ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:法隆寺

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 今日は、飛鳥時代の670年(天智天皇9)に、法隆寺が落雷により全焼した日です。
 法隆寺(ほうりゅうじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山(元は法相宗)で、正式名称は法隆学問寺と言い、推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つで、南都七大寺の一つでもあります。飛鳥時代に聖徳太子が用明天皇の遺志を継ぎ、薬師三尊像を安置したのに始まり、創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされますが、670年(天智天皇9)に落雷によって全焼し、7世紀後半に再建されました。
 金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、境内の広さは約18万7千㎡です。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群で、そこには、金剛力士立像、金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群などがあり、東院伽藍には、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、夢違観音、玉虫厨子、橘夫人念持仏厨子、百万塔陀羅尼などがあり、全体で38件もの国宝と151件の国の重要文化財が残されてきました。
 残念ながら、金堂の壁画は1949年(昭和24)の火災で損傷したものの、のち復元されています。また、1934年(昭和9)に法隆寺国宝保存事業の開始と共に、次々と根本的修理が行われ、1954年(昭和29)の金堂の修理落成でほぼ終了しました。
 尚、1993年(平成5)には、法起寺と共に、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇法隆寺関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・574年(敏達3年) 聖徳大子が生まれる
・586年(用明元年) 聖徳太子が法隆寺および薬師仏の造立を発願する
・607年(推古15年) 法隆寺が完成し、用明天皇のために金堂薬師如来像を造願する
・622年(推古30年2月22日) 聖徳太子が亡くなり、橘大郎女が聖徳太子のために、天寿国曼荼羅繍帳を作成する
・623年(推古31年) 止利仏師により金堂釈迦三尊像が完成する
・643年(皇極2年11月) 蘇我入鹿が、聖徳太子の皇子山背大兄王らを斑鳩宮に襲い、山背大兄王ら一族25人が自害し、聖徳太子の血族である上宮王家が滅亡する
・670年(天智9年4月30日) 夜半に法隆寺が全焼する
・708年(和銅元年) 詔により法隆寺を再建する
・711年(和銅4年) 五重塔内塑像および中門金剛力士像を造る
・737年(天平9年) 行信が聖徳太子の遺品を集める
・739年(天平11年4月10日) 行信、上宮王院(東院)夢殿を造立する
・767年(神護景雲元年9月5日) 行信発願の大般若経など2,700巻の写経事業が、法資孝仁によって完成する
・859年(貞観元年9月19日) 道詮奏上して夢殿を修理する
・1023年(治安3年10月26日) 藤原道長、法隆寺および上宮王院に参詣する
・1069年(治暦5年2月5日) 仏師僧円快、秦到真、聖徳太子像を造る
・1114年(永久2年) 勝賢、法隆寺一切経写経事業を発願する
・1118年(元永元年) 写経事業が完成する
・1121年(保安2年) 東室を新造、南面を改造して聖霊院とし、院内に聖徳太子および侍者像5体を奉安する
・1126年(大治元年7月19日) 源義、開浦三昧堂を改めて三経院を造立する
・1261年(弘長元年9月4日) 後嵯峨太上天皇、行幸する
・1574年(天正2年正月) 織田信長、法隆寺境内へ陣取などを禁止する掟を作る
・1600年(慶長5年) 豊臣秀頼が、この頃から法隆寺全伽藍の修理を開始する
・1606年(慶長11年) 豊臣秀頼による法隆寺全伽藍を修理が完了する
・1614年(慶長19年10月16日) 徳川家康、大阪冬の陣に赴く途上、法隆寺で太子尊像を拝し、阿弥陀院で一泊する
・1868年(明治元年3月) 「神仏分離令」により、廃仏棄釈運動が起こる
・1878年(明治11年) 300件余の宝物を当時の皇室に献納し、金一万円を下賜される
・1884年(明治17年) フェノロサ、岡倉覚三(天心)らにより法隆寺の宝物調査が行われ、夢殿の救世観音像がこの時数百年ぶりに開扉される(異説あり)
・1903年(明治36年) 佐伯定胤が管主となり、廃仏毀釈で衰微していた唯識の教えを復興する
・1934年(昭和9年) 「昭和の大修理」が開始される
・1939年(昭和14年) 「若草伽藍」を発掘する
・1944年(昭和19年) 太平洋戦争下の爆撃から守るため、解体していた部材を安堵村(現・安堵町)などに疎開させる
・1947年(昭和22年) 復元中に天井板部材に建築当時の落書きがあることを発見する
・1949年(昭和24年)1月26日 金堂より失火し、壁画を焼損する
・1950年(昭和25年) 法相宗を離脱し、聖徳宗を開く
・1951年(昭和26年)6月9日、法隆寺境内、史跡に指定される。
・1954年(昭和29年) 「昭和の大修理」が金堂の修理落成でほぼ終了する
・1967年(昭和42年)10月20日 法隆寺境内が、歴史的特別保存地区に指定される
・1969年(昭和44年)4月 金堂内陣上部小壁天人壁画再現事業を開始。
・1971年(昭和46年)3月31日 金堂内陣上部小壁再現事業完成。4月2日~4日の3日間、聖徳太子1350年御聖諱法要が厳修される。
・1985年(昭和60年)6月30日 昭和の大修理完成し、法隆寺昭和大修理完成法要が厳修される
・1993年(平成5年)12月9日 「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録される
・2013年(平成25年)12月9日 大規模自然災害時には寺を緊急避難場所に開放する協定を斑鳩町と締結し、境内の南大門前広場や聖徳会館を避難場所として提供する
・2015年(平成27年)11月11日 1949年の火災で焼失した金堂壁画について、文化庁などと共同で総合的な科学調査を実施すると発表される
・2023年(令和5年)9月7日 斑鳩町教育委員会が、「舟塚古墳」と呼称していた観光バス駐車場にある円形の植え込みで、奈良大学との共同発掘調査にて石室と副葬品を発見したと報じられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1183年(文治5)源義経追捕の宣旨により藤原泰衡が衣川の館を襲い、源義経が自害する(新暦6月15日)詳細
1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1886年(明治19)秋田県で秋田大火(俵屋火事)が起き、死者17名、負傷者186名、焼失戸数3,554戸を出す詳細
1926年(大正15)小説家河野多惠子の誕生日詳細
1942年(昭和17)第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)の投票で、翼賛政治体制協議会推薦者が381議席を占める詳細
1950年(昭和25)「図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、失火で法隆寺金堂内陣を全焼した日で、これをきっかけに「文化財防火デー」とされています。
 法隆寺金堂内陣火災は、この日の7時20分頃に、法隆寺金堂内で壁画模写作業中の現場より出火し、午前9時前後に鎮火するまでに、国宝の壁画のほとんどが火災と放水で損傷した火災でした。天井より上の上層部分と裳階部分の部材は解体済みだったため無事で、内部に安置されていた釈迦三尊像等の仏像も大講堂、大宝蔵殿等に移座されていたため難を免れています。
 幸いなことに、火災前に模写が制作されていたので、火災後の1967年(昭和42)に壁画再現事業が発願され、翌年完成しました。また、焼け焦げたオリジナルの壁画は1951年(昭和26)に抜き取り作業が始まり、法隆寺内の大宝蔵殿の裏手に1952年(昭和27)に建設された収蔵に、焼け焦げた柱などと共に保管されています。
 この火災は、日本国民に強い衝撃を与え、国際的にも広く報道されて、文化財保護への関心が高まりました。その後、1950年(昭和25)に「文化財保護法」が制定される一つの契機となり、1955年(昭和30)には、当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)が、この日を「文化財防火デー」に制定しています。

〇文化財防火デーとは?

 1949年(昭和24)1月26日に、日本最古の壁画が描かれた奈良の法隆寺金堂が火災により焼損したのを契機として、1955年(昭和30)に文化財を火災や震災から守るとともに、文化財愛護思想の普及高揚を図る目的で、当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)が毎年1月26日を「文化財防火デー」としたものです。その後、この日の前後には、文化庁、消防庁、都道府県・市区町村教育委員会、消防署、文化財所有者、地域住民等が連携・協力して、全国で文化財防火運動を展開し、各地で文化財の防火訓練などが行われてきました。また、国庫補助による国宝建造物等への火災報知機やスプリンクラー設備などが進められることとなります。

〇法隆寺(ほうりゅうじ)とは?

 奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山(元は法相宗)で、正式名称は法隆学問寺と言い、推古天皇・聖徳太子創建の七ヵ寺の一つで、南都七大寺の一つでもあります。聖徳太子が用明天皇の遺志を継ぎ、薬師三尊像を安置したのに始まり、創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から607年(推古天皇15)とされますが、670年(天智天皇9)に落雷によって全焼し、7世紀後半に再建されました。
 金堂、五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設で、境内の広さは約18万7千㎡です。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群で、そこには、金剛力士立像、金堂の釈迦三尊、五重塔の塑像群などがあり、東院伽藍には、夢殿の救世観音、大宝蔵殿の百済観音、夢違観音、玉虫厨子、橘夫人念持仏厨子、百万塔陀羅尼などがあり、全体で38件もの国宝と151件の国の重要文化財が残されてきました。
 残念ながら、金堂の壁画は1949年(昭和24)の火災で損傷したものの、のち復元されています。また、1934年(昭和9)に法隆寺国宝保存事業の開始と共に、次々と根本的修理が行われ、1954年(昭和29)の金堂の修理落成でほぼ終了しました。
 尚、1993年(平成5)には、法起寺と共に、「法隆寺地域の仏教建造物」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1958年(昭和33)旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没、167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)詳細
1997年(平成9)小説家藤沢周平の命日詳細
2006年(平成18)「重要文化的景観」第1号として滋賀県の「近江八幡の水郷」が国から選定される詳細
2013年(平成25)小説家安岡章太郎の命日詳細
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 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、自然遺産として、屋久島、白神山地、文化遺産として、法隆寺、姫路城の計4ヶ所が、日本初の世界遺産に決定した日です。
 世界遺産(せかいいさん)は、昭和時代後期の1972年(昭和47)のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リストに登録された、遺跡、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことでした。移動が不可能な不動産やそれに準ずるものが対象となっていて、文化遺産、自然遺産、複合遺産の3つの種類があります。
 文化遺産は、顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文科的景観などで、自然遺産は、顕著な普遍的価値を有する地形や地質、生態系、絶滅のおそれのある動植物の生態・生育地などで、複合遺産は、文化遺産と自然遺産の両方の価値を兼ね備えているものとなっていました。世界遺産リストに登録されるためには、「世界遺産条約履行のための作業指針」で示されている下記の登録基準のいずれか1つ以上に合致するとともに、真実性(オーセンティシティ)や完全性(インテグリティ)の条件を満たし、締約国の国内法によって、適切な保護管理体制がとられていることが必要とされています。
 日本では、1993年(平成5)12月9日に、自然遺産として、屋久島(鹿児島県)と白神山地(青森県、秋田県)、文化遺産として、「法隆寺地域の仏教建造物」(奈良県生駒郡斑鳩町)と「姫路城」(兵庫県姫路市)の4件が登録されたのを最初として、順次増やされていき、現在25件(文化遺産:20件、自然遺産:5件)が登録されました。

〇「世界遺産条約」(せかいいさんじょうやく)とは?

 正式名称を「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(Convention Concerning the Protection of theWorld Cultural and Natural Heritage)」といい、顕著な普遍的価値を有する文化遺産及び自然遺産の保護を目的とした国際条約とされています。1972年(昭和47)にパリで開催された第17回会期国際連合教育科学文化機関(UNESCO)総会(10月17日~11月21日)において、1972年11月16日に採択され、1975年(昭和50)12月17日に発効しましたが、日本では、1992年(平成4)6月19日に国会承認され、同年9月30日に日本国について発効しました。
 文化遺産及び自然遺産を人類全体のための世界の遺産として損傷、破壊等の脅威から保護し、保存するための国際的な協力及び援助の体制を確立することを目的とし、(1)保護の対象は、記念工作物、建造物群、遺跡、自然の地域等で普遍的価値を有するもの(第1~3条)、(2)締約国は、自国内に存在する遺産を保護する義務を認識し、最善を尽くす(第4条)、また、自国内に存在する遺産については、保護に協力することが国際社会全体の義務であることを認識する(第6条)、(3)「世界遺産委員会」(委員国は締約国から選出)の設置(第8条)、同委員会は、各締約国が推薦する候補物件を審査し、その結果に基づいて「世界遺産一覧表」を作成するほか、締約国の要請に基づき、同一覧表に記載された物件の保護のための国際的援助の供与を決定する。同委員会の決定は、出席しかつ投票する委員国の三分の二以上の多数による議決で行う(第11条,第13条)、(4)締約国の分担金(ユネスコ分担金の1%を超えない額(我が国の場合,2017年は約3,500万円)及び任意拠出金,その他の寄付金等を財源とする、「遺産」のための「世界遺産基金」を設立(第15条,第16条)、(5)「世界遺産委員会」が供与する国際的援助は、調査・研究、専門家派遣、研修、機材供与、資金協力等の形をとる(第22条)、(6)締約国は,自国民が「遺産」を評価し尊重することを強化するための教育・広報活動に努める(第27条)などを規定しました。
 2021年(令和3)7月末現在で、締約国数は194ヶ国で、エジプトのピラミッド、中国の万里の長城、米国のグランドキャニオン国立公園など合計1,154件が世界遺産リストに登録(文化遺産:897件、自然遺産:218件、複合遺産:39件)されています。

☆日本の世界遺産一覧 現在25件(文化遺産:20件、自然遺産:5件)

<文化遺産>​

・法隆寺地域の仏教建造物(1993年登録)奈良県 (1), (2), (4), (6) 
・姫路城(1993年登録)兵庫県 (1), (4) 
・古都京都の文化財(1998年登録)京都府、滋賀県 (2), (4) 
・白川郷、五箇山の合掌造り集落(1995年登録)岐阜県、富山県 (4), (5) 
・原爆ドーム(1996年登録)広島県 (6) 
・厳島神社(1996年登録)広島県 (1), (2), (4), (6) 
・古都奈良の文化財(1998年登録)奈良県 (2), (3), (4), (6) 
・日光の社寺(1999年登録)栃木県 (1), (4), (6) 
・琉球王国のグスク及び関連遺産群(2000年登録)沖縄県 (2), (3), (6) 
・紀伊山地の霊場と参詣道(2004年登録)和歌山県、奈良県、三重県 (2), (3), (4), (6)
・石見銀山遺跡とその文化的景観(2007年登録)島根県 (2), (3), (5)
・平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―(2011年登録)岩手県 (2), (6) 
・富士山―信仰の対象と芸術の源泉(2013年登録)静岡県、山梨県 (3), (6) 
・富岡製糸場と絹産業遺産群(2014年登録)群馬県 (2), (4)
・明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業(2015年登録)山口県、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県、岩手県、静岡県 (2), (4)
・ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-(2016年登録)東京都 (1), (2), (6)
・「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群(2017年登録)福岡県 (2), (3) 
・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2018年登録)長崎県、熊本県 (3) 
・百舌鳥・古市古墳群 -古代日本の墳墓群-(2019年登録)大阪府 (3), (4) 
・北海道・北東北の縄文遺跡群(2021年登録)北海道、青森県、岩手県、秋田県 (3), (5) 

<自然遺産>

・屋久島(1993年登録)鹿児島県 (7), (9)
・白神山地(1993年登録)青森県、秋田県 (9)
・知床(2005年登録)北海道 (9), (10)
・小笠原諸島(2011年登録)東京都 (9)
・奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島(2021年登録)鹿児島県、沖縄県 (10)

(登録基準の内容)
(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
(4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
(5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
(6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。
(7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
(8) 地球の歴史上の主要な段階を示す顕著な見本であるもの。これには生物の記録、地形の発達における重要な地学的進行過程、重要な地形的特性、自然地理的特性などが含まれる。
(9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
(10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1159年(平治元)院近臣らの対立により発生した平治の乱が起きる(新暦1160年1月19日)詳細
1916年(大正5)小説家夏目漱石の命日(漱石忌)詳細
1945年(昭和20)GHQが「農地改革に関する覚書」(SCAPIN-411)を指令する詳細
1975年(昭和50)第30回国際連合総会において、「障害者の権利に関する宣言」が採択される(障害者の日)詳細


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 今日は、奈良時代の770年(神護景雲4)に、百万塔陀羅尼を作らせて諸寺に分配するようにした日ですが、新暦では5月25日となります。
 百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)は、奈良時代に作られた百万基の木製小塔(三重塔・七車塔・十三重塔)に陀羅尼経(相輪・自心・根本・六度の四種)を納めたものでした。天平宝字8年(764年)の恵美押勝の乱平定後、亡くなった人々の菩提を弔い、鎮護国家を祈って、称徳天皇が発願したものです。
 765年(天平神護1)より770年(神護景雲4)まで数年をかけて完成しのした。基本は木造の三重小塔(高さ約約21.5㎝)ですが、1万個ごとに高さ約50cmの七重塔(一万節塔)を計100個作り、10万個ごとに高さ約60cmの十三重塔(十万節塔)を計10個作製しています。その露盤の内部に、縦約5cm,横15〜50cmの紙製の陀羅尼一巻(現存する日本最古の印刷物とされる)が収納されていましたが、根本(40行)・相輪(23行)・自心印(31行)・六度(15行)の四種のものが見つかりました。
 『東大寺要録』本願章天平宝字八年九月十一日条、諸院章第四「東西小塔院」に、「十大寺」に分置されたとあり、それは大和の大安寺、元興寺、興福寺、薬師寺、東大寺、西大寺、法隆寺、弘福寺(川原寺)、河内の四天王寺、近江の崇福寺で、10万基ずつ寄進されています。現在は、法隆寺に伝来した4万数千基が残るのみですが、その内、法隆寺所蔵の三重の小塔100基、七重の一万節塔と十三重の十万節塔それぞれ1基、塔内納入の陀羅尼270巻が国指定重要文化財となりました。
 尚、『続日本紀』巻第三十の宝亀元年四月戊午条に記載されている百万塔陀羅尼に関する記述を以下に現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第三十の宝亀元年(770年)四月戊午(26日)条

<原文>
「戊午。初め天皇。八年亂平。乃發弘願。令造三重小塔一百万基。高各四寸五分。基徑三寸五分。露盤之下。各置根本。慈心。相輪。六度等陀羅尼。至是功畢。分置諸寺。賜供事官人已下仕丁已上一百五十七人爵。各有差。」

<読み下し文>
「戊午。初天皇。八年亂[1]平きて[2]。乃ち弘願[3]を發して、三重の小塔一百万基を造ら令む。高さ各四寸五分、基の徑三寸五分、露盤[4]の下に、各根本、慈心、相輪、六度等の陀羅尼[5]を置く。功畢て是に至て、諸寺[6]に分置す。事に供する官人已下仕丁[7]已上一百五十七人に爵[8]を賜こと、各差有り。」

【注釈】

[1]八年亂:はちねんらん=天平宝字8年(764年)の恵美押勝(えみのおしかつ)の乱のこと。
[2]平きて:たいらきて=平定されて。
[3]弘願:ぐがん=一切の衆生を救おうとする弘大な誓願。広く人々を救おうとする願のこと。
[4]露盤:ろばん=仏塔の相輪のいちばん下にある基盤。
[5]陀羅尼:だらに=災害や兵乱などの消滅を願う密教の呪文の経で、根本、慈心、相輪、六度等によって構成されていた。
[6]諸寺:てらでら=諸寺。寺々のことだが、ここでは、大安寺 元興寺 弘福寺 薬師寺 四天王寺 興福寺 法隆寺 崇福寺 東大寺 西大寺を指す。
[7]仕丁:しちょう=中央官司の雑役にあてられた人民。
[8]爵:しゃく=位階。位。

<現代語訳>
「戊午(宝亀元年4月26日)、初め(称徳)天皇は、(天平宝字)8年の恵美押勝の乱が平定された時に、一切の衆生を救おうとする大願を起こして、三重の小塔を百万基造らせた。高さ各四寸五分、基部の直径三寸五分、露盤の下に、それぞれ根本・慈心・相輪・六度等の陀羅尼経を収めた。ここに至って完成したので、諸寺に分置した。これに携わった官人以下仕丁以上の者157人に、その地位に応じての位を授与した。」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)俳人飯田蛇笏の誕生日詳細
1956年(昭和31)首都圏整備法」が公布される詳細
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 今日は、飛鳥時代の622年(推古天皇30)に、政治家・宗教的思想家聖徳太子が亡くなったとされる日ですが、新暦では4月8日となります。
 聖徳太子(しょうとくたいし)は、574年(敏達天皇3年1月1日)に、飛鳥池辺雙槻宮において、用明天皇の第2皇子(母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女)として生まれたとされますが、名は廏戸豊聡耳皇子と言いました。585年(用明天皇元)に敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子(用明天皇)が即位しましたが、587年(用明天皇2)に亡くなり、皇位を巡って争いになり、物部守屋討伐に関わったとされます。
 戦後に蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につけたものの、対立が激化し、592年(崇峻天皇5)に馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させました。翌年に馬子は豊御食炊屋姫(推古天皇)を擁立して、初の女帝として皇位につけ、聖徳太子が皇太子となって、馬子と共に天皇を補佐することになります。
 同年に摂津国難波に四天王寺を建立し、翌年には「仏教興隆の詔」を発しました。601年(推古天皇9)に斑鳩宮を造営、603年(推古天皇11)に冠位十二階を定め、604年(推古天皇12)に「十七条憲法」を制定、607年(推古天皇15)に屯倉を各国に設置、高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘るなど政治・経済面の整備を行います。
 また、同年に小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送り、翌年に返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れ、608年(推古天皇16)には、返書と裴世清の帰国のため、妹子を高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣するなど外交面でも活躍しました。さらに、615年(推古天皇23)までに『三経義疏』を著し、620年(推古天皇28)には、馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂するなどしています。
 しかし、622年(推古天皇30)に斑鳩宮で倒れ、妃の膳大郎女が亡くなった翌2月22日に、大和国斑鳩宮において、数え年49歳で亡くなり、墓所は磯長墓(現在の大阪府太子町叡福寺)とされました。尚、『日本書紀』では、621年(推古天皇29年2月5日)のことと記しています。

〇聖徳太子関係略年表(日付は旧暦です)

・574年(敏達天皇3年1月1日) 飛鳥池辺雙槻宮において、用明天皇の第2皇子(母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女)として生まれる
・585年(用明天皇元年) 敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子(用明天皇)が即位する
・587年(用明天皇2年4月9日) 用明天皇が崩御する
・587年(用明天皇2年8月2日) 皇位を巡って争いになり、戦後に馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につける
・592年(崇峻天皇5年11月3日) 馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させる
・593年(崇峻天皇5年12月8日) 馬子は豊御食炊屋姫(推古天皇)を擁立して皇位につけ(初の女帝)、
・593年(推古天皇元年4月10日) 厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐する
・593年(推古天皇元年) 厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立する
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔を発する
・595年(推古天皇3年) 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝える
・597年(推古天皇5年) 吉士磐金を新羅へ派遣する
・598年(推古天皇6年) 新羅が孔雀を贈る
・600年(推古天皇8年) 新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
・601年(推古天皇9年) 斑鳩宮を造営する
・602年(推古天皇10年) 再び新羅征討の軍を起こし、同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が薨去する
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階を定める
・604年(推古天皇12年4月3日) 「十七条憲法」を制定する
・604年(推古天皇12年9月) 朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定める
・605年(推古天皇13年) 諸王諸臣に、褶の着用を命じる
・605年(推古天皇13年) 斑鳩宮へ移り住む
・607年(推古天皇15年) 屯倉を各国に設置する
・607年(推古天皇15年) 高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る
・607年(推古天皇15年) 小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送る
・607年(推古天皇15年) 法隆寺が創建される
・608年(推古天皇16年) 返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れる
・608年(推古天皇16年) 返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣する
・612年(推古天皇20年) 百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせる
・613年(推古天皇21年) 掖上池、畝傍池、和珥池を作る
・613年(推古天皇21年) 難波から飛鳥までの大道を築く
・614年(推古天皇22年) 犬上御田鍬らを隋へ派遣する
・615年(推古天皇23年) 『三経義疏』を著す
・620年(推古天皇28年) 馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂する
・622年(推古天皇30年2月21日) 厩戸皇子妃・膳大郎女が亡くなる
・622年(推古天皇30年2月22日) 大和国斑鳩宮において、数え年49歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1239年(延応元)第82代の天皇後鳥羽天皇の命日(新暦3月28日)詳細
1989年(平成元)佐賀県吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落発見と報道される詳細
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