
「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」(わせだだいがくつぼうちはかせきねんえんげきはくぶつかん)は、東京都新宿区の早稲田大学構内にある演劇に関する博物館です。昭和時代前期の1928年(昭和3)に、早稲田大学教授だった坪内逍遙が古稀(70歳)に達したのと、「シェークスピヤ全集」全40巻の翻訳が完成したのを記念して、各界有志の協賛により設立され、同年10月27日に開館しました。
館内には、世界各地の演劇・映像の貴重な資料を揃えていて、錦絵48,000枚、舞台写真400,000枚、図書270,000冊、チラシ・プログラムなどの演劇上演資料80,000点、衣装・人形・書簡・原稿などの博物資料159,000点、その他貴重書、視聴覚資料など、百万点以上にもおよびます。建物自体も劇場を模した造りになっていて、3階が常設展示で、2階に「逍遙記念室」と、企画展示室があります。
1987年(昭和62)に建物が新宿区有形文化財にも指定され、1965年(平成7)には、研究成果を発表する媒体として『演劇研究』(演劇博物館紀要)が発行開始されました。2002年(平成14)に21世紀COEプログラム、グローバルCOEプログラムなどの研究拠点にも選ばれ、2009年(平成21)には、共同利用・共同研究拠点に指定されています。
館内には、世界各地の演劇・映像の貴重な資料を揃えていて、錦絵48,000枚、舞台写真400,000枚、図書270,000冊、チラシ・プログラムなどの演劇上演資料80,000点、衣装・人形・書簡・原稿などの博物資料159,000点、その他貴重書、視聴覚資料など、百万点以上にもおよびます。建物自体も劇場を模した造りになっていて、3階が常設展示で、2階に「逍遙記念室」と、企画展示室があります。
1987年(昭和62)に建物が新宿区有形文化財にも指定され、1965年(平成7)には、研究成果を発表する媒体として『演劇研究』(演劇博物館紀要)が発行開始されました。2002年(平成14)に21世紀COEプログラム、グローバルCOEプログラムなどの研究拠点にも選ばれ、2009年(平成21)には、共同利用・共同研究拠点に指定されています。
〇早稲田大学坪内博士記念演劇博物館関係略年表
・1928年(昭和3)10月27日 「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」が開館する
・1987年(昭和62) 演劇博物館の建物が新宿区有形文化財にも指定される
・1965年(平成7) 研究成果を発表する媒体として『演劇研究』(演劇博物館紀要)が発行開始される
・2002年(平成14) 21世紀COEプログラム、グローバルCOEプログラムなどの研究拠点にも選ばれる
・2009年(平成21) 共同利用・共同研究拠点に指定される
・2018年(平成30) 建物が改築される
・2020年(平成32) エレベーターと自動ドアが設置される
☆坪内逍遥(つぼうち しょうよう)とは?
明治時代から昭和時代前期に活躍した小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者です。美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)に、尾張藩代官所役人の父・坪内平右衛門と母・ミチの十人兄妹の末子として、役宅で生まれましたが、本名は勇蔵と言いました。
明治維新に伴って、実家のある尾張国愛知郡笹島村へ一家で移ります。1876年(明治9)に上京し、東京開成学校へ入学、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科へと進み、西洋文学に親しみました。
1883年(明治16)に卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師(後に教授)となり、翌年にシェイクスピア著『ジュリアス・シーザー』の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒」を出版します。1885年(明治18)には評論『小説神髄』を発表、小説『当世書生気質』(1885‐86年)を書いて、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となりました。
1890年(明治23)に東京専門学校に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊して、後進の育成にも努めます。また、演劇の改良を志して、戯曲『桐一葉』(1894‐95年)、『牧の方』(1896年)、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)などを発表し、俳優の育成にも尽力しました。
一方で、『国語読本』の編集にも携わり、日露戦争後の1906年(明治39)には文芸協会を組織しています。その中で、シェークスピアの研究・翻訳を続け、全作品を完訳した『沙翁全集』全40冊(1928年)も刊行しました。
このように、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残しましたが、1935年(昭和10)2月28日に、静岡県熱海市において、75歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
明治維新に伴って、実家のある尾張国愛知郡笹島村へ一家で移ります。1876年(明治9)に上京し、東京開成学校へ入学、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科へと進み、西洋文学に親しみました。
1883年(明治16)に卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師(後に教授)となり、翌年にシェイクスピア著『ジュリアス・シーザー』の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒」を出版します。1885年(明治18)には評論『小説神髄』を発表、小説『当世書生気質』(1885‐86年)を書いて、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となりました。
1890年(明治23)に東京専門学校に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊して、後進の育成にも努めます。また、演劇の改良を志して、戯曲『桐一葉』(1894‐95年)、『牧の方』(1896年)、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)などを発表し、俳優の育成にも尽力しました。
一方で、『国語読本』の編集にも携わり、日露戦争後の1906年(明治39)には文芸協会を組織しています。その中で、シェークスピアの研究・翻訳を続け、全作品を完訳した『沙翁全集』全40冊(1928年)も刊行しました。
このように、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残しましたが、1935年(昭和10)2月28日に、静岡県熱海市において、75歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
記念日 | 「文字・活字文化振興法」により制定された「文字・活字文化の日」です | 詳細 |
1876年(明治9) | 秋月の乱がおこる | 詳細 |
1903年(明治36) | 幸徳秋水と堺利彦が平民社を設立する | 詳細 |
1914年(大正3) | 詩人・俳人木下夕爾の誕生日 | 詳細 |
1933年(昭和8) | 小説家半村良の誕生日 | 詳細 |
1975年(昭和50) | 実業家・国文学者・俳人角川源義の命日 | 詳細 |
1977年(昭和52) | 日本画家前田青邨の命日 | 詳細 |