ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:演出家

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 今日は、昭和時代中期の1958年(昭和33)に、劇作家・演出家・小説家・批評家久保栄の亡くなった日です。
 久保栄(くぼ さかえ)は、明治時代後期の1900年(明治33)12月28日に、北海道札幌市において、野幌煉瓦工場社長、札幌商工会議所会頭を務めた父・久保兵太郎の次男として生まれました。1903年(明治36)に伯父熊蔵の養子となり上京、しましたが、1906年(明治39)に養父母の離婚問題で札幌に預けられ、同地の小学校に入学、1910年(明治43)に養父の再婚に伴い再び上京しています。
 府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、1917年(大正6)に第一高等学校へ入学、この頃から『ホトトギス』『水甕(みずがめ)』に投稿するようになり、翌年に投稿作品「三人の木憔の話」「悪魔と若き人麿」が島崎藤村選透谷賞に当選しました。東京帝国大学文学部独文科に進学し、在学中に翻訳した「ホオゼ」が築地小劇場で上演され、1926年(大正15)に卒業後、築地小劇場文芸部に入り、小山内薫に師事するようになります。
 1929年(昭和4)に新築地劇団結成に参加し、翌年に第一戯曲『新説国姓爺合戦』を上演したものの、日本プロレタリア演劇同盟(プロット)に加盟、「プロレタリア演劇」の創刊にあたることになりました。1933年(昭和8)に戯曲『五稜郭血書』を発表、1934年(昭和9)にプロレタリア芸術運動への弾圧強化で、プロットを解散し、新協劇団を結成、藤村原作の「夜明け前」を演出、リアリズム演劇の再出発となります。
 1935年(昭和10)に「迷えるリアリズム」(都新聞)、「社会主義リアリズムと革命的(反資本主義)リアリズム」(文学評論)、「リアリズムの一般的表象」(都新聞)を発表し、1937年(昭和12)には、代表作の戯曲『火山灰地』を刊行しました。翌年この戯曲で、小野宮吉戯曲平和賞を受賞、同作を新協劇団で初演しましたが、1940年(昭和15)に新協劇団が強制解散させられ、新劇人事件で検挙され、公的活動を遠ざかっています。
太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、滝沢修らと東京芸術劇場を設立し、1947年(昭和22)には、戦後第一作の『林檎園日記』を上演しました。1950年(昭和25)に劇団民藝の創立に参加、長編小説『のぼり窯』(未完)の執筆を試みたりしたものの、1958年(昭和33)3月15日に、東京において入院中、うつ病が悪化し、57歳で自殺しています。

〇久保栄の主要な著作

・戯曲『火山灰地』2部作(1937~38年)
・戯曲『中国湖南省』(1932年)
・戯曲『五稜郭血書』(1933年)
・評論集『新劇の書』(1939年)
・戯曲『林檎園日記』(1947年)
・評伝『小山内薫』(1947年)
・小説『のぼり窯』第一部(1952年)
・戯曲『日本の気象』(1953年)
・戯曲『吉野の盗賊』(1953年)

☆久保栄関係略年表

・1900年(明治33)12月28日 北海道札幌市において、野幌煉瓦工場社長、札幌商工会議所会頭を務めた父・久保兵太郎の次男として生まれる
・1903年(明治36) 伯父熊蔵の養子となり上京、芝区西久保八幡町に住む
・1906年(明治39) 養父母の離婚問題で札幌に預けられ、同地の小学校に入学する
・1910年(明治43) 養父の再婚に伴い再び上京、京橋区木挽町に住む
・1917年(大正6) 第一高等学校へ入学する
・1918年(大正7) 投稿作品「三人の木憔の話」「悪魔と若き人麿」が島崎藤村選透谷賞に当選する
・1926年(大正15) 東京帝国大学独文科を卒業、築地小劇場文芸部に入り、小山内薫に師事する
・1929年(昭和4) 新築地劇団結成に参加する
・1930年(昭和5) 第一戯曲『新説国姓爺合戦』を上演、日本プロレタリア演劇同盟(プロット)に加盟、「プロレタリア演劇」の創刊にあたる
・1933年(昭和8) 戯曲『五稜郭血書』を発表する
・1934年(昭和9) プロレタリアへ芸術運動への弾圧強化で、プロットを解散し、新協劇団を結成、藤村原作の「夜明け前」を演出、リアリズム演劇の再出発となる
・1935年(昭和10) 「迷えるリアリズム」(都新聞)、「社会主義リアリズムと革命的(反資本主義)リアリズム」(文学評論)、「リアリズムの一般的表象」(都新聞)を発表する
・1937年(昭和12) 代表作戯曲『火山灰地』を刊行する
・1938年(昭和13) 戯曲『火山灰地』で、小野宮吉戯曲平和賞を受賞、同作を新協劇団で初演する
・1940年(昭和15) 新協劇団が強制解散させられ、新劇人事件で検挙される
・1945年(昭和20) 滝沢修らと東京芸術劇場を設立する
・1947年(昭和22) 戦後第一作の『林檎園日記』を上演する
・1950年(昭和25) 劇団民藝の創立に参加する
・1958年(昭和33)3月15日 東京において入院中、うつ病が悪化し、50歳で自殺する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)明治政府が、民政方針を示す「五榜の掲示」の高札を設置する(新暦4月7日)詳細
1875年(明治8)詩人蒲原有明の誕生日詳細
1884年(明治17)「地租条例」が公布される詳細
1890年(明治23)琵琶湖疎水の第一期工事が完成し、全線通水が完了する詳細
1914年(大正3)秋田県内陸南部を震源とする秋田仙北地震(マグニチュード7.1)が起き、大きな被害を出す詳細
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 今日は、昭和時代後期の1973年(昭和48)に、劇作家・演出家・作詞家菊田一夫の亡くなった日です。
 菊田一夫(きくた かずお)は、1908年(明治41)3月1日に、神奈川県横浜市において、西郷家に生まれましたが、生後4ヵ月で両親に連れられて台湾に渡りました。その後、両親に捨てられ、転々と他の人に養育されて、5歳の時に菊田家の養子になります。
 台湾城北小学校卒業直前に、大阪の薬種問屋に丁稚奉公に出され、1920年(大正9)には、神戸元町に移り住みました。それから、大阪・神戸で小僧をして夜学に学び、1923年(大正12)に結成された「元五青年団」の機関誌「桜草」の編集人を務めます。
 1925年(大正14)に上京し、印刷工として働き、1927年(昭和2)には、サトウハチロー門下となりました。その世話で、1929年(昭和4)に浅草公園劇場の文芸部に入り、翌年に玉木座の『阿呆(あほう)疑士迷々伝』で注目され、1933年(昭和8)には、古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として迎え入れられます。
 1935年(昭和10)に古川ロッパが退団して東宝に所属となるとね翌年に東宝に移籍して東宝文芸部の主力となりました。1943年(昭和18)に戯曲『花咲く港』を発表、本格的な劇作家としてスタートしたものの、戦時中は岩手県江刺市(現在の奥州市)に疎開します。
 太平洋戦争後、東京に戻り、作曲家の古関裕而とコンビを組むようになり、1947年(昭和22)からラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(~1950年)の放送を手掛け、注目されました。1952年(昭和27)にラジオドラマ『君の名は』(~1954年)の放送が開始されると、空前の大ヒットとなり、1953年(昭和28)には、松竹において、三部作で映画化されます。
 1955年(昭和30)に小林一三の招きで、東宝の取締役(演劇担当役員)に就任、1957年(昭和32)には、東宝芸術座を創設、東宝演劇部の総帥としての仕事に取り組みました。1959年(昭和44)に演劇『がめつい奴』(製作・脚本・演出)が初演され、翌年に菊池寛賞を受賞、1961年(昭和46)には、芸術選奨文部大臣賞(演劇部門)も受賞します。
 1963年(昭和48)に東宝劇場で『マイ・フェア・レディ』を制作・上演し、ミュージカル・ブームに火をつけ、1966年(昭和51)には、新装開場した帝劇で『風と共に去りぬ』を世界で初めて劇化し、上演しました。1970年(昭和55)に『風と共に去りぬ』をミュージカル化した『スカーレット』を帝劇で、次いでロンドン、パリで公演したものの、1973年(昭和48)4月4日に、東京・慶應義塾大学病院において、65歳で亡くなっています。
 尚、1975年(昭和50)に菊田の功績を記念し、演劇界の発展を願って「菊田一夫演劇賞」が東宝により創設(現在は一般社団法人映画演劇文化協会が主催)されました。

〇菊田一夫の主要な作品

・戯曲『花咲く港』(1943年)
・ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(1947~50年)
・ラジオドラマ『君の名は』(1952~54年)
・戯曲『がめつい奴』(1959年)
・戯曲『がしんたれ』(1960年)
・戯曲『放浪記』(1961年)

☆菊田一夫関係略年表

・1908年(明治41)3月1日 神奈川県横浜市において、生まれる
・1908年(明治41) 生後4カ月で両親に連れられ台湾に渡る
・1913年(大正2) 5歳のときに、菊田家の養子になる
・1920年(大正9) 神戸元町に移り住む
・1923年(大正12) 結成された「元五青年団」の機関誌「桜草」の編集人を務める
・1925年(大正14) 上京し、印刷工として働く
・1927年(昭和2) サトウハチロー門下となる
・1929年(昭和4) 浅草公園劇場の文芸部に入る
・1930年(昭和5) 玉木座の『阿呆(あほう)疑士迷々伝』で注目される
・1933年(昭和8) 古川ロッパらにより、浅草常盤座で旗揚げされた劇団「笑の王国」に座付き作家として迎え入れられる
・1935年(昭和10) 古川ロッパが退団して東宝に所属となる
・1936年(昭和11) 東宝に移籍して東宝文芸部の主力となる
・1943年(昭和18) 戯曲『花咲く港』を発表、本格的な劇作家としてスタートする
・1947年(昭和22) ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の放送が始まる(~1950年)
・1952年(昭和27) ラジオドラマ『君の名は』の放送が始まり、空前の大ヒットとなる(~1954年)
・1953年(昭和28) 『君の名は』が松竹で三部作映画化される
・1955年(昭和30) 小林一三の招きで、東宝の取締役(演劇担当役員)に就任する
・1957年(昭和32) 東宝芸術座を創設、東宝演劇部の総帥としての仕事に取り組む
・1962年(昭和37)4月23日 開かれた「学者・文化人による民社党をはげます会」に尾崎士郎・徳川夢声・平林たい子らと共に出席する
・1959年(昭和44) 演劇『がめつい奴』(製作・脚本・演出)が初演される
・1960年(昭和45) 劇作家の生活向上を目的として、川口松太郎、中野実、北條秀司、菊田一夫で「劇作家四人の会」を結成、演劇『がめつい奴』で菊池寛賞を受賞する
・1961年(昭和46) 演劇『がめつい奴』、『がしんたれ』で芸術選奨文部大臣賞(演劇部門)を受賞する
・1963年(昭和48) 東宝劇場で『マイ・フェア・レディ』を制作・上演し,ミュージカル・ブームに火をつける
・1966年(昭和51) 新装開場した帝劇で『風と共に去りぬ』を世界で初めて劇化し、上演する
・1970年(昭和55) 『風と共に去りぬ』をミュージカル化した『スカーレット』を帝劇で、次いでロンドン、パリで公演する
・1973年(昭和48)4月4日 東京・慶應義塾大学病院において、65歳で亡くなる
・1975年(昭和50) 菊田の功績を記念し、演劇界の発展を願って菊田一夫演劇賞が東宝により創設(現在は一般社団法人映画演劇文化協会が主催)される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1284年(弘安7)鎌倉幕府第8代執権北条時宗の命日(新暦4月20日)詳細
1609年(慶長14)江戸時代の大名・備前岡山藩初代藩主池田光政の誕生日(新暦5月10日)詳細
1885年(明治18)小説家中里介山の誕生日詳細
1949年(昭和24)「団体等規制令」が公布・施行される詳細
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 今日は、明治時代中頃の1889年(明治22)に、劇作家・演出家・小説家・俳人久保田万太郎の生まれた日です。
 久保田万太郎(くぼた まんたろう)は、東京府東京市浅草区浅草田原町(現在の台東区雷門)で袋物製造販売業を営む父・勘五郎と母・ふさの子として生まれました。1903年(明治36)に東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)へ入学しましたが、4年への進級試験で数学の点が悪く落第したために中退、慶應義塾普通部3年へ転校、1909年(明治42)には、慶應義塾大学部予科文学部入学します。
 在学中に、三田俳句会で出会った岡本松浜に俳句を習い、その紹介で松根東洋城に俳句を師事、1911年(明治44)には、「三田文学」に小説『朝顔』発表、千野菊次郎の筆名で応募した戯曲『プロローグ』が「太陽」の懸賞に当選しました。1912年(明治45)に第一作品集『浅草』を刊行、1914年(大正3)に慶應義塾大学文学科を卒業、浅草区駒形に移り、翌年には、小山内薫を盟主として古劇研究会を作ります。
 1916年(大正5)に市村座に「句楽会」という句会が出来ると、傘雨の号で俳句を再開、翌年に初期の代表的小説『末枯』を書き、1919年(大正8)には、慶應義塾大学の講師として作文を担当しました。その後、戯曲『雨空』(1920年)、『短夜』(1925年)などを執筆して劇作家として活躍、1926年(大正15)には、慶應義塾大学講師を辞して、東京中央放送局(現在のNHK)に嘱託として勤め始めます。
 1927年(昭和2)に芥川龍之介が序文を担当して、第一句集『道芝』を刊行、1929年(昭和4)に樋口一葉の『十三夜』をラジオドラマに脚色して放送、1931年(昭和6)には、東京中央放送局(現在のNHK)の文芸課長に就き、常勤となりました。1932年(昭和7)に友田恭助・田村秋子夫妻が結成した築地座の演出を引き受け、1934年(昭和9)には、水原秋桜子や富安風生らによって発足した「いとう句会」の宗匠として招かれます。
 1937年(昭和12)に岸田国士、岩田豊雄らと劇団文学座を結成して演出を数多く手がけ、1942年(昭和17)には、菊池寛賞を受賞しました。戦時下において、同年に日本文学報国会劇文学部幹事長に就任、翌年には日本演劇社社長となりましたが、1945年(昭和20)の空襲で被災し、家財・蔵書のほとんどすべてを失っています。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に俳句誌「春燈」を創刊し主宰、翌年には帝国芸術院(その後日本芸術院)会員となりました。1951年(昭和26)にNHK放送文化賞を受賞、日本演劇協会会長となり、翌年に日本文芸家協会名誉会員となり、1954年(昭和29)には、共立女子大学の講師ともなります。
 1957年(昭和32)に文化勲章を受章、文化功労者となり、小説『三の酉』で第8回読売文学賞を受賞したものの、1963年(昭和38)5月6日に、東京都新宿区の梅原龍三郎邸での宴席で赤貝のにぎり寿司を喉に詰まらせ、73歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」
・「神田川祭の中をながれけり」
・「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」
・「さびしさは木をつむあそびつもる雪」
・「あきかぜのふきぬけゆくや人の中」
・「水中花咲かせしまひし淋しさよ」
・「時計屋の時計春の夜どれがほんと」
・「あきくさをごつたにつかね供へけり」
・「叱られて目をつぶる猫春隣」

〇久保田万太郎の主要な著作

・小説『朝顔』(1911年)
・戯曲『プロローグ』(1911年)雑誌「太陽」の懸賞当選
・第一作品集『浅草』(1912年)
・小説『末枯(うらがれ)』(1917年)
・戯曲『雨空』(1920年)
・戯曲『短夜』(1925年)
・小説『寂しければ』(1926年)
・戯曲『心ごころ』(1926年)
・第一句集『道芝』(1927年)
・戯曲『大寺学校』(1927年)
・小説『春泥(しゅんでい)』(1928年)
・小説『花冷(はなび)え』(1938年)
・小説『市井人』(1949年)
・小説『うしろかげ』(1950年)
・小説『三の酉』(1956年)第8回読売文学賞受賞
・句集『流寓抄』(1958年)
・句集「流寓抄以後』(1963年)

☆久保田万太郎関係略年表

・1889年(明治22)11月7日 東京府東京市浅草区浅草田原町三丁目(現在の台東区雷門)で袋物製造販売業を営む家に生まれる
・1903年(明治36) 東京府立第三中学校(現在の東京都立両国高等学校)へ入学する
・1906年(明治39) 東京府立第三中学校の4年への進級試験で数学の点が悪く落第したために中退、慶應義塾普通部3年へ転校する
・1909年(明治42) 慶應義塾大学部予科文学部入学、三田俳句会で出会った岡本松浜に俳句を師事する
・1910年(明治43) 松浜を介して松根東洋城に俳句を師事する
・1911年(明治44) 「三田文学」に小説『朝顔』発表、千野菊次郎の筆名で応募した戯曲『プロローグ』が「太陽」の懸賞に当選する
・1912年(明治45) 第一作品集『浅草』を刊行する
・1914年(大正3) 慶應義塾大学文学科を卒業、浅草区駒形に移る
・1915年(大正4) 小山内薫を盟主として古劇研究会を作る
・1916年(大正5) 市村座に「句楽会」という句会が出来ると、傘雨の号で俳句を再開する
・1917年(大正6) 初期の代表的小説『末枯(うらがれ)』を書く
・1918年(大正7)2月 隣家より出火して家が類焼する
・1919年(大正8) 慶應義塾大学の講師として作文を担当する
・1919年(大正8)6月 芸妓今龍(大場京)と結婚する
・1926年(大正15) 慶應義塾大学講師を辞して、東京中央放送局(現在のNHK)に嘱託として勤め始める
・1927年(昭和2) 芥川龍之介が序文を担当して、第一句集『道芝』を刊行する
・1928年(昭和3) 新潮社の日本文学講座にて「樋口一葉とその大音寺時代」を書く
・1929年(昭和4) 樋口一葉の『十三夜』をラジオドラマに脚色して放送する
・1931年(昭和6) 東京中央放送局(現在のNHK)の文芸課長に就き、常勤となる
・1932年(昭和7) 友田恭助・田村秋子夫妻が結成した築地座の演出を引き受ける
・1934年(昭和9)4月 水原秋桜子や富安風生らによって発足した「いとう句会」の宗匠として招かれる
・1935年(昭和10)11月 妻が睡眠薬の過剰摂取で死去する
・1935年(昭和10)12月 2年前に知り合った黒木はるとの間に子供ができる
・1936年(昭和11) 鉄道省・東京日日新聞主催「東西日本国立公園早廻り競争」に参加して北海道・青森をまわる
・1937年(昭和12) 岸田国士、岩田豊雄らと劇団文学座を結成する
・1942年(昭和17) 日本文学普及会より菊池寛賞を受賞する
・1942年(昭和17)4月 日本文学報国会劇文学部幹事長となる
・1943年(昭和18) 日本演劇社社長となる
・1945年(昭和20)5月 空襲で被災し、家財・蔵書のほとんどすべてを失う
・1946年(昭和21) 俳句誌「春燈」を創刊し主宰、三田きみと結婚する
・1947年(昭和22) 帝国芸術院(その後日本芸術院)会員となる
・1951年(昭和26) NHK放送文化賞を受賞する
・1951年(昭和26)4月 日本演劇協会会長となる
・1952年(昭和27) 日本文芸家協会名誉会員となる
・1954年(昭和29) 共立女子大学の講師となる
・1957年(昭和32) 文化勲章を受章、文化功労者となり、小説『三の酉』で第8回読売文学賞を受賞する
・1963年(昭和38)5月6日 東京都新宿区の梅原龍三郎邸での宴席で赤貝のにぎり寿司を喉に詰まらせ、73歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3)足利尊氏が室町幕府の基本的な政治方針「建武式目」を制定(新暦12月10日)詳細
1922年(大正11)学生連合会(社会科学研究会の連合組織)が結成される詳細
1983年(昭和58)奈良県高市郡明日香村のキトラ古墳で玄武の壁画が発見される詳細
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