ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:法学博士

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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、刑法学者牧野英一が亡くなった日です。
 牧野英一(まきの えいいち)は、明治時代前期の1878年(明治11)3月20日に、岐阜県大野郡高山向町(現在の高山市)で郷宿「玉屋」を営む、父・牧野伊平の長男として生まれました。岐阜県立斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1900年(明治33)に、東京帝国大学法学部フランス法科に入学し、穂積陳重から法律進化論を、梅謙次郎から自然法を、富井政章から比較法を学びます。
 1903年(明治36)に卒業して、同大学講師に就任、1907年(明治40)には、助教授に昇任しました。1910年(明治43)に、ドイツ、イギリス、イタリアに留学し、ベルリン大学ではリスト、フェリに師事、1913年(大正2)に帰国し、教授に昇任、翌年には、法学博士となります。
 フェッリやリストの新派刑法学を日本に導入、教育刑論、主観主義刑法理論を唱え、刑法学界に大きな影響を与えました。1936年(昭和11)に帝国学士院会員、1938年(昭和13)には、東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となり、翌年には、海軍経理学校講師に就任します。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に貴族院議員となり、第90帝国議会貴族院小委員会にて、「日本国憲法」前文を起草し、司法法制審議会委員として「民法」改正に取り組みました。1950年(昭和25)に文化勲章を受章、1951年(昭和26)に文化功労者となり、1952年(昭和27)には、東京家庭学園(白梅学園短期大学の前身)学長に就任します。
 1958年(昭和33)に高山市名誉市民、1965年(昭和40)に勲一等瑞宝章を受章、1966年(昭和41)に茅ヶ崎市名誉市民など数々の栄誉を受けましたが、1970年(昭和45)4月18日に、92歳で亡くなり、叙従二位、賜銀杯一組を追贈されました。

〇牧野英一の主要な著作

・『刑事学の新思潮と新刑法』(1909年) 
・『日本刑法』(1916年)
・『罪刑法定主義と犯罪徴表説』(1918年)
・『刑法研究』20巻(1918~67年)
・『法理学』(1949~52年)
・『刑法総論』(1958、59年)
・『刑法各論』

☆牧野英一関係略年表

・1878年(明治11)3月20日 岐阜県大野郡高山向町(現在の高山市)で郷宿「玉屋」を営む、父・牧野伊平の長男として生まれる
・1895年(明治28) 岐阜県立斐太中学校(現岐阜県立斐太高等学校)を卒業する
・1899年(明治32) 旧制第一高等学校を卒業する
・1900年(明治33) 東京帝国大学法学部フランス法科に入学し、穂積陳重から法律進化論を、梅謙次郎から自然法を、富井政章から比較法を学ぶ
・1903年(明治36) 銀時計受領して東京帝国大学法科大学を卒業、同大学講師に就任する
・1907年(明治40) 東京帝国大法科大学刑法講座助教授となる
・1910年(明治43)ドイツ、イギリス、イタリアに留学し、ベルリン大学ではリスト、フェリに師事する
・1913年(大正2) 帰国し、教授に昇任する
・1914年(大正3) 法学博士となる
・1921年(大正10) 第一回国勢調査記念章を受章する
・1927年(昭和2) 九州帝国大学法文学部講師となる
・1931年(昭和6) 九州帝国大学法文学部講師を辞め、法政大学法学部長兼専門部第一部長となる
・1934年(昭和9) 東北帝国大学講師を兼務する
・1936年(昭和11) 帝国学士院会員となる
・1938年(昭和13) 東京帝国大学を定年退官し、名誉教授となる
・1939年(昭和14) 海軍経理学校講師となる
・1945年(昭和20) 海軍経理学校講師を辞める
・1946年(昭和21) 貴族院議員となり、「日本国憲法」制定や「刑法」改正に関わる
・1950年(昭和25) 文化勲章を受章する
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1952年(昭和27) 東京家庭学園(白梅学園短期大学の前身)学長となる
・1958年(昭和33) 高山市名誉市民となる
・1965年(昭和40) 勲一等瑞宝章を受章する
・1966年(昭和41) 茅ヶ崎市名誉市民となる
・1970年(昭和45)4月18日 92歳で亡くなり、叙従二位、賜銀杯一組を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1849年(嘉永2)浮世絵師葛飾北斎の命日(新暦5月10日)詳細
1885年(明治18)日清両国間で「天津条約」(李・伊藤条約)が締結される詳細
「専売特許条例」が公布(施行は同年7月1日)される(発明の日)詳細
1900年(明治33)福井「橋南大火」で、死者11名、負傷者131名、全焼1891軒、半焼3軒の被害を出す詳細
1964年(昭和39)彫刻家朝倉文夫の命日詳細
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onoseiichirou01
 今日は、明治時代中頃の1891年(明治24)に、刑法学者・弁護士小野清一郎の生まれた日です。
 小野清一郎(おの せいいちろう)は、岩手県盛岡市で、盛岡小野組の一族であった、父・小野房二郎の長男として生まれました。盛岡中学校(盛岡一高の前身)を経て、旧制第一高校(東京大学教養学部の前身)を卒業し、東京帝国大学法科大学独法科へ進みます。
 在学中に、主観的犯罪論にたつ牧野英一から教えを受け、1917年(大正6)に首席で卒業後、補東京地方裁判所検事の検事職、予備検事となりました。1919年(大正8)に司法官補に任命され、東京帝国大学法科大学助教授を兼ね、1922年(大正11)には、東京帝国大学法学部教授に昇任します。
 刑法および刑事訴訟法を講じましたが、客観主義の刑法学者として、主観主義刑法学を唱える恩師の牧野英一と対峙しました。道義的責任の観念を重視し、旧派の刑法理論を体系的に展開し、日本特有の法理を説きます。
 1933年(昭和8)に博士論文「刑法に於ける名誉の保護」によって、東京帝国大学より法学博士を得、欧米留学へ出発、1936年(昭和11)に帰国しました。太平洋戦争後の1946年(昭和21)に戦時下の言論活動のため、公職追放により免官、教職不適格教授指定を受け、翌年に弁護士登録して、1948年(昭和23)の極東国際軍事裁判(東京裁判)では、海軍側被告人の弁護人を務めます。
 1955年(昭和30)に東京第一弁護士会会長となり、1956年(昭和31)には、法務省特別顧問、刑法改正準備会会長ともなりました。1957年(昭和32)に愛知学院大学教授となり、1958年(昭和33)には、東京大学名誉教授、日本学士院会員ともなります。
 1965年(昭和40)に勲一等瑞宝章、1971年(昭和46)に仏教伝道文化賞、1972年(昭和47)には、文化勲章を受章するなど数々の栄誉にも輝きました。1974年(昭和49)に、法制審議会刑事法特別部会で「改正刑法草案」を答申しますが、立法化には至っていません。
 一方で、仏教や民俗学にも造詣が深く、『仏教と現代思想』(1926年)、『歎異抄講話』(1975年)などの著作も成しましたが、1986年(昭和61)3月9日に、東京において、95歳で亡くなり、正三位、勲一等旭日大綬章を追贈されました。

〇小野清一郎の主要な著作

・『刑事訴訟法講義』(1924年)
・『仏教と現代思想』(1926年)
・『刑法講義各論』(1928年)
・『法理学と“文化”の概念』(1928年)
・『刑事訴訟法』(1928年)
・『刑法講義総論』(1932年)
・『刑法に於ける名誉の保護』(1934年) 
・『日本法理の自覚的展開』(1942年) 
・『刑法概論』(1952年)
・『犯罪構成要件の理論』(1953年)
・『刑法と法哲学』(1971年)
・『歎異抄講話』(1975年)

☆小野清一郎関係略年表

・1891年(明治24)1月10日 岩手県盛岡市で、小野房二郎の長男として生まれる
・1917年(大正6) 東京帝国大学法科大学独法科を首席で卒業し、補東京地方裁判所検事の検事職、予備検事となる
・1919年(大正8) 久札田益喜や岸井寿郎と共に司法官補に任命され、東京帝国大学法科大学助教授を兼ねる
・1922年(大正11) 東京帝国大学法学部教授となる
・1933年(昭和8) 博士論文「刑法に於ける名誉の保護」によって、東京帝国大学より法学博士を得、欧米留学へ出発する
・1936年(昭和11) 欧米留学から帰国する
・1946年(昭和21) 公職追放により免官、教職不適格教授指定を受ける
・1947年(昭和22) 弁護士登録する
・1948年(昭和23) 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、海軍側被告人の弁護人を務める
・1951年(昭和26) 公職追放が解除される
・1955年(昭和30) 東京第一弁護士会会長となる
・1956年(昭和31) 法務省特別顧問、刑法改正準備会会長となる
・1957年(昭和32) 愛知学院大学教授となる
・1958年(昭和33) 東京大学名誉教授、日本学士院会員となる
・1965年(昭和40) 勲一等瑞宝章を受章する
・1971年(昭和46) 仏教伝道文化賞を受賞する
・1972年(昭和47) 文化勲章を受章する
・1974年(昭和49) 法制審議会刑事法特別部会で改正刑法草案を答申する
・1977年(昭和52) 愛知学院大学教授を辞める
・1980年(昭和55) 刑法改正準備会会長を辞める
・1986年(昭和61)3月9日 東京において、95歳でなくなり、正三位、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1871年(明治4)文芸評論家・演出家・劇作家・小説家・詩人島村抱月の誕生日(新暦2月28日)詳細
1920年(大正9)東京帝国大学経済学部助教授の森戸辰男が筆禍事件(森戸辰男事件)により休職処分を受ける詳細
1922年(大正11)政治家・教育者大隈重信の命日詳細
1947年(昭和22)小説家織田作之助の命日詳細
1951年(昭和26)「日本の現代物理学の父」とも言われる物理学者仁科芳雄の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1855年(安政2)に、経済学者・史学者・政治家田口卯吉の生まれた日ですが、新暦では6月12日となります。
 田口卯吉(たぐち うきち)は、江戸目白台の徒士屋敷(現東京都文京区目白台)で、幕臣の父・田口樫郎の次男(母は町子)として生まれましたが、本名は鉉(みつ)と言いました。1859年(安政6)に父の樫郎が、翌年長兄の貫一郎が亡くなり、家督を相続し、1866年(慶応2)に元服して従士見習いとなります。
 同年12月に幕府の軍制改革で従士組が廃止され、新設の銃隊に配属され、昌平坂学問所でも学び、1868年(明治元)に徳川家の静岡移封に伴い沼津へ移住し、沼津兵学校で英語教師をしていた乙骨のもとへ寄宿し、兵学校と中根淑の漢学塾で学びました。1870年(明治3)に第六期資業生試験に合格し、静岡病院での医学修行を拝命しましたが、それを辞め、1871年(明治4)に乙骨と共に上京、翌年に大蔵省翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となります。
 洋書翻訳を担当したことが経済学を学ぶ契機となり、翻訳従事のかたわら諸新聞に政治論、経済論を投書しました。1874年(明治7)に大蔵省翻訳局が廃止となり、大蔵省紙幣寮に異動となり、1877年(明治10)に嚶鳴社に参加、自費出版で『日本開化小史』の刊行を開始、翌年には、『自由交易日本経済経済論』を出版します。
 1879年(明治12)に大蔵省を辞職し、翻訳業を手がけつつ新聞への投書や著述活動を行い、英国の経済雑誌『ECONOMIST』をモデルに「東京経済雑誌」を創刊し、自由主義経済を唱えました。1880年(明治13年)に東京府会議員となり、憲法制定や、条約改正などの政治問題に関しても発言、自由党機関紙「自由新聞」の客員として参加し経済関係の論説を担当しました。1882年(明治15)に『日本開化小史』全6巻の刊行が完結、翌年に東京株式取引所の肝煎となり、1884年(明治17)には『大日本人名辞書』の編纂に着手します。
 一方で、1887年(明治20)に両毛鉄道の社長となり、翌年には小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)取締役となって、鉄道敷設などに尽力し、1890年(明治23)には南島商会を組織し、貿易船天祐丸で南洋渡航を行いました。1891年(明治24)に歴史研究の個人雑誌『史海』を発刊、1894年(明治27)に尾崎三良らと帝国財政革新会を結成し、衆議院議員に当選、1896年(明治29)には進歩党を結成します。
 1897年(明治30)に島田三郎らと財政整理期成同盟会を組織、『国史大系』全17巻の発刊を開始、1898年(明治31)に憲政党創設委員に参加、翌年には法学博士となりました。また、『群書類従』の編集・刊行に携わったり、1900年(明治33)に義和団の乱に際して視察を行うなど多方面で活躍してきましたが、1905年(明治38)4月13日に、東京において、慢性腎炎のため数え年51歳で亡くなっています。

〇田口卯吉の主要な著作

・『自由貿易日本経済論』(1878年)
・『日本開化小史』 (1877~82年)
・『大日本人名辞書』(1884~86年)
・『日本開化之性質』(1885年)
・『日本之意匠及情交』(1886年)
・『日本社会事彙(じい)』全4巻(1890~91年)
・『支那開化小史』全5巻(1890年)
・『楽天論』(1895年)
・編纂『国史大系』全17巻(1897~1901年)
・編纂『続国史大系』全15巻(1902~04年)
・編纂『群書類従』

☆田口卯吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1855年(安政2年4月29日) 江戸目白台の徒士屋敷(現東京都文京区目白台)で、幕臣の父・田口樫郎の次男(母は町子)として生まれる
・1859年(安政6年) 父の樫郎が亡くなる
・1860年(万延元年) 長兄の貫一郎が亡くなり、家督を相続する
・1866年(慶応2年) 元服して従士見習いとなる
・1866年(慶応2年12月) 幕府の軍制改革で従士組が廃止され、新設の銃隊に配属される
・1868年(明治元年) 徳川家の静岡移封に伴い沼津へ移住し、沼津兵学校で英語教師をしていた乙骨のもとへ寄宿する
・1870年(明治3年9月) 第六期資業生試験に合格する
・1870年(明治3年12月) 静岡病院での医学修行を拝命する
・1871年(明治4年) 廃藩置県で静岡藩が解消され主な人材が東京へ移ると、乙骨と共に上京する
・1872年(明治5年) 大蔵省翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となる
・1874年(明治7年) 大蔵省翻訳局が廃止となり、大蔵省紙幣寮に異動となる
・1876年(明治9年) 旧幕臣の娘・千代と結婚する
・1877年(明治10年) 嚶鳴社に参加、自費出版で『日本開化小史』の刊行を開始する
・1878年(明治11年) 『自由交易日本経済経済論』を出版する
・1879年(明治12年) 大蔵省を辞職し、翻訳業を手がけつつ新聞への投書や著述活動を行い、「東京経済雑誌」を創刊する
・1880年(明治13年) 東京府会議員となり、憲法制定や条約改正などの政治問題に関しても発言、自由党機関紙「自由新聞」の客員も務める
・1882年(明治15年) 『日本開化小史』全6巻の刊行が完結する
・1883年(明治14年) 東京株式取引所の肝煎となる
・1884年(明治17年) 『大日本人名辞書』の編纂に着手する
・1887年(明治20年) 両毛鉄道の社長となる
・1888年(明治21年) 小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)取締役となる
・1890年(明治23年) 南島商会を組織し、貿易船天祐丸で南洋渡航を行う、『日本社会事彙』の刊行を開始する
・1891年(明治24年)5月 歴史研究の個人雑誌『史海』を発刊する
・1894年(明治27年) 尾崎三良らと帝国財政革新会を結成し、衆議院議員に当選する
・1896年(明治29年) 進歩党を結成する
・1897年(明治30年) 島田三郎らと財政整理期成同盟会を組織する、『国史大系』全17巻の発刊を開始する
・1898年(明治31年) 憲政党創設委員に参加する
・1899年(明治32年) 法学博士となる
・1900年(明治33年) 義和団の乱に際して視察を行う
・1902年(明治35年) 『続国史大系』15巻の発刊を開始する
・1905年(明治38年)4月13日 東京において、慢性腎炎のため数え年51歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1951年(昭和26)沖縄社会大衆党、沖縄人民党を中心に「日本復帰促進期成会」が結成される詳細
2006年(平成18)生口島北IC~生口島南IC(生口島道路)の開通で西瀬戸自動車道が全通する詳細
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