ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:法相宗

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 今日は、奈良時代の772年(宝亀3)に、法相宗の僧道鏡が亡くなった日ですが、新暦では5月13日となります。
 道鏡(どうきょう)は、700年(文武天皇4年)?に、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)で、弓削櫛麻呂の息子として生まれたとされますが、はっきりしません。若い頃に、法相宗の高僧・義淵の弟子となったとされ、また東大寺の僧として華厳宗の名僧良弁に仕え、葛城山中で如意輪法を修し、梵文(サンスクリット)に通じたと言われます。
 その後、禅行が聞こえて宮中内道場に入り禅師となり、761年(天平宝字5年)に行幸中の近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病し、信任を得ました。763年(天平宝字7年)に慈訓に代わって少僧都に任じられ、764年(天平宝字8年9月)に藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されると、大臣禅師に任ぜられて政権を握ります。
 同年10月に、孝謙上皇は淳仁天皇を廃して称徳天皇として重祚すると、翌年の称徳天皇弓削寺行幸の際、太政大臣禅師に任ぜられました。765年(天平宝字9年)に貴族の墾田をいっさい禁じたものの、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許し、翌年に法王に任じられ、767年(神護景雲元年)には阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど権力をふるって貴族を抑圧します。
 769年(神護景雲3)に豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上する「宇佐八幡宮神託事件」が起こり、和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申したことにより、「穢麻呂(きたなまろ)」に改名させられて大隅に流刑とされました。しかし、天皇に就くことはできず、称徳天皇が道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、行幸していた時に発病し、770年(神護景雲4年8月4日)平城宮において亡くなると状況が一変します。
 同年には、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられ、772年(宝亀3年4月7日)に下野国で亡くなり、庶人として葬られました。
 以下に、『続日本紀』神護景雲三年(769年)九月己丑(25日)条の「宇佐八幡宮神託事件」の記事を掲載(現代語訳・注釈付)しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』神護景雲三年(769年)九月己丑(25日)条(宇佐八幡宮神託事件の記事)

<原文>

神護景雲三年九月己丑条
 (上略)始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負。天皇召清麻呂於床下。勅曰。昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。臨発。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋為告我即位之事。因重募以官爵。清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以来。君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。清麻呂来帰。奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。

<読み下し文>

神護景雲三年九月己丑条
 (上略)始め大宰の主神[1]習宜阿曽麻呂、旨を希いて方に道鏡に媚び事え[2]、因りて八幡の神教[3]と矯り[4]て言う。「道鏡をして皇位に即かしめば天下太平ならん」と。道鏡これを聞き、深く喜びて自負[5]す。天皇、清麻呂を床下[6]に召し、勅して日く。「昨夜夢みるに、八幡の神使来りて云う、『大神事を奏せしめんが為に尼法均を請う』と。宜しく汝清麻呂、相代わりて往きて彼の神命[7]を聴くべし」と。発するに臨みて道鏡清麻呂に語りて日く。「大神の使を請う所以は、蓋し我が即位の事を告げんが為ならん」と。因りて重く募るに官爵を以てす。清麻呂、行きて神宮に詣る。大神託宣[8]して日く。『我が国家、開闢[9]より以来、君臣定まれり。臣を以て君となすことは未だこれ有らず。天之日嗣[10]は必ず皇緒[11]を立てよ。無道[12]の人は宜しく早く掃除[13]すべし』と。清麻呂来り帰りて、奏すること神教の如し。是に於て道鏡大いに怒り、清麻呂の本官を解きて出だして因幡員外介となす。未だ任所にゆかず、尋いで詔有りて除名[14]し、大隅に配す。其の姉法均は還俗[15]せしめて備後に配す。

【注釈】

[1]主神:かんづかさ=正七位下相当で、諸々の祭祀を司る者。
[2]媚び事え:こびつかえ=気に入られるように目上の人に振る舞う。目上の相手の機嫌をとる。
[3]神教:しんきょう=神の教え。神のお告げ。
[4]矯りて:いつわりて=無理に曲げて。いつわって。
[5]自負:じふ=自分の才能や、学問、功業などをすぐれていると信じて誇ること。また、その心。
[6]床下:しょうか=床の近く。ねどこの下。また、ねどこ。
[7]神命:しんめい=神の命令。神勅。
[8]託宣:たくせん=神のことば。神のおつげ。神託。
[9]開闢:かいびゃく=天と地が初めてできた時。世界の始まりの時。
[10]天之日嗣:あまのひつぎ=皇位を継承すること。また、皇位。
[11]皇緒:こうしょ=天皇の血統、天皇の位のこと。
[12]無道:ぶどう=考え、行動などが道理にはずれていること。人の道にそむいた暴悪非道なふるまいをすること。また、そのさま。非道。
[13]掃除:そうじ=社会の害悪などを取り除くこと。
[14]除名:じょめい=官人が罪を犯したとき、その者を官の籍から除いたこと。位階や勲等を奪い、調・庸や雑徭を課した。
[15]還俗:げんぞく=一度出家した者がもとの俗人に戻ること。法師がえり。

<現代語訳>

神護景雲3年(769年)9月己丑条
 (上略)初め、大宰府の主神の習宣阿曽麻呂は、道鏡に気に入られようと振る舞って仕えた。そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであるといつわって、「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」と言った。道鏡はこれを聞き、深く喜ぶとともに自信を持った。天皇は清麻呂を玉座近くに招じて、「昨夜の夢に八幡神の使いがきて『大神は天皇に奏上することがあるので、尼の法均を遣わせることを願っています』と告げた。そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神のところへ行き、その神託を聞いてくるように」と詔した。出発するのに臨んで道鏡は、清麻呂に語って言うのに、「大神が使者の派遣を要請するのは、おそらく私の即位の事を告げるためであろう」と、そのようであれば、重く用いて官爵を上げてやると持ち掛けた。清麻呂は出かけて行って神宮に詣でた。大神は託宣して言うには、「わが国家は、天と地が初めてできた時以来、君臣の秩序は定まっている。臣下の者を君主と成すことは、いまだかつてなかったことだ。皇位には必ず、天皇の血統を立てよ。道理にはずれている者は早く取り除け」と。清麻呂は帰京して、神のお告げのように天皇に奏上した。これによって、道鏡は大いに怒って、清麻呂の官職を解いて、因幡員外介として左遷した。清麻呂がまだ任地へ行かないうちに、続いて詔があって、官職を剥奪し除籍して、大隅国へ配流した。その姉の法均は俗人に戻させられて、備後国へ配流された。

☆道鏡関係略年表(日付は旧暦です)

・700年(文武天皇4年)? 河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に弓削櫛麻呂の息子として生まれる
・747年(天平19年1月) 正倉院文書に東大寺良弁大徳御所使沙弥とあり、良弁の弟子でようやく得度したばかりであったらしい
・761年(天平宝字5年) 近江国保良宮で、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病する
・763年(天平宝字7年) 慈訓に代わって少僧都に任じられる
・764年(天平宝字8年9月) 藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅される
・764年(天平宝字8年9月20日) 大臣禅師に任ぜられて政権を握る
・764年(天平宝字8年10月9日) 孝謙上皇は淳仁天皇を廃して称徳天皇として重祚する
・765年(天平宝字9年閏10月) 称徳天皇弓削寺行幸の際、太政大臣禅師に任ぜられる
・765年(天平宝字9年) 貴族の墾田をいっさい禁じたが、寺院のそれは認め、百姓の1、2町の開墾は許す
・766年(天平神護2年10月) 法王に任じられる
・767年(神護景雲元年) 阿波国の王臣の功田、位田を収めて口分田として班給するなど貴族を抑圧する
・769年(神護景雲3年5月) 豊前国の宇佐八幡神が「道鏡を天皇にしたならば天下太平ならん」と称徳天皇に神託を奏上する(宇佐八幡宮神託事件)
・769年(神護景雲3年8月) 和気清麻呂が天皇の勅使としてに宇佐神宮に参宮、神託が虚偽であることを上申したが、大隅国への流罪とされる
・769年(神護景雲3年10月) 称徳天皇は道鏡の出身地、若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て、ここに行幸する
・770年(神護景雲4年2月) 称徳天皇は再び由義宮に行幸する
・770年(神護景雲4年8月4日) 平城宮において、称徳天皇が亡くなる
・770年(神護景雲4年8月21日) 造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて配流させられる
・772年(宝亀3年4月7日) 下野国で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1133年(長承2)浄土宗の開祖法然の誕生日(新暦5月13日)詳細
1947年(昭和22)労働基準法」が公布される詳細
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 今日は、奈良時代の749年(天平21)に、社会事業に尽力した法相(ほっそう)宗の僧行基が亡くなった日ですが、新暦では2月23日となります。
 行基は、飛鳥時代の668年(天智天皇7)に、河内国(後に和泉国に分立)大鳥郡(現在の大阪府)において、渡来した王仁の子孫にあたる父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれました。
 682年(天武天皇11)に出家して、『瑜伽師地論』、『成唯識論』などの経典を学び、たちまち理解したと伝えられています。
 その後、薬師寺で義淵らについて法相を学び、8世紀初め頃までは山林修行に力を注ぎました。43歳で母を亡くし3年間の忌服を終え、諸国を遊歴して、民衆の教化と社会事業に専念し、弟子を連れて民衆と共に道路・堤防・橋や寺院の建設にあたります。また、旅の途上で餓死する人を救うため布施屋(旅人の休息所)を多数造立しました。
 しかし、717年(養老元)には、その活動は百姓をまどわすとして一時禁圧されたものの、後に許されます。
 やがて聖武天皇の帰依を受け、大仏造営に際しては、絶大な民衆への影響力により、大仏造営費の勧進に起用されました。
 その功もあって、745年(天平17)には、朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を授与されましたが、749年(天平21年2月2日)に、奈良の菅原寺において、82歳で亡くなりました。

〇行基の主要な社会事業とされるもの

<貯水池>
・久米田池(大阪府岸和田市)
・狭山池(大阪狭山市)
・永寿池(大阪府貝塚市)
・鶴田池(大阪府堺市)
・蓮の池(兵庫県神戸市長田区)
・香盤池(兵庫県明石市)
・昆陽池(兵庫県伊丹市)

<橋>
・泉橋(木津川)
・山崎橋(淀川)
・高瀬橋(淀川)
・行基橋(福岡県沖端川)

<港>
・河尻泊(兵庫県尼崎市神崎町)
・大輪田泊(兵庫県神戸市兵庫区)
・魚住泊(兵庫県明石市大久保町)
・韓泊(兵庫県姫路市的形町)
・室生泊(兵庫県たつの市御津町室津)

<布施屋>
・泉寺布施屋(京都府木津川市)
・大江布施屋(京都府京都市)
・垂氷布施屋(大阪府吹田市)
・樟葉布施屋(大阪府枚方市)
・大鳥布施屋(大阪府堺市)
・野中布施屋(大阪府堺市)
・石原布施屋(大阪府堺市)
・度布施屋(大阪府大阪市)
・昆陽布施屋(兵庫県伊丹市)
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