ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:演劇評論家

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 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、小説家・演劇評論家・江戸文学史研究家饗庭篁村の亡くなった日です。
 饗庭 篁村(あえば こうそん)は、江戸時代後期の1855年(安政2年8月15日)に、江戸・下谷竜泉寺町において、質屋を営む饗場(戸籍面)與之吉の五男として生まれましたが、本名は与三郎と言いました。この年の10月2日に起きた安政の大地震で母を失い、1865年(慶応元)には、日本橋新材木町の箱根屋という質屋に奉公に預けられます。
 1869年(明治2)に、生家にもどり兄與之吉の下で家業を手伝い、1874年(明治7)には、日就社(読売新聞発行元)に入社し校正を担当しました。1876年(明治9)に入社した高畠藍泉(三世柳亭種彦)に引き立てられ、読売新聞の編集記者となり、1877年(明治10)には、京都に、1878年(明治11)には、明治天皇の東海・北陸巡行に派遣されています。
 1880年(明治13)に読売新聞の雑譚に執筆をはじめ、1882年(明治15)には、読売新聞の臨時印刷長となりました。1886年(明治19)に坪内逍遥と知り合い、根岸御隠殿に転居、長編『当世商人気質』と長編『人の噂』を読売新聞に連載、1887年(明治20)には、小説「藪の椿」、エドガー・アラン・ポーの翻案「西洋怪談 黒猫」・「ルーモルグの人殺し」を 読売新聞に連載します。
 1888年(明治21)にチャールズ・ディケンズの翻案「影法師(原作:クリスマス・キャロル)」を 読売新聞に連載、1889年(明治22)には、短編「良夜」ほか、著述多数を発表、著述全集ともいえる『小説 むら竹』20巻を春陽堂から出版しましたが、読売新聞を退社し、東京朝日新聞に移りました。1890年(明治23)に『木曾道中記』を東京朝日新聞に20回連載、1892年(明治25)に東京専門学校(現在の早稲田大学)で近松門左衛門を講じ、1895年(明治28)には、『水戸の観梅』を東京朝日新聞に6回連載しています。
 1900年(明治26)に『新西遊記』を東京朝日新聞に連載、1901年(明治34)に『旅硯』、1902年(明治35)には、近松門左衛門の研究書『巣林子撰註』を刊行しました。1909年(明治42)に評論随筆『雀躍』、1912年(明治45)に『篁村叢書』を刊行し、1919年(大正8)には、東京朝日新聞社客員となります。
 根岸、谷中に住む文学グループ(根岸派)の中心的存在であったものの、1922年(大正11)6月20日に、東京において、脳の障害のため、67歳で亡くなりました。

<饗庭篁村の代表作>

(小説)
・『当世商人気質』(1886年~1889年:読売新聞連載)
・『人の噂』(1886年 読売新聞連載)
・『走馬燈(まはりどうらう)』(1887年:読売新聞発表)
・『魂膽』(1888年 読売新聞発表)
・『面目玉(めんぼくだま)』(1889年:読売新聞連載)
・『掘り出し物』(「新著百種」第2号 1889年:吉岡書籍店)
・『良夜』(1889年 國民之友に掲載)
・『驅落の驅落』
・『俳諧気違ひ』
(論考)
・『大石眞虎の傳(おおいしまとらのでん)』(1888年:読売新聞発表)
(紀行)
・『鹽原入浴の記』(1888年6月14日~20日:読売新聞:6回)
・『木曾道中記』(1890年5月3日~7月3日:東京朝日新聞:20回)
・『水戸の観梅』(1895年3月3日~17日:東京朝日新聞:6回)
・『小金井の櫻』(1899年)
・『新西遊記』(1900年5月28日~8月9日:東京朝日新聞に連載)
・『伊勢参宮』(1907年:右田寅彦との交互執筆)
(翻案)
・エドガー・アラン・ポー「ルーモルグの人殺し」(1886年:読売新聞連載)
・エドガー・アラン・ポー「西洋怪談 黒猫」(1887年:読売新聞連載)
・チャールズ・ディケンズ「影法師(原作:クリスマス・キャロル)」(1888年:読売新聞連載)

〇饗庭篁村関係略年表

・1855年(安政2年8月15日) 江戸・下谷竜泉寺町において、質屋を営む饗場(戸籍面)與之吉の五男として生まれる
・1865年(慶応元) 日本橋新材木町の箱根屋という質屋に奉公に預けられる
・1869年(明治2) 生家にもどり兄與之吉の下で家業を手伝う
・1874年(明治7) 日就社(読売新聞発行元)に入社し校正を担当する
・1876年(明治9) 入社した高畠藍泉(三世柳亭種彦)に引き立てられ、読売新聞の編集記者となる
・1877年(明治10) 読売新聞より、京都に派遣される
・1878年(明治11) 読売新聞より、明治天皇の東海・北陸巡行に派遣される
・1880年(明治13) 読売新聞の雑譚に執筆をはじめる
・1882年(明治15) 読売新聞の臨時印刷長となる
・1886年(明治19) 坪内逍遥と知り合い、根岸御隠殿に転居、長編『当世商人気質』と長編『人の噂』を読売新聞に連載する
・1887年(明治20) 小説「藪の椿」、エドガー・アラン・ポーの翻案「西洋怪談 黒猫」・「ルーモルグの人殺し」を 読売新聞に連載する
・1888年(明治21) チャールズ・ディケンズの翻案「影法師(原作:クリスマス・キャロル)」を 読売新聞に連載する
・1889年(明治22) 短編「良夜」ほか、著述多数を発表、著述全集ともいえる『小説 むら竹』20巻を春陽堂から出版、読売新聞を退社し、東京朝日新聞に移る
・1890年(明治23) 『木曾道中記』を東京朝日新聞に20回連載(5月3日~7月3日)する
・1892年(明治25) 東京専門学校(現在の早稲田大学)で近松門左衛門を講じる
・1895年(明治28) 『水戸の観梅』を東京朝日新聞に6回連載(3月3日~17日)する
・1900年(明治26) 『新西遊記』を東京朝日新聞に連載(5月28日~8月9日)する
・1901年(明治34) 『旅硯』を刊行する
・1902年(明治35) 近松門左衛門の研究書『巣林子撰註』を刊行する
・1909年(明治42) 評論随筆『雀躍』を刊行する
・1912年(明治45) 『篁村叢書』を刊行する
・1919年(大正8) 東京朝日新聞社客員となる
・1922年(大正11)6月20日 東京において、脳の障害のため、67歳で亡くなる
・1927年(昭和2) 「明治文学名著全集」第12編として、『竹の屋劇評集』が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1495年(明応4)飯尾宗祇ら編集による『新撰菟玖波集』が完成する(新暦7月12日)詳細
1587年(天正18)天正遣欧使節がローマから長崎に帰港する(新暦7月21日)詳細
1654年(承応3)江戸市中に水を供給する玉川上水が完成する(新暦7月21日)詳細
1730年(享保15)京都で「西陣焼け」が起こり、134町、3,810軒を焼失する(新暦8月3日)詳細
1887年(明治20)二葉亭四迷著の小説『浮雲』の第一篇が刊行される詳細
1947年(昭和22)片山哲内閣によって、「新日本建設国民運動要領」が閣議決定される詳細
1949年(昭和24)デラ台風(昭和24年台風第2号)が来襲、鹿児島県鹿児島市に上陸し、甚大な被害をもたらし始める詳細
1963年(昭和38)「観光基本法」が公布・施行される詳細
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 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、演劇評論家・小説家・随筆家戸板康二の亡くなった日です。
 戸板康二(といた やすじ)は、1915年(大正4)12月14日 東京市芝三田四国町(現在の東京都港区)で、藤倉電線に勤める父・三郎、母・ひさの長男として生まれ、1923年(大正12)に母方の祖母戸板関子の養子になり「康二」と改めました。同年母が関東大震災で亡くなり、1929年(昭和4)の14歳の時、祖母も亡くしています。
 暁星中学校卒業後、慶応予科を経て、慶應義塾大学文学部国文学科へ進み、折口信夫に師事しました。1938年(昭和13)に大学卒業後、明治製菓の宣伝部でPR誌「スヰート」の編集に携わり、翌年頃から、内田水中亭の句会に出席して作句するようになります。
 1943年(昭和18)に山水高等女学校に国語教師として勤務しましたが、翌年には日本演劇社に入社して「日本演劇」編集に従事するようになりました。1948年(昭和23)の33歳の時、『歌舞伎の周囲』を刊行、翌年には、『丸本歌舞伎』、『わが歌舞伎』正続で、第1回戸川秋骨賞を受賞します。
 1950年(昭和25)に日本演劇社を退社して演劇評論家となり、1952年(昭和27)には、『劇場の椅子』、『今日の歌舞伎』で、第3回芸術選奨文部大臣賞(文学評論部門)を受賞しました。44歳の時江戸川乱歩の熱心な勧めによって執筆した『車引殺人事件』で推理作家としてデビュー、1960年(昭和35)に推理小説『団十郎切腹事件』で、第42回直木三十五賞を受賞、1969年(昭和44)には、劇作『マリー・アントワネット』も発表しています。
 1976年(昭和51)に推理小説『グリーン車の子供』で第29回日本推理作家協会賞(短篇部門)を受賞、同年に第24回菊池寛賞も受賞、1977年(昭和52)には評論活動で、第33回日本芸術院賞(文芸部門)を受賞しました。1978年(昭和53)に随筆『ちょっといい話』を刊行し、ベストセラーとなり、1985年(昭和60)に句集『花すこし』を刊行、1987年(昭和62)には第3回東京都文化賞を受賞しています。
 1991年(平成3)に第17回明治村賞を受賞、日本芸術院会員ともなりましたが、1993年(平成5)1月23日に、東京都品川区旗の台の昭和大学病院において、脳血栓のため93歳で亡くなりました。

〇戸板康二の主要な著作

・『丸本歌舞伎』(1949年)第1回戸川秋骨賞受賞
・『演劇五十年』(1950年)
・『今日の歌舞伎』(1952年)
・『劇場の椅子(いす)』(1952年)第3回芸術選奨文部大臣賞(文学評論部門)受賞
・『今日の歌舞伎』(1952年)第3回芸術選奨文部大臣賞(文学評論部門)受賞
・『新劇史の人々』(1953年)
・『忠臣蔵』(1957年)
・推理小説『車引殺人事件』(1959年)
・推理小説『団十郎切腹事件』(1959年)直木賞受賞
・『久保田万太郎』(1967年)
・戯曲『マリー・アントワネット』(1969年)
・『尾上菊五郎』(1973年)
・推理小説『グリーン車の子供』(1975年)第29回日本推理作家協会賞受賞
・随筆『ちょっといい話』(1978年)
・句集『花すこし』(1985年)
・随筆『句会で会った人』(1987年)
・句集『袖机』(1989年)

☆戸板康二関係略年表

・1915年(大正4)12月14日 東京市芝三田四国町(現在の東京都港区)で、藤倉電線に勤める父・三郎、母・ひさの長男として生まれる
・1923年(大正12)7月9日 母方の祖母戸板関子の養子になり「康二」と改める
・1923年(大正12)9月1日 関東大震災のとき、鎌倉材木座の別荘にいた母親が幼い次男をかばって圧死する
・1929年(昭和4) 14歳の時、祖母を亡くす
・1938年(昭和13) 慶応義塾大学文学部国文科を卒業する
・1939年(昭和14)頃 内田水中亭の句会に出席して作句するようになる 
・1943年(昭和18) 山水高等女学校に国語教師として勤務する
・1944年(昭和19) 日本演劇社に入社して「日本演劇」編集に従事する
・1948年(昭和23) 33歳の時、『歌舞伎の周囲』を刊行する
・1949年(昭和24) 『丸本歌舞伎』、『わが歌舞伎』正続で、第1回戸川秋骨賞を受賞する
・1950年(昭和25) 日本演劇社を退社して演劇評論家となる
・1952年(昭和27) 『劇場の椅子』、『今日の歌舞伎』で、第3回芸術選奨文部大臣賞(文学評論部門)を受賞する
・1960年(昭和35) 推理小説『団十郎切腹事件』で、第42回直木三十五賞を受賞する
・1969年(昭和44) 劇作『マリー・アントワネット』を発表する
・1976年(昭和51) 推理小説『グリーン車の子供』で第29回日本推理作家協会賞(短篇部門)を受賞する
・1976年(昭和51) 第24回菊池寛賞を受賞する
・1977年(昭和52) 評論活動で、第33回日本芸術院賞(文芸部門)を受賞する
・1978年(昭和53) 随筆『ちょっといい話』を刊行し、ベストセラーとなる
・1985年(昭和60) 句集『花すこし』を刊行する
・1987年(昭和62) 第3回東京都文化賞を受賞する
・1989年(平成元) 句集『袖机』を刊行する
・1991年(平成3) 第17回明治村賞を受賞する
・1991年(平成3) 日本芸術院会員となる
・1993年(平成5)1月23日 東京都品川区旗の台の昭和大学病院において、脳血栓のため93歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1657年(明暦3)江戸時代前期の朱子学派の儒学者林羅山の命日(新暦3月7日)詳細
1890年(明治23)教育者・キリスト教指導者新島襄の命日詳細
1933年(昭和8)日本の社会主義運動の先駆者・政治家・著述家堺利彦の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1859年(安政6)に、小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者坪内逍遥(つぼうち しょうよう)の生まれた日ですが、新暦では6月22日となります。
 坪内逍遥は、美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)に、尾張藩代官所役人の父・坪内平右衛門と母・ミチの十人兄妹の末子として、役宅で生まれましたが、本名は勇蔵と言いました。
 明治維新に伴って、実家のある尾張国愛知郡笹島村へ一家で移ります。1876年(明治9)に上京し、東京開成学校へ入学、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科へと進み、西洋文学に親しみました。
 1883年(明治16)に卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師(後に教授)となり、翌年にシェイクスピア著『ジュリアス・シーザー』の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒」を出版します。
 1885年(明治18)には評論『小説神髄』を発表、小説『当世書生気質』(1885‐86年)を書いて、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となりました。1890年(明治23)に東京専門学校に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊して、後進の育成にも努めます。
 また、演劇の改良を志して、戯曲『桐一葉』(1894‐95年)、『牧の方』(1896年)、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)などを発表し、俳優の育成にも尽力しました。一方で、『国語読本』の編集にも携わり、日露戦争後の1906年(明治39)には文芸協会を組織しています。
 その中で、シェークスピアの研究・翻訳を続け、全作品を完訳した『沙翁全集』全40冊(1928年)も刊行しました。
 このように、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残しましたが、1935年(昭和10)2月28日に、静岡県熱海市において、75歳で亡くなります。

〇坪内逍遥の主要な作品

・翻訳『春風情話』(1880年) ウォルター・スコット著『ランマームーアの花嫁』の翻訳
・翻訳『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』(1884年)「ジュリアス・シーザー」の浄瑠璃風翻訳
・評論『小説神髄』(1885年)
・小説『当世書生気質』(1885‐86年)
・小説『新磨(しんみがき) 妹と背かゞみ』(1885‐86年)
・小説『内地雑居 未来の夢』(1888年)
・小説『細君』(1889年)
・戯曲『桐一葉』(1894‐95年)
・戯曲『牧の方』(1896年)
・戯曲『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)
・楽劇『新曲浦島』(1904年)
・戯曲『お夏狂乱』(1914年)
・戯曲『役の行者』(1917年)
・翻訳「沙翁全集」全40冊(1928年)
・翻訳『新修シェークスピヤ全集』全40冊(1933‐35年)
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