今日は、江戸時代前期の1635年(寛永12)に、江戸幕府が「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)を布告し、海外渡航の全面禁止、在外邦人の帰国禁止などをした日ですが、新暦では7月12日となります。
「寛永十二年五月令(かんえいじゅうにねんごがつれい)」は、江戸幕府の鎖国政策の一環をなす法令の三番目のもので、「第三次鎖国令」とも呼ばれてきました。内容は、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を全面禁止など全17条から成り、長崎奉行に通達されたものです。
それ以前の1633年(寛永10年2月28日)に、「第一次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止など)、1634年(寛永11)に「第二次鎖国令」(第一次鎖国令の再通達、長崎に出島の建設を開始)が出されていて、この後、1636年(寛永13年5月19日)に「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)、1639年(寛永16年7月5日)に「第五次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出され、1641年(寛永18年4月)の平戸オランダ商館の出島移転によって整いました。これにより、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策が続けられることとなります。
この状態は、ペリーの来航による1854年(嘉永7)の「日米和親条約」締結まで続くこととなりました。
以下に、「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「寛永十二年五月令」(第三次鎖国令)全17条 1635年(寛永12年5月28日)発布
条々 長崎
一、異国江日本の船[1]これを遣わすの儀、堅く停止の事。
一、日本人異国江遣わし申す間敷候。若忍び候而乗渡る者これ有るに於てハ、其者ハ死罪、其船船主共ニ留置き言上仕るべき事。
一、異国江渡り住宅仕りこれ有る日本人来り候ハゝ死罪申し付くべき事。
一、伴天連[2]の宗旨[3]これ有る所江ハ両人より申し遣わし、穿鑿[4]を遂ぐべき事。
一、伴天連[2]訴人褒美の事。
上の訴人には銀子百枚[5]、其より下には其の忠にしたがひ相計るべき事。
一、異国船申分これ有りて、江戸え言上の間、番船の事、此の以前の如く大村方[6]え申越すべき事。
一、伴天連[2]の宗旨[3]改め候南蛮人[7]、其の外悪名の者これ有る時は、前々の如く大村の篭に入置くべき事。
一、伴天連[2]の儀、船中の改迄、念入り申付くべき事。
一、諸色[8]一所え買取り申す儀、停止の事。
一、武士の面々[9]、長崎におひて異国船の荷物、唐人[10]より直に買取り候儀、停止の事。
一、異国船荷物の書立て[11]、江戸え注進候て、返事これなき以前にも、前々の如く商売申付くべき事。
一、異国船つみ来たり候白糸[12]、直段[13]を立て候て、残らず五ケ所[14]其の外書付の所割符[15]仕るべき事。
一、糸の外諸色[8]の儀、糸の直段極り候あての上、相対次第商売仕るべし。但し、唐船[16]者小船の事に候間、見計い[17]申付くべき事。
付、荷物の代銀直段[13]立て候ての上、廿日切たるべき事。
一、異国船もどり候事、九月廿日切りたるべし。若しおそく来たり候船は、着き候てより五十日切たるべきなり。唐船[16]は見計い[17]、かれうた[18]より跡に出船申付くべき事。
一、異国船売残しの荷物預ケ置き候儀も、又預り候儀も停止の事。
一、五ケ所[14]惣代の者、長崎え参着の儀、七月五日切きたるべし。其よりもおそく参り候者には、割符[15]をはづし申すべき事。
一、平戸え着き候船も、長崎の糸の直段[13]の如くたるべし、長崎にて直段[13]立ち候はぬ以前に、商売停止の事。
右、此の旨守らるべき者なり。仍て執達[20]件の如し。
寛永十二年
『徳川禁令考』より
【注釈】
[1]日本の船:にほんのふね=第一次鎖国令では、奉書船以外となっていたのが日本の船(全面禁止)となる。
[2]伴天連:ばてれん=キリスト教が日本に伝来した当時のカトリックの宣教師。
[3]宗旨:しゅうし=ある宗教・宗派の教義の中心となる趣旨。
[4]穿鑿:せんさく=吟味。取り調べ。
[5]銀子百枚:ぎんひゃくまい=一枚は銀43匁で、百枚は金83両となる。
[6]大村方:おおむらかた=大村藩のこと。
[7]南蛮人:なんばんじん=日本に渡来したポルトガル人・スペイン人などの称。
[8]諸色:しょしき=いろいろの品物。諸品。
[9]武士の面々:ぶしのめんめん=武士の人々。
[10]唐人:からびと=外国人。異人。
[11]書立て:かきたて=箇条書。一つ書き。目録書。
[12]白糸:しろいと=中国産の上質な生糸のこと。
[13]直段:ねだん=売買の相場。あたい。代価。価格。
[14]五ケ所:ごかしょ=江戸、京都、大坂。堺、長崎の五ヶ所の特権商人のこと。
[15]割符:わっぷ=輸入生糸配分について五ヶ所の商人の糸割符仲間に与えた証明目録。
[16]唐船:からぶね=中国の船。また、中国風の船。
[17]見計い:みはからい=見て見当をつける。
[18]かれうた=ガレオタ船のこと。ポルトガル船を指す。
[19]惣代:そうだい=仲間あるいは地域集団の代表者。
[20]執達:しったつ=上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること。通達。
<現代語訳>
一、異国へ日本の船を派遣することは厳重に禁止すること。
一、日本人を異国へ派遣してはならない。もしこっそり隠れて乗り渡る者があれば、その者は死罪、その船・船主共に留め置いて、幕府へ報告すべきこと。
一、異国へ渡って住み着いていた日本人が帰国したならば死罪に処するべきこと。
一、バテレンの宗旨がある所へは両奉行を派遣して調べること。
一、バテレンを密告した者には褒美を与えること。
地位の高いバテレンを密告した者には銀百枚、それより地位が下の者の場合にはその忠義心によって褒美の額を考慮すること。
一、外国船について言い分があって、江戸へ言上する場合は、番船の事については、以前のように大村藩へ申し入れること。
一、バテレンの宗旨を取り調べる南蛮人やその他不届きな者がある時は、以前のように大村藩の牢へ入れ置くこと。
一、バテレンについては船の中の取り調べも入念にするよう申し付けるべきこと。
一、諸品を一ヶ所で買い取ることは停止すること。
一、武士の人々が長崎において、外国船の荷物を外国人より直接に買い取ることは停止すること。
一、外国船の荷物の目録書を江戸へ注進し、返事が来る前でも、以前のように商売が出来るべきこと。
一、外国船で輸入した生糸は価格を決定して、残らず五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)その他書付のところの商人へ分配すること。
一、生糸の他の諸品について、生糸の直段を決めた上、当事者同士の成り行きで商売してもよいこと。ただし、中国船は小船であったならば、見当をつけて申し付けるべきこと。
付、商品代金については、銀の相場が立ったならば、20日を限度として取り引きすること。
一、外国船が帰国できるのは9月20日を期限とすること。もし、遅く到着した船は着いてから50日を期限とすること。中国船は見当をつけ、ポルトガル船より後に出船申し付けるべきこと。
一、外国船が売残した荷物を預り置くことも、また預ることも停止すること。
一、五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)の商人の代表者の長崎への来着については7月5日を限度とし、それより遅く到着した者は分配対象から外すべきこと。
一、平戸の港に入港した船も、長崎の生糸の直段に従うようにせよ。長崎において直段を決定しない以前の取引は停止すること。
右の条文について守るべきものであること、通達する。
寛永12年(1635年)
☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)
・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1119年(元永2) | 第75代天皇とされる崇徳天皇の誕生日(新暦7月7日) | 詳細 |
1634年(寛永11) | 江戸幕府が長崎の出島の造成を命じる(新暦6月23日) | 詳細 |
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