琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)は、明治政府が、琉球王国の清への冊封関係の廃止を求め、武力を背景に強制的に日本へ統合して、沖縄県とした過程で、琉球併合とも呼ばれてきました。1871年(明治4)の廃藩置県に際して、琉球をひとまず鹿児島県の管轄とし、1872年(明治5)には、琉球使節を来朝させ、琉球国王尚泰(しょうたい)を琉球藩王として華族(侯爵)に列し、琉球王国を琉球藩とする旨宣告します。
一方、1871年(明治4)11月に、琉球内の宮古島民69人が台湾に漂着し、内、54人が現地住民に殺害されるという事件(宮古島民遭難事件)が発生、1874年(明治7)に明治政府は、その報復措置として台湾へ出兵し、事変処理にあたって中国との間で取り交わした北京議定書のなかで被害者を「日本国属民」と認めさせ、賠償金を払わせることに成功しました。1875年(明治8)に、明治政府は松田道之を琉球処分官に任命し、琉球問題の決着に着手、琉球側に対し、①清国への進貢使派遣および清国から冊封を受けることの禁止、②清国年号をやめ明治年号を使用すること、③明治政府への謝恩使として藩王尚泰自ら上京すること、などの要求を突きつけましたが、琉球側はその受諾を拒みます。
1879年(明治12)に、松田は再訪琉して同趣旨の要求を繰り返すが、琉球もまた同様に拒否の態度を崩さなかったものの、三度琉球を訪れた松田は、今度は軍隊300余、警官160余を率いて武力を背景に要求を提示するとともに、琉球藩を廃し沖縄県を設置する旨を3月11日付けで布達し、同31日限りで王宮首里城を明け渡すよう激しく迫まり、琉球藩王尚泰が臣下とともに城を出ることとなりました。そして、4月4日には、「明治12年太政官布告第14号」により、琉球藩を廃して沖縄県を設置することが全国に布告されます。
その後、清国の抗議を受け、清国から来日したアメリカ前大統領グラントは明治政府に対して琉球問題の平和的解決を勧告し、これを受けて政府は清国との間に外交的折衝を開始しました。1880年(明治13)に明治政府は、清国に分島・増約案を提示(一つは琉球領内のうち宮古・八重山を清国に割譲すること、一つは、そのかわりに日清修好条規(1871年締結)にうたわれている日本の最恵国待遇規定をさらに有利に追加する)しましたが、合意には至りませんでした。
この問題が尾を引く中で、朝鮮半島情勢も関わって、1894年(明治27)夏に、日清戦争が始まりましたが、日本の勝利に終わり、翌年4月17日に日清戦争講和の為「下関条約」が締結され、沖縄の日本領土が確定しています。
以下に、「明治12年太政官布告第14号」を掲載しておきましたので、ご参照下さい。
一方、1871年(明治4)11月に、琉球内の宮古島民69人が台湾に漂着し、内、54人が現地住民に殺害されるという事件(宮古島民遭難事件)が発生、1874年(明治7)に明治政府は、その報復措置として台湾へ出兵し、事変処理にあたって中国との間で取り交わした北京議定書のなかで被害者を「日本国属民」と認めさせ、賠償金を払わせることに成功しました。1875年(明治8)に、明治政府は松田道之を琉球処分官に任命し、琉球問題の決着に着手、琉球側に対し、①清国への進貢使派遣および清国から冊封を受けることの禁止、②清国年号をやめ明治年号を使用すること、③明治政府への謝恩使として藩王尚泰自ら上京すること、などの要求を突きつけましたが、琉球側はその受諾を拒みます。
1879年(明治12)に、松田は再訪琉して同趣旨の要求を繰り返すが、琉球もまた同様に拒否の態度を崩さなかったものの、三度琉球を訪れた松田は、今度は軍隊300余、警官160余を率いて武力を背景に要求を提示するとともに、琉球藩を廃し沖縄県を設置する旨を3月11日付けで布達し、同31日限りで王宮首里城を明け渡すよう激しく迫まり、琉球藩王尚泰が臣下とともに城を出ることとなりました。そして、4月4日には、「明治12年太政官布告第14号」により、琉球藩を廃して沖縄県を設置することが全国に布告されます。
その後、清国の抗議を受け、清国から来日したアメリカ前大統領グラントは明治政府に対して琉球問題の平和的解決を勧告し、これを受けて政府は清国との間に外交的折衝を開始しました。1880年(明治13)に明治政府は、清国に分島・増約案を提示(一つは琉球領内のうち宮古・八重山を清国に割譲すること、一つは、そのかわりに日清修好条規(1871年締結)にうたわれている日本の最恵国待遇規定をさらに有利に追加する)しましたが、合意には至りませんでした。
この問題が尾を引く中で、朝鮮半島情勢も関わって、1894年(明治27)夏に、日清戦争が始まりましたが、日本の勝利に終わり、翌年4月17日に日清戦争講和の為「下関条約」が締結され、沖縄の日本領土が確定しています。
以下に、「明治12年太政官布告第14号」を掲載しておきましたので、ご参照下さい。
〇「明治12年太政官布告第14号」1879年(明治12)4月4日布告
第十四號
琉球藩ヲ廢シ沖繩縣ヲ被置候條此旨布告候事
但縣廰ヲ首里ニ被置候事
☆琉球処分関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)
<1871年(明治4)>
・7月14日 廃藩置県に際して、琉球をひとまず鹿児島県の管轄とする
・11月 琉球内の宮古島民69人が台湾に漂着し、内、54人が現地住民に殺害されるという事件(宮古島民遭難事件)が発生する
<1872年(明治5)>
・琉球使節を来朝させ、琉球国王尚泰(しょうたい)を琉球藩王として華族(侯爵)に列し、琉球王国を琉球藩とする旨宣告する
<1874年(明治7)>
・5月6日 政府は、宮古島民遭難事件への報復措置として台湾へ出兵する
・10月31日 事変処理にあたって中国との間で取り交わした北京議定書のなかで被害者を「日本国属民」と認めさせ、賠償金を払わせることに成功する
<1875年(明治8)>
・5月 政府は松田道之を琉球処分官に任命し、琉球問題の決着に着手する
・7月 訪琉した松田は琉球側に対し、①清国への進貢使派遣および清国から冊封を受けることの禁止、②清国年号をやめ明治年号を使用すること、③明治政府への謝恩使として藩王尚泰自ら上京すること、などの要求を突きつけるが、琉球側がその受諾を拒む
<1879年(明治12)>
・1月 松田は再訪琉して同趣旨の要求を繰り返すが、琉球もまた同様に拒否の態度を崩さなかった
・3月 三度琉球を訪れた松田は、今度は軍隊300余、警官160余を率いて武力を背景に要求を提示するとともに、琉球藩を廃し沖縄県を設置する旨3月11日付けで布達し、同31日限りで王宮首里(しゅり)城を明け渡すよう激しく迫まる
・4月4日 「明治12年太政官布告第14号」により、琉球藩を廃して沖縄県を設置することが全国に布告される
・7月 清国の抗議を受け、清国から来日したグラントは明治政府に対して琉球問題の平和的解決を勧告し、これを受けて政府は清国との間に外交的折衝を開始する
<1880年(明治13)>
・10月 政府は、清国に分島・増約案を提示(一つは琉球領内のうち宮古・八重山を清国に割譲すること、一つは、そのかわりに日清修好条規(1871年締結)にうたわれている日本の最恵国待遇規定をさらに有利に追加する)する
<1894年(明治27)>
・夏 日清戦争が始まる
<1895年(明治28)>
・4月17日 日清戦争講和の為「下関条約」が締結され、沖縄の日本領土が確定する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1284年(弘安7) | 鎌倉幕府第8代執権北条時宗の命日(新暦4月20日) | 詳細 |
1609年(慶長14) | 江戸時代の大名・備前岡山藩初代藩主池田光政の誕生日(新暦5月10日) | 詳細 |
1885年(明治18) | 小説家中里介山の誕生日 | 詳細 |
1949年(昭和24) | 「団体等規制令」が公布・施行される | 詳細 |
1973年(昭和48) | 劇作家・演出家・作詞家菊田一夫の命日 | 詳細 |
1996年(平成8) | 有機化学者野副鉄男の命日 | 詳細 |