藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と信頼は源義朝と結んで、源平武士団の対立に結びついていきました。1160年(平治元)に清盛が熊野詣でに出かけて、京都を留守にした間隙を狙い、同年12月9日(1160年1月19日)に、藤原信頼・源義朝が院御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇幽閉、藤原通憲(信西)の殺害という事件に発展します。
熊野詣での途中から清盛は、紀伊の武士湯浅宗重や熊野別当湛快らの支援を得て急遽京都に引き返し、信頼に臣従するふりをして天皇と上皇を脱出させることに成功しました。同年12月26日に、源平両軍は京都の六条河原などで戦ったものの、源光保・頼政らの寝返りもあって、義朝は孤立して大敗します。
その結果、信頼は捕らえられて殺害され、東国に逃れようとした義朝も同年12月29日に、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって謀殺されました。翌年に義朝の子頼朝なども伊豆等へ流されて、源氏は一時衰退し、1167年(仁安2)には、平清盛が太政大臣に就任して、平氏の全盛期を迎えます。しかし、源平の対立は継続し、のちの源平合戦へと発展していきました。
以下に、『平治物語』六波羅合戦の事と義朝敗北の事を掲載しておきますので、ご参照下さい。