ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:洋画家

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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、洋画家岸田劉生の亡くなった日(劉生忌)です。
 岸田劉生(きしだ りゅうせい)は、明治時代中頃の1891年(明治24)6月23日に、東京の銀座において、薬屋「楽善堂」を経営する実業家、岸田吟香の第9子(4男)として生まれました。1907年(明治40)に、東京高等師範付属中学校を3年で中退し、洗礼を受け、翌年には、東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事します。
 1909年(明治42)の第13回白馬会展に「雨」、1910年(明治43)の第4回文展に「馬小屋」「若杉」の2点が入選しました。1911年(明治44)に『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合い、1912年(明治45)には、高村光太郎、萬鉄五郎、斎藤与里、清宮彬、木村荘八らと共に反自然主義のヒュウザン会を結成します。
 1913年(大正2)7月に、小林蓁(しげる)と結婚し、翌年には、娘の麗子が誕生しました。1915年(大正4)に木村荘八、中川一政らと草土社をおこし、草土社展に「道路と土手と塀(切通之写生)」(国指定重要文化財)を出品します。1916年(大正5)に結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養して絵を画きました。1917年(大正6)の第4回二科展で「初夏の小径」が二科賞を受賞、翌年に、初めて娘・麗子が、「麗子五歳の像」のモデルとなります。
 1920年(大正9)に『鵠沼日記』の記述を開始し、『劉生画集及芸術観』を出版、翌年には、『劉生図案集』を出版しました。1922年(大正11)に春陽会の創立に客員として参加(1925年退会)し、草土社は解散となり、翌年の関東大震災で自宅が倒壊、津波を恐れ石上に避難、鵠沼を去って、京都に移り住みます。
 1926年(大正15)に、京都を引き上げて鎌倉に移り、1927年(昭和2)には、第1回大調和美術展に審査員として参加しました。1929年(昭和4)9月末から、南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで、満州の大連・奉天・ハルビンなどに滞在、帰途に山口県徳山市において、12月20日に、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して、38歳で急逝しています。

〇岸田劉生の作品・著作

<絵画>
・「雨」(1909年)第13回白馬会展入選
・「馬小屋」(1910年)第4回文展入選
・「若杉」(1910年)第4回文展入選
・「道路と土手と塀 (切通しの写生)」(1915年)東京国立近代美術館蔵 国指定重要文化財
・「初夏の小径」(1917年)第4回二科展二科賞受賞 下関市立美術館蔵
・「麗子五歳之像」(1918年)東京国立近代美術館蔵
・「麗子微笑 (青果持テル)」(1921年)東京国立博物館蔵 国指定重要文化財
・「村娘於松立像」(1921年)東京国立近代美術館蔵

<著作>
・『劉生画集及芸術観』(1920年)
・『劉生図案画集』(1921年)
・『図画教育論』
・『演劇美論』
・『美の本体』
・『劉生日記』

☆岸田劉生関係略年表

・1891年(明治24)6月23日 東京の銀座において、薬屋「楽善堂」を経営する実業家、岸田吟香の第9子(4男)として生まれる
・1907年(明治40) 東京高等師範付属中学校を3年で中退し、洗礼を受ける
・1908年(明治41) 東京の赤坂溜池にあった白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事する
・1909年(明治42) 第13回白馬会展に「雨」が入選する
・1910年(明治43) 第4回文展に「馬小屋」「若杉」の2点の作品が入選する
・1911年(明治44) 『白樺』主催の美術展がきっかけでバーナード・リーチと知り合う
・1912年(明治45) 高村光太郎、萬鉄五郎、斎藤与里、清宮彬、木村荘八らとともに反自然主義のヒュウザン会を結成する
・1913年(大正2) 7月に小林蓁(しげる)と結婚する
・1914年(大正3) 娘の麗子が誕生する
・1915年(大正4) 木村荘八、中川一政らと草土社をおこし、草土社展に「道路と土手と塀(切通之写生)」(国指定重要文化財)を出品、武者小路実篤を訪う
・1916年(大正5) 結核を疑われ、友人の武者小路実篤が居住する神奈川県藤沢町鵠沼の貸別荘で転地療養して絵を画く
・1917年(大正6) 鵠沼松が岡3-23の佐藤別荘に移住、松本別荘(鵠沼下岡6732-13・現鵠沼松が岡4-7-10)へ移り、第4回二科展で「初夏の小径」が二科賞を受賞する
・1918年(大正7) 岸田麗子、初めて父=劉生の『麗子五歳の像』のモデルとなる
・1920年(大正9) 数え年30歳になったことを期に『鵠沼日記』を5年7ヵ月にわたり記述、葉山サダ(『村娘像』のモデル=マツの母親)が手伝いに入り、『劉生画集及芸術観』を出版する
・1921年(大正10) 『劉生図案集』を出版、画家棟方寅雄、岸田劉生宅に寄食する
・1922年(大正11) 春陽会の創立に客員として参加(1925年退会)し、草土社は解散となる
・1923年(大正12) 医師富士山、岸田麗子を往診、関東大震災で自宅が倒壊、津波を恐れ石上に避難、鵠沼を去り名古屋へ出発、京都に移り住む
・1926年(大正15) 京都を引き上げて鎌倉に移る
・1927年(昭和2) 第1回大調和美術展に審査員として参加する
・1929年(昭和4)9月末 南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで、満州の大連・奉天・ハルビンなどに滞在する
・1929年(昭和4)12月20日 満州旅行の帰途に山口県徳山市において、腎臓尿毒症に胃潰瘍を併発して、38歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1879年(明治12)青森県の尻屋崎灯台に日本初の霧笛(霧信号所)が設置された(霧笛記念日)詳細
1930年(昭和5)岡崎駅~多治見駅間・瀬戸記念橋駅~高蔵寺駅間で省営自動車(国鉄バスの前身)が運行開始される詳細
1947年(昭和22)「臨時石炭鉱業管理法」(昭和22年法律第219号)が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
1948年(昭和23) 「日本専売公社法」が公布(施行は翌年4月1日)される詳細
「日本国有鉄道法」(昭和23年法律256号)が公布(施行は翌年6月1日)される詳細
1962年(昭和37)首都高速道路初の開通区間である京橋~芝浦間(4.5km)が開通する詳細
1984年(昭和59)小説家藤原審爾の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1898年(明治31)に、洋画家岡鹿之助が生まれた日です。
 岡鹿之助(おか しかのすけ)は、東京市麻布区において、劇評家の父・岡鬼太郎と母・みねの長男として生まれました。麻布尋常小学校を経て、1912年(明治44)に麻布中学に入学し、2年生の時から、父の知人である岡田三郎助に素描を学びます。
 1919年(大正8)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学したものの、1923年(大正12)の関東大震災に遭遇し、浅草今戸町の家は焼失、麻布区広尾町に仮寓することとなりました。1924年(大正13)に東京美術学校を卒業後、渡仏し、翌年にはパリに移り、藤田嗣治に師事し、サロン-ドートンヌ会員となります。
 1939年(昭和14)に第二次世界大戦が始まったため、フランスから帰国し、翌年には、春陽会会員となって、同展に滞仏15年の成果「掘割(サン・ドニ)」など12点を発表し、1941年(昭和16)に実家のある田園調布の近くにアトリエを建てました。太平洋戦争後も春陽会展で活躍し、1952年(昭和27)には、第5回美術団体連合展出品の「遊蝶花」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。
 1954年(昭和29)に最初の個展を開催し、1956年(昭和31)に「雪の発電所」が現代美術日本展最優秀賞を受け、翌年には、毎日美術賞も受賞しました。1964年(昭和39)に「岡鹿之助展」の作品ならびに多年の業績により日本芸術院賞を受賞、1969年(昭和44)には、日本芸術院会員となり、1972年(昭和47)には、文化勲章を受章しています。
 秩序ある画面構成と清澄典雅な情感をたたえた画風を示してきましたが、1978年(昭和53)4月28日に、東京都大田区田園調布の病院において、心筋梗塞による心不全のため、79歳で亡くなりました。

〇岡鹿之助の主要な作品

<絵画>
・「遊蝶花」(1951年)下関市立美術館所蔵
・「雪の発電所」(1956年)ブリヂストン美術館所蔵
・「花と廃墟」
・「三色スミレ」
・「塔」

<著書>
・『フランスの画家たち』(1949年)
・『ルソー』(1956年)
・『スーラ』(1958年)
・『ジョルジュ・スーラ』(1969年)

☆岡鹿之助関係略年表

・1898年(明治31)7月2日 東京市麻布区において、劇評家の父・岡鬼太郎と母・みねの長男として生まれる
・1905年(明治38) 東京の麻布尋常小学校へ入学する
・1912年(明治44) 麻布尋常小学校を卒業し、麻布中学に入学する
・1913年(明治45) 麻布中学校2年のときから、父の知人である岡田三郎助に素描を学ぶ
・1919年(大正8) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学する
・1923年(大正12) 関東大震災に遇い、浅草今戸町の家は焼失、麻布区広尾町に仮寓する
・1924年(大正13) 東京美術学校を卒業し、渡仏する
・1925年(大正14) パリに移り、藤田嗣治に師事する
・1939年(昭和14) 第二次世界大戦が始まったため、フランスから帰国する
・1940年(昭和15) 春陽会会員となる
・1941年(昭和16) 実家のある田園調布の近くにアトリエを建てる
・1952年(昭和27) 第5回美術団体連合展出品の「遊蝶花」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1954年(昭和29) 最初の個展を開催する
・1956年(昭和31) 「雪の発電所」が現代美術日本展最優秀賞を受ける
・1957年(昭和32) 「雪の発電所」で毎日美術賞を受賞する
・1964年(昭和39) 日本芸術院賞を受賞する
・1969年(昭和44) 日本芸術院会員となる
・1972年(昭和47) 文化勲章を受章する
・1978年(昭和53)4月28日 東京都大田区田園調布の病院において、心筋梗塞による心不全のため、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1338年(暦応元/延元3)御家人・武将新田義貞の命日(新暦8月17日)詳細
1844年(天保15)オランダ特使コープス持参の「オランダ国王の開国勧告」と献上品が長崎港へ着く(新暦8月15日)詳細
1863年(文久3)薩英戦争が起きる(新暦8月15日)詳細
1896年(明治29)東京の神田三崎町において、川上音二郎により、新派の川上座が開場する詳細
1941年(昭和16)御前会議において「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定される詳細
1950年(昭和25)鹿苑寺の金閣が同寺の僧侶の放火により全焼詳細
1951年(昭和26)日本が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に加盟する(ユネスコ加盟記念日)詳細
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 今日は、明治時代中頃の1893年(明治26)に、洋画家・歌人・詩人・随筆家中川一政の生まれた日です。
 中川一政(なかがわ かずまさ)は、東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれましたが、1902年(明治35)に母・スワが亡くなりました。1903年(明治36)に東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居、1907年(明治40)には、本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学します。
 在学中の1908年(明治41)に『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録され、1910年(明治43)に『スバル』や『創作』に短歌が紹介され、1911年(明治44)には、『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載されました。1912年(明治45)に錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載され、1913年(大正2)には、中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表しています。
 1914年(大正3)に処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志すようになり、1915年(大正4)には、巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成しました。1916年(大正5)に同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表、1917年(大正6)から二科会展に連続して入賞し、1921年(大正10)には、詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞しています。
 1922年(大正11)に萬鉄五郎、岸田劉生らと春陽会設立に参加、1924年(大正13)に短歌雑誌『日光』の同人となり、1925年(大正14)には、訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居しました。1926年(大正15)に初の画集『中川一政畫集』を出版、1928年(昭和3)に東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当、1930年(昭和5)には、随筆『美術の眺め』を出版します。
 1931年(昭和6)に個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊、1933年(昭和8)に都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当、1937年(昭和12)には、小川芋銭、小杉放菴らと「墨人倶楽部」を結成しました。1938年(昭和13)に第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱され、1939年(昭和14)に初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡り、1940年(昭和15)には、藤田嗣治、小杉放菴、木村荘八らと邦画一如会を結成します。
 1948年(昭和23)に武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、1949年(昭和24)に神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構え、1953年(昭和28)には、初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪しました。1958年(昭和33)に訪中団団長として中国を訪問、1960年(昭和35)に全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納され、1961年(昭和36)には、宮中歌会始の召人となります。
 1964年(昭和39)に日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列、1965年(昭和40)には、ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察しました。1975年(昭和50)に『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となり、1982年(昭和57)には、日中文化交流協会代表団の顧問として訪中します。
 1984年(昭和59) 東京都名誉都民となり、1986年(昭和61)には、母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となりました。1989年(平成元)には、神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館しましたが、1991年(平成3)2月5日に、東京において、97歳で亡くなっています。

〇中川一政の主要な作品

<絵画>

・「酒倉」(1914年)巽(たつみ)画会展入選
・「監獄の横」(1917年)
・「板橋風景」(1919年)東京国立近代美術館蔵
・「静物」(1921年)二科会第8回展二科賞受賞
・「少年像」(1942年)
・「漁村凱風」(1960年)東宮御所蔵
・「福浦」(1965年)
・「箱根駒ケ岳(こまがたけ)」(1982年)

<著作>

・詩集『見なれざる人』(1921年)
・画文集『中川一政画集』(1926年)
・随筆『美術の眺め』(1930年)
・歌集『向ふ山』(1943年)
・随筆『うちには猛犬がいる』(1963年)
・『腹の虫』(1975年)

☆中川一政関係略年表

・1893年(明治26)2月14日 東京市本郷区駒込西片町(現在の東京都文京区西片)において、刀剣鍛冶松戸家を営む父・中川政朝、母・スワの子として生まれる
・1902年(明治35) 母・スワ(享年33歳)が亡くなる
・1903年(明治36) 東京市北豊島郡巣鴨村向原(現在の豊島区東池袋)に転居する
・1907年(明治40) 本郷区誠之尋常高等小学校を卒業し、神田錦町の錦城中学校に入学する
・1908年(明治41) 『少年世界』の表紙図案に入選、与謝野晶子撰歌集『白光』に歌3首が収録される
・1910年(明治43) 『スバル』や『創作』に短歌が紹介される
・1911年(明治44) 『萬朝報』の懸賞小説に自伝的短編小説「椎の樹」が当選し掲載される
・1912年(明治45) 錦城中学校を卒業、『萬朝報』の懸賞小説に「螻蛄の歌」が当選し掲載される
・1913年(大正2) 中村星湖の推薦で『早稲田文学』に短歌「逝春」を発表する
・1914年(大正3) 処女作油彩「酒倉」が画会第14回展に出品され、岸田劉生の推薦で入選、画家を志す
・1915年(大正4) 巽画会第15回展に「霜のとける道」ほかを出品し、最高位二等賞銀牌を受賞、草土社を結成する
・1916年(大正5) 同人誌『貧しき者』を創刊し、詩や随想を発表する
・1917年(大正6) 二科会第4回展に「風景〔杉と茶畑〕」を出品し、入選、同人雑誌『観照』特別号として「中川一政詩集」が刊行される
・1918年(大正7) 二科会第5回展に「冬〔初冬〕」《夏》を出品し、入選する
・1919年(大正8) 二科会第6回展に「下板橋の川辺(冬)〔板橋風景〕」ほかを出品し入選する
・1920年(大正9) 初の個展(油彩)を開き、二科会第7回展に「自画像」ほかを出品し入選、千家元麿、宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊する
・1921年(大正10) 詩集『見なれざる人』を出版、二科会第8回展に「静物」などを出品し、二科賞を受賞する
・1922年(大正11) 小杉放庵、萬鉄五郎、石井鶴三、木村荘八、岸田劉生らと春陽会設立に参加する
・1923年(大正12) 伊藤暢子(伊藤為吉の娘)と結婚する
・1924年(大正13) 短歌雑誌『日光』の同人となる
・1925年(大正14) 訳著『ゴオホ』を出版、東京府和田堀之内村永福寺隣(現在の杉並区永福)に転居する
・1926年(大正15) 初の画集『中川一政畫集』を出版する
・1928年(昭和3) 東京朝日新聞に連載の片岡鉄兵「生ける人形」の挿画を担当する
・1930年(昭和5) 随筆『美術の眺め』を出版する
・1931年(昭和6) 個展「中川一政水墨展」を開催、佐藤春夫、日夏耿之介と同人文芸誌『古東多万』を創刊する
・1933年(昭和8) 都新聞に連載の尾﨑士郎「人生劇場 青春篇」の挿画を担当する
・1937年(昭和12) 小川芋銭、小杉放菴、菅楯彦、矢野橋村、津田青楓らと「墨人倶楽部」を結成する
・1938年(昭和13) 第2回文部省美術展覧会(新文展)第二部審査員を委嘱される
・1939年(昭和14) 初の中国旅行で鹿島龍蔵と北京、ハルピン、熱河、大同を巡る
・1940年(昭和15) 父・政朝が死去(享年79歳)、藤田嗣治、石井柏亭、鍋井克之、津田青楓、牧野虎雄、小杉放菴、石井鶴三、木村荘八らと邦画一如会を結成する
・1945年(昭和20) 疎開先の富山県高岡に約1か月滞在し、山形県酒田を経て宮城県黒川郡宮床村(現在の大和町宮床)で終戦を迎える
・1948年(昭和23) 武者小路実篤を中心に結成された生成会に同人として参加、文芸雑誌『心』が創刊される
・1949年(昭和24) 神奈川県足柄下郡真鶴町にアトリエを構える
・1953年(昭和28) 初の洋行で、約5か月にわたりブラジル、フランス、イタリア、イギリスを歴訪、東京新聞夕刊文化欄に旅行記を41回にわたり連載する
・1957年(昭和32) 『鉄斎』を武者小路実篤、梅原龍三郎、小林秀雄とともに監修、出版する
・1958年(昭和33) 「光琳生誕三〇〇年記念展」が北京で開催され、訪中団団長として訪問、東京新聞夕刊文化欄に「中国遊記」を7回にわたり連載する
・1960年(昭和35) 全国知事会の依頼で「漁村凱風」を制作、東宮御所に献納される
・1961年(昭和36) 宮中歌会始の召人となる
・1962年(昭和37) ミュンヘンのバイエルン独日協会の招きで渡欧、ミュンヘン市立美術館で「東洋美術の考え」を講演する
・1963年(昭和38) 「現代日本油絵展」が北京、上海で開催され、訪中洋画家団団長として訪問、随筆『うちには猛犬がゐる』を出版する
・1964年(昭和39) 日中文化交流協会代表団として訪中し、中国建国15周年を祝う国慶節式典に参列する
・1965年(昭和40) ソ連文化省の招きでソ連を訪問し、同国の美術演劇事情を視察、東京新聞夕刊文化欄に「私のソ連・欧州旅行」を8回にわたり連載する
・1967年(昭和42) 『中川一政画集』、随筆『遠くの顔』、『近くの顔』画文集、『中川一政書蹟』を出版、書展「中川一政書展」を開催する
・1975年(昭和50) 『中川一政全集』(全5巻)、『腹の虫』を出版、文化勲章を受章し、文化功労者となる
・1982年(昭和57) 日中文化交流協会代表団の顧問として訪中する
・1984年(昭和59) 東京都名誉都民となる
・1986年(昭和61) 母の故郷である石川県松任市(現在の白山市)に「松任市立中川一政記念美術館」が開館、松任市名誉市民となる
・1989年(平成元) 神奈川県真鶴町に「真鶴町立中川一政美術館」が開館する
・1991年(平成3)2月5日 東京において、97歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

741年(天平13)聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す(新暦3月5日)詳細
940年(天慶3)平将門が下野の豪族藤原秀郷と平貞盛らの軍勢により、猿島の北山で討たれる(新暦3月25日)詳細
1896年(明治29)日本画家徳岡神泉の誕生日詳細
1945年(昭和20)近衛文麿が昭和天皇に対して、上奏文(近衛上奏文)を出す詳細
1951年(昭和26)奄美大島日本復帰協議会(議長:泉芳朗)が結成される詳細
1967年(昭和42)小説家山本周五郎の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1893年(明治26)に、洋画家・随筆家・版画家木村荘八の生まれた日です。
 木村荘八(きむら しょうはち)は、東京市日本橋区吉川町(現在の東京都中央区)において、「第八いろは牛肉店」を経営する父・木村荘平の八男として生れました。1910年(明治43)に京華中学を卒業、1911年(明治44)に白馬会葵橋洋画研究所に入学し画家を目差し、翌年には、岸田劉生と交友、フューザン会を結成します。
 1913年(大正2)にフューザン会解散、この頃から美術書の翻訳、新美術の紹介などを盛んに行い、1914年(大正3)には、南品川宿、及び大崎に居住、岸田劉生、高村光太郎等と「生活社」をつくり展覧会を開催、翌年には、更に岸田劉生等と草土社を創立しました。1918年(大正7)には、第5回日本美術院展洋画部に「二本潅木」他3点出品し、第5回樗牛賞を受賞します。
 1922年(大正11)に春陽会結成に招かれ客員となり、草土社は第9回展を開いて解散しました。1923年(大正13)に春陽会々員となり、白井喬二著『富士に立つ影』の新聞挿絵を執筆、東京市復興局参与となります。
 1928年(昭和3)に代表作と名る油絵『パンの会』を発表、1936年(昭和11)からは春陽会の事務所を引き継ぎ、会の運営に携わりました。1937年(昭和12)には、東京朝日新聞に4月~6月まで連載の永井荷風著『墨東綺譚』に挿絵を描きます。
 1945年(昭和20)頃、加藤潤二の加藤版画研究所から新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表、1947年(昭和22)には、大仏次郎著の小説『霧笛』の挿絵を描きました。1955年(昭和30)には、「新橋演舞場上演の浜松風恋歌装置」で第7回毎日演劇賞美術賞を受賞します。
 しかし、1958年(昭和33)11月18日に、東京の東大病院において、転移性脳腫瘍及び肺臓癌によって、65歳で亡くなりました。尚、没後出版された『東京繁昌記』の文と絵に対し、翌年に日本芸術院恩賜賞が贈られています。

〇木村荘八の主要な作品

<絵画>
・『自画像』(1913年)東京国立近代美術館蔵
・『お七櫓にのぼる』(1923年)
・油絵『パンの会』(1928年) 
・『牛肉店帳場』(1932年)北野美術館蔵
・『新宿駅』(1935年)
・木版画『猫の銭湯』(1945年頃)

<挿絵>
・樋口一葉著『にごりえ』
・永井荷風著『 濹東綺譚』
・白井喬二著『富士に立つ影』
・大佛次郎著『霧笛』

<著書>
・随筆『後期印象派論』
・随筆『ロダンの芸術観』
・随筆『ミケランジェロ』
・随筆『明治挿絵変遷史』
・随筆『東京の風俗』
・随筆『風俗帳』
・随筆『続現代風俗帳』
・随筆『現代挿絵考』
・随筆『東京今昔帳』
・随筆『東京繁昌記』(1958年)日本芸術院恩賜賞受賞

☆木村荘八関係略年表

・1893年(明治26)8月21日 東京市日本橋区吉川町(現在の東京都中央区)において、「第八いろは牛肉店」を経営する父・木村荘平の八男として生れる
・1910年(明治43) 京華中学を卒業する
・1911年(明治44) 白馬会葵橋洋画研究所に入学し画家を目差す
・1912年(明治45) 岸田劉生と交友、フューザン会を結成する
・1913年(大正2) フューザン会解散、この頃から美術書の翻訳、新美術の紹介など盛んに行う。「ボティチェリ」「エル・グレコ」などの訳書を出版する
・1914年(大正3) 南品川宿、及び大崎に居住、岸田劉生、高村光太郎等と「生活社」をつくり展覧会をひらく
・1915年(大正4) 田中屋、三笠で個展を開催、現代の美術社主催洋画展に参加し、「桐谷展望」他11点出品、更に岸田劉生等と草土社を創立する
・1916年(大正5) 本郷に転居、草土社第2回展に「築地グラムマア・スクール附近」等47点出品、草土社第3回展に46点出品する
・1918年(大正7) 第5回二科会展「土と草」(夏)(秋)を出品、第5回日本美術院展洋画部に「二本潅木」他3点出品、第5回樗牛賞を受賞する
・1919年(大正8) 第6回日本美術院展洋画部に「朝の雲」「夕焼」等9点を出品、少年美術史「二一ル河の草」を出版する
・1920年(大正9) 中国に旅行、第7回院展に「老虎灘の支那家屋」他4点の中国風景を出品する
・1922年(大正11) 春陽会結成に招かれ客員となり、草土社は第9回展を開いて解散する
・1923年(大正12) 春陽会第1回展に「大学構内」「郊外風景」を出品する
・1924
年(大正13) 春陽会第2回展に「演劇図」外7点を出品、春陽会々員となり、「富士に立つ影」の新聞挿絵執筆、東京市復興局参与となる
・1926年(大正15) 春陽会第4回展に「たけくらべ絵巻」「お七」「桜丸切腹」を出品、聖徳太子奉讃展に「たけくらべ絵巻第2巻」を出品
・1927年(昭和2) 春陽会第5回展に「たけくらべ絵巻第3巻」「風景習作」、挿絵画稿類を出品する
・1928年(昭和3) 春陽会第5回展に「パンの会」を出品する
・1929年(昭和4) 春陽会第7回展に「室内婦女」を出品する
・1930年(昭和5) 春陽会第8回展に「歌妓支度」を出品する
・1931年(昭和6) 杉並区に転居、春陽会第9回展に「牛肉店帳場」(未完)、「夜楽」、挿絵原稿「ラグーザ玉」「祖国は何処へ」他を出品する
・1932年(昭和7) 春陽会第10回展に「牛肉店帳場」を出品する
・1933年(昭和8) 春陽会第11回展に「東京風景に因む挿絵」38点を出品する
・1934年(昭和9) 春陽会第12回展に「わたしのラバさん一駒」「小説霧笛の場面」8点その他挿絵2点を出品する
・1935年(昭和10) 春陽会第13回展に「新宿駅(東京風景第5)稿」、「同習作」を出品する
・1936年(昭和11) 春陽会第14回展に「新宿駅(東京風景第5)」「浅草寺春(東京風景6)」のほか「女人横躰」など9点を出品、春陽会の事務所を引き継ぎ、会の運営に携わる
・1937年(昭和12) 春陽会第15回展に「盛綱陣屋」「浅草元旦」「夜の宿」など5点を出品、東京朝日新聞に4月から6月迄連載の永井荷風「墨東綺譚」に挿絵をかく
・1938年(昭和13) 杉並区に新築成り、春陽会第16回展に「暫」「夜の宿」「墨東綺譚小説挿絵」などを出品する
・1943年(昭和18) 春陽会第21回展に「銀座なにわ橋」を出品する
・1945年(昭和20) この頃、加藤潤二の加藤版画研究所から新版画といわれる木版画「猫の銭湯」などを発表する
・1947年(昭和22) 春陽会第24回展に「庭木」「春雪」「日没」を出品、大仏次郎の小説「霧笛」の挿絵を描く
・1951年(昭和26) 春陽会第28回展に「窓外晴」など5点、他小説挿絵を出品する
・1952年(昭和27) 春陽会第29回展に「窓外風景」など6点を出品する
・1953年(昭和28) 春陽会第30回展に「樹の中の家」「三の酉」の外、「花の生涯挿絵」を出品する
・1954年(昭和29) 春陽会第31回展に「窓外風景」など3点の外「雨月物語、白峰」などを出品する
・1955年(昭和30) 春陽会第32回展に「窓外晴」など3点を出品、「新橋演舞場上演の浜松風恋歌装置」で第7回毎日演劇賞美術賞を受賞する
・1956年(昭和31) 春陽会第33回展に「窓外晴」「窓外日没」「酉の市」を出品する
・1957年(昭和32) 春陽会第34展に「どん底」など3点を出品する
・1958年(昭和33) 春陽会第35回展に「窓外風景」「和田本町日没」など。他に日本画「たけくらべ」など5点を出品する
・1958年(昭和33)11月18日 東京の東大病院において、転移性脳腫瘍及び肺臓癌によって亡くなる
・1959年(昭和34) 『東京繁昌記』の文と絵に対し、日本芸術院恩賜賞が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

770年(宝亀元)皇太子の白壁王により、道鏡が造下野国薬師寺別当に左遷される(新暦9月14日)詳細
1264年(文永元)鎌倉幕府第6代執権北条長時の命日(新暦9月12日)詳細
1611年(慶長16)慶長会津地震が起き、若松城下などで寺社・家屋が倒壊し死者3,700余人を出す(新暦9月27日)詳細
1862年(文久2)生麦事件が起きる(新暦9月14日)詳細
1877年(明治10)東京の上野公園で第1回内国勧業博覧会が開会される詳細
1909年(明治42)数学者・教育家遠山啓の誕生日詳細

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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、洋画家・版画家小絲源太郞の生まれた日です。小絲源太郞(こいと げんたろう)は、東京市上野(現在の東京都台東区)において、祖々父の代から庶民的な料理屋を営む父・小糸源四郎、母・はなの長男として生まれましたが、本姓は小糸でした。
 1904年(明治37)に東京中学校を卒業し、両親とともに初めて白馬会展にゆき、藤島武二の「蝶」に感動、洋画家になることを決意します。1905年(明治38)に藤島武二の指導する本郷曙町の白馬会駒込研究所に入り素描を学び、海野美盛に塑像の手ほどきをうけ、翌年に東京美術学校西洋画科を受験しましたが、金工科入学となりました。
 在学中の1910年(明治43)の第4回文展に「魚河岸」が初入選し、これが黒田清輝に認められ、西洋画科へ転科をすすめられ、翌年に金工科を卒業し、改めて西洋画科に入学します。1914年(大正3)に糖尿病のため美術学校を休学し、そのまま中途退学し、1918年(大正7)には、病気療養のため画壇を離れることとなりました。
 1922年(大正11)に池之端の生家に戻り、自ら『小絲源太郎画集明治四十三年―大正十一年』を刊行します。1923年(大正12)の関東大震災のため上野池之端の家が焼失、1925年(大正14)に大田区田園調布にアトリエを新築して、画壇に復帰し、翌年には、第1回聖徳太子奉讃展に「秋林暮色」「薬草園」、第7回帝展に「遅日」を出品しました。
 1930年(昭和5)の第11回帝展で「暮春閑情」、翌年の第11回帝展で「暮春閑情」が、続けて特選となり、光風会会員となります。1933年(昭和8)に帝展の審査員、1942年(昭和17)には、文展審査員に就任しました。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に日展審査員に就任、美術団体連合展、日本国際美術展にも出品します。1954年(昭和29)に第2回日本国際美術展出品の「春雪」などで日本芸術院賞を受賞、1959年(昭和34)には、日本芸術院会員となりました。
 1960年(昭和35)に日展理事、1961年(昭和36)に日展常務理事となり、1965年(昭和40)には文化功労者となって、文化勲章も受章します。1969年(昭和44)に改組日展の顧問となり、1974年(昭和49)には、米寿を記念して編集された『小絲源太郎画集1911-1974』が刊行されました。
 1976年(昭和51)に「小絲源太郎展」(渋谷東急本店)が開かれ、初期から近作までの80余点を出品したものの、1978年(昭和53)2月6日に、老衰のため東京都大田区の自宅において、90歳で亡くなっています。

〇小絲源太郞の主要な作品

<絵画>
・「魚河岸」(1910年)第4回文展入選
・「暮春閑情」(1930年) 第11回帝展特選
・「獺祭 (だっさい) 図」(1931年)第12回帝展特選
・「惜春賦」(1932年)第13回帝展出品
・「嬋娟」(1937年)
・「春雪」(1954年)日本芸術院賞受賞
・「山粧ふ」(1956年)
・「田園調布」(1958年)
・「遠雷」(1961年)東京国立近代美術館蔵

<著作>
・随筆集『冬の虹』(1948年)
・随筆集『猿と話をする男』(1952年)
・随筆集『風神雷神』(1954年)

☆小絲源太郞関係略年表

・1887年(明治20)7月13日 東京市上野(現在の東京都台東区)において、祖々父の代から庶民的な料理屋を営む父・小糸源四郎、母・はなの長男として生まれる
・1892年(明治25) 本郷区湯島天神下の練雪小学校へ入学する
・1898年(明治31) 小学校高等科3年のとき、慶応義塾に転学したが寄宿生活を嫌って退学、湯島天神町の医者で漢学者鵜沢正躬の許に預けられ、神田の東京中学校に入学する
・1904年(明治37) 東京中学校卒業、両親とともに初めて白馬会展にゆき、藤島武二の「蝶」に感動、洋画家になることを決意する
・1905年(明治38) 藤島武二の指導する本郷曙町の白馬会駒込研究所に入り素描を学び、海野美盛に塑像の手ほどきをうける
・1906年(明治39) 東京美術学校西洋画科を受験したが金工科入学となり、一方で、白馬会菊坂研究所で素描を学ぶ
・1910年(明治43) 第13回白馬会展「静物」「海辺」「雪」「四条橋」、第4回文展に「魚河岸」が初入選し、これが黒田清輝に認められ、西洋画科へ転科をすすめられる
・1911年(明治44) 東京美術学校金工科を卒業、改めて西洋画科に入学、第5回文展に「屋根の都」を出品、東京美術学校買上げとなる
・1912年(明治45) 第1回光風会に「7月頃」を出品する
・1913年(大正2) 日本橋区本石町泰文社で小糸源太郎洋画小品展覧会を開き、国民美術協会第1回西部展覧会に「静物」「道頓堀」を出品する
・1914年(大正3) 糖尿病のため美術学校を休学し、そのまま中途退学し、第8回文展に「曇り日」(褒状)「雨」「温泉場の夏」を出品する
・1915年(大正4) 初めて長崎を見て感激、第9回文展に「雨のあと」(褒状)、「湯野村」を出品する
・1918年(大正7) 病気療養のため画壇を離れる(8年間)
・1922年(大正11) 池之端の生家に戻り、自ら『小絲源太郎画集明治四十三年―大正十一年』を刊行する
・1930年(昭和5) 第11回帝展で「暮春閑情」が特選となる
・1931年(昭和6) 第12回帝展で「獺祭図」が特選となり、光風会会員となる
・1933年(昭和8) 帝展の審査員に就任する
・1942年(昭和17) 文展審査員に就任する
・1946年(昭和21) 日展審査員に就任する
・1948年(昭和23) 随筆集『冬の虹』を朝日新聞社から出版する
・1952年(昭和27) 東京都大田区田園調布に転居し、随筆集『猿と話をする男』を筑摩書房から出版する
・1954年(昭和29) 第2回日本国際美術展出品の「春雪」などで日本芸術院賞を受賞、随筆集『風神雷神』を読売新聞社から出版する
・1959年(昭和34) 日本芸術院会員となる
・1960年(昭和35) 日展理事となり、朝日新聞主催「小絲源太郎画業五十年展」が銀座松屋で開かれる
・1961年(昭和36) 日展常務理事となる
・1965年(昭和40) 文化功労者となり、文化勲章を受章、第16回NHK紅白歌合戦で審査員の一人を務める
・1969年(昭和44) 改組日展の顧問となる
・1974年(昭和49) 米寿を記念して編集された『小絲源太郎画集1911-1974』が求龍堂から発行される
・1976年(昭和51) 「小絲源太郎展」(渋谷東急本店)が開かれ、初期から近作までの80余点を出品する
・1978年(昭和53)2月6日 老衰のため東京都大田区の自宅において、90歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1221年(承久3)承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流される(新暦8月2日)詳細
1596年(文禄5)慶長伏見地震が起き、伏見城天守が倒壊するなど死者1,000人以上を出す詳細
1882年(明治15)洋画家青木繁の誕生日詳細
1886年(明治19)東経135度の時刻を日本標準時と定める勅令を公布(日本標準時制定記念日)詳細
1948年(昭和23)優生手術、人工妊娠中絶等について定めた旧「優生保護法」が公布(施行は同年9月11日)される詳細
1967年(昭和42)歌人・書家・文学研究者吉野秀雄の命日詳細
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