ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:江藤新平

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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、板垣退助らによって、日本最初の政党である愛国公党が結成された日です。
 愛国公党(あいこくこうとう)は、1873年(明治76)に征韓論に敗れ、明治六年政変によって下野した、下前参議の板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らがヨーロッパより帰国した由利公正、小室信夫、岡本健三郎、古沢滋らと共に結成した、自由民権を主張する日本最初の政党でした。幸福安全社を基礎に、東京京橋区銀座の副島種臣邸に同志を集めて結成され、「愛国公党本誓」には、天賦人権、愛君愛国、君民融和、国威発揚などがうたわれて、基本的人権を保護することを誓います。
 そして、同月17日に板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を左院に提出、士族および豪農商の代表者からなる議会を設立せよと主張して、自由民権運動の口火を切りました。この建白書に対して加えられた加藤弘之らの批判に駁論するなど活発な行動を展開したものの、旧土佐藩士族による右大臣岩倉具視要撃事件、江藤による佐賀の乱、板垣らの帰郷などによってまもなく自然消滅しています。
 その後、大同団結運動分裂後の1890年(明治23)5月に、板垣退助らが同名の政党を組織し、同年9月には立憲自由党へ発展しました。
 以下に、「愛国公党本誓」の本文(現代語訳・注釈付)と草案を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「愛国公党本誓」

一 天ノ斯ノ人民ヲ生スルヤ、興ノ始貴賤尊卑[1]ノ別ナク皆之ヲ平等ノ人トス。而シテ之ニ付スルニ、一定不可動ザルノヲ以テス。故ニ斯ノ通義権理[2]ナル者ハ、天ノ均シク以テ人民ニ賜フ所ノ者ニシテ人力ノ以テ之ヲ移奪[3]スルヲ得ザル者ナリ。然ルニ、世運[4]ノ未タ全ク開ケサルヤ、人民動モスレバ、斯ノ本然[5]ノ通義権理[2]ヲ、保ツ能ハザル者アリ。況ヤ、我国数百年来封建[6]武断[7]ノ制、其ノ民ヲ奴隷[8]ニセシノ余弊[9]、未ダ全ク剗除[10]セズ、苟モ是ニ由リテ改メズ。我カ人民ノ支那印度ノ人民ト相去ル能ク幾クアル如、是ニシテ我国威[11]ノ揚リ、我カ国民ノ富ムヲ欲ス。豈ニ可得ンヤ。我輩一片至誠愛[12]国ノ心大イニ茲ニ発憤[13]スルアリ。乃チ同志ノ士ト相誓ヒ、以テ我人民ノ通義権理[2]ヲ主張シ、以テ其ノ天ノ賜ヲ保全セントス。亦タ、即チ其ノ君ヲ愛、愛国スルノ心深ク、且ツ大ナレバ也。

一 我輩既ニ已ニ愛国至誠[14]ノ上ヨリ発憤[13]シ、斯ノ人民ノ通義権理[2]ヲ保護主張セントス。然ルニ之ヲ為スノ道、即チ我天皇陛下御誓文[15]ヲ旨意[16]ニ体シ、造次顛沛[17]、徹頭徹下[18]、唯斯ノ公論[19]公議[20]ヲ以テシ、常ニ公党ノ旨意[16]ヲ遵守明了[21]シ、以テ光リヲ日月ニ争フ[22]可シ。

一 我輩ノ斯政府ヲ視ル、斯ノ人民ノ(為メ設ル所ノ)政府ト看做ス[23]ヨリ他ナカル可シ。而シテ吾党ノ目的ハ、唯斯人民ノ通義権理[2]ヲ保護主張シ、以テ斯人民オシテ自主自由、独立不羈[24]ノ人民タルヲ得セシムルニ在ル而已。是レ即チ其ノ君臣上下オシテ融然一体[25]ナラシメ、以テ其ノ禍福緩急[26]ヲ分チ、以テ相共ニ我日本帝国ヲ維持昌盛[27]ナラシムルノ道ナレバ也。

一 夫我輩斯通義権理[2]ヲ主張セントスル者、亜細亜洲中ノ首唱[28]ニシテ、而カモ天下ノ大業[29]ナリ。固ヨリ之ヲ期スルニ尋常歳月ノ功ヲ以テス可ラス、故ニ我社ノ士ハ常に宜シク其ノ忍耐力ヲ培養シ、譬ヒ艱難憂戚[30]百挫千折[31]スルモ、敢テ少シクモ屈撓[32]スルコト莫ク、至誠[14]ノ心、不抜ノ志[33]、我輩全党終生ノ力勉焉トシテ、唯斯ノ通義権理[2]ヲ保護主張スル者ニ竭尽[34]シ、死ニ之クモ他ナキヲ要ス可シ。

 於是イテ遂イニ調印相誓フ者如左。

   「立志社―その活動と憲法草案―」高知市立自由民権記念館発行より

 ※縦書き原文を横書きとし、句読点を付してあります。

【注釈】

[1]貴賤尊卑:きせんそんぴ=身分の高い人と低い人、尊い人と卑しい人。
[2]通義権理:つうぎけんり=基本的人権。普遍的人権。
[3]移奪:いだつ=横に引っぱって奪いとる。
[4]世運:せうん=世の中の動向。世の中の成り行き。
[5]本然:ほんぜん=人手を加えないで、自然のままであること。もとからそのままであること。また、もともと具有しているもの。
[6]封建:ほうけん=天子・皇帝・国王などが、直轄領以外の土地を諸侯に分け与え、領有・統治させること。また、そのような制度。
[7]武断:ぶだん=武力をもって民を処断すること。兵力を背景として政務を断行すること。
[8]奴隷:どれい=人間としての権利・自由を認められず、他人の私有財産として労働を強制され、また、売買・譲渡の対象ともされた人。
[9]余弊:よへい=後に残っている弊害。
[10]剗除:さんじょ=削って除く。
[11]国威:こくい=国の威力。その国が対外的に持つ威力。
[12]誠愛:せいあい=誠実な愛。
[13]発憤:はっぷん=これから大いに励もうと精神をふるいおこすこと。
[14]至誠:しせい=きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。
[15]天皇陛下御誓文:てんのうへいかごせいもん=1868年(明治元)の「五箇条の御誓文」のこと。
[16]旨意:しい=主旨。意図。考え。
[17]造次顛沛:ぞうじてんぱい=とっさの場合やつまずき倒れるとき。転じて、わずかの時間のたとえ。つかのま。
[18]徹頭徹下:てっとうてっか=始めから終わりまで同じ方針・考えを貫くさまを表わす語。始終。どこまでも。あくまで。
[19]公論:こうろん=公平な議論。
[20]公議:こうぎ=おおやけに論議すること。また、多くの人が認めて支持する議論。
[21]明了:めいりょう=はっきりしていること。また、そのさま。
[22]光リヲ日月ニ争フ:ひかりをじつげつにあらそう=道徳や功績の高いことにたとえる。
[23]看做ス:みなす=仮にそうと見る。そうでないものをそうとする。仮定する。
[24]独立不羈:どくりつふき=他から制御されないで自己の所信で事に処すること。また、そのさま。
[25]融然一体:ゆうぜんいったい=様々なものが溶け合って、一丸となることなどを意味する語。
[26]禍福緩急:かふくかんきゅう=災いと幸せ、おそいのと早いのと。
[27]昌盛:しょうせい=さかんなこと。栄えること。繁盛。
[28]首唱:しゅしょう=いちばん先に言い出すこと。
[29]大業:たいぎょう=大きな事業。重大な事業。
[30]艱難憂戚:かんなんゆうせき=困難にあって苦しみ悩み、憂い悲しむこと。
[31]百挫千折:ひゃくざせんせつ=何度もくじけること。いくどもいくども挫折すること。
[32]屈撓:くっとう=かがみたわむこと。また、屈服すること。
[33]不抜ノ志:ふばつのこころざし=どうやっても抜くことができないという意味から、とても堅いことのたとえ。何があっても諦めないこと。
[34]竭尽:けつじん=尽きること。なくなること。また、力を尽くすこと。

<現代語訳>

一 天はその人民を生じさせた時に、誕生させた最初から身分の高い低いの区別なく、みなこれを平等の人とした。そしてこれに与えたものは、はっきりと動かしたりすることが出来ない普遍的人権なのである。従って、その普遍的人権というものは、天が平等に人民に与えたものであって、人の力でこれを奪ったりすることができないものである。ところが、未開の野蛮なところでは、人民はともすれば、そのもともと具有している普遍的人権を、保つことができない者がある。まして、我国のように数百年来封建的で武力をもって人民を処断する制度下にあり、その人民を奴隷のようにしてきた弊害が残り、いまだに全く除去されず、かりにもここに至って改めていない。わが人民の中国やインドの人民と異なっている点であり、ここにしてわが国威の発揚とか、わが国民の富だとかを欲しているが、どうして得ることが出来ようか、いやできない。我らはいくばくかの誠実で国を愛する心は大いにここに奮い起こされるのである。まさしく志を同じくする者と誓い合い、もってわが人民の普遍的人権を主張し、もってその天より賜ったものを保全するものである。また、まさしくその天皇を愛し、国を愛する心は深く、かつ大きいためである。

一 我らはすでに本当に国を愛する真心により奮い起こされて、その人民の普遍的人権を保護主張しようとしている。ところが、これを達成する道程は、まさしくわが天皇陛下の「五箇条の御誓文」の主旨に基づき、わずかな時間でも、どこまでも、ただその「公論公議」の考えに従って、常に公党の主旨を遵守して明瞭にし、よって道徳や功績の高いことである。

一 我らがその政府を注視するに、その人民のために設けられた政府とみなす他はない。そして、わが党の目的は、ただその人民の普遍的人権を保護主張し、そして、人民によって自主自由で、他からの束縛を全く受けない人民であるようにすることに尽きる。これはすなわち、その天皇と人民が一心同体となり、不幸と幸せ、平和と争いを分かち合い、そしてお互いにこの日本帝国を維持繁盛させていく道なのである。

一 それ我らがその普遍的人権を主張しようというのは、アジア州の中の最初の主張であって、しかも天下の大きな使命である。もとよりこれを成功させるには普通の日々の努力だけではできないであろう。従って、我らの結社の有志は常にほどよくその忍耐力を養い、たとえ大変な苦労にさいなまれ続け、いくどもいくども挫折しようとも、積極的に少しも屈服することなく、誠実な心と揺るがない志を保ち、我ら全党の一生涯を懸けた天命の仕事として、ただその普遍的人権を保護主張することに力を尽くし、そして死に就く他ないことを必至とするべきである。

 ここに於いて、ついに調印し、左のように誓い合うものである。

〇(参考)「愛国公党本誓草案」

本誓

一 天の欺人民を生するや、必らず之に付与するに一定動かすへからさるの通義権理を以てす。斯の通義権理なる者は、天の均く以て人民に賜ふ所の者にして、人力の以て移奪するを得さる者なり。然るに世運の未た全く開けさるや、人民動もすれは斯本然の通義権理を保つ能はさる者あり。而して〔抹消:況や我国数百年来封建〕武断の制、其の民を奴視〔抹消:隷に〕せしの餘弊、未た全く刻除せす。苟も是に由て改めす。我人民の支那、印度の人民と相厺る、能く幾くある如是にして、我国威の揚り、我国民の富を欲す。豈に可得〔抹消:や〕。我輩一片至誠愛国の心、大に此に発憤するあり。乃ち同志の士と相誓ひ、以て我人民の通義権理を主張し、以て其天の賜を保全せんとす。即其君を愛し国を愛するの心深く且大なれはなり〔併記:なる事は論する勿れ。遂に亜〕。

〔抹消:一 我輩既に已に愛国至誠の上より発憤し、斯人民の通義権理を保護主張せんとす。然るに之を為すの道、即我天皇陛下の御誓文の旨意に体し、造次顛沛、徹頭徹下、唯斯公論公議を以し、常に盟約の〔抹消:公党の〕旨意を遵守す可し〔抹消:明言し以て先つ明に争ふ可し〕。

一 我輩の斯政府を視る、斯人民の為め設る所の政府と看做すより他なかる可し。而して吾党の目的は、唯斯人民の通義権理を保護主張し、以て斯人民をして自主自由、独立不羈の人民たるを得せしむるに在る而已。是即其君主人民の間〔抹消:主上下をして〕融然一体〔抹消:ならしめ〕、以て其禍福緩急を分ち、〔末梢:以て〕相共に我日本帝国を維持昌盛ならしむるの道なれはなり。

一 夫我輩斯通義権理を主張せんと〔抹消:する者は、亜細亜洲中の首唱にして〕而かも天下の大業なり。〔抹消:固より之を期する、尋常歳月の功を以てすへからす、故に我党の士は常に〕宜く常に其忍耐力を培養し、譬ひ艱難憂戚百挫千折するも、敢て少しても屈撓する事莫く、至誠の心、不抜の志、我輩〔抹消:全党〕終生の力勉焉として、唯た斯通義権理を保護主張する者に竭尽し、死に之くも他なきを要すへし。於之遂に調印相誓ふ者如左。

   「国立国会図書館デジタルコレクション」より

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 今日は、江戸時代後期の1834年(天保5)に、政治家・佐賀藩士江藤新平が生まれた日ですが、新暦では3月18日となります。
 江藤新平(えとう しんぺい)は、肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市八戸)で、佐賀藩下級武士の父・江藤胤光と妻・浅子の長男として生まれましたが、名は胤雄(たねお)と言いました。1848年(嘉永元)に藩校の弘道館へ入学し内生(初等中等)課程は成績優秀でしたが、生活が苦しくなり弘道館を去ってから、1853年(嘉永6年)に19歳の時、国学者枝吉神陽の私塾に学びます。
 1856年(安政3年)の22歳の時、開国の必要性を説いた『図海策』を執筆、翌年には藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務めました。1862年(文久2年)の29歳の時、脱藩し京都で活動、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触しましたが、帰藩後永蟄居に処せられ、1867年(慶応3)にそれを解除され、郡目付として復帰します。
 翌年の王政復古の大号令で、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し、副島種臣とともに京都に派遣され、戊辰戦争において東征大総督府が設置されると、軍監に就任しました。江戸無血開城後、大木喬任(軍務官判事)と共に、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出、上野戦争で戦い、彰義隊を瓦解させます。
 1869年(明治2)に維新の功により賞典禄100石を賜わり、同年7月には、献言が通って、明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称されました。1870年(明治3)には佐賀に帰郷して佐賀藩権大参事(準家老)に就任して藩政改革を行いましたが、中央に呼び戻され、上京して太政官中弁となり、制度改革の建白を再三行なったものの、同年12月に虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷します。
 1871年(明治4)に制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言・岩倉具視に対して30項目の答申書を提出、同年に文部大輔、左院副議長、翌年に司法卿となり、参議に上りました。1873年(明治6)に朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野、翌年に愛国公党の結成に加わり、「民撰議院設立建白書」に署名したものの、帰郷を決意します。
 佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談し、佐賀征韓党首領として擁立され、同年2月16日に士族反乱である佐賀の乱を勃発させることになりました。しかし、戦いに敗れて逃亡し、鹿児島で西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られ、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説きましたが失敗、四国で捕えられます。
 1874年(明治7)4月13日に、裁判の結果、梟首の刑を申し渡され、夕方に佐賀の嘉瀬刑場において、数え年40歳で処刑されました。

〇佐賀の乱とは?

 明治時代前期の1874年(明治7)2月、前参議江藤新平、前秋田権令島義勇らが佐賀県の征韓・憂国両党に結集する士族1万1,000余人と共に、征韓論反対の明治政府に対して起こした不平士族の反乱の一つでした。下野した参議江藤新平が,前年の明治6年10月の政変(征韓論分裂)で参議江藤新平は、参議西郷隆盛らと下野し、また板垣退助らと「民撰議院設立建白書」に名を連ねましたが、郷里の佐賀に帰ります。
 当時の佐賀県には、強硬に征韓論を唱える征韓党があり、この江藤を首領としました。また、中央政府の推し進める強権的資本主義化に反対し、旧武士層の利害を代表して封建復活を唱える島義勇を首領とする憂国党があり、反明治新政府の行動を共にするようになります。
 旧弘道館に本部を設置し、「征韓先鋒請願事務所」を名のり、2月1日に3,000余人(のち1万1,000余人に達する)が小野商会を襲って行動を起こしました。これを機に、明治政府は4日に、鎮圧のため出兵を命令し、参議大久保利通を全権とした鎮圧軍が佐賀へと向います。
 反乱軍は13日に、「決戦の議」を発し、18日に佐賀県庁 (旧佐賀城) を占拠するなど抗戦を続けました。しかし、博多から南下した政府軍と朝日山で交戦したものの、最新兵器で武装した政府軍の前に歯が立たず敗走を重ねます。
 高知、熊本、中津などからの期待した援軍も得られず、2週間ほどの戦闘の後、2月いっぱいで鎮圧されました。江藤と島は逃走しましたが、2月29日に江藤が四国で、3月7日には島が鹿児島でそれぞれ捕えられ、裁判の結果、ともに4月13日に晒首(さらしくび)の刑を受けます。
 他に、400人余が処罰(斬罪11名、懲役130名を含む)されましたが、内乱鎮圧に対する明治政府の強い態度を示す重いものとなりました。その後、不平士族の反乱は、1876年(明治9)10月の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と続き、1877年(明治10)の西郷隆盛を大将に擁立した西南戦争へと至ります。

☆江藤新平関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1834年(天保5年2月9日) 肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市八戸)で、佐賀藩下級武士の父・江藤胤光と妻・浅子の長男として生まれる
・1848年(嘉永元年) 藩校の弘道館へ入学し内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給される
・1850年(嘉永3年) 枝吉神陽が「義祭同盟」を結成すると、大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らとともに参加する
・1853年(嘉永6年) 19歳で国学者枝吉神陽の私塾に学ぶ
・1856年(安政3年) 22歳の時に開国の必要性を説いた『図海策』を執筆する
・1857年(安政4年) 江口千代子と結婚、藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務める。
・1862年(文久2年) 29歳の時、脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触するが、帰藩後永蟄居に処せられる
・1867年(慶応3年12月) 永蟄居を解除され、郡目付として復帰する
・1868年(慶応3年12月9日) 王政復古の大号令を行い、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し新平は副島種臣とともに京都に派遣される
・1868年(慶応4年2月9日) 新政府により東征大総督府が設置され、軍監に就任する
・1868年(慶応4年閏4月1日) 大木喬任(軍務官判事)と共に、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出する
・1868年(慶応4年5月15日) 軍監として上野戦争で戦い彰義隊を瓦解させる
・1868年(慶応4年7月17日) 尽力の結果「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ」詔書が発せられる
・1869年(明治2年) 維新の功により賞典禄100石を賜わる
・1869年(明治2年7月) 江藤の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称される
・1870年(明治3年1月) 佐賀に帰郷して佐賀藩権大参事(準家老)に就任して藩政改革を行う
・1870年(明治3年9月) 中央に呼び戻され、上京する
・1870年(明治3年11月) 太政官中弁となり、制度改革の建白を再三行なう
・1870年(明治3年12月) 虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷する
・1871年(明治4年2月) 制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言・岩倉具視に対して30項目の答申書を提出する
・1871年(明治4年7月) 文部大輔となる
・1871年(明治4年8月) 左院副議長となる
・1872年(明治5年4月) 司法卿となり、参議に上る
・1873年(明治6年)10月24日 朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野する
・1874年(明治7年)1月10日 愛国公党の結成に加わる
・1874年(明治7年)1月12日 「民撰議院設立建白書」に署名し、帰郷を決意する
・1874年(明治7年)1月13日 船便で九州へ向かう
・1874年(明治7年)2月2日 長崎の深堀に着き、しばらく様子を見る
・1874年(明治7年)2月5日 佐賀に対する追討令がだされる
・1874年(明治7年)2月11日 佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行う
・1874年(明治7年)2月12日 佐賀征韓党首領として擁立される
・1874年(明治7年)2月16日 夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する
・1874年(明治7年)3月1日 逃亡して、鹿児島鰻温泉で湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られる
・1874年(明治7年)3月25日 高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くが失敗する
・1874年(明治7年)4月13日 梟首の刑を申し渡され、夕方に佐賀の嘉瀬刑場において、数え年40歳で処刑される
・1889年(明治22年) 「大日本帝国憲法」発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる
・1916年(大正5年)4月11日 正四位が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1856年(安政3)外交官・政治家原敬の誕生日(新暦3月15日)詳細
1921年(大正10)小説家庄野潤三の誕生日詳細


 

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