同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇ノ浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。
1155年(久寿2)に上野・北武蔵に威勢を張っていた父・義賢が鎌倉を本拠とする源義平に武蔵国大倉館で討たれましたが、遁れて信濃国へかくまわれたとされています。木曽谷で成長し、1180年(治承4)に以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出すと、伊豆の源頼朝の挙兵後約1ヶ月で平氏討伐の旗を木曽谷に上げました。
その年の内に、信濃国を手中にして、亡父の故地上野まで進出、1181年(養和元年)には、平氏側の越後の城助茂の大軍を千曲川の横田河原で壊滅し、越後を勢力圏に入れます。1183年(寿永2年)に長子義高を鎌倉に送って頼朝と和睦し、北陸道を進攻してきた平維盛らの大軍を加賀・越中境の倶利伽羅峠の戦いで破りました。
安宅・篠原の戦いにも勝利して、北陸を支配下に収め、越前国から近江国へ進軍します。その後、比叡山を味方に引き入れて、ついに平氏一門を都落ちさせ、念願の上洛を果たしました。
西海に走った平氏、東海道諸国を押さえた頼朝と並んで「天下三分の形勢」を示し、従五位下左馬頭兼越後守、次いで伊予守に任じられます。しかし、軍隊の統制がとれずに京都の人心を失い、後白河法皇に平氏追討の院宣を受け平家追討を命じられて西下したものの、備中水島の戦いで敗れ、帰洛してからは、法皇との対立を深めました。
ついに、クーデタを断行し、法皇を幽閉、近臣を追放して独裁権を握り、1184年(元暦元)には従四位下征夷大将軍となり「旭将軍」と称されます。ところが、頼朝の命を受けて京都へ向かってきた、源義経・範頼軍との決戦に敗れ、同年1月20日に北陸道へ落ちる途中、琵琶湖畔の粟津において、数え年31歳で討ち死にしました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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