ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:溝口健二

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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、溝口健二監督の映画『山椒太夫』がベネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した日です。
 映画『山椒太夫』(さんしょうだゆう)は、昭和時代中期の1954年(昭和29)3月31日に、大映で封切られた、監督:溝口健二、脚本:八尋不二・依田義賢、撮影:宮川一夫による日本の時代劇映画で、モノクロ、スタンダードサイズ(126分)です。森鴎外の小説『山椒大夫』を映画化したもので、出演は、田中絹代、花柳喜章、香川京子、進藤英太郎、菅井一郎ほかでした。
 平安時代末期、農民を救うため将軍にたてついた平正氏が左遷され、妻の玉木、娘の安寿と息子の厨子王は越後を旅している途中、人買いにだまされ離ればなれになってしまい、玉木は佐渡に、安寿と厨子王は丹後の山椒大夫に奴隷として売られ、兄弟はそれから10年もの間、奴隷としての生活を続けるが、ついに意を決して逃げ出し、追っ手に迫られ、安寿は厨子王を逃すため池に身を投げるという物語です。海外でも高く評価され、ベネチア国際映画祭で銀獅子賞を獲得、溝口は『西鶴一代女』、『雨月物語』に次いで3年連続でベネチア国際映画祭での入賞となります。ラストの海のシーンはジャン=リュック・ゴダール監督が「気狂いピエロ」で引用したことでも知られてきました。

〇映画『山椒太夫』の受賞一覧

・ベネチア国際映画祭銀獅子賞
・キネマ旬報ベスト・テンで日本映画ベスト・テン9位

☆溝口健二(みぞぐち けんじ)とは?

 大正時代から昭和時代に活躍した日本を代表する映画監督の一人です。明治時代後期の1898年(明治31)5月16日に、東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区)で、父・溝口善太郎と母・まさの長男として生まれました。
 小学校卒業後、美術修行や新聞社勤務を経て、1920年(大正9)に日活向島撮影所に助監督として入社し、1923年(大正12)に、『愛に甦へる日』で監督に昇進すると、現代劇や探偵劇など新たなジャンルの創出に参画します。関東大震災後、京都の日活大将軍撮影所に移り、『紙人形春の囁き』(1926年)などで下町情緒を描き、評価されるようになりました。
 1929年(昭和4)の世界恐慌後は、傾向映画の『都会交響楽』(1929年)やトーキーの『ふるさと』(1930年)を撮るなど新たなチャレンジもします。1934年(昭和9)に、独立プロダクション第一映画に入って『浪華悲歌』(1936年)と『祇園の姉妹』(1936年)を製作、徹底したリアリズムによって名声を高めました。
 太平洋戦争中は、『元禄忠臣蔵』(1941~42年)などの歴史ものを作りました。戦後は低迷期を経て、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒太夫』(1954年)がベネチア映画祭で3年連続受賞し、海外での評価も一気に高まり、ヌーベル・バーグの監督をはじめ、多くの信奉者を得ます。徹底したリアリズムによる作風、カメラを長回しする「ワンシーン・ワンカット」の技法によっても知られましたが、1956年(昭和31)8月24日に、京都市内の病院において、58歳で亡くなりました。

<監督映画作品一覧>

・『愛に甦へる日』(1923年)
・『紙人形春の囁き』(1926年)
・『都会交響楽』(1929年)
・『唐人お吉』(1930年)
・『ふるさと』(1930年)
・『滝の白糸』(1933年)
・『浪華悲歌』(1936年)
・『祇園の姉妹』(1936年)
・『残菊物語』(1939年)
・『芸道一代男』(1941年)
・『浪花女』(1940年)
・『元禄忠臣蔵』(1941~42年)
・『夜の女たち』(1948年)
・『お遊(ゆう)さま』(1951年)
・『武蔵野夫人』(1951年)
・『西鶴一代女』(1952年)ベネチア国際映画祭国際賞受賞
・『祇園囃子』(1953年)
・『雨月物語』(1953年)ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞1位受賞
・『山椒太夫』(1954年)ベネチア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞4位受賞
・『近松物語』(1954年)芸術選奨、ブルーリボン賞(監督賞)受賞
・『楊貴妃(ようきひ)』(1955年)
・『赤線地帯』(1956年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1797年(寛政9)浮世絵師歌川広重の命日(新暦10月12日)詳細
1919年(大正8)「帝国美術院規程」(大正8年勅令第417号)によって、帝国美術院が創設される詳細
1938年(昭和13)氷見町大火が起こり、死者5名、負傷者510名、焼失家屋1,543棟を出す詳細
1941年(昭和16)御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定する詳細
1945年(昭和20)トルーマン米大統領が「降伏後における米国の初期対日方針」を承認し、マッカーサーに指令する詳細
1954年(昭和29)黒澤明監督の映画『七人の侍』がベネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞する詳細
1998年(平成10)映画監督・脚本家黒澤明の命日詳細
2018年(平成30)北海道胆振東部地震(M6.7)が起こり、死者41人、負傷者675人が出る詳細
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 今日は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に、溝口健二監督の映画『雨月物語』がベネチア映画祭で銀獅子賞を受賞した日です。
 映画『雨月物語』(うげつものがたり)は、昭和時代中期の1953年(昭和28)に製作された溝口健二監督、川口松太郎・依田義賢脚本による日本映画です。江戸時代の上田秋成著の読本『雨月物語』全9話の中から、「浅茅が宿」と「蛇性の婬」を元に、川口松太郎と依田義賢が脚色、出演は、京マチ子、森雅之、田中絹代ほかでした。
 戦国時代の琵琶湖畔の陶工と農民の兄弟が戦国の動乱に巻込まれる悲劇で、貧しい陶工が死霊の女に迷ったり、亡妻の幻と再会する幻想が幽玄な雰囲気とリアルな描写で語られ、溝口監督の卓越した演出により映画の詩に昇華しています。国際的に評価され、第14回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞、撮影の宮川一夫も第4回文部省芸術選奨に輝き、第8回毎日映画コンクール美術賞、録音賞を受賞、さらに、エディンバラ国際映画祭においてデヴィッド・O・セルズニック賞も受賞しました。

〇溝口健二(みぞぐち けんじ)とは?

 大正時代から昭和時代に活躍した日本を代表する映画監督の一人です。明治時代後期の1898年(明治31)5月16日に、東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区)で、父・溝口善太郎と母・まさの長男として生まれました。
 小学校卒業後、美術修行や新聞社勤務を経て、1920年(大正9)に日活向島撮影所に助監督として入社し、1923年(大正12)に、『愛に甦へる日』で監督に昇進すると、現代劇や探偵劇など新たなジャンルの創出に参画します。関東大震災後、京都の日活大将軍撮影所に移り、『紙人形春の囁き』(1926年)などで下町情緒を描き、評価されるようになりました。
 1929年(昭和4)の世界恐慌後は、傾向映画の『都会交響楽』(1929年)やトーキーの『ふるさと』(1930年)を撮るなど新たなチャレンジもします。1934年(昭和9)に、独立プロダクション第一映画に入って『浪華悲歌』(1936年)と『祇園の姉妹』(1936年)を製作、徹底したリアリズムによって名声を高めました。
 太平洋戦争中は、『元禄忠臣蔵』(1941~42年)などの歴史ものを作りました。戦後は低迷期を経て、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒太夫』(1954年)がベネチア映画祭で3年連続受賞し、海外での評価も一気に高まり、ヌーベル・バーグの監督をはじめ、多くの信奉者を得ます。徹底したリアリズムによる作風、カメラを長回しする「ワンシーン・ワンカット」の技法によっても知られましたが、1956年(昭和31)8月24日に、京都市内の病院において、58歳で亡くなりました。

☆読本『雨月物語』(うげつものがたり)とは?

 上田秋成著の読本作品で、江戸時代後期の1768年(明和5)に成立し、1776年(安永5)に刊行されました。5巻5冊からなり、日本・中国の古典・伝説から取材した、「白峰」、「菊花の約」、「浅茅が宿」、「夢応の鯉魚」、「仏法僧」、「吉備津の釜」、「蛇性の淫」、「青頭巾」、「貧福論」の9編の怪異談を集めたものです。

☆上田秋成(うえだ あきなり)とぱ?

 江戸時代の読本作者・歌人・国学者です。江戸時代中期の1734年(享保19年6月25日)に、大坂曾根崎において、母・松尾ヲサキの私生児(父は定かでない)として生まれましたが、幼名は仙次郎(通称は東作)と言いました。
 1737年(元文2)、4歳のときに堂島永来町(現在の大阪市北区堂島1丁目)で、紙油商嶋屋を営む上田茂助の養子となったものの、翌年に痘瘡にかかり生死をさまよいます。青年時代は遊蕩に耽ったとされますが、20歳前後から俳諧に親しみ、高井几圭に師事し、漁焉(ぞえん)の俳号で活躍しました。
 1760年(宝暦10)に27歳で植山たまと結婚、翌年養父が死亡して嶋屋を継ぎます。その一方で、浮世草子『諸道聴耳世間猿 』(1766年)、『世間妾形気 』(1767年)、読本『雨月物語』(1768年成立、1776年刊)などを書きながら、賀茂真淵一門の国学者・加藤宇万伎にも師事しました。
 しかし、1771年(明和8)に嶋屋が火事で類焼して破産、加島稲荷の神職方に寄寓して医術を学び、1776年(安永5)に大坂尼崎で開業します。その傍らで、国学研究にも精進し、1786年(天明6)から翌年に、本居宣長と古代の音韻および日の神をめぐる論争を行いました。
 この頃から大坂近郊の淡路庄村に隠遁し、著述活動を続けたものの、1790年(寛政2)に57歳で左眼を失明しました。晩年は京都に移って、貧苦の中で国学書や随筆集『胆大小心録』や読本『春雨物語』(ともに1808年)などを著しましたが、 1809年(文化6年6月27日)に京都において、数え年76歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1889年(明治22)政治学者で東京帝国大学の総長を務めた南原繁の誕生日詳細
1905年(明治38)「日露講和条約(ポーツマス条約)」が調印され、日露戦争が終結する詳細
日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」を巡って、東京で日比谷焼打事件が起きる詳細
1933年(昭和8)小説家・児童文学者・俳人巖谷小波の命日詳細
1946年(昭和21)太平洋戦争後初の国民学校用国史教科書『くにのあゆみ』が文部省より発行される詳細
1966年(昭和41)第2宮古島台風により宮古島で日本最高の最大瞬間風速(85.3m/s)を観測詳細
1975年(昭和50)日本画家堂本印象の命日詳細
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