ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:治安維持法

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 今日は、大正時代の1925年(大正14)に、「治安維持法」(大正12年法律第46号)が公布(施行は同年5月12日)された日です。
 「治安維持法」(ちあんいじほう)は、最初は、大正時代の1925年(大正14)4月22日に公布(施行は同年5月12日)され、昭和時代前期の1941年(昭和16)3月10日に、全面改定されて公布(施行は同年5月15日)たものです。当初は、国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする結社や行動を処罰するために定められた法律でした。
 しかし、1928年(昭和3)に最高刑が死刑に、1941年(昭和16)には予防拘禁制度ができるなどの改定や拡大解釈により、労働組合、農民組合、宗教団体、学術研究サークルなど、政府を批判するものが対象とされていき、思想や言論の自由の抑圧の手段として利用されたのです。司法省の調査によると、1943年(昭和18)4月までの同法による検挙者は6万7,223名、起訴された者は6,024名に上りました。
 そして、太平洋戦争敗戦直後の1945年(昭和20)10月15日に、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の指令に基づいて廃止されています。
 以下に、「治安維持法」(大正12年法律第46号)と全面改定後の「治安維持法」(昭和16年法律第54号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「治安維持法」 (全文)(大正12年法律第46号) 1925年(大正14)4月22日公布、同年5月12日施行

第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二条 前条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第三条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ヲ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第四条 第一条第一項ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命、身体又ハ財產ニ害ヲ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第五条 第一条第一項及前三条ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財產上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ為シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ為シタル者亦同シ

第六条 前五条ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス

第七条 本法ハ何人ヲ問ハス本法施行区域外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス

附則

大正十二年勅令第四百三号ハ之ヲ廃止ス

 ※旧字を新字に直してあります。

☆全面改定後の「治安維持法」 (全文)(昭和16年法律第54号) 1941年(昭和16)3月10日公布、同年5月15日施行

   第一章 罪

第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ三年以上ノ有期懲役ニ処ス

第二条 前条ノ結社ヲ支援スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ処ス

第三条 第一条ノ結社ノ組織ヲ準備スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ処ス

第四条 前三条ノ目的ヲ以テ集団ヲ結成シタル者又ハ集団ヲ指導シタル者ハ無期又ハ三年以上ノ懲役ニ処シ前三条ノ目的ヲ以テ集団ニ参加シタル者又ハ集団ニ関シ前三条ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス

第五条 第一条乃至第三条ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議若ハ煽動ヲ為シ又ハ其ノ目的タル事項ヲ宣伝シ其ノ他其ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上十年以下ノ懲役ニ処ス

第六条 第一条乃至第三条ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命、身体又ハ財産ニ害ヲ加フべキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ処ス

第七条 国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スべキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ無期又ハ四年以上ノ懲役ニ処シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス

第八条 前条ノ目的ヲ以テ集団ヲ結成シタル者又ハ集団ヲ指導シタル者ハ無期又ハ三年以上ノ懲役ニ処シ前条ノ目的ヲ以テ集団ニ参加シタル者又ハ集団ニ関シ前条ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ一年以上ノ有期懲役ニ処ス

第九条 前八条ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ為シタル者ハ十年以下ノ懲役ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ為シタル者亦同ジ

第十条 私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者若ハ結社ノ目的遂行ノタメニスル行為ヲ為シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第十一条 前条ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シ又ハ其ノ目的タル事項ノ実行ヲ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第十二条 第十条ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命、身体又ハ財産ニ害ヲ加フべキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第十三条 前三条ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ為シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ為シタル者亦同シ

第十四条 第一条乃至第四条、第七条、第八条及第十条ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第十五条 本章ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス

第十六条 本章ノ規定ハ何人ヲ問ハズ本法施行地外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス

   第二章 刑事手続

第十七条 本章ノ規定ハ第一章ニ掲グル罪ニ関スル事件ニ付之ヲ適用ス

第十八条 検事ハ被疑者ヲ召喚シ又ハ其ノ召喚ヲ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
2 検事ノ命令ニ因リ司法警察官ノ発スル召喚状ニハ命令ヲ為シタル検事ノ職、氏名及其ノ命令ニ因リ之ヲ発スル旨ヲモ記載スベシ
3 召喚状ノ送達ニ関スル裁判所書記及執達吏ニ属スル職務ハ司法警察官吏之ヲ行フコトヲ得

第十九条 被疑者正当ノ事由ナクシテ前条ノ規定ニ依ル召喚ニ応ゼズ又ハ刑事訴訟法第八十七条第一項各号ニ規定スル事由アルトキハ検事ハ被疑者ヲ勾引シ又ハ其ノ勾引ヲ他ノ検事ニ嘱託シ若ハ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
2 前条第二項ノ規定ハ検事ノ命令ニ因リ司法警察官ノ発スル勾引状ニ付之ヲ準用ス

第二十条 勾引シタル被疑者ハ指定セラレタル場所ニ引致シタル時ヨリ四十八時間内ニ検事又ハ司法警察官之ヲ訊問スベシ其ノ時間内ニ勾留状ヲ発セザルトキハ検事ハ被疑者ヲ釈放シ司法警察官ヲシテ之ヲ釈放セシムベシ

第二十一条 刑事訴訟法第八十七条第一項各号ニ規定スル事由アルトキハ検事ハ被疑者ヲ勾留シ又ハ其ノ勾留ヲ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
2 第十八条第二項ノ規定ハ検事ノ命令ニ因リ司法警察官ノ発スル勾留状ニ付之ヲ準用ス

第二十二条 勾留ニ付テハ警察官署又ハ憲兵隊ノ留置所ヲ以テ監獄ニ代用スルコトヲ得

第二十三条 勾留ノ期間ハ二月トス特ニ継続ノ必要アルトキハ地方裁判所検事又ハ区裁判所検事ハ検事長ノ許可ヲ受ケ一月毎ニ勾留ノ期間ヲ更新スルコトヲ得但シ通ジテ一年ヲ超ユルコトヲ得ズ

第二十四条 勾留ノ事由消滅シ其ノ他勾留ヲ継続スルノ必要ナシト思料スルトキハ検事ハ速ニ被疑者ヲ釈放シ又ハ司法警察官ヲシテ之ヲ釈放セシムベシ

第二十五条 検事ハ被疑者ノ住居ヲ制限シテ勾留ノ執行ヲ停止スルコトヲ得
2 刑事訴訟法第百十九条第一項各号ニ規定スル事由アル場合ニ於テハ検事ハ勾留ノ執行停止ヲ取消スコトヲ得

第二十六条 検事ハ被疑者ヲ訊問シ又ハ其ノ訊問ヲ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
2 検事ハ公訴提起前ニ限リ証人ヲ訊問シ又ハ其ノ訊問ヲ他ノ検事ニ嘱託シ若ハ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
3 司法警察官検事ノ命令ニ因リ被疑者又ハ証人ヲ訊問シタルトキハ命令ヲ為シタル検事ノ職、氏名及其ノ命令ニ因リ訊問シタル旨ヲ訊問調書ニ記載スベシ
4 第十八条第二項及第三項ノ規定ハ証人訊問ニ付之ヲ準用ス

第二十七条 検事ハ公訴提起前ニ限リ押収、捜索若ハ検証ヲ命ジ又ハ其ノ処分ヲ他ノ検事ニ嘱託シ若ハ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
2 検事ハ公訴提起前ニ限リ鑑定、通訳若ハ翻訳ヲ命ジ又ハ其ノ処分ヲ他ノ検事ニ嘱託シ若ハ司法警察官ニ命令スルコトヲ得
3 前条第三項ノ規定ハ押収、捜索又ハ検証ノ調書及鑑定人、通事又ハ翻訳人ノ訊問調書ニ付之ヲ準用ス
4 第十八条第二項及第三項ノ規定ハ鑑定、通訳及翻訳ニ付之ヲ準用ス

第二十八条 刑事訴訟法中被告人ノ召喚、勾引及勾留、被告人及証人ノ訊問、押収、捜索、検証、鑑定、通訳並ニ翻訳ニ関スル規定ハ別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外被疑事件ニ付之ヲ準用ス但シ保釈及責付ニ関スル規定ハ此ノ限ニ在ラズ

第二十九条 弁護人ハ司法大臣ノ予メ指定シタル弁護士ノ中ヨリ之ヲ選任スベシ但シ刑事訴訟法第四十条第二項ノ規定ノ適用ヲ妨ゲズ

第三十条 弁護人ノ数ハ被告人一人ニ付二人ヲ超ユルコトヲ得ズ
2 弁護人ノ選任ハ最初ニ定メタル公判期日ニ係ル召喚状ノ送達ヲ受ケタル日ヨリ十日ヲ経過シタルトキハ之ヲ為スコトヲ得ズ但シ已ムコトヲ得ザル事由アル場合ニ於テ裁判所ノ許可ヲ受ケタルトキハ此ノ限ニ在ラス

第三十一条 弁護人ハ訴訟ニ関スル書類ノ謄写ヲ為サントスルトキハ裁判長又ハ予審判事ノ許可ヲ受クルコトヲ要ス

第三十二条 被告事件公判ニ付セラレタル場合ニ於テ検事必要アリト認ムルトキハ管轄移転ノ請求ヲ為スコトヲ得但シ第一回公判期日ノ指定アリタル後ハ此ノ限ニ在ラズ
2 前項ノ請求ハ事件ノ繋属スル裁判所及移転先裁判所ニ共通スル直近上裁判所ニ之ヲ為スベシ
3 第一項ノ請求アリタルトキハ決定アル迄訴訟手続ヲ停止スベシ

第三十三条 第一章ニ掲グル罪ヲ犯シタルモノト認メタル第一審ノ判決ニ対シテハ控訴ヲ為スコトヲ得ズ
2 前項ニ規定スル第一審ノ判決ニ対シテハ直接上告ヲ為スコトヲ得
3 上告ハ刑事訴訟法ニ於テ第二審ノ判決ニ対シ上告ヲ為スコトヲ得ル理由アル場合ニ於テ之ヲ為スコトヲ得
4 上告裁判所ハ第二審ノ判決ニ対スル上告事件ニ関スル手続ニ依リ裁判ヲ為スベシ

第三十四条 第一章ニ掲グル罪ヲ犯シタルモノト認メタル第一審ノ判決ニ対シ上告アリタル場合ニ於テ上告裁判所同章ニ掲グル罪ヲ犯シタルモノニ非ザルコトヲ疑フニ足ルベキ顕著ナル事由アルモノト認ムルトキハ判決ヲ以テ原判決ヲ破毀シ事件ヲ管轄控訴裁判所ニ移送スベシ

第三十五条 上告裁判所ハ公判期日ノ通知ニ付テハ刑事訴訟法第四百二十二条第一項ノ期間ニ依ラザルコトヲ得

第三十六条 刑事手続キニ付テハ別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外一般ノ規定ノ適用アルモノトス

第三十七条 本章ノ規定ハ第二十二条、第二十三条、第二十九条、第三十条第一項、第三十二条、第三十三条及第三十四条ノ規定ヲ除クノ外軍法会議ノ刑事手続ニ付之ヲ準用ス此ノ場合ニ於テ刑事訴訟法第八十七条第一項トアルハ陸軍軍法会議法第百四十三条又ハ海軍軍法会議法第百四十三条、刑事訴訟法第四百二十二条第一項トアルハ陸軍軍法会議法第四百四十四条第一項又ハ海軍軍法会議法第四百四十六条第一項トシ第二十五条第二項中刑事訴訟法第百十九条第一項ニ規定スル事由アル場合ニ於テトアルハ何時ニテモトス

第三十八条 朝鮮ニ在リテハ本章中ノ司法大臣トアルハ朝鮮総督、検事長トアルハ覆審法院検事長、地方裁判所検事又ハ区裁判所検事トアルハ地方法院検事、刑事訴訟法トアルハ朝鮮刑事令ニ於テ依ルコトヲ定メタル刑事訴訟法トス但シ刑事訴訟法第四百二十二条第一項トアルハ朝鮮刑事令第三十一条トス

   第三章 予防拘禁

第三十九条 第一章ニ掲グル罪ヲ犯シ刑ニ処セラレタル者其ノ執行ヲ終リ釈放セラルベキ場合ニ於テ釈放後ニ於テ更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著ナルトキハ裁判所ハ検事ノ請求ニ因リ本人ヲ予防拘禁ニ付スル旨ヲ命ズルコトヲ得
2 第一章ニ掲グル罪ヲ犯シ刑ニ処セラレ其ノ執行ヲ終リタル者又ハ罪ノ執行猶予ノ言渡ヲ受ケタル者思想犯保護観察法ニ依リ保護観察ニ付セラレ居ル場合ニ於テ保護観察ニ依ルモ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ危険ヲ防止スルコト困難ニシテ更ニ之ヲ犯スノ虞アルコト顕著ナルトキハ亦前項ニ同ジ

第四十条 予防拘禁ノ請求ハ本人ノ現在地ヲ管轄スル地方裁判所ノ検事其ノ裁判所ニ之ヲ為スベシ
2 前項ノ請求ハ保護観察ニ付セラレ居ル者ニ係ハルトキハ其ノ保護観察ヲ為ス保護観察所ノ所在地ヲ管轄スル地方裁判所ノ検事其ノ裁判所ニ之ヲ為スコトヲ得
3 予防拘禁ノ請求ヲ為スニハ予メ予防拘禁委員会ノ意見ヲ求ムルコトヲ要ス
4 予防拘禁委員会ニ関スル規程ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第四十一条 検事ハ予防拘禁ノ請求ヲ為スニ付テハ必要ナル取調ヲ為シ又ハ公務所ニ照会シテ必要ナル事項ノ報告ヲ求ムルコトヲ得
2 前項ノ取調ヲ為スニ付必要アル場合ニ於テハ司法警察官吏ヲシテ本人ヲ同行セシムルコトヲ得

第四十二条 検事ハ本人定リタル住居ヲ有セザル場合又ハ逃亡シ若ハ逃亡スル虞アル場合ニ於テ予防拘禁ノ請求ヲ為スニ付必要アルトキハ本人ヲ予防拘禁所ニ仮ニ収容スルコトヲ得但シ已ムコトヲ得サル事由アル場合ニ於テハ監獄ニ仮ニ収容スルコトヲ妨ゲズ
2 前項ノ仮収容ハ本人ノ陳述ヲ聴キタル後ニ非ザレバ之ヲ為スコトヲ得ズ但シ本人陳述ヲ肯ゼズ又ハ逃亡シタル場合ハ此ノ限ニ在ラス

第四十三条 前条ノ仮収容ノ期間ハ十日トス其ノ期間内ニ予防拘禁ノ請求ヲ為サザルトキハ速ニ本人ヲ釈放スベシ

第四十四条 予防拘禁ノ請求アリタルトキハ裁判所ハ本人ノ陳述ヲ聴キ決定ヲ為スベシ此ノ場合ニ於テハ裁判所ハ本人ニ出頭ヲ命スルコトヲ得
2 本人陳述ヲ肯ゼズ又ハ逃亡シタルトキハ陳述ヲ聴カズシテ決定ヲ為スコトヲ得
3 刑ノ執行終了前予防拘禁ノ請求アリタルトキハ裁判所ハ刑ノ執行終了後ト雖モ予防拘禁ニ付スル旨ノ決定ヲ為スコトヲ得

第四十五条 裁判所ハ事実ノ取調ヲ為スニ付必要アル場合ニ於テハ参考人ニ出頭ヲ命シ事実ノ陳述又ハ鑑定ヲ為サシムルコトヲ得
2 裁判所ハ公務所ニ照会シテ必要ナル事項ノ報告ヲ求ムルコトヲ得

第四十六条 検事ハ裁判所ガ本人ヲシテ陳述ヲ為サシメ又ハ参考人ヲシテ事実ノ陳述若ハ鑑定ヲ為サシムル場合ニ立会ヒ意見ヲ開陳スルコトヲ得

第四十七条 本人ノ属スル家ノ戸主、配属者又ハ四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族ハ裁判所ノ許可ヲ受ケ輔佐人ト為ルコトヲ得
2 輔佐人ハ裁判所ガ本人ヲシテ陳述ヲ為サシメ若ハ参考人ヲシテ事実ノ陳述若ハ鑑定ヲ為サシムル場合ニ立会ヒ意見ヲ開陳シ又ハ参考ト為ルベキ資料ヲ提出スルコトヲ得

第四十八条 左ノ場合ニ於テハ裁判所ハ本人ヲ勾引スルコトヲ得
 一 本人定マリタル住居ヲ有セザルトキ
 二 本人逃亡シタルトキ又ハ逃亡スル虞アルトキ
 三 本人正当ノ理由ナクシテ第四十四条第一項ノ出頭命令ニ応セザルトキ

第四十九条 前条第一号又ハ第二号ニ規定スル事由アルトキハ裁判所ハ本人ヲ予防拘禁所ニ仮ニ収容スルコトヲ得但シ已ムコトヲ得ザル事由アル場合ニ於テハ監獄ニ仮ニ収容スルコトヲ妨ケス
2 本人監獄ニアルトキハ前項ノ事由ナシト雖モ之ヲ仮ニ収容スルコトヲ得
3 第四十二条第二項ノ規定ハ第一項ノ場合ニ付之ヲ準用ス

第五十条 別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外刑事訴訟法中勾引ニ関スル規定ハ第四十八条ノ勾引ニ、勾留ニ関スル規定ハ第四十二条及前条ノ仮収容ニ付之ヲ準用ス但シ保釈及責付ニ関スル規定ハ此ノ限ニ在ラス

第五十一条 予防拘禁ニ付セザル旨ノ決定ニ対シテハ検事ハ即時抗告ヲ為スコトヲ得
2 予防拘禁ニ付スル旨ノ決定ニ対シテハ本人及輔佐人ハ即時抗告ヲ為スコトヲ得

第五十二条 別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外刑事訴訟法中ノ決定ニ関スル規定ハ第四十四条ノ決定ニ、即時抗告ニ関スル規定ハ前条ノ即時抗告ニ付キ之ヲ準用ス

第五十三条 予防拘禁ニ付セラレタル者ハ予防拘禁所ニ之ヲ収容シ改悛セシムル為必要ナル処置ヲ為スヘシ
2 予防拘禁所ニ関スル規程ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第五十四条 予防拘禁ニ付セラレタル者ハ法令ノ範囲内ニ於テ他人ト接見シ又ハ信書其ノ他ノ物ノ授受ヲ為スコトヲ得
2 予防拘禁ニ付セラレタル者ニ対シテハ信書其ノ他ノ物ノ検閲、差押若ハ没収ヲ為シ又ハ保安若ハ懲戒ノ為必要ナル処置ヲ為スコトヲ得仮ニ収容セラレタル者及本章ノ規定ニ依リ勾引状ノ執行ヲ受ケ留置セラレタル者ニ付亦同ジ

第五十五条 予防拘禁ノ期間ハ二年トス特ニ継続ノ必要アル場合ニ於テハ裁判所ハ決定ヲ以テ之ヲ更新スルコトヲ得
2 予防拘禁ノ期間満了前更新ノ請求アリタルトキハ裁判所ハ期間満了後ト雖モ更新ノ決定ヲ為スコトヲ得
3 更新ノ決定ハ予防拘禁ノ期間満了後確定シタルトキト雖モ之ヲ期間満了ノ時確定シタルモノト看做ス
4 第四十条、第四十一条及第四十四条乃至第五十二条ノ規定ハ更新ノ場合ニ付之ヲ準用ス此ノ場合ニ於テ第四十九条第二項中監獄トアルハ予防拘禁所トス

第五十六条 予防拘禁ノ期間ハ決定確定ノ日ヨリ起算ス
2 拘禁セラレサル日数又ハ刑ノ執行ノ為拘禁セラレタル日数ハ決定確定後ト雖モ前項ノ期間ニ算入セズ

第五十七条 決定確定ノ際本人受刑者ナル時ハ予防拘禁ハ刑ノ執行終了後之ヲ執行ス
2 監獄ニアル本人ニ対シ予防拘禁ヲ執行セントスル場合ニ於テ移送ノ準備其ノ他ノ事由ノ為特ニ必要アルトキハ一時拘禁ヲ継続スルコトヲ得
3 予防拘禁ノ執行ハ本人ニ対スル犯罪ノ捜査其ノ他ノ事由ノタメ特ニ必要アルトキハ決定ヲ為シタル裁判所ノ検事又ハ本人ノ現在地ヲ管轄スル地方裁判所ノ検事ノ指揮ニ因リ之ヲ停止スルコトヲ得
4 刑事訴訟法第五百三十四条乃至第五百三十六条及第五百四十四条乃至第五百五十二条ノ規定ハ予防拘禁ノ執行ニ付之ヲ準用ス

第五十八条 予防拘禁ニ付セラレタル者収容後其ノ必要ナキニ至リタルトキハ第五十五条ニ規定スル期間満了後ト雖モ行政官庁ノ処分ヲ以テ之ヲ退所セシムヘシ
2 第四十条第三項ノ規定ハ前項ノ場合ニ付之ヲ準用ス

第五十九条 予防拘禁ノ執行ヲ為サザルコト二年ニ及ビタルトキハ決定ヲ為シタル裁判所ノ検事又ハ本人ノ現在地ヲ管轄スル地方裁判所ノ検事ハ事情ニ因リ其ノ執行ヲ免除スルコトヲ得
2 第四十条第三項ノ規定ハ前項ノ場合ニ付之ヲ準用ス

第六十条 天災事変ニ際シ予防拘禁所内ニ於テ避難ノ手段ナシト認ムルトキハ収容セラレタル者ヲ他所ニ護送スヘシ若シ護送スルノ暇ナキトキハ一時之ヲ解放スルコトヲ得
2 解放セラレタル者ハ解放後二十四時間内ニ予防拘禁所又ハ警察官署ニ出頭スベシ

第六十一条 本章ノ規定ニ依リ予防拘禁所若ハ監獄ニ収容セラレタル者又ハ勾引状若ハ逮捕状ヲ執行セラレタル者逃走シタルトキハ一年以下ノ懲役ニ処ス
2 前条第一項ノ規定ニ依リ解放セラレタル者同条第二項ノ規定ニ違反シタルトキ亦前項ニ同ジ

第六十二条 収容設備若ハ械具ヲ損壊シ、暴行若ハ脅迫ヲ為シ又ハ二人以上通謀シテ前条第一項ノ罪ヲ犯シタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ処ス

第六十三条 前二条ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第六十四条 本法ニ規定スルモノ外予防拘禁ニ関シ必要ナル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第六十五条 朝鮮ニ在リテハ予防拘禁ニ関シ地方裁判所ノ為スベキ決定ハ地方法院ノ合議部ニ於テ之ヲ為ス
2 朝鮮ニ在リテハ本章中地方裁判所ノ検事トアルハ地方法院ノ検事、思想犯保護観察法トアルハ朝鮮思想犯保護観察法、刑事訴訟法トアルハ朝鮮刑事令ニ於テ依ルコトヲ定メタル刑事訴訟法トス

  附 則

1 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
2 第一章ノ改正規定ハ本法施行前従前ノ規定ニ定メタル罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス但シ改正規定ニ定ムル刑ガ従前ノ規定ニ定メタル刑ヨリ重キトキハ従前ノ規定ニ定メタル刑ニ依リ処断ス
3 第二章ノ改正規定ハ本法施行前公訴ヲ提起シタル事件ニ付テハ之ヲ適用セズ
4 第三章ノ改正規定ハ従前ノ規定ニ定メタル罪ニ付本法施行前刑ニ処セラレタル者ニ亦之ヲ適用ス
5 本法施行前朝鮮刑事令第十二条乃至第十五条ノ規定ニ依リ為シタル捜査手続ハ本法施行後ト雖モ仍其ノ効力ヲ有ス
6 前項ノ捜査手続キニシテ本法ニ之ニ相当スル規定アルモノハ之ヲ本法ニ依リ為シタルモノト看做ス
7 本法施行前朝鮮思想犯予防拘禁令ニ依リ為シタル予防拘禁ニ関スル手続キハ本法施行後ト雖モ仍其ノ効力ヲ有ス
8 前項ノ予防拘禁ニ関スル手続キニシテ本法ニ之ニ相当スル規定アルモノハ之ヲ本法ニ依リ為シタルモノト看做ス

              「官報」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1891年(明治24)大槻文彦著の国語辞典『言海』第四冊(つ−を)が混交され、全4巻が完結する詳細
1897年(明治30)八王子大火で、死者42名、負傷者223名、焼失3,500余戸を出す詳細
1910年(明治43)彫刻家荻原守衛(碌山)の命日詳細
1912年(明治45)映画監督・脚本家新藤兼人の誕生日詳細
松本明治45年「北深志の大火」で、死者5名、焼失1,341戸の被害を出す詳細
1950年(昭和25)日本戦歿学生記念会(わだつみ会)が結成される詳細
1993年(平成5)全国103ヶ所の施設が「道の駅」として初めて正式登録される詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争中、1944年(昭和19)に、横浜事件を契機として、「改造」を発行していた改造社、「中央公論」を発行していた中央公論社に解散が命じられた日です。
 横浜事件(よこはまじけん)は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17)~1945年(昭和20)にかけ、神奈川県特高警察により「治安維持法」違反の容疑で、約90名の出版編集者、研究者が逮捕された一連の事件の総称です。1942年(昭和17)7月5日から1泊2日で、細川嘉六(かろく)の『現代日本文明史』の第10巻『植民史』の出版記念として、『中央公論』、『東洋経済新報』などの編集者や満鉄(南満州鉄道)調査部の人々等の日ごろから親しい若い研究者や編集者たち7名を富山県泊町(現在の朝日町)への旅行に招待したことが、後に共産党再建の謀議があったと決めつけたフレームアップに発展しました。
 総合雑誌『改造』8・9月号に細川の論文「世界史の動向と日本(前・後編)」が掲載されたことに対し、9月11日に川田寿と夫人・定子が神奈川県特高にスパイ容疑で検挙された事件と関連付けられます。そして、9月14日に「日本読書新聞」に陸軍報道部長の谷萩那華雄が掲載した書評「戦争と読書」の中で「共産主義宣伝」であると指弾され、細川が「出版法」違反で神奈川県特高に検挙され、『改造』は発禁処分を受けました。
 さらに、細川の知人や関係者が次々と検挙されていきましたが、その中で、翌年5月11日に満鉄調査室の西沢富夫と平館利雄が検挙され、西沢の家宅捜索で警察は、泊旅行の時の1枚の写真を発見します。5月26日にこの写真(泊旅行)に細川とともに写っていた『改造』編集部相川博ら7名が、神奈川県特高に検挙され、山手署に留置の上、柄沢六治警部補、佐藤兵衛巡査部長らによって、共産党再建の謀議(泊共産党再建事件)があったのではないかと拷問・虐待を受けました。
 これが、戦争に批判的であったジャーナリズムへの弾圧に拡大され、9月9日には、政治経済研究会関係の8名が一斉検挙(政治経済研究会グループ事件)されます。さらに、1944年(昭和19)1月29日から4月にかけて、『中央公論』、『改造』の編集者が検挙(中央公論・改造事件)され、30名余が逮捕、投獄されました。
 同年6月に、『改造』、『中央公論』は廃刊のやむなきに至り、7月10日には、改造社、中央公論社が解散を命じられ、続いて、日本評論社や岩波書店の編集者も検挙されるという一大マスコミ弾圧へと至ります。これらの一連の取り調べの過程で、激しい拷問が行われ、数名が獄死、多数が負傷するという痛ましい犠牲を出しました。
 事件関係者は「治安維持法違反」で起訴され、太平洋戦争後の9月に、やっと公判が開かれ、細川を除く全員が懲役2年、執行猶予3年の判決となり、細川も10月の「治安維持法」廃止により釈放され、翌月には審理打ち切り・免訴となります。1947年(昭和22)に、元被告33名が当時手を下した元特高警察官28名を告訴、1952年(昭和27)には、最高裁判所で内、3名に対し、有罪判決が出され、実刑が確定したものの、4月の「サンフランシスコ平和条約」発効時の大赦令により元特高警察官3名は釈放され、実刑には服しませんでした。
 その後、元被告たちは1986年(昭和61)以来、再審請求をしてきたものの、2度棄却されて1998年(平成10)の第3次請求に対して、ようやく2005年(平成17)3月の東京高裁決定で再審開始が認められ、2010年(平成22)の再審公判判決で、5名の無罪とその刑事補償が認定されましたが、その他の被害者については未決のままとなってきました。

〇「改造(総合雑誌)」(かいぞう)とは?

 大正時代の1919年(大正8)4月3日に創刊された総合雑誌です。山本実彦創立の改造社が、3ヶ月後に発刊したもので、大正デモクラシーの思潮を背景として、進歩的な編集方針をとり、文芸欄も充実していました。
 「中央公論」と並ぶ二大総合誌としての声価を得ましたが、民衆解放の主張を掲げ、自由主義・社会主義的論文を多く掲載、海外新思想、新知識の導入に貢献したとされます。河上肇、櫛田民蔵、山川均、大森義太郎ら社会主義思想家の寄稿を多く求め、B.ラッセル,サンガー夫人,アインシュタインなどの外国知識人を招いて、海外の新思想の紹介に努めました。
 一方で、文芸欄にも力を注ぎ、志賀直哉『暗夜行路』、芥川龍之介『河童』、堀辰雄『風立ちぬ』、幸田露伴『運命』、谷崎潤一郎『卍』など、近代の日本文学史に残る名作を掲載、また、新進作家の登龍門としても知られています。しかし、戦時下においては、泊事件、横浜事件などの思想・言論弾圧を受け、1944年(昭和19)の6月号で休刊となりました。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21)に復刊しましたが、経営は思うに任せず、1952年(昭和27)の山本実彦の死去により急速に衰退し、1954年(使用を29)末以来の解雇を発端とする争議の結果、改造社の倒産と運命を共にして、1955年(使用を30)2月号で廃刊となります。

〇「中央公論(総合雑誌)」(ちゅうおうこうろん)とは?

 明治時代からの歴史を持つ、中央公論新社(旧中央公論社)発行の総合雑誌です。明治時代前期の1886年(明治19)4月6日に、反省会が京都西本願寺普通教校内に結成されて創業し、1887年(明治20)8月に機関誌「反省会雑誌」(後に「反省雑誌」と改題)を創刊、1899年(明治32)1月15日に、「中央公論」と改題されて発足し、その後宗門から独立しました。
 1904年(明治37)に、滝田樗陰(ちょいん)が編集者となり、自由主義的な代表的総合誌として発展、明治時代末には、雑誌「太陽」と並び称せられるようになります。また、1905年(明治38)に、200号記念号を発刊し、夏目漱石の『薤露行』、幸田露伴の『付焼刃』、泉鏡花の『女客』等を掲載するなどして、文壇の登竜門ともされるようになりました。
 1912年(大正元)に、滝田樗陰が中央公論主幹となり、1914年(大正3)には、社名を中央公論社と改め、1916年(大正5)には、「婦人公論」も創刊されます。時事評論では、吉野作造や大山郁夫らを重用して、大正デモクラシー運動の指導誌となりました。
 昭和時代になると、1928年(昭和3)に嶋中雄作が社長に就任、「改造」と並ぶ総合雑誌の双璧として、自由主義的、反軍国主義的方針を貫こうとしたものの、昭和10年代にはしばしば言論弾圧を受けるようになります。太平洋戦争下の1944年(昭和19)の横浜事件を契機に解散させられ、雑誌の発行も絶たれました。
 戦後ただちに会社として再建され、1946年(昭和21)に復刊、1949年(昭和24)に社長嶋中雄作が亡くなると次男鵬二(ほうじ)が社業を継ぎます。1955年(昭和30)に「改造」の廃刊後は、「世界」と共に総合雑誌界を2分するようになりました。
 広津和郎「松川裁判」の長期連載など、数々の話題作を掲載しましたが、1960年(昭和35)12月号の深沢七郎「風流夢譚」がきっかけにして、右翼の攻撃を受け、社長宅が襲われ嶋中夫人が負傷、家政婦が死亡するテロ事件(風流夢譚事件)に発展、社会に大きな衝撃を与えます。その後、雑誌のほか各種の図書、全集類(『日本の文学』『日本の歴史』等)、「中公新書」「中公文庫」などを刊行し、業績を拡大したものの、1997年(平成9)に鵬二社長が死去、経営危機が表面化しました。
 その後、1999年(平成11)に読売新聞社に譲渡され、読売の100%子会社である中央公論新社に出版活動が引き継がれています。

☆横浜事件関係略年表

<1942年(昭和17)>

・7月5日 細川嘉六の『現代日本文明史』の第10巻『植民史』の出版記念として日ごろから親しい若い研究者や編集者たちを1泊2日の泊旅行に招待する
・8月25日 総合雑誌『改造』9月号に細川嘉六(かろく)の論文「世界史の動向と日本(後編)」が掲載される
・9月11日 世界経済調査会の川田寿と夫人・定子が神奈川県特高にスパイ容疑で検挙される
・9月14日 「日本読書新聞」に陸軍報道部長の谷萩那華雄が掲載した書評「戦争と読書」の中で「共産主義宣伝」であると指弾され、細川嘉六が「出版法」違反で検挙され、『改造』は発禁処分を受ける

<1943年(昭和18)>

・5月11日 満鉄調査室の西沢富夫と平館利雄が検挙され、西沢の家宅捜索で警察は1枚の写真(泊旅行)を発見する
・5月26日 この写真(泊旅行)に細川とともに写っていた『改造』編集部相川博ら7名が、神奈川県特高に検挙され、山手署に留置の上、柄沢六治警部補、佐藤兵衛巡査部長らによって拷問・虐待を受ける(泊共産党再建事件)
・9月9日 政治経済研究会関係の8名が一斉検挙される(政治経済研究会グループ事件)

<1944年(昭和19)>

・1月29日~4月 『中央公論』、『改造』の編集者が検挙(中央公論・改造事件)される
・6月 『改造』、『中央公論』は廃刊となる
・7月10日 改造社、中央公論社が解散を命じられ、事件関係者は「治安維持法」違反で起訴される

<1945年(昭和20)>

・9月 やっと公判が開かれ、細川を除く全員が懲役2年、執行猶予3年の判決となる
・10月 「治安維持法」廃止により細川も釈放される
・11月 細川も審理打ち切り・免訴となる

<1947年(昭和22)>

・元被告33名が、当時手を下した元特高警察官28名を告訴する

<1952年(昭和27)>

・最高裁判所で内、元特高警察官3名に対し、有罪判決が出され、実刑が確定する
・4月 「サンフランシスコ平和条約」発効時の大赦令により元特高警察官3名は釈放され、実刑に服すことはなかった

<1986年(昭和61)>

・第1次再審請求が行われるが、棄却される

<1994年(平成6)>

・第2次再審請求が行われるが、棄却される

<1998年(平成10)>

・第3次再審請求が行われる

<2003年(平成15)>

・4月15日 横浜地裁で再審開始が認められる

<2005年(平成17)>

・3月 東京高裁決定で再審開始が認められる

<2006年(平成18)>

・2月9日 横浜地裁は免訴(有罪・無罪の判断をしない)という判決を下し、弁護側が控訴する

<2010年(平成22)>

・再審公判判決で、5名の無罪とその刑事補償が認定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1821年(文政4)伊能忠敬死後門弟らが編纂していた『大日本沿海輿地全図』が完成し幕府に献上される(新暦8月7日)詳細
1927年(昭和2)岩波文庫が創刊される詳細
1945年(昭和20)仙台空襲おいて、死者・行方不明者1,000人以上、焼失家屋11,933戸、被災者57,321人を出す詳細
1947年(昭和22)静岡県静岡市の登呂遺跡で総合的な発掘調査が始まる詳細
1948年(昭和23)「温泉法」が制定・公布される詳細
1993年(平成5)小説家井伏鱒二の命日 詳細
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 今日は、昭和時代前期の1933年(昭和8)に、長野県で多数の学校教員などが「治安維持法」違反として検挙(二・四事件)され始めた日です。
 二・四事件(にしじけん)は、この日から半年余の期間に、長野県において、多数の学校教員などが「治安維持法」違反として検挙された思想弾圧事件で、「長野教員赤化事件」または 「長野左翼教員事件」 とも呼ばれてきました。1928年(昭和3)3月15日の左翼一斉検挙(三・一五事件)以後、共産主義運動に対する弾圧は過酷化します。
 教育分野では、1930年(昭和5)結成の新興教育研究所(1932年に新興教育同盟準備会となる)と日本教育労働者組合(1931年に日本労働組合全国協議会日本一般使用人組合の教育労働部となる)などに関係した教員を「赤化教員」として弾圧することが相次ぐようになりました。特に、1932年(昭和7)7~12月の東京府市20数校約60名の教員検挙事件が知られていますが、翌年2月4日から4月にかけての長野県66校230名の教員検挙事件はそれを上回るものとなります。
 長野県では、大正時代以降、白樺派などの影響を受けた自由主義教育(児童中心主義、自由主義、生活主義などの主張をかかげた新教育・新学校の運動)が盛んとなりますが、昭和に入り1930年代になると、その伝統の上に、新興教育運動(労働者階級の立場から、学習権の保障など労働者の社会的解放とその人間的発展をめざす教育運動)が広がりを見せるようになりました。国定教科書反対、プロレタリア教育の建設、教員の生活擁護などのスローガンの下に、多様な運動が展開されていたものの、これに大きな弾圧が加えられ、長野県では、1933年(昭和8)2月4日から4月にかけて、66校(うち中学4)の230名(うち非教員22)の検挙、「治安維持法違反」による起訴29名という大規模なものとなります。
 これによって、組織的な新興教育運動は事実上解体しましたが、この取締りに乗じて、多少とも批判的、自由主義的思想をもつ教員を締め出し、軍国主義教育の地固めをしたとされ、マスコミがセンセーショナルに報じたので、全国に強い衝撃を与えることとなりました。尚、これに関連して、全国で検挙された教員は、1929~33年までに41道府県、98件、計700名以上に及んだとされます。
 これ以外にも、思想弾圧事件は各所で起こり、その中で軍国主義が高まり、日中戦争から太平洋戦争へと向かっていきました。

〇戦前(1933~45年)の思想弾圧事件関係略年表

<1933年(昭和8)>
・1月 大塚金之助、河上肇の検挙。
・2月4日 二・四事件(教員赤化事件)―長野県下で共産党シンパとされた教員の一斉検挙が開始される
・2月20日 小林多喜二、検挙され警視庁築地署で虐殺される
・4月まで 教員赤化事件で65校138名が検挙される
・4月22日 鳩山一郎文相が京都帝国大学法学部教授滝川幸辰の辞職を要求(滝川事件の始まり)
・8月11日 桐生悠々、信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤う」を掲載、その後問題化し、桐生は退社に追い込まれる
・9月13日 日本労農弁護士団が検挙される
・11月8日 東京商科大学が大塚金之助を免官する
・11月28日 共産党委員長野呂栄太郎が検挙される[翌1934年2月19日:獄死]

<1934年(昭和9)>
・5月2日 「出版法」改正が公布される[皇室の尊厳冒涜・安寧秩序妨害への取締強化]
・6月1日 文部省に思想局を設置する
・10月 陸軍パンフレット事件が起きる

<1935年(昭和10)>
・2月18日 貴族院議員菊地武夫、美濃部達吉の議員辞職を要求(天皇機関説事件の始まり)
・4月9日 美濃部達吉の主著が発禁となる
・8月3日 第1次国体明徴声明が出される
・9月18日 美濃部が貴族院議員を辞職する
・10月15日 第2次国体明徴声明が出される
・12月8日 大本教の出口王仁三郎ら幹部30余名逮捕(第二次大本事件)

<1936年(昭和11)>

・3月13日 大本教が結社禁止となる
・3月24日 内務省がメーデー禁止を通達する
・5月28日 「思想犯保護観察法」が公布される
・5月28日 「不穏文書臨時取締法」が公布される
・7月10日 山田盛太郎・平野義太郎・小林良正ら講座派研究者および左翼文化団体関係者の一斉検挙(コム・アカデミー事件)
・9月28日 ひとのみち教団(現パーフェクト・リバティー教団)幹部が検挙される
・11月29日 新興仏教青年同盟の妹尾義郎が検挙される

<1937年(昭和12)>
・4月28日 ひとのみち教団(現パーフェクト・リバティー教団)が結社禁止となる
・10月20日 新興仏教青年同盟の幹部12名検挙、計29名が起訴される
・11月8日 中井正一・新村猛ら『世界文化』同人の一斉検挙開始される
・11月24日 東京帝国大学経済学部長・土方成美、矢内原忠雄教授の言論活動を非難する(矢内原事件)
・12月4日 東京帝国大学矢内原忠雄教授が辞職する
・12月15日 山川均・猪俣津南雄らの労農派および加藤勘十・鈴木茂三郎らの左派社会民主主義者を417名検挙する(第1次人民戦線事件)
・12月22日 日本無産党および日本労働組合全国評議会が結社禁止となる

<1938年(昭和13)>
・2月1日 大内兵衛・美濃部亮吉ら労農派教授11名ほか24名が検挙される(第2次人民戦線事件)
・2月17日 防共護国団員が「国家総動員法」に慎重姿勢を示す政友党、民政党本部を占拠(政党本部推参事件)
・2月18日 『中央公論』3月号掲載の石川達三「生きてゐる兵隊」が発禁となる
・3月3日 安部磯雄襲撃事件が起きる
・3月11日 社会大衆党代議士西尾末広の政府激励演説が問題化する
・3月24日 社会大衆党代議士西尾末広が議員除名となる
・9月13日 「日本共産主義者団」の春日庄次郎ら一斉検挙される
・10月5日 東京帝大経済学部教授河合栄治郎の主著が発禁となる(河合栄治郎事件)
・10月 京浜工業地帯の労働者による研究会への弾圧、講師の企画院属・芝寛が逮捕(京浜労働者グループ事件)
・11月21日 ほんみち教団が弾圧される
・11月29日 岡邦雄・戸坂潤・永田広志・新島繁ら唯物論研究会の幹部35名が検挙される(唯物論研究会事件)

<1939年(昭和14)>
・1月28日 東京帝大総長平賀譲、河合栄治郎および土方成美両教授の休職を文相に上申、両陣営の賛同者が同措置に抗議して多数辞職(平賀粛学事件)
・3月25日 「軍事資源秘密保護法」が公布される
・4月8日 「宗教団体法」が公布される
・6月21日 明石順三ら計130名の一斉検挙(灯台社への弾圧)
・8月27日 灯台社が結社禁止となる

<1940年(昭和15)>
・1月24日 唯物論研究会関係の第二次検挙(12名)
・1月11日 津田左右吉が右翼の攻撃により早稲田大学教授を辞任する
・2月2日 斎藤隆夫代議士の戦争政策を批判した衆議院での演説が問題化する(反軍演説事件)
・2月6日 生活綴方運動への弾圧開始、村山俊太郎らが検挙される
・2月12日 津田左右吉の主著『神代史の研究』などが発禁となる
・2月14日 『京大俳句』『山脈』など俳句誌、俳人の弾圧が始まる(新興俳句弾圧事件)
・3月7日 斎藤隆夫代議士に対して、議員除名処分がなされる
・3月8日 津田左右吉が起訴される
・8月 プロテスタント(メソジスト)系キリスト教会・救世軍が弾圧される
・8月25日 賀川豊彦、反戦平和論により憲兵隊に拘引される

<1941年(昭和16)> 
・1月 調査官の稲葉秀三・正木千冬・佐多忠隆が検挙される(企画院事件の始まり)
・3月10日 「治安維持法」全面改正が公布される[予防拘禁制度の新設]
・4月 和田博雄・勝間田清一・和田耕作らが検挙される
・5月15日 予防拘禁所が設置される
・10月15日 尾崎秀実が検挙される(ゾルゲ・尾崎事件の始まり)
・10月18日 リヒャルト・ゾルゲが検挙される
・12月9日 全国の「治安維持法」違反被疑者・要視察人・予防拘禁予定者計396名を検挙・検束・仮収容する
・12月19日 「言論出版集会結社等臨時取締法」が公布される

<1942年(昭和17)>
・4月24日 尾崎行雄が選挙演説で不敬罪で起訴される
・6月29日 中西功ら上海反戦グループ(「中共諜報団」)が検挙される
・9月12日 細川嘉六著「世界史の動向と日本」を掲載した『改造』が発禁となる(横浜事件の始まり)
・9月14日 細川嘉六が検挙される
・9月 世界経済調査会の川田寿・定子夫妻が神奈川県警察部特高課に検挙される
・9月21日 満鉄調査部の具島兼三郎・大上末広らが検挙される(満鉄調査部事件)

<1943年(昭和18)>
・1月1日 中野正剛著の「戦時宰相論」を掲載した朝日新聞が発禁となる
・3月13日 「戦時刑事特別法」が公布される
・3月15日 名和統一教授および急進的学生グループなど20名が検挙される(大阪商大事件)
・3月15日 『中央公論』掲載の谷崎潤一郎著「細雪」が連載禁止となる
・5月26日 細川および中央公論社・改造社社員の会合を共産党再建会議と見なし検挙開始(泊事件)
・6月3日 鹿児島県警察部特高課長・奥野誠亮が主導したフレームアップにより俳句誌『きりしま』の同人3名を始め総勢37名を治安維持法違反で検挙(きりしま事件)
・6月20日 創価教育学会(現・創価学会)の牧口常三郎・戸田城聖らが検挙される
・7月 伊藤武雄・石堂清倫らが検挙される

<1944年(昭和19)>
・1月29日 日本評論社・岩波書店・朝日新聞社の編集者、昭和塾関係者が検挙(合計49名)される
・2月23日 毎日新聞「竹槍では間に合わぬ」の記事で差し押さえ(竹槍事件)
・7月10日 『中央公論』、『改造』に廃刊命令が出される
・11月7日 リヒャルト・ゾルゲが処刑される
・11月18日 牧口常三郎が獄死する

<1945年(昭和20)>
・2月 戦争敗北の流言が広まり東京で1月以来40余件が送検される
・8月9日 戸坂潤が獄死する
・9月2日 日本政府が降伏文書に調印、連合国軍による占領が開始される
・9月10日 GHQが検閲を始める
・9月19日 GHQがプレスコードを指令する
・9月26日 三木清が獄死する
・9月27日 GHQが日本政府による検閲を停止させ、新聞等を自らの支配下に置く
・10月4日 GHQ/SCAP、「政治・信教・民権の自由制限撤廃の覚書」を発表、「治安維持法」廃止を指令する
・10月10日 政治犯約3,000名が釈放される
・10月15日 「治安維持法」、「治安警察法」、「思想犯保護観察法」などが廃止され、特高警察官が罷免される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1181年(養和元)平安時代末期の武将・公卿平清盛の命日(新暦3月20日)詳細
1604年(慶長9)江戸幕府が街道に日本橋を起点とした一里塚の設置を命ずる(新暦3月4日)詳細
1898年(明治31)日本画家・版画家伊東深水の誕生日詳細
1966年(昭和41)全日空機羽田沖墜落事故が起こり、乗員・乗客133名全員が死亡する詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1944年(昭和19)に、『中央公論』、『改造』の編集者が検挙され、横浜事件の一つとされる「中央公論・改造事件」の発端となった日です。
 横浜事件(よこはまじけん)は、1942年(昭和17)から1945年(昭和20)にかけ、神奈川県特高警察により「治安維持法」違反の容疑で、約90名の出版編集者、研究者が逮捕された一連の事件の総称でした。
 1942年(昭和17)7月5日から1泊2日で、細川嘉六(かろく)の『現代日本文明史』の第10巻『植民史』の出版記念として、『中央公論』、『東洋経済新報』などの編集者や満鉄(南満州鉄道)調査部の人々等の日ごろから親しい若い研究者や編集者たち7名を富山県泊町(現在の朝日町)への旅行に招待したことが、後に共産党再建の謀議があったと決めつけたフレームアップに発展します。総合雑誌『改造』8・9月号に細川の論文「世界史の動向と日本(前・後編)」が掲載されたことに対し、9月11日に川田寿と夫人・定子が神奈川県特高にスパイ容疑で検挙された事件と関連付けられました。
 そして、9月14日に「日本読書新聞」に陸軍報道部長の谷萩那華雄が掲載した書評「戦争と読書」の中で「共産主義宣伝」であると指弾され、細川が「出版法」違反で神奈川県特高に検挙され、『改造』は発禁処分を受けます。さらに、細川の知人や関係者が次々と検挙されていきましたが、その中で、翌年5月11日に満鉄調査室の西沢富夫と平館利雄が検挙され、西沢の家宅捜索で警察は、泊旅行の時の1枚の写真を発見しました。
 5月26日にこの写真(泊旅行)に細川とともに写っていた『改造』編集部相川博ら7名が、神奈川県特高に検挙され、山手署に留置の上、柄沢六治警部補、佐藤兵衛巡査部長らによって、共産党再建の謀議(泊共産党再建事件)があったのではないかと拷問・虐待を受けます。これが、戦争に批判的であったジャーナリズムへの弾圧に拡大され、9月9日には、政治経済研究会関係の8名が一斉検挙(政治経済研究会グループ事件)されました。
 さらに、1944年(昭和19)1月29日から4月にかけて、『中央公論』、『改造』の編集者が検挙(中央公論・改造事件)され、30名余が逮捕、投獄されます。同年6月に、総合雑誌『改造』、『中央公論』は廃刊のやむなきに至り、7月10日には、改造社、中央公論社が解散を命じられ、続いて、日本評論社や岩波書店の編集者も検挙されるという一大マスコミ弾圧へと至りました。
 これらの一連の取り調べの過程で、激しい拷問が行われ、数名が獄死、多数が負傷するという痛ましい犠牲を出しています。事件関係者は「治安維持法違反」で起訴され、太平洋戦争後の9月に、やっと公判が開かれ、細川を除く全員が懲役2年、執行猶予3年の判決となり、細川も10月の「治安維持法」廃止により釈放され、翌月には審理打ち切り・免訴となりました。
 1947年(昭和22)に、元被告33名が当時手を下した元特高警察官28名を告訴、1952年(昭和27)には、最高裁判所で内、3名に対し、有罪判決が出され、実刑が確定したものの、4月の「サンフランシスコ平和条約」発効時の大赦令により元特高警察官3名は釈放され、実刑には服していません。その後、元被告たちは1986年(昭和61)以来、再審請求をしてきたものの、2度棄却されて1998年(平成10)の第3次請求に対して、ようやく2005年(平成17)3月の東京高裁決定で再審開始が認められ、2010年(平成22)の再審公判判決で、5名の無罪とその刑事補償が認定されましたが、その他の被害者については未決のままとなっています。

〇横浜事件関係略年表

<1942年(昭和17)>

・7月5日 細川嘉六の『現代日本文明史』の第10巻『植民史』の出版記念として日ごろから親しい若い研究者や編集者たちを1泊2日の泊旅行に招待する
・8月25日 総合雑誌『改造』9月号に細川嘉六(かろく)の論文「世界史の動向と日本(後編)」が掲載される
・9月11日 世界経済調査会の川田寿と夫人・定子が神奈川県特高にスパイ容疑で検挙される
・9月14日 「日本読書新聞」に陸軍報道部長の谷萩那華雄が掲載した書評「戦争と読書」の中で「共産主義宣伝」であると指弾され、細川嘉六が「出版法」違反で検挙され、『改造』は発禁処分を受ける

<1943年(昭和18)>

・5月11日 満鉄調査室の西沢富夫と平館利雄が検挙され、西沢の家宅捜索で警察は1枚の写真(泊旅行)を発見する
・5月26日 この写真(泊旅行)に細川とともに写っていた『改造』編集部相川博ら7名が、神奈川県特高に検挙され、山手署に留置の上、柄沢六治警部補、佐藤兵衛巡査部長らによって拷問・虐待を受ける(泊共産党再建事件)
・9月9日 政治経済研究会関係の8名が一斉検挙される(政治経済研究会グループ事件)

<1944年(昭和19)>

・1月29日~4月 『中央公論』、『改造』の編集者が検挙(中央公論・改造事件)される
・6月 『改造』、『中央公論』は廃刊となる
・7月10日 改造社、中央公論社が解散を命じられ、事件関係者は「治安維持法」違反で起訴される

<1945年(昭和20)>

・9月 やっと公判が開かれ、細川を除く全員が懲役2年、執行猶予3年の判決となる
・10月 「治安維持法」廃止により細川も釈放される
・11月 細川も審理打ち切り・免訴となる

<1947年(昭和22)>

・元被告33名が、当時手を下した元特高警察官28名を告訴する

<1952年(昭和27)>

・最高裁判所で内、元特高警察官3名に対し、有罪判決が出され、実刑が確定する
・4月 「サンフランシスコ平和条約」発効時の大赦令により元特高警察官3名は釈放され、実刑に服すことはなかった

<1986年(昭和61)>

・第1次再審請求が行われるが、棄却される

<1994年(平成6)>

・第2次再審請求が行われるが、棄却される

<1998年(平成10)>

・第3次再審請求が行われる

<2003年(平成15)>

・4月15日 横浜地裁で再審開始が認められる

<2005年(平成17)>

・3月 東京高裁決定で再審開始が認められる

<2006年(平成18)>

・2月9日 横浜地裁は免訴(有罪・無罪の判断をしない)という判決を下し、弁護側が控訴する

<2010年(平成22)>

・再審公判判決で、5名の無罪とその刑事補償が認定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1905年(明治38)週刊「平民新聞」第64号が赤字で発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となる詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細

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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、田中義一内閣が「治安維持法」を改正のため、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」を公布・施行し、反国体の結社行為に死刑・無期刑を追加した日です。
 「治安維持法中改正ノ件(ちあんいじほうちゅうかいせいのけん)」は、「治安維持法」に反国体の結社行為に死刑・無期刑を追加などをした緊急勅令(昭和3年勅令第129号)でした。
 1928年(昭和3)2月20日に初めての男子普通選挙による第16回衆議院選挙が実施され、立憲政友会が218議席、立憲民政党が216議席を得ましたが、無産政党も8議席(社会民衆党4議席、労働農民党2議席、日本労農党1議席、九州民憲党1議席)を獲得します。無産政党の進出を恐れた田中義一内閣は、三・一五事件で、反体制派を大量検挙し、同年4月20日召集の第55回帝国議会に「治安維持法」改正案を上程、この最高刑を死刑とし、反体制勢力の壊滅を図ろうとしました。
 しかし、死刑を含む刑罰の強化は、弾圧的過ぎるとして野党や言論界の強い反対で改正案は審議未了となります。そこで、田中義一内閣は、議会の審議を経ずに改正を強行するため、同年6月29日に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」を公布・施行しました。
 これによって、法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑とし、また、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行の為にする行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとします。これにより、犯罪を実行していなくても、当局が危険と判断するすべての人を合法的に逮捕、処罰することができる根拠とし、さらに、全国主要府県の警察部にも特高警察を設置すると共に、特高警察と両輪的役割りを果たす、思想問題専従の思想検事を同年7月に正式に設置し、反体制勢力を抑え込みを強化していきました。
 その一方で、山東出兵などで中国大陸への軍事進出を図っていくこととなります。
 以下に、「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年勅令第129号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年勅令第129号)1928年(昭和3)6月29日公布・施行

朕茲ニ緊急ノ必要アリト認メ樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ帝國憲法第八條第一項ニ依リ治安維持法中改正ノ件ヲ裁可シ之ヲ公布セシム

御名御璽
昭和三年六月二十九日
                内閣總理大臣兼
                   外務大臣 男爵 田中  義一 
                   鐡道大臣   小川  平吉 
                   海軍大臣   岡田  啓介 
                   陸軍大臣   白川  義則 
                   商工大臣   中橋 徳五郎 
                   大藏大臣   三土  忠造 
                   農林大臣   山本 悌二郎 
                   内務大臣   望月  圭介 
                   司法大臣   原   嘉道 
                   逓信大臣   久原 房之助 
                   文部大臣   勝田  主計 

勅令第百二十九號

治安維持法中左ノ通改正ス

第一條 國體ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ從事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ處シ情ヲ知リテ結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス

私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、結社ニ加入シタル者又ハ結社ノ目的遂行ノ爲ニスル行爲ヲ爲シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ處ス

前二項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二條中「前條第一項」ヲ「前條第一項又ハ第二項」ニ改ム

第三條及第四條中「第一條第一項」ヲ「第一條第一項又ハ第二項」ニ改ム

第五條中「第一條第一項及」ヲ「第一條第一項又ハ第二項又ハ」ニ改ム

附則

本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
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1946年(昭和21)GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される詳細
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