湊川の戦いは、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、南朝方の新田義貞・楠木正成軍と北朝方の足利尊氏・足利直義軍との間で戦われた合戦でした。
同年1月に京都を駆逐されて、翌月九州に敗走した足利尊氏・直義が、4月に大軍を集めて博多を発して東上してきます。後醍醐天皇は勅命で新田義貞・楠木正成に迎撃を命じ、新田義貞は和田岬に、楠木正成はその西の湊川に布陣しました。
そして、足利尊氏軍の先発として細川軍が和田岬に上陸し、5月25日に戦いが開始され、その結果、新田勢は京都に向かって敗走し、楠木正成は奮戦のすえ一族・配下とともに自刃します。
その後、足利軍は京都へ入り、建武新政府は崩壊、足利尊氏は、やがて光明院を擁立して、室町幕府を開き、後醍醐天皇は、吉野へ移って、南北朝時代が開始されることとなりました。
現地には、楠木正成の墓があったのですが、1692年(元禄5)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して、世に知られるようになります。幕末になって、尊王論が高揚してくると、楠木正成の顕彰が盛んになり、1872年(明治5)、明治政府によって湊川神社が創建されることになりました。
境内には、殉節地や御墓所などがあって国の史跡になっていますし、宝物殿には、楠木正成着用と伝える段縅腹巻一領(国重要文化財)、1335年(建武2)大楠公自筆の法華経奥書一幅(国重要文化財)などがあります。
〇南北朝関係略年表(日付は旧暦です)
・1333年(元弘3/正慶2)5月 鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元)1月 建武の新政が行われる
・1335年(建武2)7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2)10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
※南北朝の対立が始まる
・1336年(延元元/建武3)5月 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)
・1336年(延元元/建武3)8月 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3)11月 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1336年(延元元/建武3)12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4)3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元)5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元)閏7月 足利尊氏が新田義貞を越前藤島で戦死させる
・1338年(延元3/暦応元)8月 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2)8月 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4)1月 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5)9月 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元)10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1352年(正平7/観応3) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3)7月 観応半済令が出される
・1358年(正平13/延文3)4月 足利尊氏が亡くなる
・1358年(正平13/延文3)12月 足利義詮が室町幕府第2代将軍に就任する
・1361年(正平16/康安元) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1367年(正平22/貞治6) 足利義詮は死に臨み10歳の義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1368年(正平23/応安元) 応安半済令が出される
・1368年(正平23/応安元) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1378年(天授4/永和4) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2) 足利義満が左大臣となる
・1386年(元中3/至徳3) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1390年(元中7/明徳元) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3) 足利義満が南北朝の合一を実現する