
府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、1917年(大正6)に第一高等学校へ入学、この頃から『ホトトギス』『水甕(みずがめ)』に投稿するようになり、翌年に投稿作品「三人の木憔の話」「悪魔と若き人麿」が島崎藤村選透谷賞に当選しました。東京帝国大学文学部独文科に進学し、在学中に翻訳した「ホオゼ」が築地小劇場で上演され、1926年(大正15)に卒業後、築地小劇場文芸部に入り、小山内薫に師事するようになります。
1929年(昭和4)に新築地劇団結成に参加し、翌年に第一戯曲『新説国姓爺合戦』を上演したものの、日本プロレタリア演劇同盟(プロット)に加盟、「プロレタリア演劇」の創刊にあたることになりました。1933年(昭和8)に戯曲『五稜郭血書』を発表、1934年(昭和9)にプロレタリア芸術運動への弾圧強化で、プロットを解散し、新協劇団を結成、藤村原作の「夜明け前」を演出、リアリズム演劇の再出発となります。
1935年(昭和10)に「迷えるリアリズム」(都新聞)、「社会主義リアリズムと革命的(反資本主義)リアリズム」(文学評論)、「リアリズムの一般的表象」(都新聞)を発表し、1937年(昭和12)には、代表作の戯曲『火山灰地』を刊行しました。翌年この戯曲で、小野宮吉戯曲平和賞を受賞、同作を新協劇団で初演しましたが、1940年(昭和15)に新協劇団が強制解散させられ、新劇人事件で検挙され、公的活動を遠ざかっています。
太平洋戦争後の1945年(昭和20)に、滝沢修らと東京芸術劇場を設立し、1947年(昭和22)には、戦後第一作の『林檎園日記』を上演しました。1950年(昭和25)に劇団民藝の創立に参加、長編小説『のぼり窯』(未完)の執筆を試みたりしたものの、1958年(昭和33)3月15日に、東京において入院中、うつ病が悪化し、57歳で自殺しています。