ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:源義經

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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、源頼朝と源義經の兄弟が、駿河国の黄瀬川で初めて対面(黄瀬川の対面)した日ですが、新暦では11月10日となります。
 黄瀬川の対面(きせがわのたいめん)は、平安時代後期の1180年(治承4年10月20日)の源平合戦の一つ、富士川の戦いで平氏軍を敗走させた翌日に、源頼朝と源義經の兄弟が、駿河国の黄瀬川で初めての対面を言います。源頼朝は、黄瀬川八幡の地に本営を置き、奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たしました。
 『吾妻鏡』によると「弱冠一人」、『源平盛衰記』によると20余騎を率いていたと書かれていますが、『平治物語』によれば、頼朝と義経が対面したのは、頼朝勢が鎌倉から足柄・箱根を越え黄瀬川に向かう途上の大庭野(現在の神奈川県藤沢市大庭)とされています。今も八幡神社の御殿西側には兄弟が対面した記念のため、みずから植えたと伝えられる「ねじり柿」二本とともに、対面石が置かれてきました。
 以下に、『吾妻鏡』第一巻の黄瀬川の対面の部分を現代語訳と共に掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『吾妻鏡』第一巻

(原文)

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。

…(中略)…

今日。弱冠一人。彳御旅舘之砌。稱可奉謁鎌倉殿之由。實平。宗遠。義實等恠之。不能執啓。移尅之處。武衛自令聞此事給。思年齢之程。奥州九郎歟。早可有御對面者。仍實平請彼人。果而義經主也。即參進御前。互談往事。催懷舊之涙。就中。白河院御宇永保三年九月。曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕於奥州。与將軍三郎武衡。同四郎家衡等遂合戰。于時左兵衛尉義光候京都。傳聞此事。辞朝廷警衛之當官。解置弦袋於殿上。潜下向奥州。加于兄軍陣之後。忽被亡敵訖。今來臨尤協彼佳例之由。被感仰云々。此主者。去平治二年正月。於襁褓之内。逢父喪之後。依繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持。爲出家登山鞍馬。至成人之時。頻催會稽之思。手自加首服。恃秀衡之猛勢。下向于奥州。歴多年也。而今傳聞武衛被遂宿望之由。欲進發之處。秀衡強抑留之間。密々遁出彼舘首途。秀衡失恪惜之術。追而奉付繼信忠信兄弟之勇士云々。

…(後略)…

(読下し文)

治承四年(1180)十月小廿一日庚子。

…(中略)…

今日弱冠一人御旅舘之砌に彳む[1]。鎌倉殿[2]に謁し奉る可し之由を稱す。實平、宗遠、義實等之を恠み、執啓に不能、尅を移す之處、武衛自ら此の事を聞か令め給ひ、年齡之程を思うに奥州の九郎[3]歟。早く御對面有る可し者り。仍て實平彼の人を請ず。果而、義經主也。即ち御前に參進し、互いに往事[4]を談じ、懷舊之涙を催す[5]。就中に[6]、白河院[7]の御宇[8]、永保三年九月、曾祖陸奥守源朝臣〔義家〕奥州に於て、將軍三郎武衡、同じき四郎家衡等与合戰を遂ぐ。時于左兵衛尉義光、京都に候て此の事を傳へ聞き、朝廷警衛之當官を辞し、弦袋於殿上に解き置き[9]、潜に[10]奥州へ下向し兄の軍陣于加はる之後、忽ち敵を亡ぼ被訖。今の來臨、尤も彼の佳例[11]に協う之由、感じ仰せ被ると云々。此の主者、去る平治二年正月、襁褓[12]之内に於て父の喪に逢う之後、繼父一條大藏卿〔長成〕之扶持に依て、出家を爲し、鞍馬[13]に登山す。成人に至る之時、頻りに會稽之思を催し、手づ自り首服[14]を加へ、秀衡之猛勢を恃み、奥州于下向し、多年を歴る也。而して繼信忠信兄弟之勇士を付け奉ると云々。

…(後略)…

(注釈)

[1]砌に彳む:みぎりにたたずむ=軒下にじっと立っている。
[2]鎌倉殿:かまくらどの=源頼朝のこと。
[3]奥州の九郎:おうしゅうのくろう=源義経のこと。
[4]往事:おうじ=過ぎ去った事柄。昔のこと。過去。
[5]懷舊之涙を催す:かいきゅうのなみだわもよおす=懐かしく思って涙を流す。
[6]就中に:なかんづくに=その中でも。とりわけて。
[7]白河院:しらかわいん=平安後期の天皇。後三条天皇の第一皇子で、1072年即位し、摂関勢力の減退に乗じて実権を握り、1086年に堀河天皇に譲位後も、上皇として堀河・鳥羽・崇徳3天皇の43年間にわたって政務を執った。
[8]御宇:きょう=君主が天下を治めている期間。天皇の御治世。御代(みよ)。
[9]弦袋於殿上に解き置き:つるぶくろをでんじょうにときおき=勝手に辞職してしまうが、武器の一部である弓弦の袋を置いて行く事で、朝廷に敵対する意志の無いことを表明すること。
[10]潜に:せんに=(朝廷の許可を得ず)身勝手に。
[11]佳例:かれい=めでたい先例。吉例(きちれい)。
[12]襁褓:むつき=おむつ。赤子を包む衣。産着。生まれたばかりの子に着せる衣。
[13]鞍馬:くらま=現在の京都市左京区の鞍馬山麓の鞍馬川沿いにある鞍馬寺のこと。
[14]首服:しゅふく=元服すること。

(現代語訳)

治承4年(1180年)10月小21日庚子。

…(中略)…

 今日、一人の若者が宿泊所の軒下にじっと立っていて、源頼朝殿にお会いしたいと申しました。土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実は、怪しく思って取り次ぐことをしません。時間が経過していく中で、頼朝様がこの話を聞いて、年齢を考慮すると奥州の義経かも知れない。早く対面したいと云いました。そこで、土肥実平はかの人を招き入れました。その通り義経でした。直ぐに御前へ進んでお互いに過ぎ去った昔のこと語り、懐かしく思って涙を流すのでした。その中でも、白河上皇の御代の永保3年(1083年)9月、先祖の陸奥守同朝臣義家が奥州で征夷将軍清原三郎武衡・清原四郎家衡と合戦をしていた時、弟の左兵衛尉新羅三郎義光は京都に在住していて、このことを聞き知り、朝廷警護の官職を勝手に辞職して、朝廷から授けられている弓弦の袋を投げ出し、朝廷に敵対する意志の無いことを表明して、朝廷には内緒で奥州へ出向し、兄の軍隊に加わったので、まもなく敵を滅ぼすことが出来ました。今日この地へ来たのは、そのめでたい先例に似ていると感動しておっしゃられたとのこと。この義経殿は、平治2年正月に、まだ産着の中にいる内に父の死に遭遇後、継父の一条長成に育てられ出家をさせるため鞍馬寺に預けられました。成人に至った時、すごく父の仇討ちをしたいとの思いを増し、自ら元服をして、秀衡の力を頼って奥州へ下向し、年月を積み重ねました。そこで、秀衡は継信・忠信兄弟という勇士を付けてくれたとのこと。

…(後略)…

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1684年(貞享元)江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の誕生日(新暦11月27日)詳細
1800年(寛政12)伊能忠敬が180日間の第1次測量(奥州街道・蝦夷地太平洋岸)を終え、江戸に帰着する(新暦12月7日)詳細
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 今日は、1185年(文治元)に、屋島の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に勝利した日ですが、新暦では3月22日となります。
 この戦いは、平安時代後期の源平合戦の一つで、屋島(香川県高松市)一帯が戦場となりました。
 1185年(文治元年2月19日)、屋島に留まっていた平氏軍を源義經らが奇襲により、海上に追いやった戦いです。
 ここでは、那須与一が、船上の扇の的を射抜いたことで有名ですが、屋島からは瀬戸内海と古戦場が一望でき、屋島寺などに遺跡や遺品が残されていて、この合戦の情景を思い浮かべるには最適の場所です。
 また、周辺には、菊王丸の墓、佐藤継信の碑、駒立岩、祈り岩、義経由美流し跡、義経鞍掛松、獅子の霊巌、射落畠などの伝承地が残されています。
 以下に、「平家物語」の那須与一の名場面を引用しておきます。

〇「平家物語」(巻第十一)から抜粋

 那須与一(巻第十一)

 ・・・・・・・・
 判官、「いかに宗高あの扇の真中射て、敵に見物せさせよかし」と宣へば、与一「仕つとも存じ候はず。これを射損ずるほどならば、長き御方の御弓箭の瑕にて候ふべし。一定仕らうずる仁に、仰せ付けらるべうもや候ふらん」と申しければ、判官大きに怒つて、「今度鎌倉を立つて、西国へ赴かんずる者共は、皆義経が命を背くべからず。それに少しも子細を存ぜん殿原は、これより疾う疾う鎌倉へ帰らるべし」とぞ宣ひける。与一重ねて辞せば、悪しかりなんとや思ひけん、「さ候はば、外れんをば知り候ふまじ、御諚で候へば、仕つてこそ見候はめ」とて御前を罷り立ち、黒き馬の太う逞しきに、丸海鞘摺つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。弓取り直し、手綱掻い繰つて、汀へ向いてぞ歩ませける。御方の兵共、与一が後ろを遥かに見送りて、「一定この若者、仕つつべう存じ候ふ」と申しければ、判官世にも頼もしげにぞ見給ひける。矢比少し遠かりければ、海の面一段ばかりうち入れたりけれども、なほ扇のあはひは、七段ばかりもあるらんとぞ見えし。
 比は二月十八日酉の刻ばかりの事なるに、折節北風烈しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は揺り上げ揺り据ゑて漂へば、扇も串に定まらず、閃いたり。沖には平家舟を一面に並べて見物す。陸には源氏轡を並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふ事なし。与一目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯泉大明神、願はくは、あの扇の真中射させて賜ばせ給へ。射損ずるほどならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向くべからず。今一度本国へ迎へんと思し召さば、この矢外させ給ふな」と、心の内に祈念して、目を見開いたれば、風少し吹き弱つて、扇も射よげにぞなりにけれ。与一鏑を取つて番ひ、よつ引いてひやうと放つ。小兵といふ条、十二束三伏、弓は強し、鏑は浦響くほどに長鳴りして、過たず扇の要際、一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚がりける。春風に一揉み二揉み揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の、日出だいたるが夕日に輝いて、白波の上に、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家舷を叩いて感じたり。陸には源氏箙を叩いて、響めきけり。

                              流布本『平家物語』 より

☆源平合戦関係年表(日付は旧暦によるものです)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する
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