ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:淳仁天皇

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 今日は、奈良時代の765年(天平神護元)に、第47代の天皇とされる淳仁天皇が、配流先の淡路島で亡くなった日ですが、新暦では11月10日となります。
 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、733年(天平5)に、奈良の平城京において、天武天皇の子である、舎人親王の第7皇子(母は当麻山背)として生まれましたが、名は大炊 (おおい) と言いました。735年(天平7)に父・舎人親王が亡くなり、756年(天平勝宝8)に聖武上皇が亡くなります。
 藤原仲麻呂の長子真従(まより)の未亡人粟田諸姉(あわたのもろあね)を妻とし、仲麻呂の邸宅である田村第に住むようになり、757年(天平宝字元)に道祖(ふなど)王が太子を廃されると、かわりに迎えられて立太子しました。758年(天平宝字2年8月1日)に孝謙天皇の譲位を受けて第47代とされる天皇として即位、粟田諸姉を妃とし、義父・藤原仲麻呂を太保 (右大臣) に任命し、姓を恵美、名を押勝とさせます。
 同年に国司の任期4年を6年に改め、760年(天平宝字4)に渤海国使・高南申ら方物を貢り、新銭 (万平通宝・大平元宝・開基勝宝など) を鋳造させ、旧銭 (和同開珎) と併用させ、藤原仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じました。760年(天平宝字4)に光明皇太后が亡くなると、道鏡の処遇をめぐって孝謙上皇と対立するようになり、翌年(天平宝字5)には、藤原仲麻呂勢力下の近江の保良宮を副都としてここに遷ります。
 762年(天平宝字6)に上皇は、天皇から国家の大事と賞罰の権を奪うと、追いつめられた義父・藤原仲麻呂は、764年(天平宝字8年年9月)に乱を起こして局面の打開をはかりましたが、逆賊として追討され敗死しました。天皇はその反乱の責めを問われ、淡路島に配流され、一院に幽閉されます。
 765年(天平神護元)に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化が命じられる中で、10月に配所を逃亡して捕えられ、その翌23日に配流先の淡路島において、数え年33歳で亡くなりました。その後、778年(宝亀9年3月)に淡路国三原郡の墓は山陵扱いとなります。
 尚、『続日本紀』では、廃帝(淡路廃帝)とされていましたが、1870年(明治3)になって淳仁の諡号が贈られることとなりました。

〇淳仁天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・733年(天平5年) 天武天皇の子である、舎人親王の第7皇子(母は当麻山背)として生まれる
・735年(天平7年11月14日) 父・舎人親王が亡くなる
・756年(天平勝宝8年5月2日) 聖武上皇が亡くなる
・757年(天平宝字元年4月4日) 廃太子道祖(ふなど)王にかわって迎えられて立太子する
・758年(天平宝字2年8月1日) 孝謙天皇の譲位を受けて第47代とされる天皇として即位、時の有力者藤原仲麻呂の長男真従 (まより) の妻であった粟田諸姉 (あわだのもろね) を妃とする
・758年(天平宝字2年8月) 藤原仲麻呂を太保 (右大臣) に任命し、姓を恵美、名を押勝とさせる
・758年(天平宝字2年10月) 国司の任期4年を6年に改める
・760年(天平宝字4年1月5日) 渤海国使・高南申ら方物を貢る
・760年(天平宝字4年) 新銭 (万平通宝・大平元宝・開基勝宝など) を鋳造させ、旧銭 (和同開珎) と併用させる
・760年(天平宝字4年) 藤原仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じる
・760年(天平宝字4年6月7日) 光明皇太后が亡くなる
・761年(天平宝字5年10月) 藤原仲麻呂勢力下の近江の保良宮を副都としてここに遷る
・762年(天平宝字6年6月3日) 孝謙上皇と対立し、上皇は天皇から国家の大事と賞罰の権を奪う
・764年(天平宝字8年年9月) 上皇との対立を契機に藤原仲麻呂の乱が起き、仲麻呂は討たれる
・764年(天平宝字8年10月9日) 天皇を廃されて淡路に流され、淡路公・淡路廃帝と称される
・765年(天平神護元年2月) 現地の国守である佐伯助らに警戒の強化が命じられる
・765年(天平神護元年10月) 配所を逃亡して捕えられる、
・765年(天平神護元年10月23日) 配流先の淡路島において、数え年33歳で亡くなる
・778年(宝亀9年3月) 淡路国三原郡の墓は山陵扱いとなる
・1870年(明治3年) 淳仁の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、奈良時代の764年(天平宝字8)に、孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の乱)が発覚した日ですが、新暦では10月10日となります。
 藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)は、奈良時代に藤原仲麻呂(恵美押勝)が、道鏡を除こうとしておこした反乱で、恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)とも呼ばれてきました。760年(天平宝字4)に藤原仲麻呂を庇護してきた光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が亡くなると、道鏡を寵愛する孝謙太上天皇(こうけんだいじょうてんのう)と、藤原仲麻呂が擁立した淳仁天皇(じゅんにんてんのう)との関係が険悪化します。
 762年(天平宝字6)には、太上天皇が国家大事・賞罰二権の掌握を宣言するに至りました。764年(天平宝字8)に、太上天皇と天皇の間にもすきが生まれたのを契機として、仲麻呂は太上天皇側に対して反乱を企てようと考え、9月に都督使に任じられた機に、正規の30倍もの兵士を動員しようとします。
 これを高丘比良麻呂 (たかおかのひらまろ) に密告され、同月11日に天皇の居所にあった天皇権力の象徴である鈴印を太上天皇側に奪われ、仲麻呂は近江へ逃走しました。しかし、太上天皇側の派遣した討伐軍に近江高島郡に追いつめられて敗れ、同月18日に斬殺されて乱は鎮圧されます。
 乱後は、道鏡が大臣禅師に任じられて政権を掌握し、淳仁天皇は廃位ののち淡路に配流され、孝謙太上天皇が称徳天皇(しょうとくてんのう)として重祚します。
 以下に、このことを記した『続日本紀』巻第二十五の天平宝字8年9月の条を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第二十五の天平宝字八年九月の条

乙巳。太師藤原惠美朝臣押勝逆謀頗泄。高野天皇遣少納言山村王。收中宮院鈴印。押勝聞之。令其男訓儒麻呂等邀而奪之。天皇遣授刀少尉坂上苅田麻呂。將曹牡鹿嶋足等。射而殺之。押勝又遣中衛將監矢田部老。被甲騎馬。且刧詔使。授刀紀船守亦射殺之。勅曰。太師正一位藤原惠美朝臣押勝并子孫。起兵作逆。仍解免官位。并除藤原姓字已畢。其職分功封等雜物。宜悉收之。即遣使固守三關。」授從三位藤原朝臣永手正三位。正四位下吉備朝臣眞備從三位。正五位下藤原朝臣繩麻呂從四位下。正七位上大津連大浦從四位上。從七位上牡鹿連嶋足。正六位上坂上忌寸苅田麻呂。外從五位下粟田朝臣道麻呂。從六位下中臣伊勢連老人。從八位上弓削宿祢淨人。外從五位下高丘連比良麻呂。正五位上日下部宿祢子麻呂並從四位下。從七位下紀朝臣船守從五位下。正七位上民忌寸総麻呂外從五位下。」弓削宿祢淨人賜姓弓削御淨朝臣。中臣伊勢連老人中臣伊勢朝臣。大津連大浦大津宿祢。牡鹿連嶋足牡鹿宿祢。坂上忌寸苅田麻呂坂上大忌寸。是夜。押勝走近江。官軍追討。

<読み下し文>

乙巳[1]。太師藤原の惠美の朝臣押勝[2]逆謀[3]頗る泄る。高野の天皇[4]少納言山村の王[5]を遣して、中宮院[6]の鈴印[7]を收めしむ。押勝之を聞て、其の男訓儒麻呂[8]等をして邀へて之を奪は令む。天皇授刀[9]の少尉坂上の苅田麻呂、將曹[10]の牡鹿の嶋足等を遣して、射て之を殺さしむ。押勝又中衛[11]の將監矢田部の老を遣して、甲を被馬に騎て、且ち詔使[12]を刧かす、授刀[9]紀の船守をして亦之を射殺さしむ。勅して曰く。「太師正一位藤原の惠美の朝臣押勝并に子孫、兵を起して逆を作す。仍て官位を解免[13]し、并に藤原姓の字を除くことを已に畢しぬ。其の職分[14]功封[15]等雜物[16]。宜く悉く之を收むべし。」即ち使を遣して固く三關[17]を守らしむ。從三位藤原の朝臣永手に正三位、正四位下吉備の朝臣眞備に從三位、正五位下藤原の朝臣繩麻呂に從四位下、正七位上大津の連大浦に從四位上、從七位上牡鹿の連嶋足、正六位上坂の上の忌寸苅田麻呂、外從五位下粟田の朝臣道麻呂、從六位下中臣伊勢の連老人、從八位上弓削の宿祢淨人、外從五位下高丘の連比良麻呂、正五位上日下部の宿祢子麻呂に並に從四位下、從七位下紀の朝臣船守に從五位下、正七位上民の忌寸総麻呂に外從五位下を授く。弓削の宿祢淨人には姓を弓削の御淨朝臣と賜ふ。中臣の伊勢の連老人には中臣伊勢の朝臣、大津の連大浦には大津の宿祢、牡鹿の連嶋足には牡鹿の宿祢、坂の上の忌寸苅田麻呂には坂の上の大忌寸。」是夜。押勝近江に走る。官軍追討[18]す。

【注釈】

[1]乙巳:おっし=十干と十二支とを組み合わせたものの第四二番目。ここでは、9月11日のこと。
[2]太師藤原の惠美の朝臣押勝:たいしふじわらのえみのあそんおしかつ=太政大臣藤原仲麻呂のこと。
[3]逆謀:ぎゃくぼう=謀反のはかりごと。反逆のたくらみ。謀逆。
[4]高野の天皇:たかぬのすめらみこと=孝謙天皇(称徳天皇)のこと。
[5]少納言山村の王:しょうなごんやまむらのおう=奈良時代の皇族で用明天皇の皇子であった山村王のこと。
[6]中宮院:ちゅうぐういん=禁中。内裏。御所。
[7]鈴印:れんいん=天皇権力の象徴である駅鈴と御璽。
[8]訓儒麻呂:くずまろ=藤原仲麻呂の息子、藤原久須麻呂のこと。
[9]授刀:たちはき=太刀を帯びること。また、その人。帯刀の舎人(とねり)の略。
[10]將曹:しょうそう=近衛府(このえふ)の主典(さかん)。正七位下相当。
[11]中衛:ちゅうえい=中衛府の兵士。〔
[12]詔使:しょうし=詔書を諸国、諸司に伝達するために派遣された使者。ここでは山村王のこと。
[13]解免:げめん=解官と免官の総称。
[14]職分:しきぶん=官職に対して給される田地、職分田のこと。
[15]功封:こうふ=親王の一品以下、臣下の五位以上の国家に功労のあった者に与えられた封戸。
[16]雜物:ぞうもつ=種々雑多なもの。また、いろいろな財物。雑具。
[17]三關:さんかん=古代の三つの関所(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関)。
[18]追討:ついとう=賊などを追いかけてうちとること。討手(うって)をさしむけて征伐すること。追伐。

<現代語訳>

 9月11日。太政大臣藤原仲麻呂の反逆のたくらみがたいそう漏洩した。孝謙上皇(称徳天皇)は少納言山村王を派遣して、淳仁天皇の御所の天皇権力の象徴である駅鈴と御璽を回収させた。藤原仲麻呂(恵美押勝)はこれを聞いて、その息子藤原久須麻呂等をして待ち伏せさせてこれを奪わせた。天皇は授刀の少尉坂上の苅田麻呂、將曹の牡鹿の嶋足等を派遣して、これを射殺させた。藤原仲麻呂(恵美押勝)はまた中衛の將監矢田部の老を派遣、甲冑を着け馬に乗って、すなわち派遣された使者(山村王)を脅かす。授刀紀の船守はまたこれを射殺した。
 勅して言うことには、「太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)ならびにその子や孫は、兵を起して反逆を成した。よって官位を剥奪し、ならびに藤原姓の字を除くことをすでに処置した。その職分田や封戸等からのいろいろな財物をことごとくこれを収公すること。」。
 ただちに使者を派遣して、固く三つの関所(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、越前国愛発関)を守らせた。
 從三位藤原の朝臣永手に正三位、正四位下吉備の朝臣眞備に從三位、正五位下藤原の朝臣繩麻呂に從四位下、正七位上大津の連大浦に從四位上、從七位上牡鹿の連嶋足、正六位上坂の上の忌寸苅田麻呂、外從五位下粟田の朝臣道麻呂、從六位下中臣伊勢の連老人、從八位上弓削の宿祢淨人、外從五位下高丘の連比良麻呂、正五位上日下部の宿祢子麻呂に並に從四位下、從七位下紀の朝臣船守に從五位下、正七位上民の忌寸総麻呂に外從五位下を授けた。弓削の宿祢淨人には姓を弓削の御淨朝臣を賜った。中臣の伊勢の連老人には中臣伊勢の朝臣、大津の連大浦には大津の宿祢、牡鹿の連嶋足には牡鹿の宿祢、坂の上の忌寸苅田麻呂には坂の上の大忌寸を賜った。
 この夜、藤原仲麻呂(恵美押勝)は近江に逃走し、官軍が追討する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

972年(天禄3)僧侶・民間浄土教の先駆者空也の命日(新暦10月20日)詳細
1900年(明治33)東京の上野・新橋両駅に日本初の公衆電話が設置される(公衆電話の日)詳細
1940年(昭和15)内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される詳細
1949年(昭和24)明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始する詳細


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nakamarob6umyoukougou01

 今日は、奈良時代の757年(天平宝字元)に、藤原仲麻呂を打倒しようとした橘奈良麻呂の乱(未遂)が起きた日ですが、新暦では7月28日となります。
 橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は、奈良時代の中頃に起きた、橘諸兄の子奈良麻呂を中心とするグループによって計画された藤原仲麻呂打倒未遂事件でした。奈良麻呂が大伴・佐伯氏らと結んで、仲麻呂の擁立した皇太子大炊王(のちの淳仁天皇)の廃太子を計画したものの、未然に発覚して奈良麻呂らは捕らえられ、奈良麻呂らが獄死したものです。
 これによって、大炊王は淳仁天皇として即位し、仲麻呂は恵美押勝(えみのおしかつ)と称すると共に、やがて正一位大師(太政大臣)の最高位に上り詰め、その専権が確立しました。

〇橘奈良麻呂の乱関係略年表(日付は旧暦です)

・738年(天平10年) 皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べる
・749年(天平21年) 聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される
・749年(天平21年11月) 孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀ったが、全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行出来ずに終わる
・755年(天平勝宝7年) 橘諸兄の従者佐味宮守から、橘諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告がある
・756年(天平勝宝8年2月) 橘諸兄が辞職する
・756年(天平勝宝8年4月) 聖武上皇不豫の際黄金を携えて陸奥より上京した佐伯全成に対して三度謀反の計画を謀る
・756年(天平勝宝8年5月2日) 聖武太上天皇が亡くなり、太上天皇の遺言により道祖王が立太子する
・757年(天平宝字元年4月) 道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって仲麻呂が推す大炊王(後の淳仁天皇)が立太子する
・757年(天平宝字元年6月28日) 山背王が孝謙天皇に「奈良麻呂が兵をもって仲麻呂の邸を包囲しようと計画している。大伴古麻呂もその事情を知っている」と密告する
・757年(天平宝字元年7月2日) 孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発する
・757年(天平宝字元年7月3日) 右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人らを訊問、謀反を自白する
・757年(天平宝字元年7月4日) 奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養(たじひのこうしかい)、賀茂角足(かものつのたり)らが逮捕され、永手らの訊問を受け、過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1900年(明治33)物理学者・随筆家中谷宇吉郎の誕生日詳細
1912年(明治45)彫刻家佐藤忠良の誕生日詳細
1941年(昭和16)帝都高速度交通営団設立される詳細
1952年(昭和27)破壊活動防止法」(昭和27年7月21日法律第240号)が、国会で成立する詳細
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