ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:浄土真宗

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 今日は、室町時代の1471年(文明3)に、浄土真宗中興の祖・蓮如が越前に吉崎御坊を建てた日ですが、新暦では8月13日となります。
 吉崎御坊(よしざきごぼう)は、越前国吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)に、本願寺第8世の蓮如上人が創建した、浄土真宗(一向宗)布教の北陸の拠点でした。戦国大名朝倉敏景の帰依を受け、一山隆盛を極めましたが、1474年(文明6)に火災で本坊などを焼失し、さらに翌年の戦火によって、すべてを失って、蓮如上人は吉崎を退去することになります。
 その後、仮堂は建てられましたが、1506年(永正3)に、一向一揆勢は朝倉貞景と争って敗北し、廃坊となりました。江戸時代になって、本願寺派と大谷派が別院を山麓に建て、それぞれ吉崎御坊を称しています。
 山上の吉崎御坊跡は、1975年(昭和50)に国の史跡に指定され、公園として整備されていて、吉崎御坊跡の石碑が立ち、御坊の本堂跡、蓮如上人銅像(高村光雲作)、蓮如上人御腰掛石などが残されてきました。また、山麓には、本願寺維持財団が運営する「吉崎御坊蓮如上人記念館」があって、蓮如上人の足跡を学ぶことができます。

〇蓮如(れんにょ)とは?

 僧侶・浄土真宗中興の祖です。室町時代の1415年(応永22年2月25日)に、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院付近)で、本願寺第7世存如の長子(母・存如)として生まれましたが、諱は兼寿と言いました。6歳のとき母に別れ、衰微した本願寺で困窮のうちに成長し、15歳で一宗再興の志をおこします。
 1431年(永享3)、17歳のとき中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度して尊応に学び、大和興福寺大乗院の門跡経覚について修学しました。次いで、大谷の草庵で宗義をきわめます。
 1447年(文安4)に父と共に関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝し、1449年(宝徳元)35歳のとき、父と共に北陸から関東・東北を巡化しました。1457年(長禄元)に、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぎますが、比叡山延暦寺のねたみをかい、1465年(寛正6)には本願寺を破却されます。
 近江の金森、堅田、大津を転々とし、1468年(応仁2)から北陸・東国の諸国を巡錫し、1471年(文明3)には越前の吉崎に道場(吉崎御坊)を開いて住まいました。「御文(おふみ)」をしたためて、北陸一帯の教化に努め、一向宗教団を形成し、後に加賀一国は門徒領国化することになります。
 1475年(文明7)には吉崎を退去し、畿内に戻りましたが、この間に一向一揆が勃発をみました。1483年(文明15)には山城の山科(現在の京都府京都市山科区)に本願寺が落成し、ここを拠点として本願寺教団の再興を成し遂げます。
 1489年(延徳元)に退隠し、五男の実如に本願寺住持職を譲ったのち、摂津石山に坊舎を造営(後の石山本願寺)して住まいました。また、著書として『正信偈大意』、『御文(御文章)』、『領解文』などを書きましたが、死に際し山科本願寺に帰参し、1499年(明応8年3月25日)に数え年85歳で亡くなっています。

☆吉崎御坊関係略年表

・1471年(文明3年5月) 浄土真宗中興の祖・蓮如が越前国吉崎へ下向する
・1471年(文明3年7月27日) 蓮如が越前国吉崎に吉崎御坊を創建する
・1474年(文明6年3月28日) 火災で焼失するも、その後再建する
・1475年(文明7年8月21日) 戦国の動乱で再び焼失、蓮如は吉崎を退去する
・1506年(永正3年) 朝倉氏が加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで退けた後、吉崎の坊舎を破却し、以後廃坊となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1835年(天保6)日本画家橋本雅邦の誕生日(新暦8月21日)詳細
1940年(昭和15)大本営政府連絡会議において、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定される詳細
1976年(昭和51)田中角榮前首相がロッキード事件で東京地検に逮捕される詳細
1995年(平成7)人吉仮出入口~えびのIC間の開通(暫定2車線)により、九州自動車道が全線開通する詳細
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 今日は、平安時代後期の1173年(承安3)に、僧侶・浄土真宗の開祖親鸞の生まれた日ですが、新暦では5月14日となります。
 親鸞(しんらん)は、京都の日野(現在の京都市伏見区日野)において、父・皇太后宮大進日野有範の長男として生まれましたが、幼名は松若磨(松若丸とも)と呼ばれました。
 幼時に母を失い、1181年(治承5)に数え年9歳で出家して、京都青蓮院に入り、慈円について得度し、範宴(はんえん)と号したとされます。その後、比叡山で堂僧として20年ほど天台宗などを学びましたが、安心が得られず、1201年(建仁元)には、源空(法然)の門にはいり、専修念仏(浄土教)に帰依しました。
 1207年(建永2)に旧仏教の讒訴によって、念仏停止の法難に遭い、法然は土佐に、親鸞は越後に流され、現地の豪族の娘恵信尼と結婚し、善鸞と覚信尼をもうけたとされます。
 4年後の1211年(建暦元)に赦免されましたが、法然の死を知って京都に戻らず、信濃・下野・常陸の各地を遍歴して教化に努め、『教行信証』 (6巻) をまとめて、浄土真宗を開き、阿弥陀による万人救済を説きました。
 数え年62,3歳の頃京都に戻り、著作活動に重きを置き、『三帖和讃』、『唯信鈔文意』などを著わします。また、門弟の指導にも注力し、門下に真仏・性信・唯円などを輩出しましたが、1262年(弘長2年11月28日)に、京都において、数え年90歳で亡くなりました。

〇親鸞の主要な著作

・『教行(きょうぎょう)信証』
・『三帖和讚』
・『愚禿鈔(ぐとくしょう)』
・『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』
・語録『歎異抄(たんにしょう)』唯円編
・『浄土文類聚鈔』
・『一念多念文意』
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 今日は、室町時代の1415年(応永22)に、僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の生まれた日ですが、新暦では4月13日となります。
 蓮如(れんにょ)は、京都東山の本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院(そうたいいん)付近)にて、本願寺第7世存如の長子(母・存如)として生まれましたが、諱は兼寿と言いました。
 6歳のとき母に別れ、衰微した本願寺で困窮のうちに成長し、15歳で一宗再興の志をおこします。1431年(永享3)、17歳のとき中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度して尊応に学び、大和興福寺大乗院の門跡経覚について修学し、次いで大谷の草庵で宗義をきわめました。
 1447年(文安4)に父と共に関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝し、1449年(宝徳元)35歳のとき、父と共に北陸から関東・東北を巡化します。1457年(長禄元)に、父の死去に伴い本願寺第8代を継ぎますが、比叡山延暦寺のねたみをかい、1465年(寛正6)には本願寺を破却されました。
 近江の金森、堅田、大津を転々とし、1468年(応仁2)から北陸・東国の諸国を巡錫し、1471年(文明3)には越前の吉崎に道場(吉崎御坊)を開いて住まいます。「御文(おふみ)」をしたためて、北陸一帯の教化に努め、一向宗教団を形成し、後に加賀一国は門徒領国化することになりました。
 1475年(文明7)には吉崎を退去し、畿内に戻りましたが、この間に一向一揆が勃発をみます。1483年(文明15)には山城の山科(現在の京都府京都市山科区)に本願寺が落成し、ここを拠点として本願寺教団の再興を成し遂げました。
 1489年(延徳元)に退隠し、五男の実如に本願寺住持職を譲ったのち、摂津石山に坊舎を造営(後の石山本願寺)して住まいます。また、著書として『正信偈大意』、『御文(御文章)』、『領解文』などを書きましたが、死に際し山科本願寺に帰参し、1499年(明応8年3月25日)に数え年85歳で亡くなりました。

〇蓮如の主要な著作

・『正信偈大意』
・『御文(御文章)』
・『領解文』
・言行録『蓮如上人御一代記聞書』

☆蓮如関係略年表(日付は旧暦です)

・1415年(応永22年2月25日) 京都東山で本願寺第7世存如の長子(母・存如)として生まれる
・1431年(永享3年) 中納言広橋兼郷の猶子となって青蓮院で得度して尊応に学ぶ
・1447年(文安4年) 父と共に関東に下り、親鸞の遺跡を巡拝する
・1449年(宝徳元年) 父と共に北陸から関東・東北を巡化する
・1457年(長禄元年) 父の死去に伴い本願寺第8代を継ぐ
・1465年(寛正6年1月8日) 延暦寺は本願寺と蓮如を「仏敵」と認定する
・1465年(寛正6年1月9日) 比叡山延暦寺宗徒により本願寺を破却される
・1467年(文正2年3月) 延暦寺と和議を結ぶ
・1468年(応仁2年) 北陸・東国の諸国を巡錫する
・1469年(応仁3年) 三井寺の庇護のもとに大津南別所に顕証寺を建立する
・1471年(文明3年4月上旬) 越前国吉崎に赴く
・1471年(文明3年7月27日) 越前国吉崎に道場(吉崎御坊)を建立する
・1475年(文明7年) 越前国吉崎を退去し、畿内に戻る
・1478年(文明10年1月29日) 山城国山科に坊舎の造営を開始する
・1483年(文明15年8月22日) 山城国山科(現在の京都府京都市山科区)に本願寺が落成する
・1486年(文明18年) 紀伊に下向する
・1488年(長享2年6月9日) 加賀一向一揆が決起し、守護富樫政親を高尾城で自刃に追い込む
・1489年(延徳元年) 退隠し、五男の実如に本願寺住持職を譲る
・1496年(明応5年9月) 摂津国石山に坊舎を造営(後の石山本願寺)して住まう
・1499年(明応8年2月20日) 死に際し石山御坊より山科本願寺に帰参する
・1499年(明応8年3月25日) 山科本願寺において数え年85歳で亡くなる
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