ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:清国

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 今日は、明治時代後期の1905年(明治38)に、「日露講和条約(ポーツマス条約)」締結後のロシアの利権の引継ぎなどについて、日本と清国が「満洲善後条約」に調印した日です。
 「満洲善後条約」(まんしゅうぜんごじょうやく)は、明治時代後期の1905年(明治38)9月5日に締結された「日露講和条約(ポーツマス条約)」により、中国東北部(満州)のロシア利権が日本に譲渡されたことに対し、それを清国に承認させたもので、「北京条約」とも呼ばれますが、正式には、「日清間満州ニ関スル条約」といいます。中国の北京において、日本側は特派全権大使小村寿太郎(外務大臣)及び特派全権公使内田康哉と清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻及び瞿鴻禨・袁世凱の間で調印され、本文(全3条)と付属協定(12ヶ条)、付属取決(16項目)から構成されていました。
 この条約で、南満洲鉄道の吉林までの延伸と同鉄道を守備するための日本陸軍の常駐権と沿線鉱山の採掘権保障、安奉鉄道の使用権継続と両国共同事業化、営口・安東・奉天における日本人居留地の設置の許可、鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などが盛り込まれ、その後の満洲経営の基礎となります。
 以下に、「満洲善後条約」の日本語版を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「満洲善後条約(日清間満州ニ関スル条約)・附属議定書」(北京条約) 1905年(明治38)12月22日調印、1906年(明治39)1月31日国内公布

日清間満州ニ関スル条約

前文

大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下ハ均シク明治三十八年九月五日即光緖三十一年八月七日調印セラレタル日露両国講和条約ヨリ生スル共同関係ノ事項ヲ協定セムコトヲ欲シ右ノ目的ヲ以テ条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為メニ大日本国皇帝陛下ハ特派全権大使外務大臣従三位勳一等男爵小村寿太郞及特命全権公使従四位勳二等內田康哉ヲ大清国皇帝陛下ハ欽差全権大臣軍機大臣総理外務部事務和碩慶親王欽差全権大臣軍機大臣外務部尙書会弁大臣瞿鴻禨及欽差全権大臣北洋大臣太子少保直隸総督袁世凱ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ各全権委員ハ互ニ其ノ全権委任状ヲ示シ其ノ良好妥当ナルヲ認メ以テ左ノ条項ヲ協議決定セリ

  第一条

日露講和条約第五条及第六条ニ依ル讓渡ノ承認

清国政府ハ露国カ日露講和条約第五条及第六条ニヨリ日本国ニ対シテ為シタル一切ノ讓渡ヲ承諾ス

  第二条

清露条約規定ノ遵行

日本国政府ハ清露両国間ニ締結セラレタル租借地並鉄道敷設ニ関スル原条約ニ照シ努メテ遵行スへキコトヲ承諾ス将来何等案件ノ生シタル場合ニハ隨時清国政府ト協議ノ上之ヲ定ムヘシ

  第三条

効力発生及批准書交換

本条約ハ調印ノ日ヨリ効力ヲ生スヘク且大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下ニ於テ之ヲ批准セラルヘシ該批准書ハ本条約調印ノ日ヨリ二箇月以內ニ成ルヘク速ニ北京ニ於テ之ヲ交換スヘシ

本文

右証拠トシテ両国全権委員ハ日本文及漢文ヲ以テ作ラレタル各二通ノ本条約ニ署名調印スルモノナリ
明治三十八年十二月二十二日即光緖三十一年十一月二十六日北京ニ於テ之ヲ作ル
   大日本帝国特派全権大使外務大臣從三位勳一等男爵 小村寿太郞(記名)印
   大日本帝国特命全権公使從四位勳二等 內田康哉(記名)印
   大清国欽差全権大臣軍機大臣総理外務部事務 慶親王(記名)印
   大清国欽差全権大臣軍機大臣外務部尙書会弁大臣 瞿鴻禨(記名)印
   大清国欽差全権大臣北洋大臣太子少保直隸総督 袁世凱(記名)印

附属協定

  明治三八年(一九〇五年)一二月二二日北京ニ於テ調印
  明治三九年(一九〇六年)一月九日批准
  明治三九年(一九〇六年)一月二三日北京ニ於テ批准書交換
  明治三九年(一九〇六年)一月三一日公布

前文

日清両国政府ハ満州ニ於テ双方共ニ関係ヲ有スル他ノ事項ヲ決定シ以テ遵守ニ便ナラシムル為メ左ノ条項ヲ協定セリ

  第一条

開放スヘキ都市

清国政府ハ日露軍隊撤退ノ後成ルヘク速ニ外国人ノ居住及貿易ノ為メ自ラ進ミテ満州ニ於ケル左ノ都市ヲ開クへキコトヲ約ス
 盛京省 鳳凰城 遼陽 新民屯 鐵嶺 通江子 法庫門
 吉林省 長春(寛城子) 吉林 哈爾賓 寧古塔 琿春 三姓
 黑龍江省 齊齊哈爾 海拉爾 愛琿 滿洲里

  第二条

鉄道守備兵撤退ノ条件

清国政府ハ満州ニ於ケル日露両国軍隊兵ニ鉄道守備兵ノ成ルヘク速ニ撤退セラレムコトヲ切望スル旨ヲ言明シタルニ因リ日本国政府ハ清国政府ノ希望ニ応セムコトヲ欲シ若シ露国ニ於テ其ノ鉄道守備兵ノ撤退ヲ承諾スルカ或ハ清露両国間ニ別ニ適当ノ方法ヲ協定シタル時ハ日本国政府モ同樣ニ照弁スヘキコトヲ承諾ス若シ満州地方平靖ニ帰シ外国人ノ生命財產ヲ清国自ラ完全ニ保護シ得ルニ至リタル時ハ日本国モ亦露国ト同時ニ鉄道守備兵ヲ撤退スヘシ

  第三条

安寧秩序ヲ維持スル為ノ清国軍隊派遣

日本国政府ハ満州ニ於テ撤兵ヲ了シタル地方ハ直チニ之ヲ清国政府ニ通知スヘク清国政府ハ日露講和条約追加約款ニ規定セル撤兵期限內ト雖既ニ上記ノ如ク撤兵完了ノ通知ヲ得タル各地方ニハ自ラ其ノ安寧秩序ヲ維持スル為メ必要ノ軍隊ヲ派遣スルコトヲ得ルモノトス日本国軍隊ノ未タ撤退セサル地方ニ於テ若シ土匪ノ村落ヲ擾害スルコトアル時ハ清国地方官モ亦相当ノ兵隊ヲ派遣シ之ヲ勦捕スルコト得但シ日本国軍隊駐屯地界ヨリ二十清里以內ニ進入スルコト得サルモノトス

  第四条

收容公私財產ノ還附

日本国政府ハ軍事上ノ必要ニヨリ満州ニ於テ占領又ハ收用セル清国公私財産ハ撤兵ノ際悉ク清国官民ニ還附シ又不用ニ帰スルモノハ撤兵前卜雖之ヲ還附スルコトヲ承諾ス

  第五条

日本軍戦死者ノ墳墓等ノ保護

清国政府ハ満州ニ於ケル日本軍戦死者ノ墳墓及忠魂碑所在地ヲ完全ニ保護スル為メ総テ必要ノ処置ヲ執ルヘキコトヲ約ス

  第六条

安泰線ノ改築及清国軍隊等ノ取扱

清国政府ハ安東縣奉天間ニ敷設セル軍用鉄道ヲ日本国政府ニ於テ各国商工業ノ貨物運搬用ニ改メ引続キ経営スルコトヲ承諾ス該鉄道ハ改良工事完成ノ日ヨリ起算シ(但シ軍隊送還ノ為メ遅延スへキ期間十二箇月ヲ除キ二箇年ヲ以テ改良工事完成ノ期限トス)十五箇年ヲ以テ期限ト為シ即光緖四十九年ニ至リテ止ム右期限ニ至ラハ双方ニ於テ他国ノ評価人一名ヲ選ミ該鉄道ノ各物件ヲ評價セシメテ清国ニ売渡スヘシ其ノ売渡前ニ在リテ清国政府ノ軍隊並兵器糧食ヲ輸送スル場合ニハ東清鉄道条約ニ準拠シテ取扱フヘク又該鉄道改良ノ方法ニ至テハ日本国ノ経営担当者ニ於テ清国ヨリ特派スル委員ト切実ニ商議スヘキモノトス該鉄道ニ関スル事務ハ東清鉄道条約ニ準シ清国政府ヨリ委員ヲ派シ査察経理セシムヘク又該鉄道ニ由リ清国公私貨物ヲ運搬スル運賃ニ関シテハ別ニ詳細ナル規程ヲ設クヘキモノトス

  第七条

鉄道接続業務ニ関スル別約

日清両国政府ハ交通及運輸ヲ増進シ且之ヲ便易ナラシムルノ目的ヲ以テ南満州鉄道ト清国各鉄道トノ接続業務ヲ規定セムカ為メ成ルヘク速ニ別約ヲ締結スヘシ

  第八条

南満州鉄道用材料ニ對スル免税

清国政府ハ南満州鉄道ニ要スル諸般ノ材料ニ対シ各種ノ税金及釐金ヲ免スヘキコトヲ承諾ス

  第九条

日本居留地画定方法

盛京省內ニ於テ既ニ通商場ヲ開設シタル営口及通商場トナスヘク約定シアルモ未タ開カレサル安東県並奉天府各地方ニ於テ日本居留地ヲ画定スル方法ハ日清両国官吏ニ於テ別ニ協議決定スヘシ

  第十条

日清合同材木会社ノ設立

清国政府ハ日清合同材木会社ヲ設立シ鴨綠江右岸地方ニ於テ森林截伐ニ従事スルコト其ノ地区ノ広狭年限ノ長短及会社設立ノ方法並合同経営ニ関スル一切ノ章程ハ別ニ詳細ナル約束ヲ取極ムヘキコトヲ承諾ス日清両国株主ノ利権ハ均等分配ヲ期スヘシ

  第十一条

満韓国境貿易ニ関スル最惠国待遇

満韓国境貿易ニ関シテハ相互ニ最惠国ノ待遇ヲ与フヘキモノトス

  第十二条

一切ノ規定ニ関スル最優待遇

日清両国政府ハ本日調印シタル条約及附属協約ノ各条ニ記載セル一切ノ事項ニ関シ相互ニ最優ノ待遇ヲ与フルコトヲ承諾ス

効力

本協約ハ調印ノ日ヨリ効力ヲ生スヘク且本日調印ノ条約批准セラレタル時ハ本協約モ亦同時ニ批准セラレタルモノト看做スヘシ

本文

右証拠トシテ下名ハ各其本国政府ヨリ相当ノ委任ヲ受ケ日本文及漢文ヲ以テ作ラレタル各二通ノ本協約ニ記名調印スルモノナリ

明治三十八年十二月二十二日即光緖三十一年十一月二十六日北京ニ於テ之ヲ作ル
   大日本帝国特派全権大使外務大臣從三位勳一等男爵 小村寿太郞(記名)印
   大日本帝国特命全権公使從四位勳二等 內田康哉(記名)印
   大淸国欽差全権大臣軍機大臣総理外務部事務 慶親王(記名)印
   大淸国欽差全権大臣軍機大臣外務部尙書会弁大臣 瞿鴻禨(記名)印
   大淸国欽差全権大臣北洋大臣太子少保直隸総督 袁世凱(記名)印

満州ニ関スル条約議事録中ニ記載セラレタル合意及声明

明治三八年(一九〇五年)一一月二三日‐一二月八日北京ニ於テ
昭和七年(一九三二年)一月一四日公表

明治三十八年満州ニ関スル条約及同上附屬協定締結ノ際我方ヨリ一定ノ約束事項ヲ条約文中ニ挿入セムコトヲ主張シタル拠清国側ニ於テ対内関係上之ヲ条約文トシテ公ニスルコトヲ困難トスル事情アリタルニ依リ日清両国全権委員ノ記名調印セル日清両国文ノ会議録中ニ記入スルニ止メ之ヲ公表セサリシモノ合計十六箇条アリ尚右会議録所載ノ取極十六箇条ノ要領英訳文ハ明治三十九年二月帝国政府ヨリ英米両国政府ニ対シ極祕トシテ內報セリ然ルニ坊間本件会議録所載ノ取極十六箇条ノ存否等ニ付種々誤解ヲ抱クモノアルヤニ認メラルルノミナラス従来支那要人等ニシテ明ニ之ヲ否定セルモノ尠ナカラス又最近支那新聞ハ支那外交当局ニ於テ正式ニ本件会議録ノ存在ヲ否認セル旨報シ居ル関係モアルニ付茲ニ右十六箇条日本文支那文及前記英米両国政府ニ内報セラレタル要領英訳文ヲ公表スルモノナリ

吉長鉄道借款

一、長春吉林間鉄道ハ清国自ラ資金ヲ調ヘテ築造スヘク不足ノ額ハ日本国ヨリ借入ルコトヲ承諾ス其金額ハ資金ノ約半額ナリトス借款弁法ハ時ニ及テ清国山海関內外鉄道局ト清英組合トノ借款契約ニ仿照シテ参酌商訂スヘク二十五箇年ヲ以テ年賦完済ノ期ト為ス

吉林地方ニ於テ鉄道敷設權ヲ別国人ニ付与スルコトナシ

清国政府ハ吉林地方ニ於テ別国人ニ鉄道敷設権ヲ与へ若クハ別国人ト共同シテ鉄道ヲ敷設スルコトハ断シテ之ナシ

新奉鉄道ノ売渡及借款

二、奉天府新民屯間ニ日本国ノ敷設セル軍用鉄道ハ両国政府ヨリ委員ヲ派遣シ公平ニ代價ヲ協議シテ清国ニ売渡スヘシ清国ハ之ヲ改築シテ自営鉄道ト為シ遼河以東ニ要スル資金ハ日本ノ会社ヨリ其半額ヲ借入レ十八箇年ヲ以テ年賦完済ノ期ト為シ其借款弁法ハ清国山海関關內外鉄道局ト清英組合トノ借款契約ニ仿照シ参酌商訂スヘキコトヲ承諾ス此他各地ニ於ケル軍用鉄道ハ撤兵ノ際総テ取除クヘキモノトス

満鉄鐵併行線ノ建設ヲ禁ズ

三、清国政府ハ南滿洲鉄道ノ利益ヲ保護スルノ目的ヲ以テ該鉄道ヲ未タ回収セサル以前ニ於テハ該鉄道附近ニ之ト併行スル幹線又ハ該鉄道ノ利益ヲ害スヘキ支線ヲ敷設セサルコトヲ承諾ス

北満鉄道ニ対スル措置

四、清国ハ満州北部ニ於テ露国カ引続キ所有スル鉄道ニ関シ露国ヲシテ清露条約ニ照シ努メテ遵行セシムルタメ充分ノ措置ヲ執リ若シ露国ニシテ上約ニ違反セル行動ヲナサハ清国ヨリ露国ニ厳重ニ照会シテ之ヲ匡サシムヘキ精神ナルコトヲ声明ス

日露接続業務規定商議ニ対スル清国ノ参与

五、将来日露両国ニ於テ接続鉄道業務規定ノ為商議スル時機ニ至ラハ日本国ハ予メ之ヲ清国ニ通知スヘシ清国ハ其時機ニ至リ委員ヲ派遣シテ該商議ニ加ハラント欲スルノ意ヲ露国ニ通牒ノ上同時ニ該商議ニ参与スヘシ

奉天省鉱物採掘章程

六、鉄道ニ附属スル奉天省內ノ鉱物ハ既ニ採掘ニ着手シタルト否トニ拘ハラス公平且詳細ノ章程ヲ取極メ以テ相互遵守ニ便ナラシムヘシ

奉天省陸上電信線及旅順烟台海底線接続事務

七、奉天省內テ於ケル陸上電信線及旅順烟台間海底電信線ニ関スル接続交涉事務ハ隨時必要ニ従ヒ両国協議シテ処置スヘシ

開市場設立規則制定ハ帝国公使ノ承諾ヲ要ス

八、開市場設立ニ関スル規則ハ清国ニ於テ自カラ定ムヘシ但シ北京駐在日本公使ト協議スルヲ要ス

松花江航行権

九、松花江航行ノ件ニ関シ露国ニ於テ異議ナキトキハ清国ニ於テモ之ヲ商議ノ上承諾スヘキコト

満州ニ於ケル治安ノ維持及內外臣民保護ノ声明

十、清国全権委員ハ満州ヨリ日露両国撤兵ノ後直ニ進ンテ該地方ニ於テ其主権ニヨリ完全ナル経営ヲ為シ以テ治安ヲ期シ且其主権ニヨリ同地方ニ於テ利ヲ興シ弊ヲ除キ着実ニ整頓ヲ行ヒ内外臣民ヲシテ生活及営業ノ安全ヲ得テ等シク清国政府ヨリ完全ノ保護ヲ享ケシムヘキコトヲ声明ス其整頓ノ方法ニ就テハ総テ清国政府自ラ適宜ノ措置ヲ行フヘキモノトス

在奉天省帝国臣民ノ取締

十一、清国ト日本国トハ素ヨリ友誼敦厚ナリ今囘日両国不幸ニシテ和ヲ失シ清国領土ニ於テ交戦スルニ至リタルモ今ヤ既ニ平和成立シ満州ニ於テハ戦争ナキニ至レリ而シテ撤退以前ノ日本軍隊ハ依然占領ノ権アリト雖近来日本国臣民カ満州ニ在リテ時々清国地方官ノ行政ニ干預シ又ハ清国公私財產ヲ毀損スルコトアル旨ヲ清国政府ニ於テ声明ス日本国全権委員モ亦若シ果シテ軍事必要以外ニ於テ此ノ如キコトアラハ至当ノ行為ニアラスト認ムルヲ以テ此ノ声明ノ意思ヲ日本国政府ニ伝達シテ速ニ相当ノ処置ヲ執リ奉天省ニ在ル日本国臣民ヲ取締リ益々交誼ヲ敦クシ軍事必要以外ニ於テ再ヒ清国ノ行政ニ干預シ又ハ公私ノ財產ヲ毀損スルコトナカラシムヘキ旨ヲ声明ス

清国公私財產ノ破壞又ハ使用ニ対スル帝国臣民ノ義務

十二、軍事用以外ニ於テ日本国臣民カ故意ニ破壞シ若クハ使用セル清国公私ノ各種財產ニ対シテハ両国政府ニ於テ夫レ々調査ノ上公平ニ償還セシムヘシ

清国地方官ノ土匪討伐ニ対スル措置

十三、清国地方官未タ日本軍隊ノ撤兵ヲ了セサル地方ニ於テ兵ヲ派シ土匪ヲ討伐スルトキハ必ス予メ其地方駐在日本軍司令官ト協議シ以テ誤解ヲ免レシムヘシ

鉄道守備隊ニ関スル声明

十四、日本国全權委員ハ長春ヨリ旅順大連租借地境界ニ至ル鉄道守備兵ハ其撤退以前ニ在リテ漫ニ清国地方行政権ニ牽礙セス又擅ニ鉄道区域外ニ出テサルヘキコトヲ声明ス

清国地方官ノ営口赴任及執務

十五、営口ニ駐在スヘキ清国地方官ハ日本軍隊該地撤退以前ト雖モ本条約確定ノ後北京駐在日本国公使清国外務部ト協議シテ可成速ニ赴任ノ期日ヲ定メ該地ニ赴キ事務ヲ執ラシムヘシ該地ニハ尚多数ノ日本軍隊アルヲ以テ検疫及防疫規則ヲ両国ニ於テ協議制定シ以テ疫病ノ伝染ヲ免レシムヘシ{「事務ヲ執ラシムヘシ・・・日本軍隊アルヲ」の行の上に「衞生事務」とあり}

営口海関收入等ノ交付

十六、営口海関收入ハ正金銀行ニ保管シ置キ撤兵ノ時清国地方官ニ交付スルコト営口常関收入及其他各地ノ收税ハ凡テ地方公共ノ費用ニ充テラルルモノニシテ撤兵ノ時其收支計算表ヲ清国地方官ニ交付スルコト

明治三八年(一九〇五年) 一一月二三日‐ 北京ニ於テ
一二月八日

  「條約彙纂、第一卷改訂版」外務省條約局編

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1572年(元亀3)三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破る(新暦1573年1月25日)詳細
1891年(明治22)第2回帝国議会で、樺山資紀の蛮勇演説が行われる詳細
1902年(明治35)「年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が、「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明)を出す詳細
1941年(昭和16)東条英機内閣が、「逓信緊急政策要綱」を閣議決定する詳細
1945年(昭和20)「労働組合法」が制定される詳細
1973年(昭和48)「国民生活安定緊急措置法」(昭和48年法律第121号)が公布・施行される詳細
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TakahiraRootkyoutei01

 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、駐米大使・高平小五郎と米国国務長官エルフ・ルートが清国門戸開放などの交換覚書(高平・ルート協定)に調印した日です。
 高平・ルート協定(たかひら・るーときょうてい)は、日露戦争後深まった日米間の対立を緩和する目的で、太平洋方面における日米両国の現状維持、清国における商工業の機会均等主義の擁護などを定めた協定で、正式には「太平洋方面に関する日米交換公文」と言いました。アメリカのワシントンD.C.において、駐米大使高平小五郎とアメリカ国務長官 E.ルートとの間で交換された外交文書から成っています。
 その主な内容は、①太平洋における両国商業の自由平穏な発達、②現状維持、所領の尊重、③清国の独立および領土保全、④清国における列国商工業の機会均等、⑤これらを侵迫する事件発生に際しての日米両国の協商など、5項目からなっていました。この協定により、日本はフィリピンなどに対する領土的野心がないことを表明、またアメリカは満州における日本の特殊権益を暗黙裡に認めることとなります。
 しかし、1907年(明治40)以降、四次に渡る「日露協約」による日本のロシア帝国への再接近、満州への経済投資の増大により、この協定は、中国での日本の覇権に対するアメリカの影響力の弱体化に帰着することになりました。
 以下に、「太平洋方面に関する日米交換公文」(高平・ルート協定)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「太平洋方面に関する日米交換公文」(高平・ルート協定)1908年11月30日調印(於:アメリカのワシントンD.C.)

  明治四十一年(一九〇八年)十一月三十日「ワシントン」ニ於テ
  明治四十一年(一九〇八年)十二月二日官報揭載

帝国大使ヨリ米国国務卿宛往翰

以書柬致啓上候陳者先頃来閣下ト本使トノ間ニ数次ノ会見ヲ遂ケ意見ヲ交換致候結果日本国及合衆国ハ太平洋方面ニ於テ本国国ヨリ隔在スル重要ナル島嶼ノ所領ヲ保有スルモノニ有之両国政府ハ同方面ニ於テ共通ノ目的、政策及旨意ヲ有スルコト明瞭ト相成候

帝国政府ハ該目的、政策及旨意ヲ真率ニ表明スルハ啻ニ日本国ト合衆国トノ間ニ久シク存在シタル友好善隣ノ関係ヲ鞏固ナラシムルニ至ルヘキノミナラス又以テ大局ノ平和ヲ維持スルニ資スル所大ナルヘキコトヲ信シ該共通ノ目的、政策及旨意ト認ムル所ノ左記綱領ヲ閣下ニ提出スヘキ旨本使ニ訓示有之候

一、太平洋ニ於ケル両国商業ノ自由平穩ナル発達ヲ奨励スルハ両国政府ノ希望タリ

二、両国政府ノ政策ハ何等侵略的傾向ニ制セラルルコトナク前記方面ニ於ケル現狀維持及清国ニ於ケル商工業ノ機会均等主義ノ擁護ヲ目的トス

三、従テ両国政府ハ相互ニ前記方面ニ於テ他ノ一方ノ有スル所領ヲ尊重スルノ強固ナル決意ヲ有ス

四、両国政府ハ又其ノ権内ニ属スル一切ノ平和手段ニ依リ清国ノ独立及領土保全並同帝国ニ於ケル列国ノ商工業ニ対スル機会均等主義ヲ支持シ以テ清国ニ於ケル列国ノ共通利益ヲ保存スルノ決意ヲ有ス

五、前述ノ現状維持又ハ機会均等主義ヲ侵迫スル事件発生スルトキハ両国政府ハ其ノ有益ト認ムル措置ニ関シ協商ヲ遂ケムカ為互ニ意見ヲ交換スヘシ

若シ前記綱領ニシテ合衆国政府ノ見解ト一致スルニ於テハ之ニ対スル閣下ノ確認ヲ得度候

本使ハ茲ニ閣下ニ向テ重テ敬意ヲ表シ候 敬具

 一九千百年十一月三十日
  在華盛頓日本帝国大使館ニ於テ
   日本帝国特命全権大使男爵
    高平小五郞
  北米合衆国国務卿 エリヒュー、ルート閣下

米国国務卿ヨリ帝国大使宛來翰

以書柬致啓上候陳者先頃來本官ニ於テ数次閣下ト会見シ意見ヲ交換セル結果両国政府ノ太平洋方面ニ於ケル政策ニ関シテ双方ノ認識セル所ヲ開列セラレタル本日附貴柬正ニ領收致候

右双方認識ノ表明ハ能ク両国ノ親善ナル関係ニ適応シ且両国政府カ極東ニ関シ従来累次声明セル協同ノ政策ヲ約述互認スルノ機会ヲ与フルモノニシテ合衆国政府ノ歓迎スル所ニ有之候

茲ニ合衆国政府ヲ代表シ閣下ニ向テ左記両国政府ノ宣言ヲ確認スルヲ得ルハ本官ノ欣幸トスル所ニ有之候(以下高平公文ト同様略)

 一千九百八年十一月三十日
  在華盛頓国務省ニ於テ
   北米合衆国国務卿
    エリヒュー、ルート

日本帝国特命全権大使男爵
 高平小五郞閣下

    「日本外交年表竝主要文書 上巻」外務省編より

 ※旧字を新字に直してあります。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1204年(元久元)公家・歌人藤原俊成の命日(新暦12月22日)詳細
1938年(昭和13)御前会議において、「日支新関係調整方針」が決定される詳細
1945年(昭和20)ララ物資」第一便としてミルク・衣類など450トンが横浜港に到着する詳細
1955年(昭和30)社会運動家・政治学者大山郁夫の命日詳細


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ryoutouhantou02

 今日は、明治時代後期の1895年(明治28)に、ロシア・フランス・ドイツの勧告(いわゆる三国干渉)により、清国との間で「奉天半島還付条約」に調印した日です。
 「奉天半島還付条約(ほうてんはんとうかんぷじょうやく)」は、正式名称を「奉天半島還付ニ關スル條約」といい、ロシア・フランス・ドイツの勧告(いわゆる三国干渉)により、清国との間で1895年(明治28)11月8日に調印、12月3日に公布された条約でした。
 日清戦争後の講和に関わる1895年(明治28)4月17日調印(4月20日批准)の「下関条約」の結果、一旦は日本への割譲が決定した遼東半島(奉天半島)でしたが、6日後の4月23日にロシア、ドイツ、フランス3国公使が外務省を訪れ、遼東半島(奉天半島)を日本が所有することは、清国の首府を危うくし、朝鮮の独立を有名無実とし、極東の平和に障害となるから、その領有を放棄すべしと勧告(「露佛獨三國の遼東半島遷付勸吿」いわゆる三国干渉)がなされます。翌24日、大本営の置かれていた広島で急遽御前会議が開催されて対策が協議されたものの、当時の日本の国力では3国に対抗できないと判断され、5月4日に遼東半島(奉天半島)の放棄を決定、翌日3国に通告、10日には天皇が詔勅でその旨を国民に告げました。
 そして、日清両国は同年11月8日に「奉天半島還付条約」に調印(12月3日公布)し、①日本は清国に遼東半島(奉天半島)を返還する、②清国は1895年11月16日に返還の代償金として日本側に銀三千万両を支払う、③代償金の受け渡しの日から3ヶ月以内に日本軍が遼東半島(奉天半島)から撤退することを約します。その後、1898年(明治31)3月にロシアは清と「旅順港・大連湾租借に関する露清条約」を結び、遼東半島(奉天半島)に鉄道を繋げ、軍港を建設することになり、のちの日露戦争の伏線となりました。
 以下に、「奉天半島還付ニ關スル條約」と「露佛獨三國の遼東半島遷付勸吿」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「奉天半島還付ニ關スル條約」 1895年(明治28)11月8日調印、12月3日公布

朕明治二十八年十一月八日北京ニ於テ朕カ全權委員ト清國全權委員ノ記名調印シタル奉天半島還付ニ關スル條約ヲ批准シ茲ニ之ヲ公布セシム

御名御璽
明治二十八年十二月三日

内閣総理大臣 侯爵伊藤博文

外務大臣臨時代理文部大臣 侯爵西園寺公望

大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ハ日本國ヨリ奉天省南部ノ地一切ヲ清國ニ還付スル爲メニ條約ヲ締結スルコトニ決シ之カ爲メ大日本國皇帝陛下ハ北京駐劄特命全權公使正四位勲一等男爵林董ヲ大清國皇帝陛下ハ欽差全權大臣太子太傅文華殿大學士一等肅毅伯爵李鴻章ヲ各其ノ全權大臣ニ任命シタリ因テ兩國全權大臣ハ互ニ其ノ全權委任狀ヲ示シ其ノ善良妥當ナルヲ認メ左ノ諸條ヲ協議決定セリ
第一條
日本國ハ明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日締結ノ下ノ關條約第二條ニ因リ清國ヨリ日本國ヘ譲與シタル奉天省南部ノ地方即鴨緑江口ヨリ安平河口ニ至リ鳳凰城海城及營口ニ亙ル以南ノ各城市及遼東灣東岸竝ニ黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼ノ主權ヲ擧ケ本條約第三條ノ規定ニ依リ日本國軍隊カ總テ撤退スル時該地方ニ現在スル城壘兵器製造所及勧誘物ト共ニ永遠清國ニ還付ス因テ下ノ關條約第三条及同條約中陸路交通及貿易ヲ律スル爲メ一ノ條約ヲ締結スヘシトノ規定ハ之ヲ取消ス
第二條
清國政府ハ奉天省南部ノ地還付ノ報酬トシテ庫平銀三千萬兩ヲ明治二十八年十一月十六日即光緒二十一年九月三十日迄ニ日本國政府ヘ拂入ルコトヲ約ス
第三條
本條約第二條ニ規定シタル報償金庫平銀三千萬兩ヲ清國ヨリ日本國ヘ拂入レタルトキハ其ノ日ヨリ三箇月以内ニ還付地ヨリ日本國軍隊ヲ總テ撤退スヘシ
第四條
清國ハ日本國軍隊還付地占領中之ト種々ノ關係ヲ有シタル清國臣民アルモ之ヲ處罰シ若ハ處罰セシメサルコトヲ約ス
第五條
本條約ハ日本文漢文英文ニテ各二通ヲ作ル而シテ此三本文ハ總テ同一ノ意義ヲ有スト雖モ若シ日本文ト漢文トノ間ニ解釋ヲ異ニシタルトキハ英文ニ依テ決裁スヘキモノトス
第六條
本條約ハ大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ其ノ批准書ハ本條約調印ノ日ヨリ三週間以内ニ北京ニ於テ之ヲ交換スヘシ

右證據トシテ兩國全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ
明治二十八年十一月八日即光緒二十一年九月二十二日北京ニ於テ作ル

大日本帝國北京駐劄特命全權公使 正四位勲一等男爵 林  董(記名)印
大清帝國欽差全權大臣 太子太傅文華殿大學士一等肅毅伯爵 李鴻章(記名)印

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ帝祚ヲ踐ミタル日本國皇帝(御名)此書ヲ見ル有衆ニ宣示ス朕親シク明治二十八年十一月八日北京ニ於テ日清兩國全權大臣ノ記名調印シタル奉天半島還付ニ關スル條約ノ各條目ヲ閲覧點檢シタルニ善ク朕ノ意ニ適シ間然スル所ナキヲ以テ右條約ヲ嘉納批准ス

神武天皇即位紀元二千五百五十五年明治二十八年十一月十七日東京宮城ニ於テ親カラ名ヲ署シ璽ヲ鈐セシム

御名國璽

外務大臣臨時代理 文部大臣 侯爵西園寺公望 印
議定書
本日調印シタル奉天半島還付ニ關スル日清兩國間條約中或ル條款ヲ實施ニ至ラシムル爲メ指定シタル期日前ニ於テ該條約ノ批准交換ヲ行フコト克サルヲ慮リ大日本國皇帝陛下ノ政府及大清國皇帝陛下ノ政府ハ前記條約中諸條款ヲ實施ニ至ラシムルコトニ付萬一遅延ノ生センコトヲ豫防センカ爲メ各其ノ全權大臣ヲ經テ左ノ條款ニ同意シタリ
日清兩國政府ハ本議定書ノ日附ヨリ五日間以内ニ各其ノ全權大臣タル下名ヲ經テ前記條約ハ大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ノ允准ヲ受ケタル旨ヲ互ニ通知スヘシ然ル上ハ前記條約ノ全部ハ實際其ノ批准交換ヲ了ヘタルト同様ニ充分ノ効力ヲ有スルモノトス
右證據トシテ兩國全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ
明治二十八年十一月八日即光緒二十一年九月二十二日北京ニ於テ作ル

大日本帝國北京駐劄特命全權公使 正四位勲一等男爵 林  董(記名)印
大清帝國欽差全權大臣 太子太傅文華殿大學士一等肅毅伯爵 李鴻章(記名)印

   「ウィキソース」より

〇「露佛獨三國の遼東半島遷付勸吿」(露仏独三國の遼東半島遷付勧告) 1895年(明治28)4月23日

 明治二十八年四月二十三日受領

(イ)露國公使ヨリノ勸吿覺書

露國皇帝陛下ノ政府ハ日本ヨリ淸國ニ向テ求メタル媾和條件ヲ査閱スルニ其要求ニ係ル遼東半島ヲ日本ニテ所有スルコトハ常ニ淸國ノ都ヲ危フスルノミナラス之ト同時ニ朝鮮國ノ獨立ヲ有名無實トナスモノニシテ右ハ將來永ク極東永久ノ平和ニ對シ障害ヲ與フルモノト認ム隨テ露國政府ハ日本國皇帝陛下ノ政府ニ向テ重テ其誠實ナル友誼ヲ表センカ爲メ茲ニ日本國政府ニ勸吿スル遼東半島ヲ確然領有スルコトヲ放棄スヘキコトヲ以テス

(ロ)佛國公使ヨリノ勸吿

佛蘭西共和國政府ノ意見ニテハ遼東半島ヲ領有スルコトハ淸國ノ都ヲ危フシ朝鮮國ノ獨立ヲ有名無實ニ歸セシメ且ツ永ク極東ノ平和ニ對シ障害ヲ與フルモノナリトス

佛蘭西共和國政府ハ重ネテ茲ニ日本帝國政府ニ對スル友情ヲ彰表セント欲スルカ故ニ帝國政府ニ向テ該半島ヲ確然所有スルコトヲ放棄アリ度旨友誼上ノ勸吿ヲ與フルコトハ佛國政府ノ義務ナリト思考ス

(ハ)獨國公使ヨリノ勸吿

本國政府ノ訓令ニ從テ左ノ宣言ヲ致シマス獨逸國政府カ日淸媾和ノ條件ヲ見レハ貴國ヨリ請求シタル遼東ノ所有ハ淸國ノ都府ヲシテ何時迄モ不安全ノ位置ニ置キ且朝鮮ノ獨立ヲモ水泡ニ屬サセ依テ東洋平和ノ永續ノ妨ケニナルコトテアルト認メナケレハナリマセヌ夫故ニ貴國政府カ遼東ノ永久ナル所有ヲ斷念ナサル樣ニ本政府カ御勸吿致シマス

此ノ宣言ニ付キマシテ次ノコトヲ申上ル樣ニ云ヒ付ケラレマシタ現今日淸事件ノ最初ヨリ本國政府カ貴國ニ對シテ其懇親ナル心ノ證據ヲ顯ハシタル唯一度ノ事テナイト存シテ居リマス御承知ノ通リニ昨年十月七日ニモ英國政府カ歐洲各國ニ日淸事件ニ干涉スルコトヲ申込ンタカ其節獨逸國カ日本國ニ對シテノ懇篤ニ依テ干涉ヲ斷リマシタ夫カラ又當年三月八日ヲ以テ本公使カ本國政府ノ命令ニ從テ貴國政府カ夥多ノ請求ヲ爲サラナイテ成ルヘク早ク媾和ヲ結フ樣ニ御勸吿致シマシタ其時ニ申上ケマシタノハ歐洲ノ諸國カ淸國ノ願ヒニ應シテ干涉致スカモ計ラレマセヌト云フコトニ依テ日本國ハ若シ夥多ノ請求ヲセスシテ早速媾和條約ヲ締結ナサルナラ却テ其方カ利益カ有ルテアロウト云フコトテコサイマシタ夫レニ續テ日本國若シ大陸ノ土地ノ讓渡ヲ要求スレハ之レハ最モ干涉ヲ惹起スヘキ要求テアルタロウト申述マシテモ貴國テハ此ノ利己心ナキ勸吿ニ應シマセンテコサイマシタ

現在ノ日淸媾和ノ條件ハ全ク度ニ過キテ歐洲諸國ノ利益上ニト竝ニ譬幾分カハ少ナシト雖モ亦獨逸國ノ利益上ニモ害カアルト認マス夫レ故ニ現今ハ本國皇帝陛下ノ政府モ倶ニ抗議ヲ提出シナケレハナリマセヌ且ツ必要カアル場合ニハ其抗議ヲシテ有效ニナラシメルコトモアリマシヨウ三國ニ對スル戰ハ所詮日本國ニ望ミノナイコトテアルカ故ニ貴國此事件ニ付キマシテハ讓ルコトカ出來ナイコトハナカロウト存シテ居リマス尙ホ日本政府カ名譽ヲ失フコトナクシテ今ノ地位ヨリ退ソクコトノ途ヲ講スル爲メニ「コンフエレンス」ヲ開ク等ノコトヲ望マルレハ其旨ヲ電報ニテ本國政府へ送レト云フ內訓ヲモ受ケテ居リマス

   「日本外交年表竝主要文書上巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1892年(明治25)文芸評論家・推理小説家・翻訳家平林初之輔の誕生日詳細
1894年(明治27)戯作者・新聞記者仮名垣魯文の命日詳細
1933年(昭和8)東京の府中町に東京競馬場(東京競馬倶楽部運営)が開場する詳細


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