ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:源平合戦

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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、石橋山の戦いで、300騎の源頼朝が3,000余騎の大庭景親に敗れた日ですが、新暦では9月14日となります。
 石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)は、平安時代後期の源平合戦の一つで、石橋山(神奈川県小田原市)一帯が戦場となりました。1180年(治承4)8月に、伊豆に流されていた源頼朝と平氏方の大庭景親らとが戦ったところです。
 小田原市南部にあり、この周辺で源頼朝軍300騎と大庭景親ら3,000余騎が刃を交えたのですが、多勢に無勢で源頼朝軍の大敗に終わり、敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びることになりました。戦いのあった場所に石橋山古戦場の碑が立ち、近くにこの戦いで死んだ佐奈田与一を祀る佐奈田霊社と与一塚や同じく戦死した陶山文三家康を祀る文三堂などがあります。

〇源平合戦(げんぺいかっせん)とは?

 平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出し、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇ノ浦の戦い)は、(治承・寿永の乱)とも呼ばれてきました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。 

☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)> 
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する 
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される 

<平治元年(1159年)> 
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する 
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する 
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される 

<永暦元年(1160年)> 

・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される 

<仁安2年(1167年)> 
・2月 平清盛が太政大臣に就任する 

<嘉応2年(1170年)> 
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される
 
<承安2年(1172年)> 
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる
 
<治承元年(1177年)> 
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する 

<治承3年(1179年)> 
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる 

<治承4年(1180年)> 
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す 
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する 
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する 
・6月22日 平家、福原遷都を強行する 
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する 
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる 
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる 
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する 
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する 
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する 
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く 

<養和元年(1181年)> 
・閏2月4日 平清盛が病没する 

<寿永2年(1183年)> 
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る 
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る 
・10月14日日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する 

<寿永3年/元暦元年(1184年)> 
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ 
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する 
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する 

<元暦2年/文治元年(1185年)> 
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る 
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する 
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる 
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許) 

<文治3年(1187年)> 
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる 
・10月29日 藤原秀衡が病没する  

<文治5年(1189年)> 
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ 
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する 
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する 
・9月3日 藤原泰衡が殺害される 
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1914年(大正3)第一次世界大戦で、「日英同盟」を理由に日本がドイツに宣戦布告する詳細
1942年(昭和17)日本画家竹内栖鳳の命日詳細
1944年(昭和19)「学徒勤労令」が公布・施行される詳細
「女子挺身勤労令」が公布・施行される詳細
1975年(昭和50)中央自動車道の恵那山トンネル(当時日本最長の道路トンネル)が開通する詳細
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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、伊豆に流されていた源頼朝が、以仁王の令旨を受けて挙兵し、山木館を襲撃した日ですが、新暦では9月8日となります。
 源頼朝の挙兵(源頼朝の挙兵)は、平安時代後期、1180年(治承4年5月26日)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝は、同年8月17日に、ついに挙兵に踏み切り、舅の北条時政と謀って伊豆国の目代山木兼隆(やまきかねたか)を討ち、緒戦に快勝したものです。しかし、続く8月23日の石橋山の戦いでは平氏方の大庭景親(おおばかげちか)勢に惨敗したものの、源平合戦後半(治承・寿永の乱)の始まりとなりました。

〇源平合戦(げんぺいかっせん)とは?

 平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出し、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇ノ浦の戦い)は、(治承・寿永の乱)とも呼ばれてきました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。 

☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)> 
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する 
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される 

<平治元年(1159年)> 
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する 
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する 
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される 

<永暦元年(1160年)> 

・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される 

<仁安2年(1167年)> 
・2月 平清盛が太政大臣に就任する 

<嘉応2年(1170年)> 
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される
 
<承安2年(1172年)> 
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる
 
<治承元年(1177年)> 
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する 

<治承3年(1179年)> 
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる 

<治承4年(1180年)> 
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す 
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する 
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する 
・6月22日 平家、福原遷都を強行する 
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する 
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる 
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる 
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する 
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する 
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する 
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く 

<養和元年(1181年)> 
・閏2月4日 平清盛が病没する 

<寿永2年(1183年)> 
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る 
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る 
・10月14日日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する 

<寿永3年/元暦元年(1184年)> 
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ 
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する 
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する 

<元暦2年/文治元年(1185年)> 
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る 
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する 
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる 
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許) 

<文治3年(1187年)> 
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる 
・10月29日 藤原秀衡が病没する  

<文治5年(1189年)> 
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ 
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する 
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する 
・9月3日 藤原泰衡が殺害される 
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)経世家・陽明学者熊沢蕃山の命日(新暦9月9日)詳細
1945年(昭和20)小説家島木健作の命日詳細
1949年(昭和24)国鉄東北本線の旅客列車が福島県内で転覆させられる事故(松川事件)が起こる詳細
1963年(昭和38)みどり丸沈没事故が起き、死者・行方不明者112名を出す詳細
1965年(昭和40)小説家・詩人高見順の命日詳細
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 今日は、平安時代後期の1185年(寿永4)に、壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡した日ですが、新暦では4月25日となります。
 壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代後期の源平合戦の一つで、壇ノ浦(山口県下関市)一帯が戦場となりました。同年2月19日の屋島の戦いに敗れた平氏の総帥平宗盛らは、長門彦島(現在の山口県下関市)を拠点とする平知盛の軍と合流し、九州にいた源範頼軍を背後にしながらも、兵船500余艘によって、源義経が率いる840余隻の船団を迎撃しようとします。
 壇ノ浦において、同年3月24日正午に戦いが開始され、当初は東からくる潮流にのった平氏方が有利のように見えたものの、途中から潮の流れが変わって西へ向かうようになって形勢が逆転したとされ、午後4時頃には平氏軍の敗北が決定、平家滅亡となった最後の一戦となりました。
 この時に、幼い安徳天皇は母の平徳子と共に船から海に飛び込みましたが、徳子だけが助けられます。『平家物語』には、“先帝御入水”として、書かれていて、哀惜の情を強く感じる部分でした。
 下関市には安徳天皇を祭った赤間神宮があり、この合戦で亡んだ平家一門の墓もあり、有名な耳なし芳一の話もここを舞台にしたものです。また、隣接して、安徳天皇阿弥陀寺稜もあり、毎年5月2日より3日間に亘って、先帝祭も行われてきました。
 以下に、『平家物語』(巻第十一)先帝御入水の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇安徳天皇とは?

 平安時代後期の第81代とされる天皇です。1178年(治承2)に、高倉天皇の第1皇子(母は平徳子)として生まれましたが、名は言仁と言いました。1179年(治承3)に祖父平清盛がクーデタを起こして実権を握り、翌年4月に高倉天皇の譲位により、2歳で即位させられることになります。同年6~11月まで摂津福原に遷幸しますが、翌年平清盛が死に、各地で平氏追討の動きが出てきました。1183年(寿永2)木曽義仲の入京に際し、平宗盛に擁せられて、神器を奉じて西国へ脱出し、大宰府・讃岐国屋島などに逃れます。しかし、1185年(元暦2年3月24日)に長門国壇ノ浦の戦いで平氏が源氏に敗れ、平氏一門とともに入水して、8歳で亡くなりました。

〇源平合戦とは?

 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)と呼ばれていました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する 

<文治5年(1189年)
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

☆『平家物語』(巻第十一)先帝御入水

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 主上は今年八歳にぞ成らせおはしませども、御年のほどよりは、遥かにねびさせ給ひて、御容美しう、辺も照り輝くばかりなり。御髪黒う優々として、御背中過ぎさせ給ひけり。あきれたる御有様にて、「抑も我をば何方へ具して行かんとはするぞ」と仰せければ、二位殿、稚き君に向かひ参らせ、涙をはらはらと流いて、「君は未だ知ろし召され候はずや、前世の十善戒行の御力によつて、今万乗の主とは生れさせ給へども、悪縁に引かれて、御運既に尽きさせ候ひぬ。まづ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させおはしまし、その後西に向かはせ給ひて、西方浄土の来迎に預からんと誓はせおはしまし、御念仏候ふべし。この国は粟散辺土とて、心憂き境なれば、極楽浄土とて、めでたき所へ、具し参らせ候ふぞ」と、泣く泣く掻き口説き申されければ、山鳩色の御衣に、鬢結はせ給ひて、御涙に溺れ、小さう美しき御手を合はせて、まづ東に向かはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、その後西に向かはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがて抱き参らせて、「波の底にも都の候ふぞ」と慰め参らせて、千尋の底にぞ沈み給ふ。悲しきかな、無常の春の風、忽ちに花の御姿を散らし、情無きかな、分段の荒き波、玉体を沈め奉る。殿をばと名付けて、長き栖と定め、門をば不老と号して、老いせぬ扉鎖とは書きたれども、未だ十歳の内にして、底の水屑と成らせおはします。十善帝位の御果報、申すも中々おろかなり。雲上の龍降つて、海底の魚と成り給ふ。大梵高台の閣の上、釈提喜見の宮の内、古は槐門棘路の間に、九族を靡かし、今は舟の内波の下にて、御命を一時に滅ぼし給ふこそ悲しけれ。

    流布本『平家物語』(巻第十一)より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1891年(明治24)度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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 今日は、平安時代後期の1183年(寿永2)5月11日に、倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲軍が平家軍を破った日ですが、新暦では6月2日となります。
 倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)は源平合戦の一つで、源(木曽)義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で、倶利伽羅峠(石川県津幡町・富山県小矢部市)一帯を戦場とした戦いですが、礪波山(となみやま)の戦いとも呼ばれてきました。
 この攻撃で義仲軍が夜襲を仕掛け、数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという奇策を行ったといわれ、平家軍は、将兵が次々に谷底に転落して壊滅し、平維盛は命からがら京へ逃げ帰ります。
 周辺には、平維盛の本陣が置かれた猿ヶ馬場や倶利伽羅不動寺、五社権現、源平供養塔などが残されてきました。

〇源平合戦とは?

 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)と呼ばれていました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

〇源平合戦関係略年表

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)>
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

☆『平家物語』より倶利伽羅峠の戦いの部分の抜粋

 倶利伽羅落(巻第七)

 さるほどに源平両方陣を合はす。陣のあはひ、僅か三町ばかりぞ寄せ合はせたる。源氏も進まず、平家も進まず。ややあつて源氏の方より、精兵を選つて、十五騎、楯の面に進ませ、十五騎が上矢の鏑を、ただ一度に平家の陣へぞ射入れたる。平家も十五騎を出だいて、十五の鏑を射返す。源氏三十騎を出だいて、三十の鏑を射さすれば、平家も三十騎を出だいて、三十の鏑を射返さす。源氏五十騎を出だせば、五十騎を出だし、百騎を出だせば、百騎を出だす。両方百騎づつ陣の面に進ませ、互ひに勝負をせんと逸りけるを、源氏の方より制して、わざと勝負をばせさせず。かやうにあひしらひ、日を待ち暮らし、夜に入つて、平家の大勢を、後ろの倶利迦羅谷へ追ひ落さんと謀りけるを、平家これをば夢にも知らず、共にあひしらひ、日を待ち暮らすこそはかなけれ。
 さるほどに北南より廻る搦手の勢一万余騎、倶利迦羅の堂の辺に廻り合ひ、箙の方立打ち叩き、鬨をどつとぞ作りける。各後ろを顧み給へば、白旗雲の如くに差し上げたり。「この山は四方巌石であんなれば、搦手よも廻らじとこそ思ひつるに、こはいかに」とぞ騒がれける。さるほどに大手より木曾殿一万余騎、鬨の声を合はせ給ふ。砥浪山の裾、松長の柳原、茱萸の木林に引き隠したりける一万余騎、日宮林に控へたる今井四郎が六千余騎も、同じう鬨の声をぞ合はせける。前後四万騎が喚く声、山も河も、ただ一度に崩るるとこそ聞えけれ。さるほどに次第に暗うはなる、前後より敵は攻め来たる。「汚しや、返せや返せや」と云ふ輩多かりけれども、大勢の傾き立ちたるは、左右なう取つて返す事の難ければ、平家の大勢後ろの倶利迦羅谷へ、我先にとぞ落ち行きける。先に落したる者の見えねば、「この谷の底にも道のあるにこそ」とて、親落せば子も落し、兄が落せば弟も続く、主落せば家子郎等も続きけり。馬には人、人には馬、落ち重なり落ち重なり、さばかり深き谷一つを、平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける。巌泉血を流し、死骸丘を成せり。さればこの谷の辺には、矢の穴、刀の瑕残つて、今にありとぞ承る。平家の御方に宗と頼まれたりける上総大夫判官忠綱、飛騨大夫判官景高、河内判官秀国も、、この谷に埋もれて失せにけり。また備中国の住人、瀬尾太郎兼康は、聞ゆる兵にてありけれども、運や尽きにけん、加賀国の住人、蔵光次郎成澄が手にかかつて、生捕にこそせられけれ。また越前国火燧城にて返り忠したりける平泉寺の長吏斎明威儀師も、捕はれて出で来たる。木曾殿、「その法師はあまりに憎きに、まづ斬れ」とて斬らせらる。大将軍維盛通盛、稀有にして加賀国へ引き退く。七万余騎が中より、僅かに二千余騎こそ遁れたれ。
 ・・・・・・・・

   流布本『平家物語』 より
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 今日は、平安時代後期の1156年(保元元)に、保元の乱が起きて、平清盛・源義朝らが崇徳上皇らの蘢る白河御所を夜襲し上皇方が敗退した日ですが、新暦では7月29日となります。
 これは、京都で起こった内乱で、鳥羽法皇と崇徳上皇との皇位継承を巡る対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、崇徳上皇・藤原頼長側は源為義・平忠正の軍を招じ入れ、後白河・忠通側は源義朝・平清盛の軍を招じ入れて交戦しました。
 半日で決着が付き、崇徳上皇・藤原頼長側が敗れ、上皇は讚岐に配流され、頼長は戦傷死、為義らは斬られたのです。
 この騒乱は、世人に大きな衝撃を与え、武士の政治的立場を飛躍的に高め、政界進出を促すことになりました。
 そして、1159年(平治元)の平治の乱へとつながり、その後の源平合戦を経て、武家政権成立へと向かっていくことになります。

〇源平合戦とは?
 平安時代後期、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、日本各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最後には平氏政権の崩壊により、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いが、「源平合戦」(治承・寿永の乱)と呼ばれていました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する

<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
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