ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:源頼朝

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 今日は、平安時代後期の1188年(文治4)に、源平合戦に関わって、源頼朝が藤原泰衡らに源義経追捕の宣旨を下した日ですが、新暦では3月20日となります。
 源頼朝(みなもと の よりとも)は、武家政治を本格的に始めた鎌倉幕府の初代将軍です。1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。
 1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は殺され、翌年に伊豆国に流されることになり、配流先で1177年(治承元)に、北条政子と結婚します。1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびました。
 しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。同年に、富士川の戦いで平氏軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで義経が源義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
 戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
 その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。

〇源義経(みなもと の よしつね)とは?

 平安時代末期の源平合戦で大きな戦功をあげた武将です。1159年(平治元)に、河内源氏の源義朝の九男(母は常盤)として生まれましたが、幼名は牛若丸と言いました。同年12月に平治の乱が起き、戦いに敗れた父・義朝は、翌年敗死します。平氏に捕えられ京の鞍馬寺に入れられましたが、1174年(承安4)頃ひそかに奥州平泉の藤原秀衡の下に赴いて庇護を受けました。1180年(治承4)に兄の源頼朝が挙兵すると、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝との対面を果たします。1183年(寿永2)に頼朝の代官として京へ向かい、翌年には源義仲を討って入京しました。1184年(元暦元)に平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担うことになります。1185年(文治元年2月)の屋島の戦いを制し、同年3月には壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込みました。同年4月に京へ凱旋し、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、6月に京へと戻ります。後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てて失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させました。奥州平泉へと逃れましたが、1187年(文治5)の秀衡の死後、その跡を継いだ泰衡に、1189年(文治5年閏4月30日)、衣川の館を急襲され、数え年31歳で自刃したとされます。後に、悲劇の英雄として伝説化され、文学作品の素材ともなりました。

〇源平合戦(げんぺいかっせん)とは?

 平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠の戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇の浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇の浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。
 有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係略年表

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

799年(延暦18)奈良時代から平安時代初期の貴族和気清麻呂の命日(新暦4月4日)詳細
1800年(寛政12)第120代の天皇とされる仁孝天皇の誕生日(新暦3月16日)詳細
1911年(明治44)関税自主権を完全に回復するように改正された「日米通商航海条約」が調印(4月4日公布)される詳細
1936年(昭和13)「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉が右翼に襲撃され重傷を負った、「天皇機関説テロ事件」が起きる詳細
1942年(昭和17)「食糧管理法」公布される詳細
1951年(昭和26)東ドイツの東ベルリンで世界平和評議会第1回総会が始まる詳細
1988年(昭和63)内科学者・第10代東北大学学長黒川利雄の命日詳細
1990年(平成2)新交通システムである神戸新交通六甲アイランド線[通称:六甲ライナー]が開業する詳細
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 今日は、平安時代後期の1184年(寿永3)に、源平合戦に関して、源頼朝が、後白河法皇からの平氏追討の正式な命令を受けた日ですが、新暦では3月5日となります。
 源平合戦(げんぺいかっせん)は、平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠の戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇の浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇の浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

〇源頼朝(みなもと の よりとも)とは?

 武家政治を本格的に始めた鎌倉幕府の初代将軍です。1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。
 1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は殺され、翌年に伊豆国に流されることになり、配流先で1177年(治承元)に、北条政子と結婚します。1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびました。
 しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。同年に、富士川の戦いで平氏軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで義経が源義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
 戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
 その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。

〇後白河天皇(ごしらかわてんのう)とは?

 第77代とされる天皇です。平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。
 1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。
 1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と4朝30余年にわたる)を始めました。
 1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。
 一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。
 尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

☆源平合戦関係年表

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・1月26日 源頼朝が、後白河法皇からの平氏追討の正式な命令を受ける
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)神田松枝町大火が起き、10,673戸を焼失し、36,542人の被災者を出す詳細
1933年(昭和8)小説家・放送作家藤本義一の誕生日詳細
1944年(昭和19)内務省が「(改正)防空法」により、東京と名古屋に初の建物疎開の命令を出す詳細
1949年(昭和24)奈良の法隆寺金堂が火災により焼損する(文化財防火デー)詳細
1958年(昭和33)旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没、167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)詳細
1997年(平成9)小説家藤沢周平の命日詳細
2006年(平成18)「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細
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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、源頼朝と源義經の兄弟が、駿河国の黄瀬川で初めて対面(黄瀬川の対面)した日ですが、新暦では11月10日となります。
 黄瀬川の対面(きせがわのたいめん)は、平安時代後期の1180年(治承4年10月20日)の源平合戦の一つ、富士川の戦いで平氏軍を敗走させた翌日に、源頼朝と源義經の兄弟が、駿河国の黄瀬川で初めての対面を言います。源頼朝は、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たしました。
 『吾妻鏡』によると「弱冠一人」、『源平盛衰記』によると20余騎を率いていたと書かれていますが、『平治物語』によれば、頼朝と義経が対面したのは、頼朝勢が鎌倉から足柄・箱根を越え黄瀬川に向かう途上の大庭野(現在の神奈川県藤沢市大庭)とされています。今も八幡神社の御殿西側には兄弟が対面した記念のため、みずから植えたと伝えられる「ねじり柿」二本とともに、対面石が置かれてきました。
 以下に、『吾妻鏡』第一巻の黄瀬川の対面の部分を現代語訳と共に掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『吾妻鏡』第一巻

(原文)

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。

…(中略)…

今日。弱冠一人。彳御旅舘之砌。稱可奉謁鎌倉殿之由。實平。宗遠。義實等恠之。不能執啓。移尅之處。武衛自令聞此事給。思年齢之程。奥州九郎歟。早可有御對面者。仍實平請彼人。果而義經主也。即參進御前。互談往事。催懷舊之涙。就中。白河院御宇永保三年九月。曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕於奥州。与將軍三郎武衡。同四郎家衡等遂合戰。于時左兵衛尉義光候京都。傳聞此事。辞朝廷警衛之當官。解置弦袋於殿上。潜下向奥州。加于兄軍陣之後。忽被亡敵訖。今來臨尤協彼佳例之由。被感仰云々。此主者。去平治二年正月。於襁褓之内。逢父喪之後。依繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持。爲出家登山鞍馬。至成人之時。頻催會稽之思。手自加首服。恃秀衡之猛勢。下向于奥州。歴多年也。而今傳聞武衛被遂宿望之由。欲進發之處。秀衡強抑留之間。密々遁出彼舘首途。秀衡失恪惜之術。追而奉付繼信忠信兄弟之勇士云々。

…(後略)…

(読下し文)

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。

…(中略)…

今日弱冠一人御旅舘之砌に彳む[1]。鎌倉殿[2]に謁し奉る可し之由を稱す。實平、宗遠、義實等之を恠み、執啓に不能、尅を移す之處、武衛自ら此の事を聞か令め給ひ、年齡之程を思うに奥州の九郎[3]歟。早く御對面有る可し者り。仍て實平彼の人を請ず。果而、義經主也。即ち御前に參進し、互いに往事[4]を談じ、懷舊之涙を催す[5]。就中に[6]、白河院[7]の御宇[8]、永保三年九月、曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕奥州に於て、將軍三郎武衡、同じき四郎家衡等与合戰を遂ぐ。時于左兵衛尉義光、京都に候て此の事を傳へ聞き、朝廷警衛之當官を辞し、弦袋於殿上に解き置き[9]、潜に[10]奥州へ下向し兄の軍陣于加はる之後、忽ち敵を亡ぼ被訖。今の來臨、尤も彼の佳例[11]に協う之由、感じ仰せ被ると云々。此の主者、去る平治二年正月、襁褓[12]之内に於て父の喪に逢う之後、繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持に依て、出家を爲し、鞍馬[13]に登山す。成人に至る之時、頻りに會稽之思を催し、手づ自り首服[14]を加へ、秀衡之猛勢を恃み、奥州于下向し、多年を歴る也。而して繼信忠信兄弟之勇士を付け奉ると云々。

…(後略)…

(注釈)

[1]砌に彳む:みぎりにたたずむ=軒下にじっと立っている。
[2]鎌倉殿:かまくらどの=源頼朝のこと。
[3]奥州の九郎:おうしゅうのくろう=源義経のこと。
[4]往事:おうじ=過ぎ去った事柄。昔のこと。過去。
[5]懷舊之涙を催す:かいきゅうのなみだわもよおす=懐かしく思って涙を流す。
[6]就中に:なかんづくに=その中でも。とりわけて。
[7]白河院:しらかわいん=平安後期の天皇。後三条天皇の第一皇子で、1072年即位し、摂関勢力の減退に乗じて実権を握り、1086年に堀河天皇に譲位後も、上皇として堀河・鳥羽・崇徳3天皇の43年間にわたって政務を執った。
[8]御宇:きょう=君主が天下を治めている期間。天皇の御治世。御代(みよ)。
[9]弦袋於殿上に解き置き:つるぶくろをでんじょうにときおき=勝手に辞職してしまうが、武器の一部である弓弦の袋を置いて行く事で、朝廷に敵対する意志の無いことを表明すること。
[10]潜に:せんに=(朝廷の許可を得ず)身勝手に。
[11]佳例:かれい=めでたい先例。吉例(きちれい)。
[12]襁褓:むつき=おむつ。赤子を包む衣。産着。生まれたばかりの子に着せる衣。
[13]鞍馬:くらま=現在の京都市左京区の鞍馬山麓の鞍馬川沿いにある鞍馬寺のこと。
[14]首服:しゅふく=元服すること。

(現代語訳)

治承4年(1180年)10月小21日庚子。

…(中略)…

 今日、一人の若者が宿泊所の軒下にじっと立っていて、源頼朝殿にお会いしたいと申しました。土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実は、怪しく思って取り次ぐことをしません。時間が経過していく中で、頼朝様がこの話を聞いて、年齢を考慮すると奥州の義経かも知れない。早く対面したいと云いました。そこで、土肥実平はかの人を招き入れました。その通り義経でした。直ぐに御前へ進んでお互いに過ぎ去った昔のこと語り、懐かしく思って涙を流すのでした。その中でも、白河上皇の御代の永保3年(1083年)9月、先祖の陸奥守同朝臣義家が奥州で征夷将軍清原三郎武衡・清原四郎家衡と合戦をしていた時、弟の左兵衛尉新羅三郎義光は京都に在住していて、このことを聞き知り、朝廷警護の官職を勝手に辞職して、朝廷から授けられている弓弦の袋を投げ出し、朝廷に敵対する意志の無いことを表明して、朝廷には内緒で奥州へ出向し、兄の軍隊に加わったので、まもなく敵を滅ぼすことが出来ました。今日この地へ来たのは、そのめでたい先例に似ていると感動しておっしゃられたとのこと。この義経殿は、平治2年正月に、まだ産着の中にいる内に父の死に遭遇後、継父の一条長成に育てられ出家をさせるため鞍馬寺に預けられました。成人に至った時、すごく父の仇討ちをしたいとの思いを増し、自ら元服をして、秀衡の力を頼って奥州へ下向し、年月を積み重ねました。そこで、秀衡は継信・忠信兄弟という勇士を付けてくれたとのこと。

…(後略)…

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1684年(貞享元)江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の誕生日(新暦11月27日)詳細
1800年(寛政12)伊能忠敬が180日間の第1次測量(奥州街道・蝦夷地太平洋岸)を終え、江戸に帰着する(新暦12月7日)詳細
1818年(文政元)洋風画家・蘭学者・随筆家司馬江漢の命日(新暦11月19日)詳細
1943年(昭和18)学徒出陣のため、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開かれる詳細
1946年(昭和21)「農地調整法」改正、「自作農創設特別措置法」公布により、第二次農地改革が開始される詳細
1965年(昭和40)物理学者朝永振一郎にノーベル賞(物理学賞)が贈られることが決定する詳細
1971年(昭和46)小説家志賀直哉の命日(直哉忌)詳細
1973年(昭和48)民法学者我妻栄の命日詳細
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 今日は、鎌倉時代の1195年(建久6)に、後鳥羽天皇・源頼朝・北条政子らの臨席のもとで、東大寺再建により、大仏殿の落慶法要が行われた日ですが、新暦では4月23日となります。
 東大寺(とうだいじ)は、奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇が741年(天平13年2月14日)に出した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられ、盧舎那仏(東大寺大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。
 特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。
 しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊します。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。
 その後、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、1195年(建久6)には、大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われ、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。
 また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。
 以下に、『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇東大寺大仏関係略年表

・740年(天平12年) 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心する
・741年(天平13年2月14日) 聖武天皇が「国分寺・国分尼寺建立の詔」を発する
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて「大仏造立の詔」を発する
・744年(天平16年11月13日) 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる
・745年(天平17年8月23日) 平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される
・746年(天平18年10月6日) 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う
・747年(天平19年9月29日) 大仏の鋳造が開始される
・749年(天平勝宝元年10月24日) 大仏の鋳造が終了する
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が盛大に開催される
・855年(斉衡2年) 地震で被災し、首が落下する
・861年(貞観3年) 大仏修復が終わり、朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行なう
・1180年(治承4年) 平重衡の兵火によって大仏が焼失する
・1185年(文治元年) 重源らが奔走して大仏を修復し、開眼法要が営まれる
・1195年(建久6年3月12日) 大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われる
・1567年(永禄10年) 松永久秀の兵火によって大仏が焼失する
・1610年(慶長15年) 仮堂で復興していた東大寺大仏殿が大風で倒壊する
・1685年(貞享元年) 公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得る
・1691年(元禄4年) 公慶らによって大仏が再興される
・1692年(元禄5年) 再興された大仏の開眼供養が行われる
・1709年(宝永6年) 再建された大仏殿が落慶する
・1958年(昭和33年)2月8日 「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定される

☆『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述

<原文>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衛門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。

<読み下し文>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽る。午以後雨頻りに降る。又地震。
今日東大寺供養也。雨師風伯[1]之降臨[2]、天衆地類[3]之影向[4]、其の瑞[5]揚焉[6]。
寅一點[7]、和田左衛門尉義盛、梶原平三景時、數万騎の壯士[8]を催し具し、寺の四面の近郭[9]を警固す。
日出以後、將軍家御參堂、御乘車[10]也。

【注釈】

[1]雨師風伯:うしふうはく=雨の神、風の神の意味。
[2]降臨:こうりん=天上に住むとされる神仏が地上に来臨すること。
[3]天衆地類:てんしゅじるい=天上界・地上界の神仏たち。天地の神仏。平家物語の巻第四「山門牒状」に「天衆地類も影向を垂れ」と出てくる。
[4]影向:ようごう=神仏の本体が一時応現すること。神仏が仮の姿をとって、この世に現われること。神仏が来臨すること。また、姿を見せないで現われること。
[5]其の瑞:そのずい=その縁起の良い効験は、
[6]揚焉:けちえん=著しいさま。きわだっているさま。目だつさま。あきらか。
[7]寅一點:とらのいってん=寅は1時00分~3時00分で、その2時間を5等分したのが点。1時00分~1時24分を一点、1時24分~1都48分を二点、1時48分~2時12分を三点、2時12分~2時36分を四点、2時36分~3時00分を五点。
[8]壯士:そうし=意気の豪壮なる者。勇壮な男子。血気のさかんな男。
[9]近郭:きんかく=近くの外回り。
[10]御乘車:ごじょうしゃ=牛車に乗車すること。

<現代語訳>

建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝の内は、雨だったものの晴れた。しかし、午後はまた雨が激しく降った。また地震があった。
今日は、東大寺大仏殿の落慶法要の日だ。雨の神、風の神が地上に来臨し、天上界・地上界の神仏たちが、この世に現われ、その縁起の良い効験はあきらかだ。
寅の一点(1時00分~1時24分)に、侍所長官の和田左衛門尉義盛と、副官の梶原平三景時が、数万騎の意気の豪壮なる者を指揮して、東大寺の四方の近くの外回りを警備している。
日の出以後に、将軍頼朝様は、お堂(大仏殿)へ、牛車に乗って、参上した。

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 今日は、平安時代後期の1160年(永暦元)に、平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆に配流された日ですが、新暦では4月19日となります。
 平治の乱(へいじのらん)は、平安時代後期の1160年1月19日(平治元年12月9日)に、後白河院政開始後の藤原通憲 (信西) の専横に対して不満をもった藤原信頼、源義朝が起した内乱です。1156年(保元元)の保元の乱後、これに勝利した後白河天皇は、1158年(保元3)に退位して院政を開始しましたが、院近臣や武士の間で権力争いが激化していきました。
 藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と信頼は源義朝と結んで、源平武士団の対立に結びついていきます。1160年(平治元)に清盛が熊野詣でに出かけて、京都を留守にした間隙を狙い、同年12月9日(1160年1月19日)に、藤原信頼・源義朝が院御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇の幽閉、藤原通憲(信西)の殺害という事件に発展しました。
 熊野詣での途中から清盛は、紀伊の武士湯浅宗重や熊野別当湛快らの支援を得て急遽京都に引き返し、信頼に臣従するふりをして天皇と上皇を脱出させることに成功します。同年12月26日に、源平両軍は京都の六条河原などで戦ったものの、源光保・頼政らの寝返りもあって、義朝は孤立して大敗しました。
 その結果、信頼は捕らえられて殺害され、東国に逃れようとした義朝も同年12月29日に、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって謀殺されます。翌年3月11日に義朝の子頼朝なども伊豆等へ流されて、源氏は一時衰退し、1167年(仁安2)には、平清盛が太政大臣に就任して、平氏の全盛期を迎えました。
 しかし、源平の対立は継続し、のちの源平合戦へと発展していきます。

〇源平合戦(げんぺいかっせん)とは?

 平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇ノ浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。
 有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です) 

 <保元元年(1156年)> 
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する 
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される 

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する 
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原などで戦うが敗北する 
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致に謀殺される 

<永暦元年(1160年)> 
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される 

<仁安2年(1167年)> 
・2月 平清盛が太政大臣に就任する 

<嘉応2年(1170年)> 
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される 

<承安2年(1172年)> 
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる 

<治承元年(1177年)> 
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する 

<治承3年(1179年)> 
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる 

<治承4年(1180年)> 
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す 
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する 
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する 
・6月22日 平家、福原遷都を強行する 
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する 
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる 
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる 
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する 
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する 
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する 
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く 

<養和元年(1181年)> 
・閏2月4日 平清盛が病没する 

<寿永2年(1183年)> 
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る 
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る 
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する 

<寿永3年/元暦元年(1184年)> 
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ 
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する 
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する 

<元暦2年/文治元年(1185年)> 
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る 
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する 
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる 
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許) 

 <文治3年(1187年)> 
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる

☆源頼朝(みなもと の よりとも)とは?

 武家政治を本格的に始めた鎌倉幕府の初代将軍です。1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。
 1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は殺され、翌年に伊豆国に流されることになり、配流先で1177年(治承元)に、北条政子と結婚します。1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびました。
 しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。同年に、富士川の戦いで平氏軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで義経が源義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
 戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
 その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。

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