ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:満州国

manmoukaitaku001
 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、満蒙開拓団の中で、瑞穂村開拓団集団自決が起き、495人が亡くなった日です。
 瑞穂村開拓団集団自決(みずほむらかいたくだんしゅうだんじけつ)は、満州国北安省(現在の中華人民共和国黒龍江省)において、満蒙開拓団の一つである、瑞穂村開拓団において発生した、集団自決事件でした。1931年(昭和6)の満州事変を契機として、翌年には、中国東北部に日本の傀儡国家「満州国」が建国され、「王道楽土」、「五族協和」のスローガンの下で、国策により満蒙開拓団が送り出されます。
 1934年(昭和9)の第3次試験移民としていまの黒龍江省、ソ連国境に近い草原地帯に入植したのが、瑞穂村開拓団で、日本全国22県からの出身者で構成され、当時の総員は1,056人でした。1945年(昭和20)8月9日に、ソ連が対日参戦し、8月15日に日本は敗戦を迎えましたが、関東軍は開拓団を守ることが任務の一つであったにもかかわらず、ごく一部を除き、残された民間人を見捨てて逃亡し、満蒙開拓団の多くは、満蒙の地に捨て置かれた、「棄民」となります。
 ソ連軍が迫り、原住民の襲撃もある中で、9月17に切羽詰まった瑞穂村開拓団1,056人の内、495人が一斉に青酸カリで集団自決したもので、ほとんどが女子、子供でした。生き残った人も辛酸をなめ、1946年(昭和21)5月に、ハルピンで生存が確認されたのはわずか71人だったとされます。
 尚、東京都多摩市にある拓魂公苑に、「瑞穂村開拓団殉難者之碑」が建立されました。

〇満蒙開拓団(まんもうかいたくだん)とは?

 昭和時代前期の1931年(昭和6)の満州事変以後、1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦まで、「満州国」(中国東北部)や内モンゴル地区に、国策として送り込まれた農業移民団のことで、集団で開拓にあたります。関東軍司令部付東宮鉄男、同軍参謀石原莞爾、農業教育家加藤完治、農林次官石黒忠篤らの積極的な建議で、まず1932年(昭和7)から第一次として関東軍と拓務省の主導による試験移民が4年間にわたって入植しました。
 それを踏まえて、1936年(昭和11)5月11日には、日本陸軍の関東軍司令部によって「満州農業移民百万戸移住計画」が策定されます。同年8月11日に、拓務省が「二十カ年百万戸送出計画」を作成し、廣田内閣による国策の一つとして、生産の担い手として20年間で計100万戸の農家を送る計画が決定しました。
 この計画の眼目は、①日満両国の関係強化、②対ソ作戦上の後備勢力として、③満州国の産業を開発するため、④日本文化による満州国の文化向上を具体的に助けるものとして、⑤過剰人口の解決策の5点です。集団移民に対しては一戸あたり1,000円、農業自由移民に対しては500円、その他の自由移民に対しては概ね200円の政府補助金が与えられることになりました。
 そして、満蒙開拓移民は武装し組織的な軍事訓練を受け、治安維持や国境警備をも受け持たされたとされます。1939年(昭和14)12月22日は、「満洲開拓政策基本要綱」を阿部内閣が閣議決定・発表し、また満州国政府も,同要綱を商議決定の上発表します。これによって基本方針は、「満洲開拓政策ハ日満両国ノ一体的重要国策トシテ東亜新秩序建設ノ為ノ道義的新大陸政策ノ拠点ヲ培養確立スルヲ目途トシ特ニ日本内地人開拓農民ヲ中核トシテ各種開拓民並ニ原住民等ノ調和ヲ図リ日満不可分関係ノ強化、民族協和ノ達成、国防力ノ増強及産業ノ振興ヲ期シ兼テ農村ノ更生発展ニ資スルヲ以テ目的トス」とされました。
 そして、基本要領は、この根本方針を実現するための実施事項として、①開拓用地は原則として未利用地開発主義をとり、国営とすること、②開拓民は原住民を包容融合するようにすること、③満蒙開拓青少年義勇軍を結成すること、など26項目を指示し、さらに推進されていったのです。太平洋戦争敗戦までに、日本各地から約27万人が海を渡ったとされますが、ソ連軍侵攻後、関東軍は撤退して置き去りにされ、逃避行は悲惨を極め、約8万人の死者を出し、子供たちが取り残された中国残留孤児の悲劇も起きました。
 尚、満蒙開拓に送り込まれた27万人のうち、長野県出身者が約3万4千名で最も多く、全体の12.5%を占め、第2位の山形県の2.4倍でした。長野県内でも南部地域の比重が高く、長野県下伊那郡阿智村には、2013年(平成25)に「満蒙開拓平和記念館」が作られ、歴史・資料の記録・保存・展示・研究が行われています。

☆満蒙開拓関係略年表

<1931年(昭和6)>
・9月18日 中華民国奉天郊外の柳条湖事件を契機に、満州事変が起こる

<1932年(昭和7)>
・3月1日 満洲国が建国される
・9月15日 「日満議定書」が締結される
・10月3日 拓務省第一次農業移民416人が、満蒙開拓団第一陣として満洲へ出発する

<1933年(昭和8)>
・5月31日 河北省塘沽において日本軍と中国軍との間の塘沽停戦協定により、満州事変の軍事的衝突は停止される

<1936年(昭和11)>
・5月11日 日本陸軍の関東軍司令部によって「満州農業移民百万戸移住計画」が策定される
・8月11日 拓務省が「二十カ年百万戸送出計画」を作成する
・8月25日 「国策ニ関スル閣議決定」によって、廣田内閣による七大国策の一つ「対満重要策ノ確立」として決定される

<1937年(昭和12)>
・7月7日 盧溝橋事件が起き、日中全面戦争へ突入する
・11月30日 「満州に対する青少年移民送出に関する件」が閣議決定され、「満州青年移民実施要項」が作られる

<1938年(昭和13)>
・1月 満州青年移民の募集が開始される

<1939年(昭和14)>
・5月11日 満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐってノモンハン事件が起きる
・6月7日 満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会・大行進が明治神宮外苑競技場で開催される
・12月22日 「満洲開拓政策基本要綱」を阿部内閣が閣議決定し、発表する

<1941年(昭和16)>
・4月13日 日ソ間の領土領域の不可侵を約した「日ソ中立条約」が締結される
・12月8日 米英両国に宣戦布告し、太平洋戦争が始まる
・12月31日 「満洲開拓第2期5箇年計画要綱」を東条内閣が閣議決定する

<1943年(昭和18)>
・11月22日 「満洲国緊急農地造成計画ニ対スル協力援助ニ関スル件」を東条内閣が閣議決定する

<1945年(昭和20)>
・8月8日 「日ソ中立条約」を破棄したソ連軍が満州に攻め込む
・8月15日 正午に戦争終結の詔書が放送(玉音放送)され、日本が太平洋戦争に敗れる
・8月18日 満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡する
・9月17日 瑞穂村開拓団集団自決によって、495人が亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1062年(康平4)源頼義が安倍貞任を厨川の柵で破り、前九年の役が終結する(新暦10月22日)詳細
1867年(慶応3)俳人・歌人正岡子規の誕生日(新暦10月14日)詳細
1868年(明治元)日本初の洋式燈台である観音崎灯台が起工する(新暦11月1日)詳細
1938年(昭和13)俳人村上鬼城の命日(鬼城忌)詳細
1945年(昭和20)枕崎台風が枕崎に上陸、日本を縦断し、死者・行方不明者3,758人が出る詳細
1964年(昭和39)日本初の旅客用モノレールとなる東京モノレール(羽田空港~浜松町)が開業する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ryuujyoukojiken01
 今日は、昭和時代前期の1931年(昭和6)に、柳条湖事件が起き、満州事変が始まった日です。
 満州事変(まんしゅうじへん)は、中国東北部の奉天(今の瀋陽)郊外での柳条湖事件を契機に始まり、1933年(昭和8)5月31日の「塘沽 (タンクー) 協定」 での停戦まで続いた日本の満州(中国東北部)に対する軍事行動でした。日露戦争後の1905年(明治38)9月4日締結の「ポーツマス条約」で利権を得た南満州鉄道株式会社 (満鉄) を拠点として、日本は満州に対する独占的支配に乗出し、政治的経済的進出をはかります。
 その中で、関東軍が奉天郊外の柳条湖で満鉄を爆破し、これを中国軍の行為であるとして「自衛のため」と称して満鉄沿線一帯で軍事行動(柳条湖事件)を起しました。若槻礼次郎内閣は、ただちに不拡大方針を取りましたが、現地軍は政府の方針を無視して、同年10月の錦州爆撃などにより南満州を占領、さらに北部満州の占領を企図し、11月チチハル占領、翌年2月にはハルビンを占領、以後北満の主要都市を占領して、東三省(奉天・吉林・黒竜江の3省)におよぶ満州全域を支配下におさめます。
 そして、1932年(昭和7)3月9日に、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政に就任させて傀儡国家「満州国」を建国させました。日本国内では、若槻礼次郎内閣が倒れて、犬養毅内閣が成立していましたが、五・一五事件によって犬養毅首相が暗殺され、斎藤実内閣に取って代られます。
 そして、9月15日に斎藤実内閣は「日満議定書」に調印して正式に満州国を承認しました。そこで、国際連盟は中国の提訴により満州事変に関して、リットン調査団を派遣し、柳条湖事件は日本の自衛行動と認めず、満州国も否定する報告書を採択、日本軍の東北撤退を勧告することとなります。
 しかし、日本はこれを拒否し、1933年(昭和8)2月からの熱河作戦で熱河省を占領、3月に国際連盟を脱退、5月31日には、中国との間で「塘沽協定」を結び停戦して、中国東北部での権益を確保し、「満州国」を既成事実化させることで満州事変は一応終わりました。これらのことにより、国際連盟やアメリカとの対立を深め、この後、1937年(昭和12)7月7日の蘆溝橋事件による日中戦争全面化から、1941年(昭和16)12月8日の太平洋戦争開戦へと進んでいくこととなります。
 以下に、満州事変に関する政府第一次声明と政府第二次声明を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇満州事変関係略年表

<1931年(昭和6)>

・5月28日 汪兆銘ら広東に国民政府を樹立する
・6月27日 北満密偵中の中村大尉殺害される(8.17 関東軍、公表)
・7月2日 万宝山事件が起きる
・9月18日 関東軍が奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破(柳条湖事件)、関東軍これを理由に総攻撃を始める(満州事変開始)
・9月19日 関東軍が奉天城を占領する
・9月28日 親日派軍閥が国民政府からの離脱を宣言する
・11月8日 天津で日中両軍激突、溥儀が天津を脱出する
・11月19日 関東軍がチチハルを占領する
・11月27日 中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)が樹立(主席は毛沢東)される
・12月28日 関東軍が錦州に進撃する

<1932年(昭和7)>

・1月1日 蒋介石と汪兆銘合体し、新国民政府が樹立(広東政府解消)される
・1月3日 関東軍が錦州占領し、黒竜江省独立宣言を出す
・1月5日 広東政府が解消される
・1月21日 満鉄調査会が新設される
・1月28日 上海事変が勃発(日本海軍の陸戦隊と中国軍が衝突)する
・2月5日 関東軍がハルビンを占領する
・3月1日 満州国建国宣言が発表される
・3月9日 溥儀が満州国執政に就任する
・4月26日 中華ソビエト政府が日本に宣戦布告する
・5月5日 上海からの日中両軍撤退の上海停戦協定に調印する
・5月15日 五・一五事件(海軍青年将校らが犬養首相を暗殺)が起きる
・6月11日 満州国が「貨幣法」を公布する
・6月15日 満州中央銀行が設立される
・7月11日 満州国が大同学院を設立する
・7月14日 関税自主声明が出される
・9月15日 「日満議定書」が調印そされ、日本は満州国を正式承認する
・10月15日 チャムスに第一次武装移民団が到着する
・12月1日 満州国に日本大使館が開設される

<1933年(昭和8)>

・1月1日 山海関で日中軍が衝突する
・1月3日 日本軍が山海関を占領する
・1月30日 ヒトラーがドイツ首相に就任する
・2月9日 満州国有鉄道経営を満鉄に委託する
・2月23日 関東軍が熱河省への進攻作戦を開始する
・3月4日 日本軍が熱河省承徳を占領する
・3月27日 日本政府が国際連盟脱退を通告する
・4月1日 満州国が非承認国に門戸封鎖する
・5月31日 「塘沽停戦協定」が成立し、一応満州事変が終結する

☆「満州事変に関する政府第一次声明」1931年(昭和6)9月24日

一、帝國政府ハ常ニ日華兩國ノ親交ヲ篤クシ共存共榮ノ實ヲ擧クルコトヲ一定ノ方針トシ終始之カ實現ヲ期シテ苦心努力シ來レリ不幸ニシテ過去數年間中國官民ノ言動ハ屢我國民的感情ヲ刺戟スルモノアリ殊ニ我國ノ最緊密ナル利害關係ヲ有スル滿蒙地方ニ於テ最近不快ナル事件頻發シ竟ニ我友好公正ナル政策モ中國側ヨリ同一ノ精神ヲ以テ酬ユル所トナラサルカ如キ印象ヲ我國民一般ノ心裡ニ與ヘ物情騒然タルニ當リ偶々九月十八日夜半奉天附近ニ於テ中國軍隊ノ一部ハ南滿洲鐵道ノ線路ヲ破壞シ我守備隊ヲ襲撃シ之ト衝突スルニ至レリ 

二、當時滿鐵沿線ヲ守備セル日本軍ノ兵力ハ總計僅ニ一萬四百ヲ過キサリシニ反シ其ノ四邊ニハ二十二萬ノ中國軍隊アリ事態俄ニ急迫ヲ吿ケ之ト共ニ同地方ニ居住スル百萬ノ帝國臣民モ亦重大ナル不安ノ狀ニ陥リタルニ顧ミ我軍隊ハ機先ヲ制シテ危險ノ原因ヲ艾除スルノ必要ヲ認メ此ノ目的ノ爲迅速ニ行動ヲ開始シテ抵抗ヲ排除シ附近ニ駐屯スル中國軍隊ノ武裝ヲ解キ地方治安ノ維持ニ付テハ中國ノ自治機關ヲ督勵シテ其ノ任ニ當ラシメタリ 

三、我軍隊ハ前記ノ目的ヲ遂行スルヤ概ネ鐵道附屬地內ニ歸還終結シ目下附屬地外ニアリテハ警戒ノ爲奉天城內及吉林ニ若干ノ部隊並ニ數個ノ地點ニ小數ノ兵員ヲ配置スト雖何レモ軍事占領ニ非ス或ハ帝國官憲カ營口稅關又ハ鹽務署ヲ占領セリト云ヒ或ハ四平街、鄭家屯間、又ハ奉天新民屯間ノ中國鐵道ヲ管理セリト云フカ如キ流說ハ全然誤傳ニ止マリ長春以北又ハ間島ニ我軍隊ノ出動セリト云フモ亦事實無根ナリ 

四、帝國政府ハ九月十九日緊急閣議ヲ開キテ此ノ上事態ヲ擴大セシメサルコトニ極力努ムルノ方針ヲ決シ陸軍大臣ヨリ之ヲ滿洲駐屯軍司令官ニ訓令セリ九月二十一日長春ヨリ吉林ニ一部隊出動セルモ是レ同地方ノ軍事占領ヲ行ハムカ爲ニ非スシテ滿鐵ニ對スル側面ヨリノ脅威ヲ除カムトセルニ外ナラス從テ此ノ目的ヲ逹スルニ至ラハ我出動部隊ノ大部分ハ直ニ長春ニ歸還スル筈ナリ尙九月二十一日ニ至リ滿鐵沿線ノ不安ニ鑑ミ朝鮮駐屯軍ヨリ混成一旅團兵四千ヲ新ニ滿洲駐屯軍司令官ノ麾下ニ屬セシメタルモ滿洲駐屯軍ノ總兵數ハ尙條約所定ノ制限內ニ止マリ固ヨリ對外關係ニ於ケル事態ヲ擴大セルモノト謂フヘカラス 

五、帝國政府カ滿洲ニ於テ何等ノ領土的慾望ヲ有セラルハ茲ニ反覆縷說スルノ要ナシ我カ期待スル所ハ畢竟帝國臣民カ安ンシテ各般ノ平和的事業ニ從事シ其ノ資本又ハ勞力ヲ以テ地方ノ開發ニ參加スルノ機會ヲ得セシメムトスルニアリ自國並自國臣民ノ正當ニ享有スル權利利益ヲ擁護スルハ政府當然ノ職責ニシテ滿鐵ニ對スル危害ヲ排除セムトスルモ亦此ノ趣旨ニ外ナラス帝國政府ハ固ヨリ日華善隣ノ誼ヲ重ンスルニ於テ旣定ノ方針ヲ恪守スルモノナルカ故ニ今次ノ不祥事ヲシテ國交ノ破壞ニ至ラシメス更ニ進ンテ禍根ヲ將來ニ斷ツヘキ建設的方策ヲ講セムカ爲誠意中國政府ト協力スルノ覺悟ヲ有ス之ニ依リテ兩國間現下ノ難局ヲ打開シ禍ヲ轉シテ福ト爲スコトヲ得ハ帝國政府ノ欣幸之ニ如カラサルナリ 

         「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より
 
☆「満州事変に関する政府第二次声明」1931年(昭和6)10月26日

一、十月二十二日聯盟理事會ニ提出セラレタル帝國政府ノ滿鐵附屬地內歸還問題並日華直接交涉開始問題ニ關スル決議案ニ對シ日本理事ハ數項ニ互ル修正案ヲ提出シ十月二十四日採決ノ結果右修正案並決議案ハ孰レモ全會一致ヲ得スシテ不成立ニ了レリ 

二、今次ノ滿洲事變ハ全ク中國軍憲ノ挑發的行動ニ起因セルコト帝國政府ノ累次宣明セル所ニシテ帝國軍ノ少數部隊カ目下尙滿鐵附屬地外數ケノ地點ニ駐マルハ帝国臣民ノ生命財產ノ保護ノ爲萬已ムヲ得サルニ出テタルモノナリ固ヨリ之カ爲ニ帝國カ紛爭解決條件ヲ中國ニ强制スルノ手段トナリ得ヘキモノニ非ス兵力的威壓ヲ以テ中國トノ交涉ニ臨マムトスルカ如キハ毫モ帝國政府ノ豫想セサル所ナリ 

三、帝國政府ハ夙ニ日華關係ノ大局ヲ考察シ其ノ密接複雜ナル政治的並經濟的關係ヲ構成スル各種ノ分子中帝國ノ國民的生存ニ關スル權益ハ絕對ニ之カ變改ヲ許ササルノ決意ヲ示シ旣ニ各般ノ機會ニ於テ此ノ趣旨ヲ言明セリ不幸ニシテ近時中國ニ於ケル所謂國權回復ノ運動漸次極端ニ奔リ且排日ノ思想ハ諸學校ノ敎科書中公然鼓吹セラレテ根底旣ニ深ク今ヤ條約又ハ歷史ヲ無視シテ帝國ノ國民的生存ニ關スル權益サヘ著々破壞セムトスルノ傾向歷然タルモノアリ此ノ際帝國政府ニ於テ單ニ中國政府ノ保障ニ倚賴シ軍隊ノ全部滿鐵附屬地內歸還ヲ行フカ如キハ事態ヲ更ニ惡化セシメ帝国臣民ノ安全ヲ危險ニ暴露スルモノニシテ多年ノ歷史並中國現下ノ國情ハ明カニ其ノ危險ノ實在ヲ證ス 

四、從テ帝國政府ハ在滿帝國臣民ノ安全ヲ確保セムカ爲ニハ先ツ兩國ノ國民的反感及疑惑ヲ除クノ方法ヲ講スルノ外ナキヲ認メ之ニ必要ナル基礎的大綱ヲ中國政府ト會商スルノ用意アル旨十月九日外務大臣ノ在東京中國公使宛公文中ニ言明シ聯盟理事會ニモ之ヲ通報セリ帝國政府ハ時局拾收ノ途カ一ニ以上ノ見地ニ基クヘキコトヲ確信シ理事會ノ討議ニ當リテ終始一貫之ヲ主張セリ其ノ會商セムトスル大綱トシテ帝國政府ノ考慮スル所ハ(1)相互的侵略政策及行動ノ否認、(2)中國領土保全ノ尊重、(3)相互ニ通商ノ自由ヲ妨害シ及國際的增惡ノ念ヲ煽動スル組織的運動ノ徹底的取締、(4)滿洲ノ各地ニ於ケル帝國臣民ノ一切ノ平和的業務ニ對スル有效ナル保護及(5)滿洲ニ於ケル帝國ノ條約上ノ權益尊重ニ關スルモノナリ帝國政府ハ右各項カ全然國際聯盟ノ目的及精神ニ合致シ極東平和ノ根帶ヲ成スヘキ當然ノ原則ナルヲ以テ固ヨリ世界公論ノ支持ヲ得ヘキコトヲ疑ハス聯盟理事會ニ於テ帝國代表者カ之ヲ議題トセサリシハ其ノ性質上日華直接交涉ノ問題タルヘキモノト認メタルカ爲ナリ 

五、熟ラ日華兩國ノ前途ヲ考フルニ今日ノ急務ハ雙方協力シテ速ニ時局ノ拾收ヲ圖リ以テ共存共榮ノ大道ニ步ヲ進ムルニ在リ帝國政府ハ前顯兩國間ニ於ケル平常關係確立ノ基礎的大綱協定問題並軍隊ノ滿鐵附屬地內歸還問題ニ關シ中國政府ト商議ヲ開始スルノ用意ヲ有スルニ於テ今尙渝ハル所ナシ 

         「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

711年(和銅4)元明天皇の詔勅により太安麻呂が『古事記』の編纂に着手する(新暦11月3日)詳細
1428年(正長元)正長の土一揆で京都・醍醐附近の地下人が徳政を要求して蜂起する(新暦10月26日)詳細
1868年(明治元)日本画家横山大観の誕生日(新暦11月2日)詳細
1869年(明治2)東京・築地に明治新政府により海軍操練所(海軍兵学校の前身)が設立される(新暦10月22日)詳細
1927年(昭和2)小説家徳富蘆花の命日(蘆花忌)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

tankuukyoutei01

 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、「塘沽協定」 の締結によって、満州事変が終結した日です。
 塘沽協定(たんくーきょうてい)は、1931年(昭和6)に勃発した満州事変に関して、熱河作戦後に中国河北省塘沽(タンクー)において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定でした。1933年(昭和8)2月に日本軍は熱河作戦を開始し、4月には河北省に侵入、北京・天津 に迫ったので、対中国共産党作戦に重点をおく蒋介石は対日和平策をとり、5月31日に岡村寧次関東軍参謀副長と熊斌北平軍事分会総参議によって調印されたものです。
 主要な内容は、①中国軍の延慶、通州、蘆台を結ぶ線以西および以南への撤退、②日本軍による中国軍撤退の確認、③日本軍の長城の線への撤退、④長城線以南と①項の線以北・以東地域に非武装地帯を設けることなどからなっていました。この協定は即日発行し、中国は満州と熱河の放棄を事実上承認し、長城以南に非武装地帯を設け、華北における有力な軍事的拠点を日本軍に与え、その後の華北分離工作の重要な布石となります。
 しかし、これによって両国の関係を好転させることはなく、逆に1937年(昭和12)の日中戦争勃発へと繋がっていきました。
 以下に、「塘沽協定」 を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇満州事変とは?

 昭和時代前期の1931年(昭和6)9月18日、中国東北部の奉天(今の瀋陽)郊外での柳条湖事件を契機に始まり、1933年(昭和8)5月31日の「塘沽協定」 での停戦まで続いた日本の満州(中国東北部)に対する軍事行動でした。
 日露戦争後の1905年(明治38)9月4日締結の「ポーツマス条約」で利権を得た南満州鉄道株式会社 (満鉄) を拠点として、日本は満州に対する独占的支配に乗出し、政治的経済的進出をはかります。その中で、関東軍が奉天郊外の柳条湖で満鉄を爆破し、これを中国軍の行為であるとして「自衛のため」と称して満鉄沿線一帯で軍事行動(柳条湖事件)を起しました。
 同年10月の錦州爆撃などにより南満州を占領、さらに北部満州の占領を企図し、11月チチハル占領、翌年2月にはハルビンを占領、以後北満の主要都市を占領して、東三省(奉天・吉林・黒竜江の3省)におよぶ満州全域を支配下におさめます。そして、1932年(昭和7)3月9日に、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政に就任させて傀儡国家「満州国」を建国させました。
 そこで、国際連盟は中国の提訴により満州事変に関して、リットン調査団を派遣してその報告書を採択、日本軍の東北撤退を勧告することとなります。しかし、日本はこれを拒否し、1933年(昭和8)2月からの熱河作戦で熱河省を占領、3月に国際連盟を脱退、5月31日には、中国との間で「塘沽協定」を結び停戦して、中国東北部での権益を確保し、「満州国」を既成事実化させることで満州事変は一応終わりました。
 この後、1937年(昭和12)7月7日の蘆溝橋事件による日中戦争全面化から、1941年(昭和16)12月8日の太平洋戦争開戦へと進んでいくこととなります。

〇「停戦に関する協定」(塘沽協定) 1933年(昭和8)5月31日

關東軍司令官元帥武藤信義ハ昭和八年五月二十五日密雲ニ於テ國民政府軍事委員會北平分會代理委員長何應欽ヨリ其ノ軍使同分會參謀徐燕謀ヲ以テセル正式停戰提議ヲ受理セリ

右ニ依リ關東軍司令官元帥武藤信義ヨリ停戰協定ニ關スル全權ヲ委任セラレタル同軍代表關東軍參謀副長陸軍少將岡村寧次ハ塘沽ニ於テ國民政府軍事委員會北平分會代理委員長何應欽ヨリ停戰協定ニ關スル全權ヲ委任セラレタル北支中國軍代表北平分會總參謀陸軍中將熊斌ト左ノ停戰協定ヲ締結セリ

一、中國軍ハ速ニ延慶、昌平、高麗營、順義、通州、香河、實抵、林亭口、寧河、蘆薹、ヲ通スル線以西及以南ノ地區ニ一律ニ撤退シ爾後同線ヲ超エテ前進セス
 又一切ノ挑戰攪乱行爲ヲ行フ事ナシ

二、日本軍ハ第一項ノ實行ヲ確認スル爲随時飛行機及其他ノ方法ニ依リ之ヲ視察ス
 中國側ハ之レニ對シ保護及諸般ノ便宜ヲ與フルモノトス

三、日本軍ハ第一項ニ示ス規定ヲ中國軍カ遵守スル事ヲ確認スルニ於テハ前期中國軍ノ撤退線ヲ越エテ追撃ヲ續行スル事ナク自主的ニ槪ネ長城ノ線ニ歸還ス

四、長城線以南ニシテ第一項ニ示ス線以北及以東ノ地域内ニ於ケル治安維持ハ中國側警察機關之レニ任ス
 右警察機關ノ爲ニハ日本軍ノ感情ヲ刺戟スルカ如キ武力團體ヲ用フル事ナシ

五、本協定ハ調印ト共ニ效力ヲ發生スルモノトス

 右證據トシテ兩代表ハ茲ニ記名調印スルモノナリ

 昭和八年五月三十一日

  関東軍代表 岡村寧次

   「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1937年(昭和12)文部省編纂『国体の本義』が発行され、全国の学校等へ配布される詳細
1943年(昭和18)御前会議において「大東亜政略指導大綱」が決定される詳細
1944年(昭和19)俳人・翻訳家・新聞記者嶋田青峰の命日(青峰忌)詳細
1974年(昭和49)写真家木村伊兵衛の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

kokusairenmeidattai01

 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、国際連盟総会でのリットン調査団報告書採択に抗議し日本全権大使松岡洋右が退場、国際連盟脱退宣言をした日です。
 国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)は、国際連盟創立以来の原加盟で、常任理事国となっていた日本が、1933年(昭和8)の国際連盟総会でのリットン調査団の報告書により、満州国を不承認としたことに反発、2月24日の対日勧告を含む報告案の票決の結果、42票対1票、棄権1票(タイ)によって可決されたことを不服として退場し、3月27日に国際連盟脱退を通告(1935年発効)したことでした。
 それ以前の1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件(関東軍の謀略による柳条湖付近の南満州鉄道線路爆破事件)の3日後、中国は国際連盟に日本を提訴し、日本は列国から問責非難される立場に立たされます。しかし、翌年3月に、関東軍は満州全土を占領し、清朝最後の皇帝溥儀を「執政」に迎えて、「満州国」の建国を宣言させました。
 リットン調査団は1932年(昭和8)2月29日に来日、3月から6月まで現地および日本を調査を行ないます。日本は、それを既成事実化しようとし、同年9月には、「日満議定書」を交わし、満州の独立を承認しました。
 同年10月には、リットン調査団はこの調査結果を「リットン報告書」として提出、その中で、日本の行為は侵略である認定しましたが、満州に対する日本の権益は認め、日本軍に対しては満州からの撤退を勧告したものの、南満州鉄道沿線については除外されます。同年12月に開催された国際連盟総会では、日中両国の意見が激しく対立し、両国を除く十九人委員会に問題が付託されました。
 翌年2月の国際連盟総会で、リットン調査団報告書を審議し、2月24日の票決の結果、42票対1票、棄権1票(タイ)によって可決され、日本の松岡洋右全権以下の代表団は抗議して、総会から退場します。次いで同年3月27日に、日本政府は連盟事務局に脱退の通告(1935年発効)を行うとともに、同日脱退の声明を発表しました。
 以後、日本は国際的孤立の道を歩むことになり、やがてドイツ・イタリアとの提携の道へと進みます。
 以下に、「国際連盟総会に於ける松岡洋右代表の演説」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「国際連盟総会に於ける松岡代表の演説」 1933年(昭和8)2月24日

   昭和八年二月二十四日

 日本代表は旣に十九人委員會の作成せる報吿案に同意し難く從つて之を受諾し得ざる旨を總會に通吿した。報吿書全體を通じて感知し得る一つの顯著なる事實は、十九人委員會が、極東の實際的情勢と比類なき且つ戰慄すべき情勢の眞只中にある日本の困難なる立場と、日本をして從來の行動を執るの已むなきに至らしめた其の最終的目的とを認識しなかつたことである。
 極東に於ける紛議の根本原因は、支那の無法律的國情と其の隣國への義務を承認せずして飽くまで自己の意志のみを行はんとする非望之である。支那は今日まで永い間獨立國としての國際義務を怠つて來て居り、日本は其の最も近い隣國として此の點で最も多大の損害を蒙つて來た。
 而して滿洲のみが、昨年まで支那の名目のみの主權の下に支那本土と一種の接觸と聯絡を持つことにより支那の一部分として殘つて居たものである。滿洲が完全に支那の主權下に在つたと言ふ如きは實際的且つ歷史的事實に對する歪曲である。今や此の地方は支那より離れ、獨立國となつた。
 滿洲をして法律及び秩序の國たらしめ、平和及び豐潤の地たらしめ、以て單に東部アジアのみならず、全世界の幸福たらしむることは日本の希望であり決意である。而して此の目的を達成する爲、日本は永年に亙つて支那と協力せんとする用意を有し、數年に亙つて此の協力を求めて來た。併し乍ら支那は我々の友情と援助を受け容れやうとせず、却つて常に日本に妨害を與へ、間斷なき紛爭を生ぜしめた。近年殊に國民黨及び國民政府による計晝的排外思想の助長が行はれ、以來此の對日反對は益々烈しくなり、我々が忍耐を示せば示す程此の反對は激化し、遂に我々の堪へ得べからざる點に迄達した。日本の讓步に對し支那亦讓步を以て我々を迎ふべきであるのに、支那は却つて我々の態度を軟弱と解釋し、遂には日本人の滿洲撤退を主張し、凡ての歷史的背景を無視し、恰も日本人には滿洲に在る理由なきが如く、日本を目して純然たる又單なる侵略國として非難し、日本は最早同地の開發に携るべからずと主張し始むるに至つた。
 日本が認めて居る滿洲の重大性に就ては更めて詳說する必要を余は認めない。總會は最早同地方に於ける日本の經濟的政治的必要を知悉し居るべき筈である。然し余は、此の重大時機に於て今一度諸君の注意を喚起したい。卽ち日本は滿洲に於て二回の戰爭をなし、而も其の一つに於ては日本國民の存立を賭したのである。日本は最早戰爭を欲しない、國際平和は互讓を基礎としてのみ贏ち得られることは眞實である。然し乍ら何れの國もその存立の爲め到底讓步も妥協も不可能な死活問題を持つて居る。滿洲問題は卽ちそれである。同問題は日本國民にとつて實に生死に關する問題とされてゐるのである。
 世界の諸國は永い間假想の下に支那を取扱つて來た、我々は遙か以前に聯盟規約第一條の聯盟國たるべき國、屬領及び植民地は「完全な自治國」たるべきを要することを規定して居ることに氣が附くべきであつた。支那は斯る國ではない、支那本土以外では支那の主權は久しい以前に消失してしまひ、又支那本土內でも之を統治するに足る權威と能力を有する組織ある政府は存在しなかつた。南京政府は今日、支那本土十八省の中僅かに四省に足りない地域の事務を執行するのみである。世界は斯の如き假想の支那を對𧰼として聯盟に對し條約の文面を維持することを要求した。斯る誤れる主義に危險が存在するのである。
 日本が過去に於ても又將來に於ても、極東の平和及秩序並に進步の柱石たることは日本政府の堅き信念である。若し日本が滿洲國の獨立の維持を主張するとすれば、その現在の情勢では滿洲國の獨立のみが極東に於ける平和と秩序への唯一の保障を與へるものであるとの堅い信念によるものである。
 現在の日支紛爭勃發以後に於てすら日本は和協の政策を持續した、從つて若し支那が其時に於て事態の實體を認識し協定に到達せんとする眞摯なる希望を以て日本との交涉を受諾したならば、大なる困難なくして協定を締結し得たであらう。然るに支那は此の方法を撰ばずして聯盟に訴へ、聯盟を構成する列國の干涉によつて日本の手足を縛せんとした。而して聯盟は紛爭中に含まれたる眞實の問題と極東の實際的情勢とを十分諒解せず、更に恐らく支那の眞の動機につき何等の疑を挿まずして支那を鼓舞激勵した。支那が聯盟に訴へたのは、諸君が聽かされる如く決して平和愛好と國際原則に忠實ならんとする精神を其の動機としてゐるものではない。他國より多くの軍人を有する國は平和の國民でない、國際誓約を慣習的に破つた國は國際原則を尊重する國民でない。
 リットン報吿書の或る部分は其の性質に於て皮相的であり、屢問題の根柢を窮めることが出來なかつた。滿洲國の人民の大多數は支那の人民とは明確に相違してゐる。滿洲人口の大半は正しくは滿洲人と稱すべきものより成る、それは舊滿洲族の子孫並に昔の滿洲族と同化した支那民族並に蒙古人から成つてゐるのである。之等人民の大多數は未だ曾て支那に居住したこと無く、支那に對しリットン報吿書の記述してゐるが如き愛着は全然持つてゐないのである。此の點に關し報吿書は明瞭に誤謬に陷つてゐる。
 十九人委員會の報吿書に關しては余は批判的見解を述べざるを得ないものである。我が國の滿洲に於ける善き事業は記錄に留る所である、我々は過去現在を通じ此の未開地域に於ける一大文化的安定的原動力である。若し十九人委員會にして我々が如何に滿洲人に利益を與へたるかを知り、且つ諒解してゐたならば、同委員會は其の見解を改め、斯る事業に好意的意見をなしたであらう。
 次ぎにリットン調査委員會の提出した諸勸吿に轉じやう。此等の勸吿の充分なる意義は今我々の前に置かれた報吿書草案(十九人委員會)の中に於ては看過されて居るやうである。余は特にリットン報吿書第九章に包含されてゐる第十、卽ち最終の原則に言及するものである。右原則は左の通りである。
 「支那の改造に關する國際的協力、支那に於ける現在の政治的不安定は日本との友好關係に對する障碍であり、且つ極東に於ける平和の維持が國際的關心事たる關係上世界の他の部分に對する危惧であると共に、敍上の條件は支那に强固な中央政府が確立されなければ實行することが出來ないから、滿足なる解決の最終的要件は故孫逸仙博士が提議した通り、支那の內部的改造に對する一時的の國際協力である。」
 余は此の明確な警吿を愼重考慮せんことを聯盟に要請するものである。
 余は聯盟が單に支那に對して專門委員會を派遣し、當惑した政府に對し衞生、敎育、鐵道、財政其の他の行政部門に關する忠言を提出することに依つて、支那を一變させることが出來るとの忠吿乃至希望に依つて誤られないことを要請するも、余は余の支那の同僚に對し一の決定的質問を提起せんとするものである。卽ち支那政府には究局迄突き詰めれば、結局支那に對して何等かの形式に於ける國際的管理を課せんとすることを豫定する勸吿を受諾する用意が果してあるのであるか。貴下は此の報吿書草案の表決を爲さんとする總會各代表の前に、此の點に關する貴國政府の立場を明確にせられるのであるか。
 本報吿書を採擇する時は、支那側に對し彼等が一切の責任を許され、從つて依然として日本を蔑視し、而も何等の非難を受けずして濟むとの印𧰼を與へるであらう。更にそれは利害が密接に交錯してゐる日支兩國人の感情を更に惡化せしめるに過ぎないであらう。兩國民は友人たるべきものであり、其の共同の安寧の爲に相互に協力すべきものである。諸卿の前に置かれた報吿書の採擇により、總會は我々卽ち日本人と支那人との何れに對しても如上目標への道程に於て助力を與へるものではなく、且つ平和の大業にも資する所無く、支那に於ける受難の大衆の利益にも貢獻する所は無いのである。
 報吿書草案は更に多少とも實效的な樣式に於て滿洲に支那の主權を確立することを期したものである。換言すれば報吿書草案は支那が從前未だ嘗て有してゐなかつた權力と勢力とを滿洲に導入せんと期するものである。我々は茲に靜思一番し、斯る事が果して理義に適つてゐるか否かを反問すべきではないか。更に報吿書は支那の煽動家の爲に新な途を拓き徒に事態を紛糾せしめ、斯くして新たなる恐らくは更に險惡なる破局を招來するに過ぎないであらう。
 報吿書草案は滿洲全土にある程度の國際管理を確立せんとしてゐる、而も斯る管理は過去並現在を通じて滿洲に存在しなかつたのである。何を根據として此の企圖を敢てせんとするのであるか、余の解するに苦しむ所である。米國人はパナマ運河地帶に斯る管理を設定することに同意するであらうか。英國人は之をエヂプトに於て許容するであらうか。何れにせよ、諸卿は如何にして之を實行せんとするのであるか。諸君の政府の何れが、犧牲を伴ふこと確實な重大責任を執つて此の任に當らんとするのであるか。此の點に關し余は斷然日本國民が、余に取つて餘りに明白で說明の必要すら認めない理由に基き、滿洲に於ける一切の此の種の企圖に反對するであらうことを明言せんとするものである。
 旣に述べた如く且つ旣に或る程度まで述べた理由に依り、日本が置かれてゐる現實の事情の下に於て、我々の前に置かれた報吿書草案に關し日本として他に選ぶべき道がないのである。聯盟は日本に對し他に何等の道をも殘してゐない、日本は卽座に且つ明確に「否」と答へぎるを得ない。紳士諸君、我々の希望は力の及ぶ限り支那を援助せんとするにある、之は我々が爲さねばならぬ義務である。此の聲明は此の際或は諸卿に對して逆說の如くに聞えるかも知れないが、而も之は眞實である。
 而して我々は現在不幸にして滿洲國に關し意見を異にして居るのであるが、而も滿洲國の自立を助けんとしつゝある現在の我々の努力は、やがて後は支那を援助せんとする日本の願望と義務とを實現する契機となり、之によつて東亞を通じて平和の確立に成功するに至るべきことを余は確信する。
 余は此の機關(聯盟)に對し、事實を認識し將來の理想を直視せんことを乞ふものである。余は諸卿に對し、諸卿が我々の言に基いて我々を取扱ひ且つ信賴せられんことを願ふものである。此の我々の要望を拒否することは大なる過誤となるであらう。余は諸卿に此の報吿を採擇せざらんことを要請するものである。

 松岡代表宣言書

   報吿書の採擇に續き松岡首席代表が朗讀した宣言全文左の如し

 報吿書草案が今この總會によつて採擇されたことは、日本代表部並に日本政府にとり深く遺憾とするところである。日本は國際聯盟創立以來その一員である、一九一九年パリ會議の我が代表は聯盟規約の起草に參加した、我々は聯盟の一員として人類共同の一大目的の爲に世界の指導的國家と相協力して來たことを誇りとするものである、日本は外の同僚聯盟國と共に人類共同の然く永く抱懷されたる一大目的を達成するに努めて來たのである。余は同一の目的卽ち恒久平和の確立を見んとする希望が、總て我々の審議並に行動に際して我々の總てを動かしてゐることを疑はぬものであるが故に、今我々が當面しつつある情勢を深く遺憾とするものである。日本の政策が極東における平和を保障し、斯くして全世界を通じて平和の維持に貢獻せんとする純眞なる希望によつて根本的に鼓吹されてゐるものであることは周知の事實である。然しながら總會によつて採擇された報吿書を受諾することは爲し能はざるところであり、特に右報吿書に包含された勸吿が世界の此の部分(極東)に於ける平和を確保するものと思惟し得ないものであることを指摘せざるを得ない。之は日本の苦痛とするところである、日本政府は今や極東に於て平和を達成する樣式に關し、日本と他の聯盟國とが別個の見解を抱いて居るとの結論に達せさるを得ず。然して日本政府は日支紛爭に關し國際聯盟と協力せんとする其の努力の限界に達したことを感ぜざるを得ない。
 然しながら日本政府は極東に於ける平和の確立並に他國との間に於ける親善良好關係の維持並に强化の爲には依然最善の努力を盡すであらう。余は日本政府が飽くまで人類の福祉に貢獻せんとする其の希望を固持し、世界平和に捧げられる事業に誠心誠意協力せんとする政策を持續すべきことを、こゝに付言する必要はあるまいと信ずる。

     「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1610年(慶長15)絵師長谷川等伯の命日(新暦3月19日)詳細
1704年(元禄17)俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の命日(新暦3月29日)詳細
1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ