本名は治(おさむ)と言いました。1933年(昭和8)に兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)へ引っ越し、1935年(昭和10)に大阪府立池田師範付属小学校(現在の大阪教育大学付属池田小学校)に入学します。
 漫画と昆虫採集に熱中し、1941年(昭和16)に小学校を卒業後、大阪府立北野中学(現在の北野高校)に入学、翌年には同窓の友人らと動物同好會を設立し、会誌「動物の世界」を発行しました。1945年(昭和20)に北野中学を卒業後、大阪大学付属医学専門部に入学、翌年『毎日小学生新聞』の4コマ漫画『マアチャンの日記帳』でデビューします。
 1947年(昭和22)に、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こし、1950年(昭和25)に『ジャングル大帝』を「漫画少年」に連載開始、東京児童漫画会(児漫長屋)にも入会しました。同年に、大阪大学医学専門部を卒業して、医師国家試験に合格、翌年から代表作『鉄腕アトム』の「少年」連載を始めます。
 1952年(昭和27)に上京して、翌年には都内豊島区椎名町のトキワ荘へ住むようになり、1961年(昭和36)には医学博士の学位も取得しました。1962年(昭和37)に虫プロダクションを設立し、翌年から放映開始した日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』は爆発的な人気を呼び、今日のアニメブームの先駆となります。
 1966年(昭和41)制作の劇場用アニメ『ジャングル大帝』が、翌年にベネチア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞しました。同年に漫画雑誌「COM」を創刊してライフ・ワーク『火の鳥』連載のほか、若手漫画家に発表の場を与えています。
 その後も、『ブラック・ジャック』、『三つ目がとおる』、『ブッダ』などのヒット作を発表、数々の賞も得ました。晩年になっても、『陽だまりの樹』、『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出し、“マンガの神様”とも称されるようになります。
 しかし、『ネオ・ファウスト』他を連載の途中、1989年(平成元)2月9日に東京において、胃ガンのため60歳で亡くなりました。尚、1994年(平成6)にその業績をたたえ、少年時代のゆかりの地である兵庫県宝塚市に「市立手塚治虫記念館」が設立されています。

〇手塚治虫の主要な著作

・長編漫画『新宝島』(1947年)
・漫画『びいこちゃん』第三回小学館漫画賞受賞
・漫画『漫画生物学』第三回小学館漫画賞受賞
・長編漫画『鉄腕アトム』
・長編漫画『ジャングル大帝』
・長編漫画『リボンの騎士』
・長編漫画『火の鳥』第1回講談社出版文化賞(児童漫画部門)受賞
・長編漫画『ブラックジャック』第4回日本漫画家協会賞特別賞受賞
・長編漫画『アドルフに告ぐ』第10回講談社漫画賞(一般部門)受賞
・長編漫画『陽だまりの樹』第29回小学館漫画賞(青年・一般向け部門)受賞

☆手塚治虫関係略年表

・1928年(昭和3)11月3日 大阪府豊能郡豊中町(現大阪府豊中市)で、手塚粲(ゆたか)、文子(ふみこ)の長男として生まれ、治(おさむ)と命名される
・1930年(昭和7) 関西大学の創立者の一人であった祖父・太郎が亡くなる
・1933年(昭和8) 兵庫県川辺郡小浜村(1954年に宝塚市となる)へ引っ越す
・1935年(昭和10) 大阪府立池田師範付属小学校(現、大阪教育大学付属池田小学校)に入学する
・1936年(昭和11) 二年生のとき、髪の毛がちぢれていたので、「ガヂャボイ」というアダ名をつけられる
・1937年(昭和12) 三年生の二学期から、乾秀雄先生が担任となり、綴り方教育をうける、最初のマンガ「ピンピン生チャン」を描く
・1939年(昭和14) 「支那の夜」という長編マンガを描いて学校で回覧、先生にも評判となる
・1941年(昭和16) 池田師範付属小学校を卒業、大阪府立北野中学(現、北野高校)に入学する
・1942年(昭和17) 同窓の友人らと動物同好會設立、会誌「動物の世界1」を発行する
・1943年(昭和18) 「原色甲蟲圖譜」第一集・第二集、「動物の世界2・3」などを発行する
・1944年(昭和19) エッセイ集「昆蟲つれづれ草」、「原色櫛水母圖譜」発行、仁川の一里山健民修練所に一事入所する
・1945年(昭和20) 北野中学を卒業、大阪大学付属医学専門部に入学する
・1946年(昭和21) マンガ家・手塚治虫デビュー作の四コママンガ「マアチャンの日記帳」の連載が『少国民新聞(のち毎日小学生新聞)大阪版』で始まる
・1947年(昭和22) 酒井七馬原作の長編マンガ「新宝島」刊行。版を重ね四十万部を売り尽くす、「新宝島」を持って上京し、新関健之介、島田啓三の家を訪ね評を聞く
・1950年(昭和25) 「ジャングル大帝」を『漫画少年』に連載することになる、東京児童漫画会(児漫長屋)が結成され、入会する、大阪大学医学専門部を卒業、医師国家試験に合格する
・1953年(昭和28) 都内豊島区椎名町のトキワ荘へ引っ越す
・1954年(昭和29) 関西長者番付画家の部でトップ(年収217万円)となる
・1955年(昭和30) ラジオ東京で連続ドラマ「リボンの騎士」放送開始(〜9月26日)
・1957年(昭和32) 都内渋谷区代々木初台に引っ越す、東京テレビで紙人形劇「鉄腕アトム」放送開始(〜9月28日)される
・1958年(昭和33) 「びいこちゃん」「漫画生物学」で第三回小学館漫画賞を受賞する
・1959年(昭和34) フジテレビ開局番組に「鉄腕アトム」がドラマ化(松崎プロダクション制作、〜1960年5月28日)される、岡田悦子と結婚する
・1960年(昭和35) 都内練馬区谷原町(現、富士見台)に家を新築、東映動画「西遊記」が公開される
・1961年(昭和36) 奈良県立医科大学で「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究(タニシの精虫の研究)」により医学博士の学位をとる
・1962年(昭和37) 虫プロダクションの新スタジオが完成、引越し、東映動画「シンドバッドの冒険」が公開される
・1963年(昭和38) 国産初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」がフジテレビで放映開始、高視聴率をあげる、「ある街角の物語」で第17回芸術祭奨励賞・第13回ブルーリボン教育文化映画賞・第17回毎日映画コンクール第1回大藤信郎賞を受賞する
・1964年(昭和39) 「鉄腕アトム」で第2回テレビ記者会賞特別賞受賞、東京ムービー制作のテレビアニメ「ビッグX」がTBSテレビで放映開始(〜1965年9月27日)
・1965年(昭和40) 「鉄腕アトム」で、厚生大臣より表彰を受ける、
・1966年(昭和41) 「ジャングル大帝」で第4回テレビ記者会賞特別賞・児童福祉文化賞放送部門を受賞する
・1967年(昭和42) テレビアニメ「悟空の大冒険」がフジテレビで放映開始(〜9月30日)、「展覧会の絵」で第21回芸術祭奨励賞・第17回ブルーリボン教育文化映画賞・毎日映画コンクール第5回大藤信郎賞を受賞、劇場版「ジャングル大帝」で、ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞する
・1968年(昭和43) マンガ製作のための株式会社手塚プロダクションを設立、虫プロ商事制作の特撮テレビ映画「バンパイヤ」がフジテレビで放映開始(〜1969年4月 5日)、「千夜一夜物語」(日本ヘラルド映画配給)を公開し大ヒット
・1969年(昭和44) テレビアニメ「どろろ」フジテレビで放映開始(〜9月28日)
・1970年(昭和45) 「やさしいライオン」で毎日映画コンクール第8回大藤信郎賞・第12回児童福祉文化奨励賞受賞、「火の鳥」で第1回講談社出版文化賞児童まんが部門受賞。
・1971年(昭和46) 集英社『週刊少年ジャンプ』に新人の登竜門である手塚賞新設、審査委員長になる
・1972年(昭和47) アニメーションスタッフルーム制作テレビアニメ「海のトリトン」朝日放送で放映開始(〜9月30日)
・1973年(昭和48) 虫プロ制作テレビアニメ「ワンサくん」が関西テレビで放映開始(〜9月24日)、虫プロダクション倒産
・1974年(昭和49) 原案の人形劇「プルルくん」NHK教育テレビで放映開始(〜1976年3月15日)
・1975年(昭和50) 「ブラック・ジャック」で、第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞、「ブッダ」「動物つれづれ草」で第21回文藝春秋漫画賞を受賞する
・1976年(昭和51) 手塚プロダクションが高田馬場に移転
・1977年(昭和52) 講談社より『手塚治虫漫画全集』全三百巻刊行開始、「三つ目がとおる」「ブラック・ジャック」で第1回講談社漫画賞を受賞する
・1978年(昭和53) 新発足の日本アニメーション協会の初代会長となる、東宝映画「火の鳥−黎明編」(市川崑監督)が公開される
・1979年(昭和54) 児童漫画の開拓と業績により、第二回巌谷小波文藝賞を受賞する
・1980年(昭和55) 都下東久留米市へ引っ越す、「火の鳥2772」で第1回ラスベガス映画祭動画部門賞を受賞する
・1981年(昭和56) 永年にわたるアニメーション文化の発展の貢献により「アニメージュ」主催の第3回アニメグランプリ特別賞を受賞する
・1983年(昭和58) 「鉄腕アトム」他で日本人のロボット観に大きな影響を与えたことにより第四回日本文化デザイン賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「陽だまりの樹」で第29回小学館漫画賞(青年・一般向け部門)を受賞する
・1985年(昭和60) 『手塚治虫漫画全集』完結により講談社漫画賞特別賞受賞、「おんぼろフィルム」で第1回広島国際アニメーションフェスティバルグランプリ・第4回バルナ国際アニメーションフェスティバルカテゴリー部門最優秀賞を受賞、東京都民栄誉章受賞
・1986年(昭和61) 「アドルフに告ぐ」で第10回講談社漫画賞(一般部門)受賞
・1987年(昭和62) レーザーディスク「ジャンピング/手塚治虫」で第2回映像ソフト大賞(通産大臣賞)ビデオ部門受賞
・1988年(昭和63) 戦後漫画とアニメ界における創造的な業績により朝日賞受賞、「森の伝説」で毎日映画コンクール第26回大藤信郎賞・第8回ザグレブ国際アニメーションフェスティバルCIFEJ賞(青少年映画賞)・フランス・ブール・アン・ブレス青少年のためのアニメーション映画祭青少年審査員短編部門賞受賞
・1989年(平成元)2月9日 東京において、胃ガンのため60歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1834年(天保5)政治家・佐賀藩士江藤新平の誕生日(新暦3月18日)詳細
1856年(安政3)外交官・政治家原敬の誕生日(新暦3月15日)詳細
1921年(大正10)小説家庄野潤三の誕生日詳細


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 今日は、平成時代の1989年(平成元)に、漫画家田河水泡の亡くなった日です。
 田河水泡(たがわ すいほう)は、明治時代後期の1899年(明治32)2月10日に、東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)で、メリヤス家内工業を営む父・高見澤孝次郎、母・わきの子として生まれましたが、本名は高見澤仲太郎(たかみざわ なかたろう)と言いました。翌年に母・わきが亡くなり、1901年(明治34)に父が再婚するため、東京市深川区の伯父夫婦に預けられます。
 小学校卒業後は、薬屋の店員やメリヤス工場の少年工員として働きましたが、徴兵されて朝鮮や満州で軍隊生活を送りました。1922年(大正11)に除隊し帰国すると日本美術学校図案科(現・日本美術専門学校)に入学し、在学中の翌年に前衛美術グループ「MAVO(マヴォ)」に参加します。
 1926年(大正15)に日本美術学校を卒業後は、講談社に創作落語を持ち込み採用され、1928年(昭和3)には、小林富士子(小林秀雄の妹)と洋風の結婚式を挙げました。生計のため子供漫画へと進み、1929年(昭和4)に漫画『人造人間』、『目玉のチビちゃん』が連載され、翌年にペンネームを田河水泡(たかみざわ)に変更します。
 1931年(昭和6)に講談社の雑誌「少年俱楽部」に漫画『のらくろ二等卒』(『のらくろ』シリーズの最初)の連載が始まり、軍国の世相を反映しながらも風刺の笑いがこめられていて、一躍人気作家となりました。1931年(昭和6)に「婦人子供報知」に漫画『蛸(たこ)の八ちゃん』、1933年(昭和8)に「婦人俱楽部」に漫画『凸凹(でこぼこ)黒兵衛』を連載し、翌年には、長谷川町子(のちの『サザエさん』の作者)が入門しています。
 しかし、1941年(昭和16)に内閣情報局から執筆禁止令を受け、漫画『のらくろ』の連載が打ち切られました。太平洋戦争後は、1958年(昭和33)に潮書房の「丸」に『のらくろ自叙伝』の連載が開始され、1967年(昭和42)に講談社より『のらくろ漫画全集』が刊行されて、再び注目されるようになります。
 1969年(昭和44)に紫綬褒章を受章、同年に山野を買い取り、それを宅地分譲しながら教育を始め、町田市玉川学園八丁目に移住しました。1980年(昭和55)に『のらくろ喫茶店』で『のらくろ』シリーズは完結し、漫画や落語を題材として解説した笑いの研究本として、講談社より『滑稽の構造』(1981年)、『滑稽の研究』(1987年)が刊行されます。
 1987年(昭和62)に勲四等旭日小綬章を受章しましたが、1989年(平成元)12月12日に、肝臓がんのため神奈川県において、90歳で亡くなりました。尚、1998年(平成10)に遺族により、遺品が東京都江東区に寄贈され、翌年に東京都江東区の「森下文化センター」1階に常設展示館「田河水泡・のらくろ館」が開館しています。

〇田河水泡の主要な著作

・漫画『人造人間』(1929年)
・漫画『目玉のチビちゃん』(1929年)
・漫画『のらくろ』全10冊(1931~41年)
・漫画『蛸(たこ)の八ちゃん』(1931年)
・漫画『凸凹(でこぼこ)黒兵衛』(1933~36年)
・漫画『窓野雪夫さん』(1935~39年)
・漫画『豆象さん』
・漫画『珍品のらくろ草』
・漫画『チンパンジー HB』
・漫画『ダルマノコロ吉』
・『のらくろ自叙伝』(1976年)
・『滑稽の構造』(1981年)
・『滑稽の研究』(1987年)
・『人生おもしろ説法』(1988年)

〇漫画『のらくろ』とは?

 田川水泡作で1931~41年に「少年倶楽部」に連載、ノラの黒犬を主人公に軍隊生活を描いた漫画(全10冊)です。ノラの黒犬が軍隊に入り、軍功をあげて、大尉まで昇進しいく様子を描いていて、当時の少年たちに愛読されましたが、1941年(昭和16)に内閣情報局から執筆禁止令を受け、連載が打ち切られました。また、戦前にアニメ映画化もされています。戦後も書き継がれ、引揚げてノラ犬に戻り、様々な曲折の末、お銀ちゃんと結婚、最後は喫茶店のマスターとなり、1980年(昭和55)に完結しました。1970年~71年と1987~88年の2回、テレビアニメ化もされています。

☆田河水泡関係略年表

・1899年(明治32)2月10日 東京府東京市本所区(現在の東京都墨田区)で、メリヤス家内工業を営む父・高見澤孝次郎、母・わきの子として生まれる
・1900年(明治33) 母・わきが亡くなる
・1901年(明治34) 父再婚のため東京市深川区の伯父夫婦に預けられる
・1905年(明治38) 小学校へ入学する
・1922年(大正11) 除隊し帰国する
・1922年(大正11) 日本美術学校図案科(現・日本美術専門学校)に入学する
・1923年(大正12) 前衛美術グループ「MAVO(マヴォ)」に参加する
・1926年(大正15) 日本美術学校を卒業する
・1926年(大正15) 講談社に創作落語を持ち込み採用される
・1928年(昭和3) 松本夫妻を仲人に、小林富士子(小林秀雄の妹)と洋風の結婚式を挙げる
・1929年(昭和4) 漫画『人造人間』が初連載される
・1929年(昭和4) 講談社の雑誌「少年俱楽部」に漫画『目玉のチビちゃん』が連載される
・1930年(昭和5) ペンネームを田河水泡(たかみざわ)に変更する
・1931年(昭和6) 講談社の雑誌「少年俱楽部」に漫画『のらくろ二等卒』(『のらくろ』シリーズの最初)の連載が始まる
・1931年(昭和6) 「婦人子供報知」に漫画『蛸(たこ)の八ちゃん』を掲載する
・1933年(昭和8) 「婦人俱楽部」に漫画『凸凹(でこぼこ)黒兵衛』の連載を開始する(1936年まで)
・1934年(昭和9) 長谷川町子(のちの『サザエさん』の作者)が入門する
・1941年(昭和16) 内閣情報局から執筆禁止令を受け、漫画『のらくろ』の連載が打ち切られる
・1958年(昭和33) 潮書房の「丸」に『のらくろ自叙伝』の連載が開始される
・1967年(昭和42) 講談社より『のらくろ漫画全集』が刊行される
・1969年(昭和44) 紫綬褒章を受章する
・1969年(昭和44) 山野を買い取り、それを宅地分譲しながら教育を始め、町田市玉川学園八丁目に移住する
・1980年(昭和55) 『のらくろ喫茶店』で『のらくろ』シリーズは完結する
・1981年(昭和56)11月 講談社より『滑稽の構造』が刊行される
・1987年(昭和62)9月 講談社より『滑稽の研究』が刊行される
・1987年(昭和62)11月 勲四等旭日小綬章を受章する
・1989年(平成元)12月12日 肝臓がんのため90歳で亡くなる
・1991年(平成3) 妻によって、『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝)』が出版される
・1998年(平成10) 遺族により、遺品が東京都江東区に寄贈される
・1999年(平成11) 東京都江東区の「森下文化センター」1階に常設展示館「田河水泡・のらくろ館」が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1898年(明治31)小説家黒島伝治の誕生日詳細 
1947年(昭和22)児童福祉法」が公布される詳細
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