ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:洋画家

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 今日は、明治時代後期の1894年(明治27)に、洋画家高橋由一が亡くなった日です。
 高橋由一(たかはし ゆいち)は、江戸時代後期の1828年(文政11年2月5日)に、江戸において、佐野藩士高橋源十郎の長男として生まれましたが、幼名猪之助(いのすけ)と言いました。1836年(天保7)に藩主堀田正衡の近習を務めたものの、生来病弱で画家への道を選び、狩野派を学びます。
 1847年(弘化4)の20歳の時、廣尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」を描きましたが、嘉永年間(1848~54年)には、洋製石版画に接し西洋画学習の念を起こしました。1862年(文久2)に、蕃書調所の画学局に入局、川上冬涯の指導を受け藩書調所画学世話心得になり、1864年(元治元)には、開成所画学局出役介となります。
 1866年(慶応2)に、当時横浜に住んでいたイギリス人C.ワーグマンに師事し、実技を学び、本格的な油彩画の技法と理論を身につけ、翌年には、パリ万国博覧会へ出展しました。1870年(明治3)に民部省吏生となり、1871年(明治4)に大学南校の画学掛教官に任命されたものの、1872年(明治5)には、依頼免官となります。
 1873年(明治6)に、ウィーン万国博覧会に『富嶽大図』を出品、画塾である天絵舎を創設、1875年(明治8)には、第4回京都博覧会に代表作「鮭」を出品しました。1876年(明治9)に、A.フォンタネージと出会い西洋画法を学び、1877年(明治10)の第1回内国勧業博覧会で三等花紋褒賞を受賞します。
 1878年(明治11)に、浅井忠、小山正太郎らと十一字会を結成、1879年(明治12)には、金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会で、天絵舎に資金援助してもらうため、作品を奉納しました。1880年(明治13)に、我が国最初の美術雑誌「臥遊席珍」を発行、1881年(明治14)には、第2回内国勧業博覧会で、妙技二等賞牌を受け、縲旋展画閣の創設を提言します。
 1885年(明治18)に、「展画閣ヲ造築セン事ヲ希望スルノ主意」を元老院議長佐野常民に提出、1893年(明治26)には、賞勲局から銀杯、明治美術会より賞状を受けました。人物画や静物画に迫力ある油彩リアリズムを確立した最初の画家とされましたが、1894年(明治27)7月6日に、東京の自宅において、66歳で亡くなっています。

〇高橋由一の主要な作品

・『花魁 (おいらん) 』(1872年頃)東京芸術大学像 国指定重要文化財
・『鮭』(1877年頃)東京芸術大学像 国指定重要文化財
・『豆腐と油揚』 (1877年頃)金刀比羅宮蔵
・『不忍池』(1894年頃)
・『岩倉具視(ともみ)像』
・『酢川にかかる常盤(ときわ)橋』

☆高橋由一関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1828年(文政11年2月5日) 江戸において、佐野藩士高橋源十郎の長男として生まれる
・1836年(天保7年) 藩主堀田正衡の近習を務める
・1847年(弘化4年) 20歳の時、廣尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」を描く
・1848~54年(嘉永年間) 洋製石版画に接し西洋画学習の念を起こす
・1862年(文久2年9月5日) 蕃書調所の画学局に入局、川上冬涯の指導を受け藩書調所画学世話心得になる
・1864年(元治元年12月6日) 開成所画学局出役介となる
・1866年(慶応2年) 当時横浜に住んでいたイギリス人C.ワーグマンに師事し、実技を学び、本格的な油彩画の技法と理論を身につける
・1867年(慶応3年) パリ万国博覧会へ出展する
・1870年(明治3年) 民部省吏生となる
・1871年(明治4年) 大学南校の画学掛教官に任命される
・1872年(明治5年) 依頼免官となる
・1873年(明治6年) ウィーン万国博覧会に『富嶽(ふがく)大図』を出品、画塾である天絵舎を創設する
・1875年(明治8年) 第4回京都博覧会に「鮭」を出品する
・1876年(明治9年) A.フォンタネージと出会い西洋画法を学ぶ
・1877年(明治10年) 第1回内国勧業博覧会で三等花紋褒賞を受賞する
・1878年(明治11年) 浅井忠,小山正太郎らと十一字会を結成する
・1879年(明治12年) 金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会で、天絵舎に資金援助してもらうため、作品を奉納する
・1880年(明治13年) 我が国最初の美術雑誌「臥遊席珍」を発行する
・1881年(明治14年) 第2回内国勧業博覧会で、妙技二等賞牌を受け、縲旋展画閣の創設を提言する
・1885年(明治18年) 「展画閣ヲ造築セン事ヲ希望スルノ主意」を元老院議長佐野常民に提出する
・1893年(明治26年) 賞勲局から銀杯、明治美術会より賞状を受ける
・1894年(明治27年)7月6日 東京の自宅において、66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

723年(養老7)『古事記』の編者太安万侶の命日(新暦8月11日)詳細
1858年(安政5)江戸幕府第13代将軍徳川家定の命日(新暦8月13日)詳細
1900年(明治33)山形有朋内閣で、義和団事件(北清事変)に際し、「北清事変出兵に関する閣議決定」がなされる詳細
1940年(昭和15)「奢侈品等製造販売制限規則」(七・七禁令)が交布され、翌日施行される詳細
1943年(昭和18)大政翼賛会が唱歌「みたみわれ」を発表し、この歌を中心に国民皆唱運動を展開する詳細
2018年(平成30)免疫学者石坂公成の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1880年〈明治13〉に、洋画家熊谷守一の生まれた日です。
 熊谷守一(くまがい もりかず〉は、岐阜県恵那郡付知(現在の中津川市付知町)において、機械紡績を営む事業家で地主の父・熊谷孫六郎と母・タイの三男(7人兄弟の末っ子)として生まれました。1894年(明治27)に岐阜市尋常中学校に進学しましたが、1897年(明治30)に上京し、私立校正則尋常中学に転校、その後慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)に編入したものの退学し、翌年に共立美術学館へ入学します。
 1900年(明治33)に東京美術学校西洋画選科に入学し、青木繁らと学び、1904年(明治37)に卒業しました。1905年(明治38)に、農商務省樺太調査隊に参加し、調査書添付説明図作成に従事、翌年戻ります。
 1908年(明治41)に『肖像』が第2回文展で初入選し、1909年(明治42)には、自画像『蝋燭』を描き、第3回文展で入賞(褒状)しました。1910年(明治43) 母の死を機に帰郷、制作から遠ざかりましたが、1915年(大正4)に再び上京し、第2回二科展に『女』出展し、翌年には、二科会会員となります。
 1929年(昭和4)に、二科会の番衆技塾開設に参加し、後進の指導に当たり、1932年(昭和7)には、現在の東京都豊島区千早に80坪に満たない土地を借り、家を建てました。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に、二紀会創立に参加したものの、1951年(昭和26)には、二紀会を退会し、無所属作家となり、次第に澄明な色彩による平面的装飾画風に移ります。
 1967年(昭和42)に「これ以上人が来てくれては困る」と文化勲章の内示を辞退、翌年の勲三等叙勲も辞退し、反骨、超俗の人としても知られ「画壇の仙人」とも呼ばれるようになりました。1976年(昭和51)に郷里の岐阜県恵那郡付知町に「熊谷守一記念館」が設立されましたが、翌年8月1日に、東京において、老衰と肺炎のため97歳で亡くなっています。
 1985年(昭和60)に、次女で画家の榧(かや)が守一の旧居に「熊谷守一美術館」を創設、2007年(平成19)に豊島区に寄贈し、区立の美術館となりました。

〇熊谷守一の主要な作品

・『肖像』(1908年)第2回文展入選
・『蝋燭(ろうそく)』(1909年)第3回文展入賞(褒状)
・『女』(1915年)第2回二科展出品
・『陽(よう)の死んだ日』(1928年)
・『野天風呂』
・『ヤキバノカエリ』(1948年)
・『アゲ羽蝶』(1976年)
・随筆集『へたも絵のうち』(1971年)

☆熊谷守一関係略年表

・1880年〈明治13〉4月2日 岐阜県恵那郡付知(現在の中津川市付知町)において、機械紡績を営む事業家で地主の父・熊谷孫六郎と母・タイの三男(7人兄弟の末っ子)として生まれる
・1892年(明治25)頃 12歳ころより水彩画を描きはじめる
・1894年(明治27) 岐阜市尋常中学校に進学する 
・1897年(明治30) 上京し、私立校正則尋常中学に転校、その後慶應義塾普通科(慶應義塾普通部)に編入する
・1898年(明治31) 共立美術学館入学する
・1899年(明治32) 召集、徴兵検査で乙種合格する
・1900年(明治33) 東京美術学校西洋画選科に入学する
・1904年(明治37) 東京美術学校西洋画選科を卒業する
・1905年(明治38) 農商務省樺太調査隊に参加し調査書添付説明図作成に従事する
・1906年(明治39) 樺太調査隊から戻る
・1908年(明治41) 『肖像』が第2回文展で入選(文展初入選)する
・1909年(明治42) 自画像『蝋燭』を描き、第3回文展で入賞(褒状)する
・1910年(明治43) 母の死を機に帰郷、制作から遠ざかる
・1915年(大正4) 再び上京し、第2回二科展に「女」出展する
・1916年(大正5) 二科会会員となる
・1922年(大正11) 42歳で18歳下の大江秀子(1898-1984)と結婚する
・1929年(昭和4) 二科会の番衆技塾開設に際し参加し、後進の指導に当たる
・1932年(昭和7) 現在の東京都豊島区千早に80坪に満たない土地を借り、家を建てる
・1938年(昭和13) 濱田葆光の助けで大阪と奈良と名古屋で相次いで個展が開かれる
・1947年(昭和22) 二紀会創立に参加する
・1951年(昭和26) 二紀会を退会し、無所属作家となる
・1956年(昭和31) 軽い脳卒中で倒れる
・1967年(昭和42) 「これ以上人が来てくれては困る」と文化勲章の内示を辞退する
・1972年(昭和47) 勲三等叙勲も辞退、日本経済新聞社主催で大回顧展が開催される
・1976年(昭和51) 郷里の岐阜県恵那郡付知町に熊谷守一記念館が設立される
・1977年(昭和52)8月1日 東京において、老衰と肺炎のため97歳で亡くなる
・1985年(昭和60) 次女で画家の榧(かや)が守一の旧居に「熊谷守一美術館」を創設し、館長となる
・2007年(平成19) 「熊谷守一美術館」を豊島区に寄贈し区立の美術館となる
・2004年(平成16) 長男・黄(こう)が『熊谷守一の猫』の画文集を刊行し、守一の絵画、日記、スケッチ帳などを岐阜県に寄贈する
・2015年(平成27) 中津川市に「熊谷守一つけち記念館」が設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1481年(文明13)公卿・古典学者一条兼良の命日(新暦4月30日)詳細
1879年(明治12)日本画家西山翠嶂の誕生日詳細
1929年(昭和4)「救護法」が公布(施行は1932年1月1日)される詳細
1931年(昭和6)「労働者災害扶助法」(昭和6年法律第54号)が公布される詳細
1956年(昭和31)彫刻家・画家・詩人高村光太郎の命日詳細
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 今日は、明治時代前期の1882年〈明治15〉に、洋画家・小説家・随筆家有島生馬の生まれた日です。
 有島生馬(ありしま いくま〉は、神奈川県横浜月岡町(現在の横浜市)において、鹿児島の出身で、横浜税関長の職にあった父・有島武と母・幸の次男として生まれましたが、本名は壬生馬(みぶま)と言いました。麹町小学校を経て、1895年(明治28)に学習院に転入学し、中学科に進み、文学書に親しみ、志賀直哉らと交流します。
 1900年(明治33)に肋膜炎にかかり、鎌倉に転地、さらに父の郷里鹿児島に転地療養しましたが、翌年には、東京外国語学校伊太利語科に入学しました。1904年(明治37)に卒業し、藤島武二を訪問して入門、藤島家に寄寓します。
 1905年(明治38)からヨーロッパに留学、イタリアでデュランに師事、ローマ美術学校に学び、ついでパリでラファエル・コランに師事しました。1910年(明治43)に帰国、雑誌『白樺』が創刊され同人として参加、「羅馬にて」、「画家ポール・セザンヌ」を執筆発表して西洋美術の紹介につとめ、特にセザンヌの紹介者として大きな影響を画壇に与えます。
 1911年(明治44)に「宿屋の裏庭」を文展に出品し入選、1913年(大正2)には、最初の小説集『蝙蝠の如く』を出版、この時から筆名を生馬としました。1914年(大正3)に同志と二科会を創立、第1回二科会展に「富士山」「むきみやの肖像」「女の顔」「風景」「鬼」を出品、1915年(大正4)には、『獣人』を出版、小説「死ぬほど」を『新小説』に発表します。
 1920年(大正9)にエミール・ベルナール著『回想のセザンヌ』を翻訳出版、翌年に与謝野晶子、石井柏亭らによって文化学院が創立されると、講師として教壇に立ちました。1928年(昭和3)に夫人、令嬢を伴いフランスに約1年間滞在、レジオンドヌール勲章を授与され、1935年(昭和10)には、松田文相の帝国美術院改組にともない、安井曽太郎、山下新太郎、石井柏亭らと二科会を脱退し、帝国美術院会員となり、日本ペンクラブ創設時に副会長にも就任します。
 1936年(昭和11)に安井、石井、硲伊之助、小山敬三、木下孝則らと一水会を結成、1937年(昭和12)には、「帝国芸術院官制」が制定され、帝国芸術院会員となりました。1945年(昭和20)に空襲が激しくなり、長野県に疎開したものの、太平洋戦争後は、1956年(昭和31)に神奈川県立近代美術館、ブリヂストン・ギャラリーにおいて回顧展を開催、1958年(昭和33)には、社団法人日展が創立され常任理事となります。
 1964年(昭和39)に文化功労者に選ばれ、1965年(昭和40)には、勲三等旭日中綬賞を受賞しましたが、1974年(昭和49)9月15日に、神奈川県鎌倉市において、91歳で亡くなりました。尚、兄は小説家の有島武郎、弟は里見弴です。

〇有島生馬の主要な作品

<文学>
・小説『蝙蝠(こうもり)の如(ごと)く』(1910~1911年)
・小説『ボーヂェの森』(1911年)
・『南欧の日』(1916年)
・『暴君へ』(1917年)
・小説『嘘(うそ)の果(はて)』(1919年)
・随筆集『美術の秋』(1920年)
・エミール・ベルナールの翻訳『回想のセザンヌ』(1920年)
・『死ぬほど』(1920年)
・随想集『片方の心』(1924年)

<美術>
・『パイプを吸う男』(1908年)
・『ケーベル博士像』(1910年)
・『鬼』(1914年)東京都美術館蔵
・『蚊帳』(1917年)
・『熊谷守一(くまがいもりかず)肖像』
・『大震記念』
・『微笑』

☆有島生馬関係略年表

・1882年(明治15)11月26日 神奈川県横浜月岡町(現在の横浜市)において、鹿児島の出身で、横浜税関長の職にあった父・有島武と母・幸の次男として生まれる
・1888年(明治21) 横浜師範学校附属老松小学校に入学する
・1891年(明治24) 父が国債局長となり東京に移転、麹町小学校に転校する
・1893年(明治26)5月 父が退官し、鎌倉に転居する
・1894年(明治27)11月 東京に転居する
・1895年(明治28) 学習院に転入学し、中学科に進む
・1897年(明治30) この頃から文学書に親しみ、徳富蘇峰、徳富蘆花の著作、島崎藤村の詩などを愛読する
・1900年(明治33) 肋膜炎にかかり、鎌倉に転地、さらに父の郷里鹿児島に転地療養する
・1901年(明治34) 東京外国語学校伊太利語科に入学する
・1903年(明治36) 友人らと妙義山から小諸に旅行し、島崎藤村を訪ねる
・1904年(明治37) 東京外国語学校伊太利語科を卒業、藤島武二を訪問して入門、藤島家に寄寓する
・1905年(明治38) ドイツ船ゲネラル・ローン号に乗船して横浜を出帆しイタリアへ向かい、アカデミー・ド・フランスに入学、カロリュス・デュランの指導を受け、国立ローマ美術学校に移る
・1906年(明治39) イタリア各地を旅行、アメリカ留学中の長兄武郎をナポリで迎え、イタリアからドイツ、オランダ、ベルギーを旅行し、パリへ入る
・1907年(明治40) イギリスへ旅行、武郎と別れ再びパリへ帰り、グラン・ショミエールに通い、ラファエル・コラン、プリネーなどの指導を受ける
・1908年(明治41) アンジャベンについて半年ほど彫刻を学ぶ
・1909年(明治42) 南フランスやイタリアを旅行、パリでは藤島武二、荻原守衛、高村光太郎、らと交友する
・1910年(明治43) マルセイユを発して帰国、麹町に住み、雑誌『白樺』が創刊され同人として参加、「画家ポール・セザンヌ」を執筆発表、原田信子と結婚、「ケーベル博士像」を制作する
・1911年(明治44) 長女暁子生まれ、北海道に旅行、「宿屋の裏庭」を文展に出品し入選する
・1912年(明治45) 白樺社主催により文展で落選した作品による落選展覧会を赤坂三会堂において開催する
・1913年(大正2) 洛陽社より最初の小説集『蝙蝠の如く』を出版、この時から筆名を生馬とする
・1914年(大正3) 同志と二科会を創立、第1回二科会展に「富士山」「むきみやの肖像」「女の顔」「風景」「鬼」を出品する
・1915年(大正4) 『獣人』を出版、小説「死ぬほど」を『新小説』に発表、朝鮮、満州、天津、北京を旅行、第2回二科展「去来の裸婦習作」「今年の裸体習作」を出品する
・1916年(大正5) 第二短篇小説集『南欧の日』が出版されたが、風俗壤乱のかどで発売禁止となり、部分的に、改変して出版、第3回二科展「ある詩人の肖像」「切通坂」「朝の山(スケッチ)」を出品、父・武が亡くなる
・1917年(大正6) 熱海で「山極医学博士像」を描く、小説「父の死」(新潮)、第4回二科展「蚊帳」「釣」「カナリヤ」「金魚」出品、第三短篇集『暴君へ』を出版する
・1918年(大正7) 第四『短篇集』を出版する
・1920年(大正9) エミール・ベルナール著『回想のセザンヌ』を翻訳出版する
・1921年(大正10) 画家西村伊作や歌人与謝野晶子、画家石井柏亭らによって文化学院が創立され、講師として教壇に立つ
・1928年(昭和3) 夫人、令嬢を伴いフランスに約1年間滞在、レジオンドヌール勲章を授与される
・1935年(昭和10) 松田文相の帝国美術院改組にともない、安井曽太郎、山下新太郎、石井柏亭らと二科会を脱退し、帝国美術院会員となり、日本ペンクラブ創設時に副会長に就任する
・1936年(昭和11) 二科会を脱会した安井、石井らと、硲伊之助、小山敬三、木下孝則らを加えて一水会を結成する
・1937年(昭和12) 「帝国芸術院官制」が制定され、帝国芸術院会員となり、一水会第1回展を開催する
・1945年(昭和20) 空襲が激しくなり、長野県に疎開する
・1956年(昭和31) 神奈川県立近代美術館において回顧展、ブリヂストン・ギャラリーにおいて回顧展開催される
・1958年(昭和33) 社団法人日展創立され常任理事となる
・1964年(昭和39) ローマの日本文化会館長、呉茂一の招きで渡欧、文化功労者に選ばれる
・1965年(昭和40) 勲三等旭日中綬賞を受賞する
・1974年(昭和49)9月15日 神奈川県鎌倉市において、91歳で亡くなり 24日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で、一水会、二科会の合同葬として葬儀が行われる
・1982年(昭和57) 有島生馬の鎌倉の家が、長野市信州新町上条に移築され、「有島生馬記念館」として開館される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1911年(明治44)政治家・外交官小村寿太郎の命日詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細
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koisoryouhei01
 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、洋画家小磯良平の亡くなった日です。
 小磯良平(こいそ りょうへい)は、明治時代後期の1903年(明治36)7月25日に、兵庫県神戸市神戸(現在の中央区)において、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として生まれました。兵庫県立第二神戸中学校を経て、1922年(大正11)に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学し、藤島武二に学びます。
 在学中の1925年(大正15)に、『兄妹』が帝展に入選、1927年(昭和2)には「T嬢の像」が帝展特選を果たし、首席で東京美術学校を卒業しました。1928年(昭和3)にフランスに留学、アングル、ベラスケスらの技法を学び、サロン・ドートンヌにも出品、1930年(昭和5)には帰国し、光風会会員となります。
 1932年(昭和7)に裁縫女』が帝展特選となったものの、1936年(昭和11)には、官展を離れ、猪熊弦一郎らと新制作派協会を結成しました。1938年(昭和13)に陸軍の委嘱により従軍画家として上海に渡り、戦争画を描き、1940年(昭和15)には、『南京中華門戦闘図』で朝日文化賞を受賞します。
 1941年(昭和16)新文展の審査員を務め、『娘子関を征く』で第1回帝国芸術院賞を受賞、『東京八景』(太宰治)の装丁をしました。太平洋戦争後は、1947年(昭和22)に「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がけ、1953年(昭和28)からは東京芸術大学教授となって後進の指導にあたります。
 1958年(昭和33)に『家族』で現代日本美術展の大衆賞を受賞、1971年(昭和46)には、東京芸術大学教授を辞めました。1973年(昭和48)に勲三等旭日中綬章、1974年(昭和49)に赤坂迎賓館の壁画『絵画』、『音楽』を制作、1979年(昭和54)に文化功労者、1982年(昭和57)に芸術院会員と数々の栄誉に輝きます。
 卓抜した描写と近代的感覚で、女性像に独自の画境を展開、1983年(昭和58)には文化勲章を受章、神戸市名誉市民ともなったものの、1988年(昭和63)12月16日に兵庫県神戸市において、85歳で亡くなりました。尚、1992年(平成4)に「神戸市立小磯記念館」がオープン、「小磯良平大賞展」も創設されます。

〇小磯良平の主要な作品

・『兄妹』(1925年)帝展入選
・『T嬢の像』(1926年)帝展特選受賞 兵庫県立美術館蔵
・『裁縫女』(1932年)帝展特選受賞
・『日本髪の娘』(1935年)
・『踊り子』 (1938年) 
・『南京中華門戦闘図』(1939年)朝日文化賞受賞
・『斉唱』 (1941年)
・『娘子関を征く』(1941年)第1回帝国芸術院賞受賞
・『家族』(1958年)第3回現代日本美術展の大衆賞受賞

☆小磯良平関係略年表

・1903年(明治36)7月25日 兵庫県神戸市神戸(現在の中央区)において、貿易に携わっていた岸上家の8人兄弟姉妹の次男として生まれる
・1922年(大正11) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学する
・1925年(大正15) 在学中『兄妹』が帝展に入選する
・1927年(昭和2) 「T嬢の像」が帝展特選を果たし、首席で東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科を卒業する
・1928年(昭和3) フランスに留学、アングル、ベラスケスらの技法を学ぶ
・1930年(昭和5) フランスから帰国し、光風会会員となる
・1932年(昭和7) 『裁縫女』が帝展特選となる
・1936年(昭和11) 官展を離れ、猪熊弦一郎らと新制作派協会を結成する
・1938年(昭和13) 陸軍の委嘱により従軍画家として上海に渡る
・1940年(昭和15) 『南京中華門戦闘図』で朝日文化賞を受賞する
・1941年(昭和16) 新文展の審査員を務め、『娘子関を征く』で第1回帝国芸術院賞を受賞、『東京八景』(太宰治)の装丁をする
・1947年(昭和22) 「兵庫県民歌」楽譜の表紙画を手がける
・1953年(昭和28) 東京芸術大学教授となる
・1958年(昭和33) 『家族』で現代日本美術展の大衆賞を受賞する
・1971年(昭和46) 東京芸術大学教授を辞める
・1973年(昭和48) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1974年(昭和49) 赤坂迎賓館の壁画『絵画』、『音楽』を制作する
・1979年(昭和54) 文化功労者となる
・1982年(昭和57) 芸術院会員となる
・1983年(昭和58) 文化勲章を受章、神戸市名誉市民となる
・1988年(昭和63)12月16日 兵庫県神戸市において、85歳で亡くなる
・1992年(平成4) 「神戸市立小磯記念館」がオープンする

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1907年(明治40)洋画家浅井忠の命日詳細
1932年(昭和7)東京市日本橋で白木屋大火災が起きる詳細
1971年(昭和46)全国4番目の地下鉄の札幌市営地下鉄初の北二四条駅~真駒内駅間(南北線)が開業する詳細
1972年(昭和47)全国5番目の地下鉄の横浜市営地下鉄初の伊勢佐木長者町駅~上大岡駅間(1号線)が開業する詳細
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 今日は、平成時代の2004年(平成16)に、洋画家吉井淳二が亡くなった日です。
 吉井淳二(よしい じゅんじ)は、明治時代後期の1904年(明治37)3月6日に、鹿児島県曽於郡末吉町(現在の曽於市)で生まれ、県立志布志中学(現在の鹿児島県立志布志高等学校)の二年時に画家になることを決意、1922年(大正11)に卒業後、海老原喜之助と共に上京し、共同生活をしながら川端画学校でデッサンを学びました。1924年(大正13)に東京美術学校西洋画科に入学、郷土の先輩和田英作に師事します。
 在学中の1926年(大正15)に光風会と二科会とに初入選、1928年(昭和3)には、第9回中央美術展で中央美術賞を受賞しました。1929年(昭和4)に東京美術学校西洋画科を卒業、同年11月にフランスへ渡り、イギリス、オランダ、イタリアなどに旅し、1932年(昭和7)に帰国します。
 1935年(昭和10)に二科会会友、1940年(昭和15)には二科会会員となり、二科会展では連続して出品しました。太平洋戦争末期の1945年(昭和20)に東京・杉並区南荻窪から郷里の鹿児島県に疎開、戦後の1951年(昭和26)に、鹿児島から東京の荻窪へ再び住まいを移します。
 1952年(昭和27)に、『水辺』『桃』で、二科会員努力賞を受賞、1958年(昭和33)に南日本文化賞を受賞、1961年(昭和36)には、二科会理事に就任しました。働く人々の姿を清純な色彩と詩情で写実的に描き、具象画の一方向を示し、1965年(昭和40)に『「水汲」ならびに近作』で日本芸術院賞、1968年(昭和43)に二科展で東郷青児賞、1969年(昭和44)に『浜辺の井戸』で、二科展内閣総理大臣賞を受賞、1972年(昭和47)に南日本美術展審査委員長に就任するなど数々の栄誉に輝きます。
 その後も、1976年(昭和51)に日本芸術院会員、1979年(昭和54)に二科会理事長、1985年(昭和60)に文化功労者となり、1989年(平成元)には、文化勲章も受章しました。一方で、1988年(昭和63)に、夫人の故郷である鹿児島県加世田市(現在の南さつま市)に特別養護老人ホームを開園して理事長を務め、社会福祉にも尽力します。
 最晩年は自らも加世田に暮らし、2004年(平成16)3月6日に満100歳を迎えましたが、同年11月23日に亡くなっています。

〇吉井淳二の主要な作品

・『花と女』(1926年)二科展初入選
・『踏切風景』(1927年)
・『帽子を被る女』(1936年)
・『人物』(1940年)紀元二千六百年奉祝美術展出品
・『屋久の娘』(1948年)
・『水辺』(1952年)二科会員努力賞受賞
・『桃』(1952年)二科会員努力賞受賞
・『浜の女たち』(1963年)
・『水汲』(1964年)日本芸術院賞受賞
・『浜辺の井戸』(1969年)二科展内閣総理大臣賞受賞
・『市場にて』(1977年)
・『フェイラ』(1983年)
・『村の休憩所』(1985年)

☆吉井淳二関係略年表

・1904年(明治37)3月6日 鹿児島県曽於郡末吉町(現在の曽於市)で生まれる
・1922年(大正11) 鹿児島県立志布志中学校(現在の鹿児島県立志布志高等学校)卒業
・1924年(大正13) 東京美術学校西洋画科に入学する
・1926年(大正15) 光風会と二科会とに初入選する
・1928年(昭和3) 第9回中央美術展で中央美術賞を受賞する
・1929年(昭和4) 東京美術学校西洋画科を卒業する
・1929年(昭和4)11月 フランスへ渡る
・1932年(昭和7) 帰国する
・1935年(昭和10) 二科会会友となる
・1940年(昭和15) 二科会会員となる
・1945年(昭和20) 杉並区南荻窪から郷里の鹿児島県に疎開する
・1951年(昭和26) 鹿児島から東京の荻窪へ再び住まいを移す
・1952年(昭和27) 『水辺』、『桃』で、二科会員努力賞を受賞する
・1958年(昭和33) 南日本文化賞を受賞する
・1961年(昭和36) 二科会理事に就任する
・1965年(昭和40) 『水汲』ならびに近作で、日本芸術院賞を受賞する
・1968年(昭和43) 二科展で東郷青児賞を受賞する
・1969年(昭和44) 『浜辺の井戸』で、二科展内閣総理大臣賞を受賞する
・1972年(昭和47) 南日本美術展審査委員長に就任する
・1975年(昭和50) 日伯美術展を機にブラジルを訪れる
・1976年(昭和51) 日本芸術院会員となる
・1977年(昭和52) 勲三等瑞宝章に叙される
・1979年(昭和54) 社団法人二科会理事長に就任する
・1985年(昭和60) 文化功労者として顕彰される
・1988年(昭和63) 「絵と彫刻のある憩いの園」加世田アルテンハイムを創設する
・1989年(平成元) 文化勲章を受章する
・1990年(平成2) 鹿児島市立美術館で展覧会が開催される
・2003年(平成15) 白寿を迎える
・2004年(平成16)3月6日 満100歳を迎える
・2004年(平成16)11月23日 鹿児島県において、100歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1703年(元禄16)房総半島沖を震源とする元禄地震がおきる(新暦12月31日)詳細
1707年(宝永4) 富士山宝永噴火が始まる(新暦12月16日)詳細
1896年(明治29)小説家樋口一葉の命日(一葉忌)詳細
1940年(昭和15)産業報国会の全国連合組織として大日本産業報国会が結成される詳細


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