ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:海難事故

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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、駿河湾汽船「愛鷹丸」が、強風と波浪により沈没(愛鷹丸沈没事故)し、死者・行方不明者121人を出した日です。
 愛鷹丸沈没事故(あしたかまるちんぼつじこ)は、大正時代の1914年(大正3)1月5日午後に、駿河湾汽船「愛鷹丸」が、静岡県の駿河湾の戸田沖で沈没した事故です。伊豆半島の土肥港(現在の伊豆市)を午後1時半頃に出港し、戸田港(現在の沼津市)に向け航行中の駿河湾汽船「愛鷹丸」(総トン数57t、旅客定員26人の貨客船)が、定員の5倍以上の146人を乗せて航行中、西南からの強風と波浪により戸田沖で沈没しました。
 同船に続いて航行していた東京湾汽船所有の「芙蓉丸」が、直ちに救助に向かい乗客25人を救助、5人の遺体を収容しましたが、残り116人は行方不明となります。尚、静岡県沼津市内浦に、「愛鷹丸沈没事故慰霊碑」が建立されました。
 以下に、この愛鷹丸沈没事故について記述した、岡本綺堂著『春の修善寺』の該当部分を抜粋掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇岡本綺堂著『春の修善寺』の中の愛鷹丸沈没事故の部分を抜粋

 十年ぶりで三島駅から大仁(おおひと)行の汽車に乗換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場駅附近を過ぎると、ここらももう院線の工事に着手しているらしく、路(みち)ばたの空地に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに顫(ふる)えている小さい竹藪は、折からの強い西風にふき煽(あお)られて、今にも折れるかとばかりに撓(たわ)みながら鳴っている。広い桑畑には時々小さい旋風をまき起して、黄竜のような砂の渦が汽車を目がけて直驀地(まっしぐら)に襲って来る。
 この如何(いか)にも暗い、寒い、すさまじい景色を窓から眺めながら運ばれてゆく私は、とても南の国へむかって旅をしているというのびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかには沼津の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸あしたかまる)が駿河湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
 沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田に潜伏していたが、ある時なにかの動機から飜然悔悟した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいという。かれはすぐに下田の警察へ駆込んで過去の罪を自首したが、それはもう時效を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞きあわせると、当時の被害者は疾(と)うに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
 元来、彼は沼津の生れではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立して、自分の安心を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、いくらかの金を作った。彼はその金をふところにして彼の愛鷹丸に乗込むと、駿河の海は怒って暴れて、かれを乗せた愛鷹丸はヨナを乗せた船のように、ゆれて傾いた。しかも罪ある人ばかりでなく、乗組の大勢をも併せて海のなかへ投げ落としてしまった。彼は悪魚の腹にも葬られずに、数時間の後に引きあげられたが、彼はその金を懐ろにしたままで凍え死んでいた。
 これを話した人は、彼の死はその罪業の天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりであった。天はそれほどにむごいものであろうか――わたしは暗い心持でこの話を聴いていた。南条駅を過ぎる頃から、畑にも山にも寒そうな日の影すらも消えてしまって、ところどころにかの砂烟(すなけむり)が巻き颺(あが)っている。その黄(きいろ)い渦が今は仄白くみえるので、あたりがだんだんに薄暗くなって来たことが知られた。汽車の天井には旧式な灯の影がおぼつかなげに揺れている。この話が済むと、その人は外套の羽をかきあわせて、肩をすくめて黙ってしまった。私も黙っていた。
 三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い佗しい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。寒い風はまだ吹きやまないで、旅館の出迎えの男どもが振照す提灯(ちょうちん)の火のかげに、乗合馬車の馬のたてがみの顫えて乱れているのが見えた。わたしは風を恐れて自働車に乗った。

 (以下略)

   「青空文庫」より

☆明治・大正時代に日本近海で起きた重大海難事故一覧(死者・行方不明者100人以上)

・1878年(明治11)12月24日 - 和歌山県太地村でセミクジラを捕獲するため19隻・総勢184名で出漁、荒天による集団遭難事故(大背美流れ)<死者・行方不明者100余人>
・1890年(明治23)9月16日 - 和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦「エルトゥールル号」が座礁沈没(エルトゥールル号遭難事件)<乗員約600人中、死者・行方不明者587人>
・1891年(明治24)7月11日 - 白神岬沖2.8kmの津軽海峡で「瓊江丸」と「三吉丸」が衝突し「瓊江丸」が沈没<死者・行方不明者261人>
・1905年(明治38)8月22日 - 瀬戸内海姫島灯台付近でイギリス船「バラロング」と軍用船「金城丸」が衝突し「金城丸」が沈没<死者・行方不明者165人>
・1908年(明治41)3月23日 - 北海道恵山岬灯台北東沖で客船「陸奥丸」と「秀吉丸」が衝突し「陸奥丸」が沈没<死者・行方不明者212人>
・1914年(大正3)1月5日 - 静岡県の駿河湾で、汽船「愛鷹丸」が強風のため横転沈没<死者・行方不明者121人>
・1922年(大正11)8月26日 - カムチャツカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高」がオジョールナヤ基地沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨。海岸に座礁、転覆<死者・行方不明者327人>
・1926年(大正15)4月26日 - 幌筵島沖を航行中の蟹工船「秩父丸」が座礁沈没<死者・行方不明者182人>

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(正平3)楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との四条畷の戦いに敗れ自刃(新暦2月4日)詳細
1593年(文禄2)第106代の天皇とされる正親町天皇の命日(新暦2月6日)詳細
1927年(昭和2)有機化学者向山光昭が誕生日詳細
1963年(昭和38)「三八豪雪」が始まり、日本海側に記録的大雪をもたらす詳細
1974年(昭和49)中国の北京において、「日中貿易協定」が締結(同年6月22日発効)される詳細
1978年(昭和53)陶芸家・人間国宝濱田庄司の命日詳細
1995年(平成7)地球物理学者・歌人和達清夫(筆名:西須諸次)の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1900年(明治33)に、駿河湾で官立商船学校(現在の東京海洋大学)の練習帆船「月島丸」が暴風雨により沈没(月島丸沈没事故)し、死者・行方不明者122人を出した日です。
 月島丸沈没事故(つきしままるちんぼつじこ)は、明治時代後期の1900年(明治33)11月17日に起きた、官立商船学校(現在の東京海洋大学)の練習帆船「月島丸」沈没事故です。練習帆船「月島丸」は、長崎三菱造船所(現在の三菱重工業長崎造船所)で建造され、1898年(明治31)5月に竣工し、試運転を行った後に、横浜港に回航されて、官立商船学校(現在の東京海洋大学)練習船となりました。
 1900年(明治33)11月13日に、122人(うち練習生79人)を乗せて室蘭港を出港し、静岡県清水港を目指したものの、同月17日突然、消息を絶ってしまいます。その日に起きた大暴風に遭遇したと判断し捜査が進められましたが、静岡県仁科村(現在の西伊豆町)沖でカッターが見つかり、本船は駿河湾内で暴風に遭遇し沈没したものと推定されました。
 その後、同県静浦村(現在の沼津市)海岸で船長と他の沿岸に給仕の死体が打ち上げられ発見されます。しかし、それ以外の学生を含め乗組員120人は行方不明のまま捜索は打ち切られました。
 詩人の横瀬夜雨は、以下の「石廊崎に立ちて(月島丸をおもふ)」を詠って、その死を悼んでいます。

〇詩人横瀬夜雨作「石廊崎に立ちて(月島丸をおもふ)」

  八重立つ雲の流れては
  紅匂ふ暁(あけ)の空
  夜すがら海に輝きし
  鹹(しほ)の光も薄れけり
  南に渡る鴻の
  聲は岬に落つれども
  島根ゆるがす朝潮の
  瀬に翻る秋の海
  牡蠣殻曝れし荒磯の
  巌の高きに佇みて
  沖に沈みし溺れ船
  悲しみあとを眺めれば
  七十五里の灘の上
  浪は白く騒げども
  玉藻の下に埋れし
  船は浮ばずなりぬかな

☆明治・大正時代に日本近海で起きた重大海難事故一覧(死者・行方不明者100人以上)

・1878年(明治11)12月24日 - 和歌山県太地村でセミクジラを捕獲するため19隻・総勢184名で出漁、荒天による集団遭難事故(大背美流れ)<死者・行方不明者100余人>
・1890年(明治23)9月16日 - 和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦「エルトゥールル号」が座礁沈没(エルトゥールル号遭難事件)<乗員約600人中、死者・行方不明者587人>
・1891年(明治24)7月11日 - 白神岬沖2.8kmの津軽海峡で「瓊江丸」と「三吉丸」が衝突し「瓊江丸」が沈没<死者・行方不明者261人>
・1900年(明治33)11月17日 - 駿河湾沖で暴風雨により、官立商船学校(現在の東京海洋大学)の練習帆船「月島丸」が沈没<死者・行方不明者122人>
・1905年(明治38)8月22日 - 瀬戸内海姫島灯台付近でイギリス船「バラロング」と軍用船「金城丸」が衝突し「金城丸」が沈没<死者・行方不明者165人>
・1908年(明治41)3月23日 - 北海道恵山岬灯台北東沖で客船「陸奥丸」と「秀吉丸」が衝突し「陸奥丸」が沈没<死者・行方不明者212人>
・1922年(大正11)8月26日 - カムチャツカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高」がオジョールナヤ基地沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨。海岸に座礁、転覆<死者・行方不明者327人>
・1926年(大正15)4月26日 - 幌筵島沖を航行中の蟹工船「秩父丸」が座礁沈没<死者・行方不明者182人>

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

717年(養老元)美濃国の醴泉によって、元号を「霊亀」から「養老」へ改元(養老改元)する(新暦12月24日)詳細
1716年(享保元)江戸城内で御城将棋が開催され、以降この日に御城碁と共に定例化される詳細
1905年(明治38)日本と大韓帝国との間で、「第二次日韓協約」が調印される詳細
1951年(昭和26)神奈川県鎌倉市に「神奈川県立近代美術館」が開館する詳細
1973年(昭和48)児童文学者浜田広介の命日詳細
1986年(昭和61)将棋棋士・14世名人木村義雄の命日詳細
1990年(平成2)長崎県の雲仙普賢岳で198年ぶりの噴火(雲仙普賢岳1990年噴火)が始まる詳細
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、大阪商船の大連発の鉄嶺丸が珍島沖の竹島灯台附近で沈没(鉄嶺丸座礁沈没事故)し、死者225人を出した日です。
 鉄嶺丸座礁沈没事故(てつれいまるざしょうちんぼつじこ)は、日満航路(大阪~大連線)の大阪商船「鉄嶺丸」が、中国の大連港を出港し、神戸港へ向かう途中の1910年(明治43)7月22日午後7時54分に、韓国南西端の珍島沖において座礁し、沈没した海難事故です。前夜から、同航路は荒天で波が高いうえ濃霧に閉ざされていましたが、船長は、朝鮮半島沿岸ぞいに進路を変えたものの、午後7時には、霧はますます深くなり、濃霧の中30分ほど南へ進んだが、午後7時54分ついに珍島沖で座礁し船体は大破しました。
 乗客乗員は総数265人の内、6隻ある救命艇に171人が移乗、本船に留まった船長を含む94人が亡くなり、さらに、潮流がはげしいうえ濃霧のため救命艇4隻が沈没131人が亡くなり、2隻の40人のみが半島南岸の全羅南道加士島に上陸できます。これによって、船に残った乗客・乗員も含め、225人が亡くなるという大惨事となりました。

☆明治・大正時代の日本近海での主要な海難事故一覧

・1878年(明治11)12月24日 和歌山県・太地村太地鯨方は、子連れのセミクジラ(背美鯨)を捕獲するため19隻・総勢184人で出漁、荒天を突いて出漁したことから集団遭難事故を引き起こし、100余人が死亡する
・1886年(明治19)10月24日 イギリス商船「ノルマントン号」が、和歌山県潮岬沖で沈没、日本人乗客25人ほか、中国人、インド人乗組員12人が死亡、イギリス人船員は全員生存し、当時の日本で社会問題になった(ノルマントン号事件)
・1890年(明治23)9月16日 和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦「エルトゥールル号」が座礁沈没。乗員約600人中、地元の漁民らによって69人が救出されたが、587人が死亡または行方不明となった(エルトゥールル号遭難事件)
・1891年(明治24)7月11日 白神岬沖2.8kmの津軽海峡で「瓊江丸(たまえまる、77トン、北海汽船)」と「三吉丸(97トン)」が衝突し「瓊江丸」が沈没、261人が死亡する
・1908年(明治41)3月23日 北海道恵山岬灯台北東沖で客船「陸奥丸」と「秀吉丸」が衝突し「陸奥丸」が沈没、212人が死亡・行方不明となる
・1910年(明治43)7月22日 大阪商船の大連発の「鉄嶺丸(2,143トン)」が珍島沖の竹島灯台附近で沈没し、死者225人を出す(鉄嶺丸座礁沈没事故)
・1912年(明治45)5月4日 北海道岩内町沖合で暴風雨のため漁船31隻が遭難、死者・行方不明者115人を出す
・1912年(大正元)9月1日 伊豆の神子元島と新島の間で石炭運搬船「幸運丸(2,878トン)」が沈没。乗員42人中40人死亡する
・1912年(大正元)9月23日 青森県の尻屋崎の沖合いで石炭運搬船「相川丸(1,536トン)」が台風による暴風雨で沈没。乗員33人全員死亡する
・1918年(大正7)5月5日 愛媛県白石ノ鼻沖で石崎汽船の第四相生丸が沈没、修学旅行帰りの小学生ら50人が死亡する
・1924年(大正13)12月11日 京都府舞鶴港に向かっていた海軍の工作艦「関東」が、吹雪の気象条件の中で航路を逸脱、福井県下糠浦海岸の二ッ栗岩に座礁して沈没、乗組員と便乗者の合わせて99人が死亡する
・1926年(大正15)4月26日 幌筵島沖を航行中の蟹工船「秩父丸」が座礁沈没し、182人が死亡する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1549年(天文18)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する(新暦8月15日)詳細
1878年(明治11)「郡区町村編成法」、「府県会規則」、「地方税規則」(地方三新法)が制定される詳細
1917年(大正6)作曲家・作詞家浜口庫之助の誕生日詳細
1922年(大正11)応用化学者・企業家高峰讓吉の命日詳細
1924年(大正13)「小作調停法」が公布(施行は同年12月1日)される詳細
1953年(昭和28)「離島振興法」が公布・施行される詳細
1974年(昭和49)国営公園の最初の一つとして、国営武蔵丘陵森林公園(埼玉県滑川町・熊谷市)が開園する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、小豆島地蔵埼付近で、大阪商船の客船「みどり丸」と大連汽船の「千山丸」が衝突し、「みどり丸」が沈没して死者・行方不明者107人を出した日です。
 「みどり丸」衝突沈没事故(みどりまるしょうとつちんぼつじこ)は、1935年(昭和10)7月3日午前1時頃に、大分県の別府港を出航して兵庫県神戸市へ向う途中の大阪商船別府航路の客船「みどり丸(1,724トン)」が香川県の小豆島地蔵埼沖合付近で、濃霧の中大連汽船の「千山丸(2,775トン)」と衝突した事故でした。この事故で船腹に衝突された「みどり丸」は3分ほどで沈没し、乗員・乗客244人の内、死者・行方不明者107人を出しています。
 本件は、 海員審判に付され、 同年10月11日大阪地方海員審判所で第一審裁決がありましたが、 理事官及び被審人から控告があり、 翌年6月9日に高等海員審判所で裁決がありました。

〇昭和時代前期の日本近海での主要な海難事故(死者・行方不明者50人以上)

・1927年(昭和2)8月24日 島根県美保関沖で夜間演習中の軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」が衝突して「蕨」が沈没、軽巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」も衝突し、将兵119人が殉職する(美保関事件)
・1932年(昭和7)10月14日 小笠原諸島の沖合で鈴岡県地頭方村の漁船「海勢丸(トン数不詳)」と「愛石丸(トン数不詳)」が難破、乗組員1人を除く118人が死亡する
・1933年(昭和8)10月1日 熊本県三角港の沖合で観光船(船名、トン数不詳)が沈没。乗客ら90人が死亡する
・1933年(昭和8)10月20日 兵庫県神戸市須磨区沖合で客船「屋島丸(946トン)」が台風接近による暴風雨のため沈没、乗客41人、船員26人死亡、乗客2人行方不明となる
・1934年(昭和9)3月12日 日本海軍の水雷艇「友鶴」が長崎県佐世保港外で演習中に転覆、乗員100名が死亡する(友鶴事件)
・1935年(昭和10)7月3日 大分県の別府港を出航して兵庫県神戸市へ向う途中の大阪商船の客船「みどり丸(1,724トン)」が小豆島地蔵埼付近で、濃霧の中大連汽船の「千山丸(2,775トン)」と衝突。この事故で船腹に衝突された「緑丸」は3分ほどで沈没、死者・行方不明者107人となる
・1935年(昭和10)9月25日 島根県波根西村の沖合で出漁中の漁船団が竜巻に遭遇。15隻が沈没して乗組員62人が死亡する
・1935年(昭和10)9月26日 日本海軍第四艦隊が岩手県沖の太平洋で演習中、台風に遭遇し、54人が死亡する(第四艦隊事件)
・1940年(昭和15)1月6日 釜山市沖合で密航船「第3共栄丸」(15トン)が沈没、114人が行方不明となる
・1940年(昭和15)6月30日 沖縄県平良港(現宮古島市)から伊良部島に向かう貨客船「伊良部丸」(15トン)が伊良部港沖300m付近で沈没、死者・行方不明者75人となる
・1942年(昭和17)12月31日 香川県苗羽村(現:小豆島町)柚の浜沖合で内海汽船所属の「錦丸」(42トン)が転覆。4人は泳ぎ着いて救助されるも死者・行方不明者72人(推定)となる
・1943年(昭和18)4月7日 佐賀県の有明海でウミタケ漁をしていた南川副村、大詫間村の漁船が遭難。約70人が死亡となる
・1943年(昭和18)4月9日 長崎県鷹島村沖合で連絡船「殿浦丸」(トン数不詳)の機関室から浸水して沈没、乗客ら104人が死亡する
・1944年(昭和19)2月6日 鹿児島県垂水港を出港した垂水汽船「第六垂水丸」が転覆沈没、死者数は長らく不明とされてきたが、後年、547人と特定される(第六垂水丸遭難事故)
・1944年(昭和19)12月24日 長崎交通船の木造船「近海丸」が長崎市小江町沖で沈没し、273人死亡、過積載が原因とされる(近海丸沈没事故)
・1945年(昭和20)3月6日 青森港内にて青函連絡船の「第五青函丸」が折からの暴風に煽られ防波堤に接触し浸水、沈没し、死者・行方不明者82名となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1722年(享保7)徳川吉宗が「上米の制」を制定する(新暦8月14日)詳細
1888年(明治21)日本画家村上華岳の誕生日詳細
1912年(明治45)大阪市浪速区に初代通天閣が完成(通天閣の日)詳細
1916年(大正5)日本とロシアとの間で、「第四次日露協約」が締結される詳細
1947年(昭和22)連合国最高司令部(GHQ)より「商事会社の解体に関する覚書」 (SCAPIN-1741) が指令される詳細
1971年(昭和46)東亜国内航空のYS11「ばんだい号」が北海道・横津岳に激突する(ばんだい号墜落事故)詳細
1993年(平成5)俳人・国文学者加藤楸邨の命日詳細
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 今日は、昭和時代中期の1963年(昭和38)に、那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出した「みどり丸沈没事故」が起きた日です。
 みどり丸沈没事故(みどりまるちんぼつじこ)は、午後0時5分頃に、お盆休みの帰省客など乗員乗客228人を乗せて、那覇市泊港から久米島に向けて出航した定期貨客船「みどり丸」が、泊港外の北西方10kmにある環礁(俗称チービシ)の神山島付近で、横波を受け転覆して沈没した事故でした。転覆後、10分以内に沈没したため、救命ボートを用意する間もなく、SOSの発信もできず、那覇に事故の第一報が入ったのは沈没の5時間後で、救助を遅らせる結果となります。
 琉球政府は、遭難者に「災害救助法」を適用し、大田政作行政主席を本部長とする救助本部を厚生局に設置しました。米軍の航空機、ヘリコプター、タグボートが捜索にあたり、遭難者の救助と遺体の収容が行われましたが、228人の乗船者中、死者86人、行方不明者26人という大きな被害を出すこととなります。

〇太平洋戦争後(1946年以降)日本近海での主な海難事故(死者・行方不明100名以上)

・1948年(昭和23)1月28日 - 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)
・1949年(昭和24)6月21日 - 川崎汽船「青葉丸」がデラ台風(昭和24年台風第2号)により大分県沖で転覆し、死者・行方不明者141名を出す(青葉丸転覆事故)
・1954年(昭和29)9月26日 - 青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で洞爺丸台風の暴風により転覆・沈没し乗員乗客1,155名が死亡する(洞爺丸事故)
・1955年(昭和30)5月11日 - 宇高連絡船「紫雲丸」と「第3宇高丸」が濃霧の中で衝突し「紫雲丸」が沈没して死者・行方不明167名、負傷者122名を出す(紫雲丸事故)
・1957年(昭和32)4月12日 - 瀬戸内海の定期客船「第5北川丸」が暗礁で座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)
・1958年(昭和33)1月26日 - 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)
・1963年(昭和38)8月17日 - 那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出す(みどり丸沈没事故)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)経世家・陽明学者熊沢蕃山の命日(新暦9月9日)詳細
1945年(昭和20)小説家島木健作の命日詳細
1949年(昭和24)国鉄東北本線の旅客列車が福島県内で転覆させられる事故(松川事件)が起こる詳細
1965年(昭和40)小説家・詩人高見順の命日詳細
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