ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:法学者

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 今日は。明治時代後期の1909年(明治42)に、法学者川島武宜が生まれた日です。
 川島武宜(かわしま たけよし)は、1909年(明治42)10月17日に、岐阜県岐阜市において、生まれましたが、旧姓は高木でした。大阪府立北野中学校(現在の府立北野高等学校)を経て、1928年(昭和3)に大阪高等学校(現在の大阪大学)を卒業し、東京帝国大学(現在の東京大学)法学部へ進みます。
 我妻栄の下で学び、1932年(昭和7)に卒業後、東京帝国大学法学部助手(民法)となりました。1933年(昭和8)に高等文官試験司法科に合格し、翌年には、東京帝国大学法学部助教授に昇進します。
 1945年(昭和20)に東京帝国大学法学部教授となり、1947年(昭和22)には、日本法社会学会の設立に尽力しました。1948年(昭和23)に『日本社会の家族的構成』で、毎日出版文化賞を受賞、翌年には、『所有権法の理論』、『民法解釈学の諸問題』を刊行し、民法学に新しい視点を導入しています。
 1950年(昭和25)に『法社会学における法の存在構造』、1955年(昭和30)に『科学としての法律学』、1959年(昭和34)に『近代社会と法』、1960年(昭和35)に『民法総論』を刊行し、科学としての法律学を提唱しました。1969年(昭和44)に学位論文「所有権法の理論」で東京大学より法学博士の学位を取得、1970年(昭和45)に定年退官し、東京大学名誉教授となり、弁護士登録をしています。
 1979年(昭和54)に日本学士院会員となり、1980年(昭和55)には、勲二等瑞宝章を受章しました。1991年(平成3)に文化功労者となりましたが、翌年5月21日に82歳で亡くなっています。

〇川島武宜の主要な著作

・『日本社会の家族的構成』(1948年)
・『債権法講義』(1948年)
・『所有権法の理論』(1949年)
・『債權法總則講義』(1949年)
・『民法解釈学の諸問題』(1949年)
・『法社会学に於ける法の存在構造』(1950年)
・『民法講義』(1951年)
・『民法』(1951年)
・『結婚』(1954年)
・『科学としての法律学』(1955年)
・『近代社会と法』(1959年)
・『総論・物権』(1960年)
・『民法総則』(1965年)
・『日本人の法意識』(1978年)
・『ある法学者の軌跡』(1979年)
・『川島武宜著作集』第1巻~第11巻(1982~1986年)
・『「科学としての法律学」とその発展』(1987年)

☆川島武宜関係略年表

・1909年(明治42)10月17日 岐阜県岐阜市において、生まれる
・1925年(大正14) 大阪府立北野中学校(現在の府立北野高等学校)を卒業する
・1928年(昭和3) 大阪高等学校(現在の大阪大学)を卒業する
・1932年(昭和7) 東京帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業し、東京帝国大学法学部助手(民法)となる
・1933年(昭和8) 高等文官試験司法科に合格する
・1934年(昭和9) 東京帝国大学法学部助教授となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学法学部教授となる
・1947年(昭和22) 日本法社会学会の設立に尽力する
・1948年(昭和23) 『日本社会の家族的構成』で、毎日出版文化賞を受賞する
・1949年(昭和24) 『所有権法の理論』、『民法解釈学の諸問題』を刊行する
・1950年(昭和25) 『法社会学における法の存在構造』を刊行する
・1955年(昭和30) 『科学としての法律学』を刊行する
・1959年(昭和34) 『近代社会と法』を刊行する
・1960年(昭和35) 『民法総論』を刊行する
・1969年(昭和44) 学位論文「所有権法の理論」で東京大学より法学博士の学位を取得する
・1970年(昭和45) 定年退官し、東京大学名誉教授となり、弁護士登録をする
・1979年(昭和54) 日本学士院会員となる
・1980年(昭和55) 勲二等瑞宝章を受章する
・1991年(平成3) 文化功労者となる
・1992年(平成4)5月21日 82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1803年(享和3)蘭学者・医師前野良沢の命日(新暦11月30日)詳細
1877年(明治10)東京・神田に華族の子弟の教育機関・華族学校が開校、臨席の明治天皇が「学習院」と名附ける詳細
1887年(明治20)H・S パーマにより横浜の市街地へ日本初の近代的上水道が完成、給水が開始される(上水道の日)詳細
1903年(明治36)小説家・評論家立野信之の誕生日詳細
1956年(昭和31)財団法人日本モンキーセンターが設立される詳細
1968年(昭和43)川端康成のノーベル賞(文学賞)受賞が決定する詳細
1980年(昭和55)「ラムサール条約」が日本国内で発効する詳細
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obofujio01
 今日は、平成時代の1996年(平成8)に、法学者・弁護士於保不二雄の亡くなった日です。
 於保不二雄(おほ ふじお)は、明治時代後期の1908年(明治41)1月22日に、山口県下関市において生まれ、1928年(昭和3)に旧制第5高等学校文科甲類を卒業しました。その後、京都帝国大学法学部に進学し、1932年(昭和7)に卒業後、法学部助手となります。
 しかし、1933年(昭和8)の「滝川事件」で京都帝国大学を辞職し、立命館大学助教授となったものの、翌年には、京都帝国大学法学部助手として復帰しました。1935年(昭和10)に助教授(民刑事法専攻 民事法講座)に昇任、1943年(昭和18)には教授に昇任しています。
 1947年(昭和22)に京都帝国大学評議員(~1949年2月)となり、1949年(昭和24)に『相続法』、1950年(昭和25)に『親子(近代家族法の基礎理論)法律学体系第二部』、1951年(昭和26)に『民法総則講義』を刊行しました。1954年(昭和29)に再び、京都大学評議員(~1956年3月)となり、『財産管理権序説』を刊行します。
 翌年には、学位論文「財産管理権論序説」で、京都大学より、法学博士を授与されましたが、財産の帰属と管理を分離することを説き、賛否両論を巻き起こしたが受け入れられ、民法の各分野にわたる解釈体系を打ち立てました。1959年(昭和34)に京都大学法学部長(~1960年12月)となり、『債権総論』を刊行、1966年(昭和41)に谷口知平との共著『民法概説(3)親族・相続』、1967年(昭和42)には、奥田昌道と編纂『注釈民法(4)』も刊行しています。
 1971年(昭和46)に京都大学を退官し、名誉教授となり、『民法学の基礎的課題(上)』を刊行、弁護士となって活躍しました。1979年(昭和54)に勲二等旭日重光章を受章、1995年(平成7)には、文化功労者となったものの、1996年(平成8)1月14日に、京都府京都市の自宅において、肺癌のため、87歳で亡くなっています。

〇滝川事件(たきがわじけん)とは?

 昭和時代前期の1933年(昭和8)に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件です。京都帝国大学法学部教授だった滝川幸辰が、1932年(昭和7)に『刑法読本』を出し、翌年の中央大学法学部での「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演が契機となり、その刑法学説が自由主義的な内容であったため、当時の文部大臣鳩山一郎から休職処分を下されたのち退官する事件が起きました。
 法学部教授会がこれに反対、教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示し、学生も抗議しましたが、結局政府の力に押切られ、思想および学問の自由、大学の自治への弾圧事件として知られます。当時、京都帝国大学法学部助手であった於保不二雄も抗議辞職し、立命館大学助教授となりましたが、翌年京都帝国大学へ復帰しました。
 滝川幸辰は退官後は大学に属さず、立命館大学で講師をするなどしながら法律研究を行い、1939年(昭和14)には弁護士登録して、刑事専門の弁護士として活躍します。太平洋戦争後、京都大学に復帰して法学部長となり、1948年(昭和23)には、日本刑法学会創立とともに初代理事長となりました。

〇於保不二雄の主要な著作

・『相続法』(1949年)
・『親子(近代家族法の基礎理論)法律学体系第二部』(1950年)
・『民法総則講義』(1951年)
・『財産管理権序説』(1954年)
・『債権総論』(1959年)
・『物権法(上)』(1966年)
・谷口知平との共著『民法概説(3)親族・相続』(1966年)
・奥田昌道と編纂『注釈民法(4)』(1967年)
・『民法学の基礎的課題(上)』(1971年)

☆於保不二雄関係略年表

・1908年(明治41)1月22日 山口県下関市において、生まれる
・1928年(昭和3) 旧制第5高等学校文科甲類を卒業する
・1932年(昭和7) 京都帝国大学法学部を卒業後、法学部助手となる
・1933年(昭和8) 「滝川事件」で京都帝国大学を辞職し、立命館大学助教授となる
・1933年(昭和9) 京都帝国大学法学部助手として復帰する 
・1935年(昭和10) 京都帝国大学法学部助教授(民刑事法専攻 民事法講座)となる
・1943年(昭和18) 京都帝国大学法学部教授(民刑事法専攻 民事法講座)となる
・1947年(昭和22) 京都帝国大学評議員(~1949年2月)となる
・1949年(昭和24) 『相続法』を刊行する
・1950年(昭和25) 『親子(近代家族法の基礎理論)法律学体系第二部』を刊行する
・1951年(昭和26) 『民法総則講義』を刊行する
・1954年(昭和29) 京都大学評議員(~1956年3月)となり、『財産管理権序説』を刊行する
・1955年(昭和30) 学位論文「財産管理権論序説」で、京都大学より、法学博士を授与される
・1959年(昭和34) 京都大学法学部長(~1960年12月)となり、『債権総論』を刊行する
・1966年(昭和41) 谷口知平との共著『民法概説(3)親族・相続』を刊行する
・1967年(昭和42) 奥田昌道と編纂『注釈民法(4)』を刊行する
・1971年(昭和46) 京都大学を退官し、名誉教授となり、『民法学の基礎的課題(上)』を刊行、弁護士登録をする
・1979年(昭和54) 勲二等旭日重光章を受章する
・1995年(平成7) 文化功労者となる
・1996年(平成8) 京都府京都市の自宅において、肺癌のため、87歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

允恭天皇42年第19代の天皇とされる允恭天皇の命日詳細
1602年(慶長7)江戸時代前期に活躍した絵師狩野探幽の誕生日(新暦3月7日)詳細
1866年(慶応2)兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者高島秋帆の命日(新暦2月28日)詳細
1906年(明治39)分子物理学者・生物物理学者小谷正雄の誕生日詳細
1953年(昭和28)人類学者・考古学者・民族学者鳥居龍蔵の命日詳細
1978年(昭和53)ジャーナリスト・編集者・装幀家・「暮しの手帖」編集長だった花森安治の命日詳細

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itoumasami01
 今日は、大正時代の1919年(大正8)に、法学者・憲法学者・最高裁判所判事伊藤正己の生まれた日です。
 伊藤正己(いとう まさみ)は、兵庫県明石市において生まれ、兵庫県立第一神戸中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部へ入学しました。1943年(昭和18)に卒業後、高等試験司法科に合格、東京帝国大学特別研究生となって徴兵を免れ、当時は敵国であったイギリスやアメリカ合衆国の法律の研究を続けます。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に司法省調査課嘱託となり、翌年には、専修大学講師となりました。1948年(昭和23)に法務庁調査意見局調査員、そして、東京大学助教授となり、1954年(昭和29)には、米ハーバード大学・スタンフォード大学に留学します。
 1957年(昭和32)に留学から帰国後、東京大学教授に昇格し、1960年(昭和35)には、論文「言論・出版の自由」で、東京大学より法学博士の学位を取得、日本学士院賞を受賞しました。1967年(昭和42)にコロンビア大学法科大学院客員教授となり、1970年(昭和40)に東京大学法学部長を併任(~1972年)、1973年(昭和48)には、東京大学総長の特別補佐となります。
 1980年(昭和55)に最高裁判所判事に就任(第三小法廷)し、1986年(昭和61)の北方ジャーナル訴訟で、表現行為の事前差し止めは厳しく制限すべきだとの補足意見を付け、1988年(昭和63)の「自衛官合祀訴訟」の大法廷判決で、合憲判決にただ一人反対意見を表明するなど、法廷意見(多数意見)に対し、数多くの反対意見や補足意見を表明しました。1989年(平成元)に最高裁判所判事を定年退官し、1990年(平成2)には、日本育英会会長に就任、日本学士院会員ともなります。
 1993年(平成5)に勲一等旭日大綬章を受章、1994年(平成6)には、文化功労者となり、国際科学技術財団会長(~2004年)となりました。1999年(平成11)に文化勲章を受章しましたが、2010年(平成22)12月27日に、東京都新宿区の病院において、呼吸不全により、91歳で亡くなり、正三位を追叙されています。

〇伊藤正己の主要な著作

・『言論・出版の自由 その制約と違憲審査の基準』(1959年)
・『プライバシーの権利』(1963年)
・『憲法入門』(1966年)
・『憲法』(1982年)

☆伊藤正己関係略年表

・1919年(大正8)9月21日 兵庫県明石市において生まれる
・1943年(昭和18) 東京帝国大学法学部を卒業、高等試験司法科合格、東京帝国大学特別研究生前期へ入学する
・1945年(昭和20) 東京帝国大学特別研究生後期へ入学する
・1946年(昭和21) 司法省調査課嘱託となる
・1947年(昭和22) 専修大学講師となる
・1948年(昭和23) 法務庁調査意見局調査員となり、東京大学助教授となる
・1954年(昭和29) 米ハーバード大学・スタンフォード大学に留学する
・1957年(昭和32) 留学から帰国後、東京大学教授に昇格する
・1960年(昭和35) 論文「言論・出版の自由」で、東京大学より法学博士の学位を取得、日本学士院賞を受賞する
・1967年(昭和42) コロンビア大学法科大学院客員教授
・1970年(昭和40) 東京大学法学部長を併任(~1972年)する
・1973年(昭和48) 東京大学総長の特別補佐となる
・1980年(昭和55) 最高裁判所判事に就任(第三小法廷)する
・1986年(昭和61) 北方ジャーナル訴訟で、表現行為の事前差し止めは厳しく制限すべきだとの補足意見を付ける
・1988年(昭和63)「自衛官合祀訴訟」の大法廷判決で、合憲判決にただ一人反対意見を表明する
・1989年(平成元) 最高裁判所判事を定年退官する
・1990年(平成2) 日本育英会会長に就任、日本学士院会員となる
・1993年(平成5) 勲一等旭日大綬章を受章する
・1994年(平成6) 文化功労者となり、国際科学技術財団会長(2004年11月12日まで)となる
・1995年(平成7) 日本育英会会長の任期が満了する
・1999年(平成11) 文化勲章を受章する
・2010年(平成22)12月27日 東京都新宿区の病院において、呼吸不全により、91歳で亡くなり、正三位を追叙される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)日本画家菱田春草の誕生日詳細
1934年(昭和9)室戸台風が京阪神地方を直撃し、死者・行方不明者3,036人が出る詳細
1943年(昭和18)東条英機内閣において、「現情勢下ニ於ケル国政運営要綱」が閣議決定される詳細
1950年(昭和25)シャウプ使節団(第二次)の正式報告書全文(第二次シャウプ勧告)が出される詳細
1954年(昭和29)実業家・養殖真珠の創始者御木本幸吉の命日詳細
1968年(昭和43)小説家・評論家広津和郎の命日詳細
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kainoumichitaka01
 今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、法学者・弁護士戒能通孝の生まれた日です。
 戒能 通孝(かいのう みちたか)は、長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)において、旧制飯田中学教師だった父の子として生まれました。1927年(昭和2)に旧制第五高等学校を卒業、東京帝国大学法学部へ入学し、在学中にセツルメント法律相談部に参加します。
 1930年(昭和5)に卒業後、法学部助手となり、民法、法社会学を専攻、サビニー、イェーリング、ギールケらの古典を研究する一方で、1939年(昭和14)には、中国農村慣行調査などに参加し、法を民衆のために役だてる精神を培いました。法社会学の立場から農村の土地問題、歴史と現実の研究に打ち込み、1943年(昭和18)には、『入会(いりあい)の研究』で第1回毎日出版文化賞を受賞します。
 太平洋戦争後は、極東国際軍事裁判の弁護人として活躍、1946年(昭和21)に民主主義科学者協会(民科)法律部会の設立に参加、翌年には、川島武宜とともに日本法社会学会を創設し、理事となりました。1949年(昭和24)に早稲田大学教授となり、翌年には、「入会の研究」で、東京大学より、法学博士を得ます。
 1954年(昭和29)に東京都立大学教授となり、1956年(昭和31)に国際民主法律家協会大会に参加、1958年(昭和33)には、憲法問題研究会結成にも参加しました。1963年(昭和38)に日本学術会議会員となり、弁護士登録し、翌年には、岩手県一戸町小繫(こつなぎ)地区の農民の入会闘争(小繫事件)弁護のため東京都立大学を辞任します。
 1968年(昭和43)に金嬉老事件の弁護団長として、弁護を引き受け、翌年には、東京都公害研究所初代所長となりました。公害の研究・行政面でも貢献しましたが、1975年(昭和50)3月22日に、東京において、66歳で亡くなっています。

〇戒能通孝の主要な著作

・『入会(いりあい)の研究』(1943年)第1回毎日出版文化賞受賞
・『法律の階級性』(1950年)
・『法社会学の課題』(1951年)
・『裁判』(1951年)
・『法廷技術』(1952年)
・『法律講話』(1952年)
・『市民の自由 基本的人権と公共の福祉』(1952年)
・『民法学概論』(1956年)
・『民主主義』(1956年)
・『小繋事件』(1964年)
・『公害の法社会学』(1971年)

☆戒能通孝関係略年表

・1908年(明治41)5月30日 長野県下伊那郡飯田町(現在の飯田市)において、旧制飯田中学教師だった父の子として生まれる
・1927年(昭和2) 旧制第五高等学校を卒業し、東京帝国大学法学部へ入学する
・1930年(昭和5) 東京帝国大学法学部を卒業後、法学部助手となる
・1939年(昭和14) 中国農村慣行調査に参加する
・1943年(昭和18) 『入会(いりあい)の研究』で第1回毎日出版文化賞を受賞する
・1946年(昭和21) 民主主義科学者協会(民科)法律部会の設立に参加する
・1947年(昭和22) 川島武宜とともに日本法社会学会を創設し、理事となる
・1949年(昭和24) 早稲田大学教授となる
・1950年(昭和25) 「入会の研究」で、東京大学より、法学博士を得る
・1954年(昭和29) 東京都立大学教授となる
・1956年(昭和31) 国際民主法律家協会大会に参加する
・1958年(昭和33) 憲法問題研究会結成に参加する
・1963年(昭和38) 日本学術会議会員となり、弁護士登録する
・1964年(昭和39) 小繫(こつなぎ)事件弁護のため都立大学を辞任する
・1968年(昭和43) 金嬉老事件の弁護団長として、弁護を引き受ける
・1969年(昭和44) 東京都公害研究所初代所長となる
・1975年(昭和50)3月22日 東京において、66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)俳人杉田久女の誕生日詳細
1950年(昭和25)皇居前広場(人民広場)でデモ隊と占領軍が衝突し、8名が逮捕される(人民広場事件)詳細
「文化財保護法」が公布される(文化財保護法公布記念日)詳細
1968年(昭和43)「消費者保護基本法」(現在の「消費者基本法」)が公布・施行される詳細
生化学・医化学者古武弥四郎の命日詳細
2006年(平成18)映画監督・脚本家今村昌平の命日詳細
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hiranoyoshitarou01
 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、法学者・中国現代史研究者・平和運動家平野義太郎の生まれた日です。
 平野義太郎(ひらの よしたろう)は、東京市京橋区築地(現在の東京都中央区)において、石川島造船所(現在のIHI)創業者・平野富二の息子である平野勇造の長男として生まれました。東京開成中、第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部へ進み民法研究室で学びます。
 1921年(大正10)に卒業後、同大学法学部助手となり、1923年(大正12)には助教授に昇任しました。1924年(大正13)に産業労働調査所に入り、『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』を刊行、翌年には、『法律における階級闘争』の刊行により、唯物史観の立場から法律の階級制を取り上げて注目されます。
 1927年(昭和2)にドイツのフランクフルト大学社会科学研究所に留学し、マルクス主義を研究、1929年(昭和4)に帰国しました。1930年(昭和5)に「共産党シンパ事件」において「治安維持法」違反で検挙、大学は依願免職となり、執行猶予付きの有罪判決を受けます。
 1932年(昭和7)から翌年にかけて、野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』(岩波書店)の編集に参加、いわゆる「講座派」の理論的指導者の一人となり、1934年(昭和9)には、『日本資本主義社會の機構――史的過程よりの究明』を岩波書店から刊行しました。1936年(昭和11)に「コム・アカデミー事件」で検挙されたものの、翌年に起訴猶予となり釈放され、1939年(昭和14)には太平洋協会に就職します。
 その後、同協会弘報部長、後に調査部長、太平洋学術委員会委員長となり、中国、東南アジアなどの調査活動にあたりました。太平洋戦争後は、1946年(昭和21)の民主主義科学者協会(民科)創立に参加、中国研究所創設に尽力し、理事長となります。
 1948年(昭和23)に民科東京支部長となり、『平野義太郎論文集』全3巻も刊行しました。1949年(昭和24)に日本学術会議会員となり、平和を守る会書記長にも就任、1956年(昭和31)には日本平和委員会会長となって原水爆禁止やベトナム反戦など平和運動に尽力します。
 また、世界平和協議会理事、国際民主法律家協会副会長を歴任するなど国際的にも活動しました。1966年(昭和41)から1979年(昭和54)まで、龍谷大学教授を務めましたが、1980年(昭和55)2月8日に、82歳で亡くなっています。

〇平野義太郎の主要な著作

・『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』(1924年)
・『法律における階級闘争』(1925年)
・『日本資本主義社会の機構』(1934年)
・『馬城大井憲太郎伝』(1938年)
・『民族政治学の理論』(1943年)
・『民族政治の基本問題』(1944年)
・『大アジア主義の歴史的基礎』(1945年)
・『日本資本主義社会の機構と法律』(1948年)
・『日本資本主義社会と法律』(1956年)
・『自由民権運動とその発展』(1977年)
・『農業問題と土地改革』

☆平野義太郎関係略年表

・1897年(明治30)3月5日 東京市京橋区築地(現在の東京都中央区)で、平野勇造の長男として生まれる
・1921年(大正10) 東京帝国大学法学部民法研究室を卒業、同大学助手となる
・1923年(大正12) 東京帝国大学法学部助教授となる
・1924年(大正13) 産業労働調査所に入る、『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』を有斐閣から刊行する
・1925年(大正14) 『法律における階級闘争』の刊行により唯物史観の立場から法律の階級制を取り上げて注目される
・1927年(昭和2) ドイツのフランクフルト大学社会科学研究所に留学する
・1929年(昭和4) ドイツから帰国する
・1930年(昭和5) 「共産党シンパ事件」において「治安維持法」違反で検挙、大学を依願免職となる
・1932年(昭和7) 『日本資本主義發達史講座』(岩波書店)編集に参加(~1933年)
・1934年(昭和9) 『日本資本主義社會の機構――史的過程よりの究明』を岩波書店から刊行する
・1936年(昭和11) 「コム・アカデミー事件」で検挙される 
・1937年(昭和12) 起訴猶予となり釈放される
・1939年(昭和14)7月 太平洋協会に就職する
・1939年(昭和14)9月 弘報部長、後に調査部長、太平洋學術委員會委員長
・1940年(昭和15) 「アメリカに於ける支那研究」、「故石本五雄少將を憶ふ」を『太平洋』に発表する
・1941年(昭和16) 「南支那海を經て海南島へ」を『太平洋』に発表する
・1942年(昭和17) 『太平洋の民族=政治學』 (清野謙次との共著) を日本評論社から刊行する
・1943年(昭和17) 『民族政治學の理論』を日本評論社から刊行する
・1944年(昭和19) 『民族政治の基本問題』を小山書店から刊行する  
・1945年(昭和20)6月 『大アジア主義の歴史的基礎』を河出書房から刊行する
・1946年(昭和21)1月  民主主義科学者協会(民科)創立に参加、中国研究所理事長となる
・1947年(昭和22) 「新しい文化と學術の創造のために」、「新中国に於ける民主主義化」を発表する
・1948年(昭和23) 民主主義科学者協会(民科)東京支部長となる、『平野義太郎論文集』全3巻を刊行する
・1949年(昭和24) 平和を守る会書記長となる、日本学術会議会員となる
・1956年(昭和31)2月 日本平和委員会会長となる
・1957年(昭和32) 国際民主法律家協会副会長となる
・1966年(昭和41) 龍谷大学教授となる 
・1979年(昭和54) 龍谷大学教授を辞める
・1980年(昭和55)2月8日 82歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

765年(天平神護元)称徳天皇が「墾田永年私財法」の停止(加墾禁止令)を勅する(新暦3月30日)詳細
1870年(明治3)日本3番目の洋式灯台である品川灯台が初点灯する(新暦4月5日)詳細
1926年(大正15)「労働農民党」(委員長:杉山元治郎)が結成される詳細
1929年(昭和4)社会運動家・政治家・生物学者山本宣治の命日詳細
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