1934年(昭和9)の第3次試験移民としていまの黒龍江省、ソ連国境に近い草原地帯に入植したのが、瑞穂村開拓団で、日本全国22県からの出身者で構成され、当時の総員は1,056人でした。1945年(昭和20)8月9日に、ソ連が対日参戦し、8月15日に日本は敗戦を迎えましたが、関東軍は開拓団を守ることが任務の一つであったにもかかわらず、ごく一部を除き、残された民間人を見捨てて逃亡し、満蒙開拓団の多くは、満蒙の地に捨て置かれた、「棄民」となります。
ソ連軍が迫り、原住民の襲撃もある中で、9月17に切羽詰まった瑞穂村開拓団1,056人の内、495人が一斉に青酸カリで集団自決したもので、ほとんどが女子、子供でした。生き残った人も辛酸をなめ、1946年(昭和21)5月に、ハルピンで生存が確認されたのはわずか71人だったとされます。
それを踏まえて、1936年(昭和11)5月11日には、日本陸軍の関東軍司令部によって「満州農業移民百万戸移住計画」が策定されます。同年8月11日に、拓務省が「二十カ年百万戸送出計画」を作成し、廣田内閣による国策の一つとして、生産の担い手として20年間で計100万戸の農家を送る計画が決定しました。
この計画の眼目は、①日満両国の関係強化、②対ソ作戦上の後備勢力として、③満州国の産業を開発するため、④日本文化による満州国の文化向上を具体的に助けるものとして、⑤過剰人口の解決策の5点です。集団移民に対しては一戸あたり1,000円、農業自由移民に対しては500円、その他の自由移民に対しては概ね200円の政府補助金が与えられることになりました。
そして、満蒙開拓移民は武装し組織的な軍事訓練を受け、治安維持や国境警備をも受け持たされたとされます。1939年(昭和14)12月22日は、「満洲開拓政策基本要綱」を阿部内閣が閣議決定・発表し、また満州国政府も,同要綱を商議決定の上発表します。これによって基本方針は、「満洲開拓政策ハ日満両国ノ一体的重要国策トシテ東亜新秩序建設ノ為ノ道義的新大陸政策ノ拠点ヲ培養確立スルヲ目途トシ特ニ日本内地人開拓農民ヲ中核トシテ各種開拓民並ニ原住民等ノ調和ヲ図リ日満不可分関係ノ強化、民族協和ノ達成、国防力ノ増強及産業ノ振興ヲ期シ兼テ農村ノ更生発展ニ資スルヲ以テ目的トス」とされました。
そして、基本要領は、この根本方針を実現するための実施事項として、①開拓用地は原則として未利用地開発主義をとり、国営とすること、②開拓民は原住民を包容融合するようにすること、③満蒙開拓青少年義勇軍を結成すること、など26項目を指示し、さらに推進されていったのです。太平洋戦争敗戦までに、日本各地から約27万人が海を渡ったとされますが、ソ連軍侵攻後、関東軍は撤退して置き去りにされ、逃避行は悲惨を極め、約8万人の死者を出し、子供たちが取り残された中国残留孤児の悲劇も起きました。
尚、満蒙開拓に送り込まれた27万人のうち、長野県出身者が約3万4千名で最も多く、全体の12.5%を占め、第2位の山形県の2.4倍でした。長野県内でも南部地域の比重が高く、長野県下伊那郡阿智村には、2013年(平成25)に「満蒙開拓平和記念館」が作られ、歴史・資料の記録・保存・展示・研究が行われています。
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