ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:源平合戦

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 今日は、1185年(文治元)に、屋島の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に勝利した日ですが、新暦では3月22日となります。
 この戦いは、平安時代後期の源平合戦の一つで、屋島(香川県高松市)一帯が戦場となりました。
 1185年(文治元年2月19日)、屋島に留まっていた平氏軍を源義經らが奇襲により、海上に追いやった戦いです。
 ここでは、那須与一が、船上の扇の的を射抜いたことで有名ですが、屋島からは瀬戸内海と古戦場が一望でき、屋島寺などに遺跡や遺品が残されていて、この合戦の情景を思い浮かべるには最適の場所です。
 また、周辺には、菊王丸の墓、佐藤継信の碑、駒立岩、祈り岩、義経由美流し跡、義経鞍掛松、獅子の霊巌、射落畠などの伝承地が残されています。
 以下に、「平家物語」の那須与一の名場面を引用しておきます。

〇「平家物語」(巻第十一)から抜粋

 那須与一(巻第十一)

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 判官、「いかに宗高あの扇の真中射て、敵に見物せさせよかし」と宣へば、与一「仕つとも存じ候はず。これを射損ずるほどならば、長き御方の御弓箭の瑕にて候ふべし。一定仕らうずる仁に、仰せ付けらるべうもや候ふらん」と申しければ、判官大きに怒つて、「今度鎌倉を立つて、西国へ赴かんずる者共は、皆義経が命を背くべからず。それに少しも子細を存ぜん殿原は、これより疾う疾う鎌倉へ帰らるべし」とぞ宣ひける。与一重ねて辞せば、悪しかりなんとや思ひけん、「さ候はば、外れんをば知り候ふまじ、御諚で候へば、仕つてこそ見候はめ」とて御前を罷り立ち、黒き馬の太う逞しきに、丸海鞘摺つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。弓取り直し、手綱掻い繰つて、汀へ向いてぞ歩ませける。御方の兵共、与一が後ろを遥かに見送りて、「一定この若者、仕つつべう存じ候ふ」と申しければ、判官世にも頼もしげにぞ見給ひける。矢比少し遠かりければ、海の面一段ばかりうち入れたりけれども、なほ扇のあはひは、七段ばかりもあるらんとぞ見えし。
 比は二月十八日酉の刻ばかりの事なるに、折節北風烈しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は揺り上げ揺り据ゑて漂へば、扇も串に定まらず、閃いたり。沖には平家舟を一面に並べて見物す。陸には源氏轡を並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふ事なし。与一目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯泉大明神、願はくは、あの扇の真中射させて賜ばせ給へ。射損ずるほどならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向くべからず。今一度本国へ迎へんと思し召さば、この矢外させ給ふな」と、心の内に祈念して、目を見開いたれば、風少し吹き弱つて、扇も射よげにぞなりにけれ。与一鏑を取つて番ひ、よつ引いてひやうと放つ。小兵といふ条、十二束三伏、弓は強し、鏑は浦響くほどに長鳴りして、過たず扇の要際、一寸ばかり置いて、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海に入りければ、扇は空へぞ揚がりける。春風に一揉み二揉み揉まれて、海へさつとぞ散つたりける。皆紅の扇の、日出だいたるが夕日に輝いて、白波の上に、浮きぬ沈みぬ揺られけるを、沖には平家舷を叩いて感じたり。陸には源氏箙を叩いて、響めきけり。

                              流布本『平家物語』 より

☆源平合戦関係年表(日付は旧暦によるものです)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する
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 今日は、1184年(寿永3)に、一ノ谷の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に圧勝した日ですが、新暦では3月20日となります。
 この戦いは、平安時代後期の源平合戦の一つで、一ノ谷(兵庫県神戸市須磨区)一帯が戦場となりました。
 1184年(寿永3年2月7日)に源義経・範頼軍が再挙を計った平氏軍を一ノ谷に襲い、海上に敗走させた戦いで、義経の鵯越の奇襲戦法が知られています。
 また、須磨海岸の波打ち際での平敦盛と熊谷直実一騎打ちによって打たれた敦盛の話は、「平家物語」中でも最も悲しく哀れを誘う場面として有名です。
 須磨寺には敦盛愛用の青葉の笛、合戦時に弁慶が安養寺から長刀の先に掛けて担いできて陣鐘の代用にしたという弁慶の鐘などの宝物があります。また、境内には、敦盛の首塚、義経の腰掛け松などの史跡があり、古来から「平家物語」を偲んで文人墨客が訪れている所です。
 それを示すように松尾芭蕉、正岡子規、与謝蕪村、尾崎放哉などの句碑や歌碑が建てられています。須磨浦公園には、敦盛塚や源平合戦800年記念碑などあって当時の合戦を思い出させてくれます。
 以下に、流布本「平家物語」(巻第九)の“敦盛”の名場面を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇「平家物語」(巻第九)

 敦盛

 さるほどに一谷の軍敗れにしかば、武蔵国の住人、熊谷次郎直実、平家の君達助け舟に乗らんとて、汀の方へや落ち行き給ふらん、あつぱれよき大将軍に組まばやと思ひ、渚を指して歩まする処に、ここに鶴縫うたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒を締め、金作の太刀を帯き、二十四差いたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持ち、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗つたる武者一騎、沖なる舟を目にかけ、海へさつとうち入れ、五六段ばかり泳がせける。熊谷、「あれはいかに、よき大将軍とこそ見参らせ候へ。正なうも敵に後ろを見せ給ふものかな。返させ給へ返させ給へ」と、扇を挙げて招きければ、招かれて取つて返し、渚に打ち上がらんとし給ふ処に、波打際にて押し並び、むずと組んで、どうと落ち、取つて押さへて首を馘かんとて、内甲を押し仰けて見たりければ、年の齢十六七ばかりなるが、薄仮粧して鉄漿黒なり。我が子の小次郎が齢ほどにて、容顔まことに美麗なりければ、何処に刀を立つべしとも覚えず。「いかなる人にて渡らせ給ひやらん。名乗らせ給へ。助け参らせん」と申せば、「汝は誰そ、名乗れ聞かう」「物その者では候はねども、武蔵国の住人熊谷次郎直実」と名乗り申す。「汝が為にはよい敵ぞ。名乗らずとも首を取つて人に問へ。見知らうずるぞ」とぞ宣ひける。熊谷、「あつぱれ大将軍や。この人一人討ち奉りたりとも、負くべき軍に勝つ事はよもあらじ。また助け奉るとも、勝つ軍に負くる事もよもあらじ。我が子の小次郎が薄手負うたるをだに直実は心苦しう思ふぞかし。この殿の父討たれ給ひぬと聞き給ひてさこそは嘆き悲しび給はんずらめ。助け参らせん」とて、後ろを顧みたりければ土肥、梶原五十騎ばかりで出で来たり。熊谷涙をはらはらと流いて、「あれ御覧候へ。いかにもして助け参らせんとは存じ候へども、御方の軍兵雲霞の如くに満ち満ちて、よも遁れ参らせ候はじ。あはれ同じうは直実が手に懸け奉つてこそ、後の御孝養をも仕り候はめ」と申しければ、「ただいかやうにも疾う疾う首を取れ」とぞ宣ひける。熊谷あまりにいとほしくて、何処に刀を立つべしとも覚えず、目も眩れ心も消え果てて、前後不覚に覚えけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く泣く首をぞ馘いてける。「あはれ弓矢取る身ほど口惜しかりける事はなし。武芸の家に生れずば、何しに只今かかる憂き目をば見るべき。情なうも討ち奉つたるものかな」と、袖を顔に押し当て、さめざめとぞ泣き居たる。首を包まんとて、鎧直垂を解いて見ければ、錦の袋に入れられたりける笛をぞ腰に差されたる。「あないとほし、この暁城の内にて、管絃し給ひつるは、この人々にておはしけり。当時御方に東国の勢、何万騎かあるらめども、軍の陣へ笛持つ人はよもあらじ。上臈はなほも優しかりけるものを」とて、これを取つて大将軍の御見参に入れたりければ、見る人涙を流しけり。
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                         流布本『平家物語』 より
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 今日は、鎌倉時代前期の1199年(建久10)に、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が亡くなった日ですが、新暦では2月9日となります。
 源頼朝は、1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は亡くなり、翌年に伊豆国に流されることになります。
 1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦に敗れて海路安房国に逃げのびました。しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。
 同年に、富士川の戦で平家軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
 戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。
 1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
 その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。
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