
東大寺(とうだいじ)は、奈良時代創建の東大寺は、聖武天皇が741年(天平13年2月14日)に出した「国分寺建立の詔」によって、国ごとに建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられ、盧舎那仏(東大寺大仏)を本尊としています。何度か戦火にあって焼失していますが、転害門、正倉院、法華堂などは創建当初の建物が残され、いずれも国宝に指定されています。
特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。
しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊します。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。
その後、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、1195年(建久6)には、大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われ、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。
また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。
以下に、『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述を掲載しておきましたので、ご参照下さい。
特に正倉院の中には聖武天皇関係の宝物が数多く残され、当時の文化を伝える貴重なもので、京都国立博物館の年1回の正倉院展で見ることができます。また、法華堂の不空羂索観音像、日光・月光菩薩像、執金剛神像、戒壇堂四天王像などの国宝指定の天平仏が安置されています。
しかし、平安時代になると、失火や落雷などによって講堂や三面僧房、西塔などが焼失、南大門や大鐘楼も倒壊します。しかも、1180年(治承4)に、平重衡の軍勢により、大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失してしまいました。
その後、鎌倉時代に俊乗房重源によって再興され、1195年(建久6)には、大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われ、鎌倉文化も凝縮されています。この時代の建築物では天竺様の南大門と開山堂が残され、国宝となっています。その南大門に佇立する仁王像を作った運慶、快慶を代表とする慶派の仏師の技はすばらしいものです。
また、大仏殿は江戸時代中期の1709年(宝永6)に再建されたもので、これも国宝に指定されています。尚、1998年(平成10)には、「古都奈良の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)にも登録されました。
以下に、『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述を掲載しておきましたので、ご参照下さい。
〇東大寺大仏関係略年表
・740年(天平12年) 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心する
・741年(天平13年2月14日) 聖武天皇が「国分寺・国分尼寺建立の詔」を発する
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて「大仏造立の詔」を発する
・744年(天平16年11月13日) 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる
・745年(天平17年8月23日) 平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される
・746年(天平18年10月6日) 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う
・747年(天平19年9月29日) 大仏の鋳造が開始される
・749年(天平勝宝元年10月24日) 大仏の鋳造が終了する
・752年(天平勝宝4年4月9日) 大仏開眼供養会が盛大に開催される
・855年(斉衡2年) 地震で被災し、首が落下する
・861年(貞観3年) 大仏修復が終わり、朝廷が大法会を開催して大仏の修理落成供養を行なう
・1180年(治承4年) 平重衡の兵火によって大仏が焼失する
・1185年(文治元年) 重源らが奔走して大仏を修復し、開眼法要が営まれる
・1195年(建久6年3月12日) 大仏殿の落慶法要が後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われる
・1567年(永禄10年) 松永久秀の兵火によって大仏が焼失する
・1610年(慶長15年) 仮堂で復興していた東大寺大仏殿が大風で倒壊する
・1685年(貞享元年) 公慶は江戸幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得る
・1691年(元禄4年) 公慶らによって大仏が再興される
・1692年(元禄5年) 再興された大仏の開眼供養が行われる
・1709年(宝永6年) 再建された大仏殿が落慶する
・1958年(昭和33年)2月8日 「銅造盧舎那仏坐像(金堂安置)1躯」として国宝に指定される
☆『吾妻鏡』第十五巻の東大寺大仏殿落慶式開眼供養の記述
<原文>
建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽。午以後雨頻降。又地震。今日東大寺供養也。雨師風伯之降臨。天衆地類之影向。其瑞揚焉。寅一點。和田左衛門尉義盛。梶原平三景時。催具數万騎壯士。警固寺四面近郭。日出以後。將軍家御參堂。御乘車也。
<読み下し文>
建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝雨霽る。午以後雨頻りに降る。又地震。
今日東大寺供養也。雨師風伯[1]之降臨[2]、天衆地類[3]之影向[4]、其の瑞[5]揚焉[6]。
寅一點[7]、和田左衛門尉義盛、梶原平三景時、數万騎の壯士[8]を催し具し、寺の四面の近郭[9]を警固す。
日出以後、將軍家御參堂、御乘車[10]也。
【注釈】
[1]雨師風伯:うしふうはく=雨の神、風の神の意味。
[2]降臨:こうりん=天上に住むとされる神仏が地上に来臨すること。
[3]天衆地類:てんしゅじるい=天上界・地上界の神仏たち。天地の神仏。平家物語の巻第四「山門牒状」に「天衆地類も影向を垂れ」と出てくる。
[4]影向:ようごう=神仏の本体が一時応現すること。神仏が仮の姿をとって、この世に現われること。神仏が来臨すること。また、姿を見せないで現われること。
[5]其の瑞:そのずい=その縁起の良い効験は、
[6]揚焉:けちえん=著しいさま。きわだっているさま。目だつさま。あきらか。
[7]寅一點:とらのいってん=寅は1時00分~3時00分で、その2時間を5等分したのが点。1時00分~1時24分を一点、1時24分~1都48分を二点、1時48分~2時12分を三点、2時12分~2時36分を四点、2時36分~3時00分を五点。
[8]壯士:そうし=意気の豪壮なる者。勇壮な男子。血気のさかんな男。
[9]近郭:きんかく=近くの外回り。
[10]御乘車:ごじょうしゃ=牛車に乗車すること。
<現代語訳>
建久六年(1195)三月大十二日丁酉。朝の内は、雨だったものの晴れた。しかし、午後はまた雨が激しく降った。また地震があった。
今日は、東大寺大仏殿の落慶法要の日だ。雨の神、風の神が地上に来臨し、天上界・地上界の神仏たちが、この世に現われ、その縁起の良い効験はあきらかだ。
寅の一点(1時00分~1時24分)に、侍所長官の和田左衛門尉義盛と、副官の梶原平三景時が、数万騎の意気の豪壮なる者を指揮して、東大寺の四方の近くの外回りを警備している。
日の出以後に、将軍頼朝様は、お堂(大仏殿)へ、牛車に乗って、参上した。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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