ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:測量家

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 今日は、江戸時代後期の1844年(天保15)に、探検家・測量家間宮林蔵が亡くなった日ですが、新暦では4月13日となります。
 間宮林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の探検家・測量家です。1780年(安永9)に常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくばみらい市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれました。
 子供の頃から数学の才能があり、それをを幕吏に認められて、1790年(寛政2)頃に、江戸に出て、地理学を学びます。1796年(寛政8)に普請役雇として幕府に出仕し、1799年(寛政11)に村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡り、1800年(寛政12)に、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。
 1806年(文化3年)に択捉(えとろふ)を測量、1808年(文化5)には、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認しています。翌年に再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認し、6月にはアイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会いました。
 1810年(文化7)に村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著し、1822年(文政5)には、松前奉行廃止伴ない、江戸に帰り普請役となっています。1824年(文政7)に、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視し、1826年(文政9)には、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束しました。
 1832年(天保3)に、シーボルト著『日本』で日本辺界略図の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介されます。1842年(天保13)には、江戸幕府からカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ぜられましたが、1844年(天保15年2月26日)に、江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなりました。
 現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになっています。

〇間宮林蔵主要な著作

・『北蝦夷島地図』(1810年)
・『北蝦夷分界余話』(1810年)
・『東韃地方紀行』(1810年)

☆間宮林蔵関係略年表(日付は旧暦です)

・1780年(安永9年) 常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくば市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれる
・1790年(寛政2年) この頃、江戸に出て、地理学を学ぶ
・1796年(寛政8年) 普請役雇として幕府に出仕する
・1799年(寛政11年) 20歳の時、村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡る
・1800年(寛政12年) 21歳の時、蝦夷地御用雇に任ぜられる
・1806年(文化3年) 択捉(えとろふ)を測量する
・1808年(文化5年) 29歳の時、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認する
・1809年(文化6年) 30歳の時  再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認する、6月アイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会う
・1810年(文化7年)  31歳の時、村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著す
・1814年(文化11年) 35歳の時、蝦夷地測量をする
・1822年(文政5年) 43歳の時、松前奉行廃止、江戸に帰り普請役となる
・1824年(文政7年) 45歳の時、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視する
・1826年(文政9年) 47歳の時、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束する
・1832年(天保3年) 53歳の時、シーボルト著『日本』で日本辺界略図」の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介される
・1842年(天保13年) 63歳の時、幕府、林蔵にカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ずる
・1844年(天保15年2月26日) 江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなる 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1649年(慶安2)江戸幕府が「慶安御触書」を発布したとされてきた日(新暦4月7日)詳細
1858年(安政5)越中・飛騨国境付近で、飛越地震が起き、甚大な被害が出る(新暦4月9日)詳細
1873年(明治6)俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の誕生日詳細
1876年(明治9)「日朝修好条規」が締結される詳細
1936年(昭和11)二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起こる詳細
1946年(昭和21)GHQにより、「禁止図書その他の出版物に関する覚書」 (SCAPIN-776) が出される詳細
2003年(平成15)編集者・紀行作家宮脇俊三の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1800年(寛政12)に、商人・測量家・地理学者伊能忠敬が、第1次測量(蝦夷地測量)のために、江戸を出発した日(閏月)ですが、新暦では6月11日となります。
 伊能忠敬(いのう ただたか)は、江戸時代後期の商人・測量家・地理学者です。江戸時代中期の1745年(延享2年1月11日)に、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の名主小関五郎左衛門家で生まれました。
 1762年(宝暦12)18歳のときに佐原の伊能家の養子となり、養子となり、名を忠敬と改めます。酒造、米穀取引などの家業に尽力し、名主や村方後見として郷土のためにも尽くしました。
 1794年(寛政6)に50歳で隠居し、翌年江戸へ出て、幕府天文方高橋至時に師事し、暦学天文を学びます。その後、1800年(寛政12)、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地東南沿岸測量を任されました。
 それから全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に渡って日本全国の測量を行いました。これによって、「大日本沿海與地全図」を作成しましたが、その精密さで高い評価を受けたものの、1818年(文政元年4月13日)に、江戸において、71歳で没しています。
 尚、千葉県香取市の小野川沿いには、旧居(国指定史跡)が残され、1998年(平成10)には、近くに「伊能忠敬記念館」も建てられました。

〇伊能忠敬関係略年表(日付は旧暦です)

・1745年(延享2)1月11日 上総国山辺郡小関村の名主五郎左衛門家で生まれる 
・1751年(宝暦元) 母(みね)が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る 
・1755年(宝暦5) 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる 
・1762年(宝暦12)  下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入り、名を忠敬と改める
・1781年(天明元)  佐原村本宿組名主となる 
・1783年(天明3)  天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する 
・1794年(寛政6)12月  隠居して家督を長男景敬に譲る 
・1795年(寛政7)  江戸に出て幕府天文方高橋至時に師事して暦学天文を学ぶ 
・1800年(寛政12)閏4月19日  第1次測量(奥州街道‐蝦夷地太平洋岸‐奥州街道)180日間 
・1801年(享和元)  第2次測量(三浦半島‐伊豆半島‐房総半島‐東北太平洋沿岸‐津軽半島‐奥州街道)230日間 
・1802年(享和2)  第3次測量(奥州街道‐山形‐秋田‐津軽半島‐東北日本海沿岸‐直江津‐長野‐中山道)132日間  
・1803年(享和3)  第4次測量(東海道‐沼津‐太平洋沿岸‐名古屋‐敦賀‐北陸沿岸‐佐渡‐長岡‐中山道)219日間 
・1805年(文化2)  第5次測量(東海道‐紀伊半島‐大阪‐琵琶湖‐瀬戸内海沿岸‐下関‐山陰沿岸‐隠岐‐敦賀‐琵琶湖‐東海道)幕府直轄事業となる  
・1808年(文化5)  第6次測量(東海道‐大阪‐鳴門‐高知‐松山‐高松‐淡路島‐大阪‐吉野‐伊勢‐東海道)  
・1809年(文化6)  第7次測量(中山道‐岐阜‐大津‐山陽道‐小倉‐九州東海岸‐鹿児島‐天草‐熊本‐大分‐小倉‐萩‐中国内陸部‐名古屋‐甲州街道)  
・1811年(文化8)  第8次測量(甲府‐小倉‐鹿児島‐屋久島‐種子島‐九州内陸部‐長崎‐壱岐‐対馬‐五島‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越)913日間 
・1815年(文化12)  第9次測量(東海道‐三島‐下田‐八丈島‐御蔵島‐三宅島‐神津島‐新島‐利島‐大島‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸)忠敬は参加せず 
・1816年(文化13)  第10次測量(江戸府内)   
・1818年(文化15)4月13日 江戸において死去するが、喪を秘して地図製作は続行される
・1821年(文政4) 『大日本沿海輿地全図』が完成し、3ヶ月後に喪が公表される 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1068年(治暦4)第70代の天皇とされる後冷泉天皇の命日(新暦5月22日)詳細
1870年(明治3)哲学者西田幾多郎の誕生日(新暦5月19日)詳細
1901年(明治34)数学者岡潔の誕生日詳細
1912年(明治45)小説家源氏鶏太の誕生日詳細
1928年(昭和3)田中義一内閣が中国・国民革命軍の北伐再開に対応して第二次山東出兵を決定する詳細
2007年(平成19)漆芸家高橋節郎の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1818年(文政元)に、商人・測量家・地理学者伊能忠敬(いのう ただたか)の亡くなった日ですが、新暦では5月17日となります。
 伊能忠敬は、1745年(延享2年1月11日)に、上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)の名主小関五郎左衛門家で生まれましたが、幼名は三治郎といいました。
 1745年(宝暦12)18歳のときに佐原の伊能家の養子となり、名を忠敬と改めます。酒造、米穀取引などの家業に尽力し、名主や村方後見として郷土のためにも尽くしました。
 1794年(寛政6)に50歳で隠居し、翌年江戸へ出て、幕府天文方高橋至時に師事します。その後、1800年(寛政12)、至時の推挙で幕府から奥州道中と蝦夷地東南沿岸測量を任されました。
 それから全国の測量へと発展し、1816年(文化13)に終了するまでに、10次に渡って日本全国の測量を行いました。
 これによって、「大日本沿海與地全図」を作成しましたが、その精密さで高い評価を受けたものの、1818年(文政元年4月13日)に、江戸において、73歳で没しています。
 千葉県香取市の小野川沿いには、旧居(国指定史跡)が残され、1998年(平成10)には、近くに「伊能忠敬記念館」も建てられました。

〇伊能忠敬関係略年表(日付は旧暦です)

・1745年(延享2)1月11日 上総国山辺郡小関村の名主五郎左衛門家で生まれる
・1751年(宝暦元) 母(みね)が亡くなり、婿養子だった父は実家の武射郡小堤村の神保家に戻る
・1755年(宝暦5) 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる
・1762年(宝暦12) 下総国香取郡佐原村の酒造業を営む伊能家に婿養子に入り、名を忠敬と改める
・1781年(天明元) 佐原村本宿組名主となる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する
・1794年(寛政6)12月 隠居して家督を長男景敬に譲る
・1795年(寛政7) 江戸に出て幕府天文方高橋至時に師事して暦学天文を学ぶ
・1800年(寛政12)閏4月19日 第1次測量(奥州街道‐蝦夷地太平洋岸‐奥州街道)180日間
・1801年(享和元) 第2次測量(三浦半島‐伊豆半島‐房総半島‐東北太平洋沿岸‐津軽半島‐奥州街道)230日間
・1802年(享和2) 第3次測量(奥州街道‐津軽半島‐東北日本海沿岸‐直江津‐長野‐中山道)132日間 
・1803年(享和3) 第4次測量(東海道‐太平洋沿岸‐名古屋‐北陸沿岸‐佐渡‐長岡‐中山道)219日間
・1805年(文化2) 第5次測量(東海道‐紀伊半島‐琵琶湖‐瀬戸内海沿岸‐山陰沿岸‐隠岐‐敦賀‐東海道)幕府直轄事業となる 
・1808年(文化5) 第6次測量(東海道‐大阪‐四国‐淡路島‐大阪‐吉野‐伊勢‐東海道) 
・1809年(文化6) 第7次測量(中山道‐山陽道‐九州東海岸‐天草‐熊本‐大分‐萩‐中国内陸部‐甲州街道) 
・1811年(文化8) 第8次測量(甲府‐九州‐屋久島‐種子島‐九州内陸部‐長崎‐壱岐・対馬‐五島‐中国内陸部‐京都‐高山‐飯山‐川越)913日間
・1815年(文化12) 第9次測量(東海道‐下田‐伊豆諸島‐伊豆半島東岸‐八王子‐熊谷‐江戸)忠敬は不参加
・1816年(文化13) 第10次測量(江戸府内)  
・1818年(文化15)4月13日 江戸において死去するが、喪を秘して地図製作は続行される
・1821年(文政4) 『大日本沿海輿地全図』が完成し、3ヶ月後に喪が公表される
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