今日は、平安時代末期の1184年(寿永3年)に、琵琶湖畔の粟津の戦いで源義仲(木曽義仲)が討ち死にした日ですが、新暦では3月4日となります。
源義仲(みなもと の よしなか)は、1154年(久寿1年)に、清和源氏の嫡流源為義の次子義賢の次男として東国に生まれましたが、幼名は駒王丸と言いました。1155年(久寿2)に上野・北武蔵に威勢を張っていた父・義賢が鎌倉を本拠とする源義平に武蔵国大倉館で討たれましたが、遁れて信濃国へかくまわれたとされています。
木曽谷で成長し、1180年(治承4)に以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出すと、伊豆の源頼朝の挙兵後約1ヶ月で平氏討伐の旗を木曽谷に上げました。その年の内に、信濃国を手中にして、亡父の故地上野まで進出、1181年(養和元年)には、平氏側の越後の城助茂の大軍を千曲川の横田河原で壊滅し、越後を勢力圏に入れます。
1183年(寿永2年)に長子義高を鎌倉に送って頼朝と和睦し、北陸道を進攻してきた平維盛らの大軍を加賀・越中境の倶利伽羅峠の戦いで破りました。安宅・篠原の戦いにも勝利して、北陸を支配下に収め、越前国から近江国へ進軍します。
その後、比叡山を味方に引き入れて、ついに平氏一門を都落ちさせ、念願の上洛を果たしました。西海に走った平氏、東海道諸国を押さえた頼朝と並んで「天下三分の形勢」を示し、従五位下左馬頭兼越後守、次いで伊予守に任じられます。
しかし、軍隊の統制がとれずに京都の人心を失い、後白河法皇に平氏追討の院宣を受け平家追討を命じられて西下したものの、備中水島の戦いで敗れ、帰洛してからは、法皇との対立を深めました。ついに、クーデタを断行し、法皇を幽閉、近臣を追放して独裁権を握り、1184年(元暦元)には従四位下征夷大将軍となり「旭将軍」と称されます。
ところが、頼朝の命を受けて京都へ向かってきた、源義経・範頼軍との決戦に敗れ、同年1月20日に北陸道へ落ちる途中、琵琶湖畔の粟津において、数え年31歳で討ち死にしました。
〇源義仲関係略年表(日付は旧暦です)
・1154年(久寿1年) 清和源氏の嫡流源為義の次子義賢の次男として東国に生まれる
・1155年(久寿2年8月) 上野・北武蔵に威勢を張っていた父・義賢が鎌倉を本拠とする源義平に武蔵国大倉館で討たれる
・1180年(治承4年) 27歳の時、以仁王の令旨を受ける
・1180年(治承4年9月) 源頼朝の約1ヶ月のち平氏討伐の旗を木曽谷にあげる
・1181年(養和元年) 平氏側の越後の城助茂の大軍を千曲川の横田河原で壊滅し、越後を勢力圏に入れる
・1183年(寿永2年3月) 長子義高を鎌倉に送って頼朝と和睦する
・1183年(寿永2年5月11日) 北陸道を進攻してきた平維盛らの大軍を加賀・越中境の倶利伽羅峠の戦いで破る
・1183年(寿永2年6月1日) 安宅・篠原の戦いにも勝利して、北陸を支配下に収める
・1183年(寿永2年6月10日) 越前国へ進軍する
・1183年(寿永2年6月13日) 近江国へ進軍する
・1183年(寿永2年7月28日) 比叡山を味方に引き入れて、ついに平氏一門を都落ちさせ、念願の上洛を果たす
・1183年(寿永2年8月10日) 従五位下に叙し、左馬頭に任官、越後守を兼任する
・1183年(寿永2年8月16日) 越後守から伊予守しなる
・1183年(寿永2年閏10月1日) 西下した平氏を追討する備中水島の戦いに敗れる
・1183年(寿永2年10月13日) 従五位上に昇叙する
・1183年(寿永2年11月) クーデタを断行し、後白河法皇を幽閉する
・1183年(寿永2年12月1日) 院御厩別当に任官する
・1183年(寿永2年12月10日) 左馬頭を辞任する
・1184年(寿永3年1月2日) 従四位下に昇叙。昇殿を許される
・1184年(寿永3年1月15日) 征東大将軍が宣下される
・1184年(寿永3年1月20日) 北陸道へ落ちる途中、琵琶湖畔の粟津の戦いで数え年31歳で討ち死にする
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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