ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:源義経

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 今日は、平安時代後期の1185年(文治元)に、源頼朝の不興を解く為に鎌倉へ向かった源義経が、腰越で留められたため書状「腰越状」を大江広元に託した日ですが、新暦では6月23日となります。
 腰越状(こしごえじょう)は、1185年(文治元)に、源義経が、平家討滅後に、兄・頼朝の不興を蒙り、鎌倉入りを止められて腰越に留まって、頼朝の誤解を解くために、鎌倉幕府公文所別当の大江広元に宛ててその心中を記述した書状です。頼朝がこの措置に出たのは、義経が鎌倉政権の承認を経ないで朝廷の任官を受けたためであり、本書状によっても義経が鎌倉に入ることは実現しませんでした。
 仕方なく、義経は京都に引き返し、頼朝追討を決意するにいたったとされます。全文は、『吾妻鏡』に掲載されていますが、真偽については疑問がもたれてきました。
 室町時代には、『義経記』に記載され、幸若舞の素材(腰越)となり、義経の悲劇として語られています。また、江戸時代には、『古状揃』に収録され、読本の教科書として広く読まれ、明治時代初期まで、手習いの教科書として用いられました。
 以下に、『吾妻鏡』巻四に掲載されている「腰越状」を載せておきますので、ご参照下さい。

〇『吾妻鏡』巻四より

<原文>

元暦二年(1185)五月小廿四日戊午。源廷尉〔義經〕如思平 朝敵訖。剩相具前内府參上。其賞兼不疑之處。日來依有不儀之聞。忽蒙御気色。不被入鎌倉中。於腰越驛徒渉日之間。愁欝之餘。付因幡前司廣元。奉一通款状。廣元雖披覧之。敢無分明仰。追可有左右之由云々。彼書云。
 左衛門少尉源義經乍恐申上候。意趣者。被撰御代官其一。爲 勅宣之御使。傾 朝敵。顯累代弓箭之藝。雪會稽耻辱。可被抽賞之處。思外依虎口讒言。被黙止莫大之勳功。義經無犯而蒙咎。有功雖無誤。蒙御勘氣之間。空沈紅涙。倩案事意。良藥苦口。忠言逆耳。先言也。因茲。不被糺讒者實否。不被入鎌倉中之間。不能述素意。徒送數日。當于此時。永不奉拝恩顏。骨肉同胞之儀既似空。宿運之極處歟。將又感先世之業因歟。悲哉。此倏。故亡父尊靈不再誕給者。誰人申披愚意之悲歎。何輩垂哀憐哉。事新申状雖似述懷。義經受身躰髪膚於父母。不經幾時節。故頭殿御他界之間。成無實之子。被抱母之懷中。赴大和國宇多郡龍門牧之以來。一日片時不住安堵之思。雖存無甲斐之命許。京都之經廻難治之間。令流行諸國。隱身於在々所々。爲栖邊土遠國。被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟而爲平家一族追討令上洛之。手合誅戮木曾義仲之後。爲責傾平氏。或時峨々巖石策駿馬。不顧爲敵亡命。或時漫々大海凌風波之難。不痛沈身於海底。懸骸於鯨鯢之鰓。加之爲甲冑於枕。爲弓箭於業。本意併奉休亡魂憤。欲遂年來宿望之外無他事。剩義經補任五位尉之條。當家之面目。希代之重職。何事加之哉。雖然。今愁深歎切。自非佛神御助之外者。爭達愁訴。因茲。以諸神諸社牛王寳印之裏。全不挿野心之旨。奉 驚日本國中大少神祇冥道。雖書進數通起請文。猶以無御宥免。其我國神國也。神不可禀非礼。所憑非于他。偏仰貴殿廣大之御慈悲。伺便宜令達高聞。被廻秘計。被優無誤之旨。預芳免者。及積善之餘慶於家門。永傳榮花於子孫。仍開年來之愁眉。得一期之安寧。不書盡詞。併令省略候畢。欲被垂賢察。義經恐惶謹言。
    元暦二年五月日                    左衛門少尉源義經
   進上  因幡前司殿

<読み下し文>

元暦二年(1185)五月小廿四日戊午。源廷尉〔義經〕思いの如く朝敵を平げ訖。  剩へ前内府を相具し參上す。其の賞兼て不疑之處、日來不儀之聞へ有るに依て、忽ち御気色を蒙り、鎌倉中へ入被不、腰越驛[1]に於て 徒に日を渉る之間、愁欝之餘り、因幡前司廣元に付し、一通の款状[2]を奉る。廣元之を披覧す[3]と雖も、敢て分明の仰せ無く、追て左右有る可し[4]之由と云々。
彼の書に云はく。
 左衛門少尉源義經[5]  恐れ乍ら申し上げ候う意趣者、御代官の其一に撰被、勅宣之御使と爲し、朝敵を傾け、累代の弓箭之藝を顯し、會稽の耻辱を雪ぐ[6]。抽賞被る可き之處、思の外に虎口の讒言に依て、莫大之勳功を黙止被る。義經犯無くし而咎を蒙り、功有ると雖も誤り無くて、御勘氣を蒙る之間、空しく紅涙に沈む。倩、事の意を案ずるに。良藥は口に苦く、忠言は耳を逆るの、先言也。茲に因て、讒者の實否を糺被不、鎌倉中へ入被不之間、素の意を述るに不能、徒に數日を送る。此の時于當り、永く恩顏を拝し奉不。 骨肉同胞之儀既に空しきに似り。宿運之極まる處歟。將又、先世之業因を感ずる歟。悲き哉。此の倏、故亡父の尊靈再誕し給不者、誰人が愚意之悲歎を申披き、何輩が哀憐を垂ん哉。事新たに申すの状述懷に似りと雖も、義經身躰髪膚於父母に受け、幾時節を不經、故頭殿御他界之間、無實之子と成し、母之懷中に抱被[7]、大和國宇多郡龍門牧[8]へ赴く之以來、一日片時と安堵之思いに住不。甲斐無き之命許りを存ずと雖も、京都之經廻難治之間、諸國に流行令め、身於在々所々に隱す。邊土遠國を栖と爲し、土民百姓等に服仕被る[9]。然而、幸慶忽ちに純熟し而平家一族追討の爲、之を上洛令むの手合に木曾義仲を誅戮之後、平氏を責め傾けん爲、或時は峨々たる巖石を駿馬に策ち、敵を亡さん爲命を不顧。或時は漫々たる大海に風波之難を凌ぎ、身於海底に沈め、骸於 鯨鯢[10]之鰓に懸くるを不痛。之に加へ甲冑於枕と爲し、弓箭於業と爲す。本意は併ら[11]亡魂の憤りを休んじ奉り、年來の宿望を遂んと欲する之外他事無し。剩へ義經五位尉に補任之條、當家之面目、希代之重職、何事を之に加へん哉。然りと雖も[12]、今愁い深き歎き切なし。佛神の御助に非る自り之外者、爭か愁訴を達せん。茲に因て、諸神諸社牛王寳印之裏を以て、全く野心を挿不之旨、日本國中の大少の神祇冥道を請け驚かし奉る。數通の起請文を書き進めると雖も、猶以て御宥免無し。其我國は神國也。神は非礼を禀ける不可。憑む所他于非。偏に貴殿の廣大之御慈悲を仰ぎ、便宜を伺い高聞に達さ令め、秘計を廻被、誤無之旨に優ぜ被、芳免に預ら者、積善之餘慶於家門に及ばし、永く榮花於子孫に傳へん。仍て年來之愁眉を開き、一期之安寧を得んと、詞を書き盡不。 併ら  省略 令め候ひ畢。賢察を垂被んと欲す。義經恐惶謹言。
    元暦二年五月日                    左衛門少尉源義經
   進上  因幡前司殿

【注釈】

[1]腰越驛:こしごえのうまや=神奈川県鎌倉市腰越三丁目の江ノ電が取っている当たりに宿があったと推定されている。
[2]款状:かんじょう=官位を望む旨や、訴訟の趣を記した嘆願書。一般に手柄を箇条書きにして褒美を請求する手紙。
[3]廣元之を披覧す:ひろもとこれをひらんす=廣元宛の手紙を頼朝に見せた。
[4]追て左右有る可し:おつてそうあるべし=後で処置を出そう。
[5]左衛門少尉源義經:さえもんのしょうじょうみなもとのよしつね=自由任官した官職と同属待遇の「源」の文字を使っていることが、頼朝にとっては不満。
[6]會稽の耻辱を雪ぐ:かいけいのちじょくをすすぐ=中国の史記に春秋時代、呉越同舟の越王勾践は呉王夫差に破れ、会稽山に逃げたが、夫差の下僕になるという屈辱的な条件によって和睦し、助命された。後にこの恥を忘れぬために肝を舐めて頑張り、やっつけ返した話から諺になっている。
[7]母之懷中に抱被、大和國宇多郡龍門牧へ赴く:ははのふところにいだかれ、やまとのくにうたぐんりゅうもんのまきへおもむく=このシーンを昔の絵本は常盤御前が牛若を懐に抱き今若と乙若の手を引きいて雪道を歩く絵。
[8]大和國宇多郡龍門牧:やまとのくにうたぐんりゅうもんのまき=旧奈良県吉野郡吉野町龍門だが、現在の吉野町佐々羅に竜門幼稚園と竜門郵便局があるあたりらしい。興福寺領。
[9]土民百姓等に服仕被る:どみんひゃくしょうらにふくじされる=道中の糧食を得るために身分を隠し、百姓のところで使われたと言ってる。服して仕える。
[10]鯨鯢:けいげい=鯨が雄鯨で鯢が雌鯨をさし、あわせて鯨を意味する。大きな口で小さな蝦や魚を飲み込む様から多数の弱者に被害を与える極悪人またはその首謀者をさし、大きな刑罰や罪人を意味する。他に大局将棋の銀兎が成になると鯨鯢になる。
[11]本意は併ら:ほんいはしかしながら=本当のところは。
[12]然りと雖も:しかりといへども=そうは云っても。

<現代語訳>

元暦二年(1185)五月小二十四日戊午。源廷尉義経は、思い通りに平家を討伐し終わりました。そればかりか、平家の総大将の前内大臣宗盛を捕虜にして帰還しました。当然その手柄を表彰されると信じていましたが、九州での日々に命令違反が多かったので、頼朝様のお怒りをかって、鎌倉へは、入ることを許可されず、腰越宿で無意味に日を過ごしておりましたが、切なく悲しく思いましたので、前因幡守広元に託して嘆願書を捧げました。大江広元はこれを頼朝様に見ていただきましたが、特にはっきりとした回答は無く、後日決めるようにするからとの事でした。その手紙に書いてあることは、
 左衛門少尉源義経が、恐縮ではありますが申し上げたいことは、頼朝様の代官の一番に選ばれ、天皇家の使いとして、政府にたてつく平家を滅ぼし、先祖代々伝えられる弓矢を扱う武士の家の腕を奮い、父の敵討ちをしました。当然褒められるだろうと確信していましたが、思わぬ伏兵の告げ口によって、莫大なる手柄を無視されました。しかも、義經には何の罪も無いのに罰を受けて、手柄はあっても間違いはしていないのに、お怒りを受けて悲しみの血の涙にふけっております。色々と考えてみると、よく効く薬は口当たりが苦いものだし、正しい忠告は耳を逆なですると昔のことわざにもあります。今ここで、告げ口をした奴の是非を正さないで、私を鎌倉へ入れないのでは、その心を話し様も無く、虚しく日数を費やしております。今に至るまで長い間お会いしていないのでは、兄弟の情は無いのと同じじゃないですか。私の運もここまででしょうか。或いは、よほど前世で悪いことをしたので、その報いを受けているのでしょうか。悲しいことです。このようなことでは、亡き父が生き返りでもしない限り、誰が愚かな私の悲しい境遇を申し開いてくれましょうか。誰が私を哀れんで救ってくれるでしょうか。今始めて話すことは、思い出話の様ではありますが、義經はこの体を父母から授かり、幾らも経たずに父の左典厩義朝様は死んでしまい、孤児となってしまい、母の懐に抱かれて、大和国宇多郡龍門牧へ向かって以来、一日たりとも安心な日々はありませんでした。どうしようもないとは思いながらも、京都では平家の目が光っており、思うように行動も出来ないので、諸国を流浪してあちこちに隠れ住んでいました。また、目だ立たない地方の田舎に隠れ住み、土地の人達や百姓に使われてやっと凌いできました。しかし、待っていたかいがあって、時は熟し平家一族を追討するために京都へ上ったら、丁度出っくわした木曾義仲を攻め滅ぼしました。その後は、平家をやっつけるために、或る時は険しい岩だらけの山へ馬で登り、敵を滅ぼすためには自分の命を顧みませんでした。又或る時は、大きな海原を風波に翻弄され、その体は鯨の餌になってしまうかも知れないと思っても、これを気にかけませんでした。そればかりか、甲冑を枕とし、弓矢を仕事とする立派な武士魂であります。私の本音は、父の敵討ちをして殺された父の恨みを鎮めることです。その望みを遂げたいと思っていた以外には何もありません。しかも義経は、五位の検非違使に任命されたことは、源氏の家の面目を立てたまれに見る出世です。何よりも勝っていることじゃないですか。そうはいっても、今となれば情けの無い悲しいことです。神や仏の助けを借りる以外には、どうしたらこの悲しい訴えを届けることが出来ましょう。そう云う訳で、全ての神様、全ての神社、誓を守らないとばちが当たるといわれる牛王宝印の押してある紙の裏面に、全く野心を持っていない事を、日本国中の大小の神様達に約束を破ったら罰を受けても良いと誓います。何枚か誓の文書の起請文を書いてお出ししているのに、未だに許してはもらえていません。そもそも、わが国は神様の国なので、その神様に誓った起請文が通用しないのなら、他に手立てがありません。ここは貴方の寛大な哀れみの心に訴えて、機会を捉えて、頼朝様のお耳に届くように策略を練って、間違いではなかったと気付かせてもらって、私が許可をされたならば、積み重ねて余りあるほどの気配りを貴方の一族に与え、子々孫々まで大事にさせましょう。そう云う訳で、今までの悲しいことを解決し、この世の安心を与えて欲しいと思いますが、思うように書き切れませんので、簡単な文章になってしまいました。そのあたりを賢い頭で、旨く察して戴きたいとお願いします。義経拱手しながら謹んで申します。
    元暦二年五月 日                    左衛門少尉源義経
   進上   因幡前司殿

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 今日は、鎌倉時代の1183年(文治5)に、源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川の館を襲い(衣川合戦)、源義経が自害した日(閏)ですが、新暦では6月15日となります。
 源義経(みなもと の よしつね)は、平安時代末期の源平合戦で大きな戦功をあげた武将でした。1159年(平治元)に、河内源氏の源義朝の九男(母は常盤)として生まれましたが、幼名は牛若丸と言います。
 同年12月に平治の乱が起き、戦いに敗れた父・義朝は、翌年敗死しました。平氏に捕えられ京の鞍馬寺に入れられましたが、1174年(承安4)頃ひそかに奥州平泉の藤原秀衡の下に赴いて庇護を受けます。
 1180年(治承4)に兄の源頼朝が挙兵すると、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝との対面を果たしました。1183年(寿永2)に頼朝の代官として京へ向かい、翌年には源義仲を討って入京します。
 1184年(元暦元)に平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担うことになりました。1185年(文治元年2月)の屋島の戦いを制し、同年3月には壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込みます。
 同年4月に京へ凱旋し、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、6月に京へと戻りました。後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てて失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させます。
 奥州平泉へと逃れましたが、1187年(文治5)の秀衡の死後、その跡を継いだ泰衡に、1189年(文治5年閏4月30日)、衣川の館を急襲され、数え年31歳で自刃したとされてきました。後に、悲劇の英雄として伝説化され、文学作品の素材ともなっています。

〇源義経関係略年表(日付は旧暦です)

・1159年(平治元年12月) 源義朝の九男(母は常盤)として生まれる
・1160年(平治2年) 父・源義朝が敗死する
・1162年(応保2年)頃 母・常盤が一条長成と再婚する
・1169年(嘉応元年)頃、鞍馬寺で稚児となる
・1174年(承安4年) 鞍馬寺を出奔して金売吉次の案内で奥州平泉へ下る
・1180年(治承4年8月) 兄・頼朝が挙兵したので、平泉を出奔して駆けつけ、黄瀬川で頼朝と対面する
・1183年(寿永2年11月) 頼朝代官として上洛へと向かう
・1184年(元暦元年) 源義仲を討って入京、平氏との一ノ谷の戦いに勝利し、平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担う
・1185年(文治元年) 屋島の戦いを制し、壇ノ浦の戦いでも勝利して、平氏を滅亡へと追い込み京へ凱旋したものの、翌月平宗盛親子を鎌倉へ護送した折に、頼朝に鎌倉入りを拒否され、京へと戻り、後白河法皇には信任を得たものの、頼朝と不和になり、反逆を企てて失敗して京を逃れますが、頼朝は守護、地頭を設置して厳しくこれを追捕させる
・1187年(文治3年) 奥州平泉へ落ち延びるものの、庇護者藤原秀衡が亡くなる
・1189年(文治5年閏4月30日) 藤原泰衡が衣川の館を襲い(衣川合戦)、数え年31歳で自害する

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 今日は、平安時代後期の1185年(寿永4)に、壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡した日ですが、新暦では4月25日となります。
 壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代後期の源平合戦の一つで、壇ノ浦(山口県下関市)一帯が戦場となりました。同年2月19日の屋島の戦いに敗れた平氏の総帥平宗盛らは、長門彦島(現在の山口県下関市)を拠点とする平知盛の軍と合流し、九州にいた源範頼軍を背後にしながらも、兵船500余艘によって、源義経が率いる840余隻の船団を迎撃しようとします。
 壇ノ浦において、同年3月24日正午に戦いが開始され、当初は東からくる潮流にのった平氏方が有利のように見えたものの、途中から潮の流れが変わって西へ向かうようになって形勢が逆転したとされ、午後4時頃には平氏軍の敗北が決定、平家滅亡となった最後の一戦となりました。
 この時に、幼い安徳天皇は母の平徳子と共に船から海に飛び込みましたが、徳子だけが助けられます。『平家物語』には、“先帝御入水”として、書かれていて、哀惜の情を強く感じる部分でした。
 下関市には安徳天皇を祭った赤間神宮があり、この合戦で亡んだ平家一門の墓もあり、有名な耳なし芳一の話もここを舞台にしたものです。また、隣接して、安徳天皇阿弥陀寺稜もあり、毎年5月2日より3日間に亘って、先帝祭も行われてきました。
 以下に、『平家物語』(巻第十一)先帝御入水の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇安徳天皇とは?

 平安時代後期の第81代とされる天皇です。1178年(治承2)に、高倉天皇の第1皇子(母は平徳子)として生まれましたが、名は言仁と言いました。1179年(治承3)に祖父平清盛がクーデタを起こして実権を握り、翌年4月に高倉天皇の譲位により、2歳で即位させられることになります。同年6~11月まで摂津福原に遷幸しますが、翌年平清盛が死に、各地で平氏追討の動きが出てきました。1183年(寿永2)木曽義仲の入京に際し、平宗盛に擁せられて、神器を奉じて西国へ脱出し、大宰府・讃岐国屋島などに逃れます。しかし、1185年(元暦2年3月24日)に長門国壇ノ浦の戦いで平氏が源氏に敗れ、平氏一門とともに入水して、8歳で亡くなりました。

〇源平合戦とは?

 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)と呼ばれていました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する 

<文治5年(1189年)
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

☆『平家物語』(巻第十一)先帝御入水

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 主上は今年八歳にぞ成らせおはしませども、御年のほどよりは、遥かにねびさせ給ひて、御容美しう、辺も照り輝くばかりなり。御髪黒う優々として、御背中過ぎさせ給ひけり。あきれたる御有様にて、「抑も我をば何方へ具して行かんとはするぞ」と仰せければ、二位殿、稚き君に向かひ参らせ、涙をはらはらと流いて、「君は未だ知ろし召され候はずや、前世の十善戒行の御力によつて、今万乗の主とは生れさせ給へども、悪縁に引かれて、御運既に尽きさせ候ひぬ。まづ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させおはしまし、その後西に向かはせ給ひて、西方浄土の来迎に預からんと誓はせおはしまし、御念仏候ふべし。この国は粟散辺土とて、心憂き境なれば、極楽浄土とて、めでたき所へ、具し参らせ候ふぞ」と、泣く泣く掻き口説き申されければ、山鳩色の御衣に、鬢結はせ給ひて、御涙に溺れ、小さう美しき御手を合はせて、まづ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、その後西に向かはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがて抱き参らせて、「波の底にも都の候ふぞ」と慰め参らせて、千尋の底にぞ沈み給ふ。悲しきかな、無常の春の風、忽ちに花の御姿を散らし、情無きかな、分段の荒き波、玉体を沈め奉る。殿をばと名付けて、長き栖と定め、門をば不老と号して、老いせぬ扉鎖とは書きたれども、未だ十歳の内にして、底の水屑と成らせおはします。十善帝位の御果報、申すも中々おろかなり。雲上の龍降つて、海底の魚と成り給ふ。大梵高台の閣の上、釈提喜見の宮の内、古は槐門棘路の間に、九族を靡かし、今は舟の内波の下にて、御命を一時に滅ぼし給ふこそ悲しけれ。

    流布本『平家物語』(巻第十一)より

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