今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、洋画家岸田劉生の亡くなった日(劉生忌)です。
岸田劉生(きしだ りゅうせい)は、明治時代中頃の1891年(明治24)6月23日に、東京の銀座において、薬屋「楽善堂」を経営する実業家、岸田吟香の第9子(4男)として生まれました。1907年(明治40)に、東京高等師範付属中学校を3年で中退し、洗礼を受け、翌年には、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事します。
1909年(明治42)の第13回白馬会展に「雨」、1910年(明治43)の第4回文展に「馬小屋」「若杉」の2点が入選しました。1911年(明治44)に『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、1912年(明治45)には、高村光太郎、萬鉄五郎、斎藤与里、清宮彬、木村荘八らと共に反自然主義のヒュウザン会を結成します。
1913年(大正2)7月に、小林蓁(しげる)と結婚し、翌年には、娘の麗子が誕生しました。1915年(大正4)に木村荘八、中川一政らと草土社をおこし、草土社展に「道路と土手と塀(切通之写生)」(国指定重要文化財)を出品します。1916年(大正5)に結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養して絵を画きました。1917年(大正6)の第4回二科展で「初夏の小径」が二科賞を受賞、翌年に、初めて娘・麗子が、「麗子五歳の像」のモデルとなります。
1920年(大正9)に『鵠沼日記』の記述を開始し、『劉生画集及芸術観』を出版、翌年には、『劉生図案集』を出版しました。1922年(大正11)に春陽会の創立に客員として参加(1925年退会)し、草土社は解散となり、翌年の関東大震災で自宅が倒壊、津波を恐れ石上に避難、鵠沼を去って、京都に移り住みます。
1926年(大正15)に、京都を引き上げて鎌倉に移り、1927年(昭和2)には、第1回大調和美術展に審査員として参加しました。1929年(昭和4)9月末から、南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで、満州の大連・奉天・ハルビンなどに滞在、帰途に山口県徳山市において、12月20日に、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して、38歳で急逝しています。
1909年(明治42)の第13回白馬会展に「雨」、1910年(明治43)の第4回文展に「馬小屋」「若杉」の2点が入選しました。1911年(明治44)に『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、1912年(明治45)には、高村光太郎、萬鉄五郎、斎藤与里、清宮彬、木村荘八らと共に反自然主義のヒュウザン会を結成します。
1913年(大正2)7月に、小林蓁(しげる)と結婚し、翌年には、娘の麗子が誕生しました。1915年(大正4)に木村荘八、中川一政らと草土社をおこし、草土社展に「道路と土手と塀(切通之写生)」(国指定重要文化財)を出品します。1916年(大正5)に結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養して絵を画きました。1917年(大正6)の第4回二科展で「初夏の小径」が二科賞を受賞、翌年に、初めて娘・麗子が、「麗子五歳の像」のモデルとなります。
1920年(大正9)に『鵠沼日記』の記述を開始し、『劉生画集及芸術観』を出版、翌年には、『劉生図案集』を出版しました。1922年(大正11)に春陽会の創立に客員として参加(1925年退会)し、草土社は解散となり、翌年の関東大震災で自宅が倒壊、津波を恐れ石上に避難、鵠沼を去って、京都に移り住みます。
1926年(大正15)に、京都を引き上げて鎌倉に移り、1927年(昭和2)には、第1回大調和美術展に審査員として参加しました。1929年(昭和4)9月末から、南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで、満州の大連・奉天・ハルビンなどに滞在、帰途に山口県徳山市において、12月20日に、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して、38歳で急逝しています。
〇岸田劉生の作品・著作
<絵画>
・「雨」(1909年)第13回白馬会展入選
・「馬小屋」(1910年)第4回文展入選
・「若杉」(1910年)第4回文展入選
・「道路と土手と塀 (切通しの写生)」(1915年)東京国立近代美術館蔵 国指定重要文化財
・「初夏の小径」(1917年)第4回二科展二科賞受賞 下関市立美術館蔵
・「麗子五歳之像」(1918年)東京国立近代美術館蔵
・「麗子微笑 (青果持テル)」(1921年)東京国立博物館蔵 国指定重要文化財
・「村娘於松立像」(1921年)東京国立近代美術館蔵
<著作>
・『劉生画集及芸術観』(1920年)
・『劉生図案画集』(1921年)
・『図画教育論』
・『演劇美論』
・『美の本体』
・『劉生日記』
☆岸田劉生関係略年表
・1891年(明治24)6月23日 東京の銀座において、薬屋「楽善堂」を経営する実業家、岸田吟香の第9子(4男)として生まれる
・1907年(明治40) 東京高等師範付属中学校を3年で中退し、洗礼を受ける
・1908年(明治41) 東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事する
・1909年(明治42) 第13回白馬会展に「雨」が入選する
・1910年(明治43) 第4回文展に「馬小屋」「若杉」の2点の作品が入選する
・1911年(明治44) 『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合う
・1912年(明治45) 高村光太郎、萬鉄五郎、斎藤与里、清宮彬、木村荘八らとともに反自然主義のヒュウザン会を結成する
・1913年(大正2) 7月に小林蓁(しげる)と結婚する
・1914年(大正3) 娘の麗子が誕生する
・1915年(大正4) 木村荘八、中川一政らと草土社をおこし、草土社展に「道路と土手と塀(切通之写生)」(国指定重要文化財)を出品、武者小路実篤を訪う
・1916年(大正5) 結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養して絵を画く
・1917年(大正6) 鵠沼松が岡3-23の佐藤別荘に移住、松本別荘(鵠沼下岡6732-13・現鵠沼松が岡4-7-10)へ移り、第4回二科展で「初夏の小径」が二科賞を受賞する
・1918年(大正7) 岸田麗子、初めて父=劉生の『麗子五歳の像』のモデルとなる
・1920年(大正9) 数え年30歳になったことを期に『鵠沼日記』を5年7ヵ月にわたり記述、葉山サダ(『村娘像』のモデル=マツの母親)が手伝いに入り、『劉生画集及芸術観』を出版する
・1921年(大正10) 『劉生図案集』を出版、画家棟方寅雄、岸田劉生宅に寄食する
・1922年(大正11) 春陽会の創立に客員として参加(1925年退会)し、草土社は解散となる
・1923年(大正12) 医師富士山、岸田麗子を往診、関東大震災で自宅が倒壊、津波を恐れ石上に避難、鵠沼を去り名古屋へ出発、京都に移り住む
・1926年(大正15) 京都を引き上げて鎌倉に移る
・1927年(昭和2) 第1回大調和美術展に審査員として参加する
・1929年(昭和4)9月末 南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで、満州の大連・奉天・ハルビンなどに滞在する
・1929年(昭和4)12月20日 満州旅行の帰途に山口県徳山市において、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して、38歳で急逝する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1879年(明治12) | 青森県の尻屋崎灯台に日本初の霧笛(霧信号所)が設置された(霧笛記念日) | 詳細 |
1930年(昭和5) | 岡崎駅~多治見駅間・瀬戸記念橋駅~高蔵寺駅間で省営自動車(国鉄バスの前身)が運行開始される | 詳細 |
1947年(昭和22) | 「臨時石炭鉱業管理法」(昭和22年法律第219号)が公布(施行は翌年4月1日)される | 詳細 |
1948年(昭和23) | 「日本専売公社法」が公布(施行は翌年4月1日)される | 詳細 |
「日本国有鉄道法」(昭和23年法律256号)が公布(施行は翌年6月1日)される | 詳細 | |
1962年(昭和37) | 首都高速道路初の開通区間である京橋~芝浦間(4.5km)が開通する | 詳細 |
1984年(昭和59) | 小説家藤原審爾の命日 | 詳細 |