ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:江戸幕府

enomototakeakinishiamane01
 今日は、幕末明治維新期の1862年(文久2)に、榎本武揚・西周らが江戸幕府が派遣するオランダへの留学(幕末オランダ留学)のため長崎を出航した日ですが、新暦では11月2日となります。
 幕末オランダ留学(ばくまつおらんだりゅうがく)は、1862年(文久2)~1868年(明治元)にかけて、行われた江戸幕府による、オランダ留学生の派遣です。先進国の軍事技術・学問修得のため、優秀な幕臣と職人をえりすぐってオランダに派遣しました。
 命を受けたメンバーは、軍艦操練所から榎本武揚(釜次郎)、沢太郎左衛門、赤松則良(大三郎)、内田正雄(恒次郎)、田口俊平、蕃書調所から津田真道(真一郎)、西周(周助)、そこに、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、さらに鋳物師や船大工等の技術者である職方7名が一行に加わり、留学先で海軍関連の技術や社会科学、医学等を学びます。1862年(文久2)6月18日に、留学生一行14名(残り2名は長崎から参加)は、品川沖に碇泊中の「咸臨丸」に乗船し、長崎に向けて出港しましたが、機関が故障や船内での「はしか」の流行があって遅れ、ようやく8月23日に長崎に到着しました。
 長崎でオランダ船カリプス号に乗り換え、9月11日に出港しましたが、この船がインドネシアのバンカ島とビリトン島間の海峡で暗礁に乗り上げ座礁、別の船に乗り換えるという苦難を経て、翌年4月18日にオランダ・ロッテルダムに到着できます。その後、ロッテルダムを経てライデンに到着し、一部はハーグへ向かい、翌月には学習を開始しました。
 各人は同地で長期にわたって勉強し、1865年(慶応元)~1868年(明治元)にかけて、順次帰国し、日本の諸科学の基礎を築いたとされます。

〇榎本武揚(えのもと たけあき)とは?

 江戸時代後期から明治時代に活躍した幕臣・外交官・政治家です。1836年〈天保7年8月25日〉に、江戸下谷(現在の東京都台東区)において、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれましたが、通称は釜次郎と言いました。
 12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。
 1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。
 同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。
 1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。
 1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。
 その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。
 旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。

〇西周(にし あまね)とは?

 幕末から明治時代に活躍した哲学者・啓蒙思想家・教育者です。江戸時代後期の1829年(文政12年2月3日)に、石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医の家柄だった父・西時義の子として生まれましたが、幼名は経太郎(のち周助)と言いました。
 幼少より学問を好み、1841年(天保12) から藩校・養老館で蘭学を学び、藩主の許しを得て医家より儒者に転じ、大坂・岡山遊学を経て藩校養老館の教官となります。1853年(嘉永6年)に江戸詰となりましたが、ペリー来航の情勢のなかで洋学へ転じ、翌年には洋学に専念するために脱藩し、手塚律蔵の塾に学び、中浜万次郎に英語を学びました。
 1857年(安政4)に蕃書調所の教授並手伝となり、1862年(文久2)には幕命で津田真道・榎本武揚らと共にオランダに留学、ライデン大学でシモン・フィッセリングに師事し、法学、経済学、統計学などを学びましたが、J.S.ミル,A.コントの哲学に共鳴し、1865年(慶応元年)に帰国します。1866年(慶応2)に開成所教授に昇進、1867年(慶応3)の大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出、翌年に徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任、同年に『万国公法』の訳刊もしました。
 1870年(明治3)には、明治新政府の命により東京に移って兵部省に出仕し、近代軍制の整備にあたり、1880年(明治13)には『軍人勅諭草案』を著します。一方で、1873年(明治6)に森有礼、福澤諭吉らと共に明六社を結成、翌年には機関紙「明六雑誌」を発行、功利主義に基づく倫理思想を展開した『人世三宝説』等の論文を寄稿、「哲学」、「真理」、「芸術」、「理性」など多くの哲学用語を訳出し、西洋哲学の紹介と啓蒙思想の普及に努めました。
 1881年(明治14)に獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)の創立に参画、東京師範学校の校務嘱託ともなり、1883年(明治16)には獨逸学協会学校の初代校長に就任しています。また、東京学士会院会長、元老院議官、貴族院議員などを歴任したものの、体調を損ね、1892年(明治25)には神奈川県大磯の別邸に移りました。
 1897年(明治30)に勲一等瑞宝章を受章、男爵ともなりましたが、同年1月31日に大磯の別邸において、数え年69歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

764年(天平宝字8)孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の)が発覚する(新暦10月10日)詳細
810年(大同5)藤原藥子・仲成らが平城天皇の復位を企てて失敗した、薬子の変が起きる(新暦10月12日)詳細
972年(天禄3)僧侶・民間浄土教の先駆者空也の命日(新暦10月20日)詳細
1008年(寛弘5)第68代の天皇とされる後一条天皇の誕生日(新暦10月12日)詳細
1900年(明治33)東京の上野・新橋両駅に日本初の公衆電話が設置される(公衆電話の日)詳細
1924年(大正13)東京天文台(国立天文台の前身)が三鷹に移転する詳細
1940年(昭和15)内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される詳細
1949年(昭和24)明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始する詳細
1961年(昭和36)「世界野生生物基金(WWF)」(世界自然保護基金の前身)が設立される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

tokugawaietsuna01
 今日は、江戸時代前期の1651年(慶安4)に、徳川家綱が江戸城において将軍宣下を受けて、江戸幕府第4代将軍に就任した日ですが、新暦では10月2日となります。
 江戸幕府(えどばくふ)は、徳川氏が江戸に開いた幕府による武家政権です。1603年(慶長8)に徳川家康が、征夷大将軍の宣下を受けて幕府を開き、1867年(慶応3)に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還するまで、265年にわたり、江戸時代が続きました。
 家康以来続いた徳川の宗家は、第7代将軍家継の死で途絶えたのですが、御三家から将軍を迎え継続することになります。その後、将軍継嗣問題が起きたり、三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)を中心とした諸改革も行われましたが、幕府を立て直すことはたいへんでした。
 1853年(嘉永6)にペリーが浦賀に来航して開国を要求し、攘夷運動から倒幕運動へと進み、1867年(慶応3)の大政奉還によって、江戸幕府の終わりを告げました。

〇江戸幕府の歴代将軍(徳川家)一覧

・初代 家康(いえやす) 1603年(慶長8)~1605年(慶長10)
・2代 秀忠(ひでただ) 1605年(慶長10)~1623年(元和9)
・3代 家光(いえみつ) 1623年(元和9)~1651年(慶安4)
・4代 家綱(いえつな) 1651年(慶安4)~1680年(延宝8)
・5代 綱吉(つなよし) 1680年(延宝8)~1709年(宝永6)
・6代 家宣(いえのぶ) 1709年(宝永6)~1712年(正徳2)
・7代 家継(いえつぐ) 1712年(正徳2)~1716年(享保元)
・8代 吉宗(よしむね) 1716年(享保元)~1745年(寛保5)
・9代 家重(いえしげ) 1745年(寛保5)~1760年(宝暦10)
・10代 家治(いえはる) 1760年(宝暦10)~1786年(天明7)
・11代 家斉(いえなり) 1787年(天明7)~1837年(天保8)
・12代 家慶(いえよし) 1837年(天保8)~1853年(嘉永6)
・13代 家定(いえさだ) 1853年(嘉永6)~1858年(安政5)
・14代 家茂(いえもち) 1858年(安政5)~1866年(慶応2)
・15代 慶喜(よしのぶ) 1866年(慶応2)~1867年(慶応3)

☆徳川家綱(とくがわ いえつな)とは?

 江戸幕府の第4代将軍です。江戸時代前期の1641年(寛永18年8月3日)に、江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方増山氏)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。
 1644年(正保元)に名を家綱と改め、翌年には、元服し、従三位権大納言となっています。1650年(慶安3)に世子となって西の丸へ移りましたが、翌年4月20日には、父・家光が48歳で亡くなり、数え年11歳にして、家督を継ぐこととなりました。
 その直後の7月に、慶安事変(由井正雪の乱)が起こりますが、年少で病弱だったため叔父の保科正之や松平信綱らが補佐して難局を乗り切り、外様大名に配慮して、末期養子の禁を緩和しています。同年8月18日に、江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられ、12月には、本丸へ移りました。
 1657年(明暦3)に江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出したものの、これを契機に江戸の都市改造を行ない、御三家の屋敷を江戸城外に転出させるとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社を移転させています。1659年(万治2)に左大臣に任じられるのを辞退し、1663年(寛文3年)には、父・家光の13回忌にあたって日光へ社参しました。
 1664年(寛文4)に1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布、翌年には、公家や寺社を対象とした領知目録を交付(寛文印知)、諸藩にも宗門改帳の作成を命じています。1666年(寛文6)に酒井忠清が大老に就任して実権を握り、翌年には、諸国巡見使の制を導入しました。
 1670年(寛文10)に箱根用水がつくられ、1671年(寛文11)には、河村瑞賢に命じて東回り航路、翌年には西回り航路をひらかせ、1673年(寛文13)には、「分地制限令」を制定しています。しかし、1680年(延宝8年5月初旬)に病に倒れて危篤状態に陥いり、末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、5月8日には、江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなり、東叡山寛永寺に葬られました。

☆徳川家綱関係略年表(日付は旧暦です)

・1641年(寛永18年8月3日) 江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方(宝樹院)増山氏)として生まれる
・1644年(正保元年12月) 名を家綱と改める
・1645年(正保2年4月) 元服し、従三位権大納言となる
・1650年(慶安3年9月) 世子となって西の丸へ移る
・1651年(慶安4年4月20日) 父・家光が48歳で亡くなる
・1651年(慶安4年7月) 慶安事変(由井正雪の乱)が起こる
・1651年(慶安4年7月) 末期養子の禁を緩和する
・1651年(慶安4年8月18日) 江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられる
・1651年(慶安4年12月) 本丸へ移る
・1657年(明暦3年1月18日) 江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出す 
・1659年(万治2年4月) 左大臣に任じられるのを辞退する
・1663年(寛文3年) 父・家光の13回忌にあたって日光へ社参する
・1663年(寛文3年) 武家諸法度(寛文令)の口上で殉死を禁じる 
・1664年(寛文4年) 1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布する
・1665年(寛文5年) 公家や寺社を対象とした領知目録を交付す(寛文印知)
・1665年(寛文5年) 諸藩にも宗門改帳の作成を命じる
・1666年(寛文6年) 酒井忠清が大老に就任する
・1667年(寛文7年閏2月18日) 諸国巡見使の制を導入する
・1670年(寛文10年) 箱根用水がつくられる 
・1671年(寛文11年) 河村瑞賢に命じて東回り航路をひらく 
・1672年(寛文12年) 河村瑞賢に命じて西回り航路をひらく 
・1673年(寛文13年6月) 分地制限令が制定される
・1680年(延宝8年5月初旬) 病に倒れ、危篤状態に陥る
・1680年(延宝8年5月8日) 江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1598年(慶長3)武将・大名・天下人豊臣秀吉の命日(新暦9月18日)詳細
1769年(明和6)江戸幕府第10代将軍徳川家治の側用人・田沼意次が侍従に就任し、老中格になる(新暦9月17日)詳細
1863年(文久3)公武合体派が尊皇攘夷過激派を追放した八月十八日の政変が勃発(新暦9月30日)詳細
1876年(明治9)日本画家松林桂月の誕生日詳細
1888年(明治21)官営事業(官営模範工場)の一つ三池炭鉱(福岡県)が競争入札の結果、三井財閥に払い下げが決まる詳細
1902年(明治35)啓蒙思想家・教育者・官僚・貴族院議員西村茂樹の命日詳細
1925年(大正14)小説家細井和喜蔵の命日詳細
1968年(昭和43)飛騨川バス転落事故が起き、死者104人を出す詳細
1987年(昭和62)小説家・ギター奏者深沢七郎の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

9b6a41e1.jpg
 今日は、江戸時代前期の1623年(元和9)に、徳川家光が江戸幕府第3代将軍に就任した日ですが、新暦では8月23日となります。
 江戸幕府(えどばくふ)は、徳川氏が江戸に開いた幕府による武家政権です。1603年(慶長8)に徳川家康が、征夷大将軍の宣下を受けて幕府を開き、1867年(慶応3)に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還するまで、265年にわたり、江戸時代が続きました。
 家康以来続いた徳川の宗家は、第7代将軍家継の死で途絶えたのですが、御三家から将軍を迎え継続することになります。その後、将軍継嗣問題が起きたり、三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)を中心とした諸改革も行われましたが、幕府を立て直すことはたいへんでした。
 1853年(嘉永6)にペリーが浦賀に来航して開国を要求し、攘夷運動から倒幕運動へと進み、1867年(慶応3)の大政奉還によって、江戸幕府の終わりを告げました。

〇江戸幕府の歴代将軍(徳川家)一覧

・初代 家康(いえやす) 1603年(慶長8)~1605年(慶長10)
・2代 秀忠(ひでただ) 1605年(慶長10)~1623年(元和9)
・3代 家光(いえみつ) 1623年(元和9)~1651年(慶安4)
・4代 家綱(いえつな) 1651年(慶安4)~1680年(延宝8)
・5代 綱吉(つなよし) 1680年(延宝8)~1709年(宝永6)
・6代 家宣(いえのぶ) 1709年(宝永6)~1712年(正徳2)
・7代 家継(いえつぐ) 1712年(正徳2)~1716年(享保元)
・8代 吉宗(よしむね) 1716年(享保元)~1745年(寛保5)
・9代 家重(いえしげ) 1745年(寛保5)~1760年(宝暦10)
・10代 家治(いえはる) 1760年(宝暦10)~1786年(天明7)
・11代 家斉(いえなり) 1787年(天明7)~1837年(天保8)
・12代 家慶(いえよし) 1837年(天保8)~1853年(嘉永6)
・13代 家定(いえさだ) 1853年(嘉永6)~1858年(安政5)
・14代 家茂(いえもち) 1858年(安政5)~1866年(慶応2)
・15代 慶喜(よしのぶ) 1866年(慶応2)~1867年(慶応3)

☆徳川家光(とくがわ いえみつ)とは?

 江戸幕府の第3代将軍です。1604年(慶長9年7月17日)に、江戸幕府第2代将軍となった父・徳川秀忠の次男として、正室於江与(崇源院)を母として、江戸城内で生まれましたが、幼名は竹千代といいました。
 春日局が乳母となって育て、1620年(元和6)に正三位権大納言、続いて元服して家光と名のります。1623年(元和9)に父秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受けて、第3代将軍となり、初めは土井利勝、酒井忠世らの補佐を得て幕政にあたりました。
 1632年(寛永9)の大御所秀忠の死後は、1635年(寛永12)「武家諸法度」を改訂して参勤交代を制度化して大名支配体制を確立、1638年(寛永15)島原の乱を平定してキリシタン取り締まりを強化、翌年にはポルトガル人追放を決定、1641年(寛永18)にはオランダ人を長崎出島に移して鎖国体制を整えるなどの“武断政治”と呼ばれる施策を実施します。これらによって、法制・職制・兵制などの諸制度が整い、以後200年余にわたる幕府の支配体制を確立しました。
 一方で、茶道・画等を嗜み、祖父家康を尊崇し、日光東照宮造営などに巨費を投じて、幕府財政窮乏の原因を作ったとも言われています。しかし、1651年(慶安4年4月20日)に、江戸城において、46歳で亡くなり、法号は大猷院とされ、日光山に葬られました。

☆徳川家光関係略年表

・1604年(慶長9) 徳川秀忠(江戸幕府第二代将軍)の次男として生まれる
・1620年(元和6) 正三位権大納言、続いて元服
・1623年(元和9) 父秀忠と共に上洛し、将軍宣下を受けて第三代将軍となる
・1623年(元和9) 摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下って輿入れする
・1623年(元和10) 諸国巡見使を派遣する
・1626年(寛永3) 再度上洛し従一位左大臣となる
・1632年(寛永9) 大御所秀忠が亡くなる
・1634年(寛永11) 三度上洛し太政大臣に任じられたが辞退する
・1635年(寛永12)「武家諸法度」を改定して初めて参勤交代の制度を定める
・1638年(寛永15) 島原の乱を平定する
・1639年(寛永16) ポルトガル船の日本渡航を禁止
・1641年(寛永18) オランダ人を長崎出島に移す
・1642年(寛永19) 寛永の大飢饉が発生する
・1643年(寛永20) 「田畑永代売買禁止令」を発布する
・1644年(寛永21) 宗門改めの制を定める
・1651年(慶安4) 江戸城において亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1471年(文明3)浄土真宗中興の祖・蓮如が越前に吉崎御坊を建てる(新暦8月13日)詳細
1719年(享保4)幕臣・大名・老中田沼意次の誕生日(新暦9月11日)詳細
1835年(天保6)日本画家橋本雅邦の誕生日(新暦8月21日)詳細
1940年(昭和15)大本営政府連絡会議において、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」が決定される詳細
1970年(昭和45)東京都で光化学スモッグ注意報・警報の発令体制が開始される詳細
1976年(昭和51)田中角榮前首相がロッキード事件で東京地検に逮捕される詳細
1986年(昭和61)遺伝学者木原均の命日詳細
1995年(平成7)人吉仮出入口~えびのIC間の開通(暫定2車線)により、九州自動車道が全線開通する詳細
2024年(令和6)新潟県佐渡市の「佐渡島の金山」が世界遺産(文化遺産)に登録される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

inukubou01
 今日は、江戸時代前期の1685年(貞享2)に、江戸幕府が将軍通行の時の犬猫の繋留を禁止(初の「生類憐れみの令」とされる)した日ですが、新暦では8月13日となります。
 「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)は、江戸時代中期に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉によって、1685年(貞享2)~1709年(宝永6)まで実施された、極端な動物愛護令です。「生類を憐れむ」ことを趣旨とした諸法令の通称で、憐みの対象は牛馬・犬・鳥類をはじめあらゆる生類に及びました。
 鷹狩・狩猟にも制限が加えられましたが、特に犬に関しては重視され、1695年 (元禄8) に、江戸中野、四谷、大久保などに犬小屋を建てて犬を養い、その費用を江戸町民に課しています。違反者は死罪・遠島などに処せられたので、世の不満を買い、悪政の評判が高く、綱吉は「犬公方 (いぬくぼう) 」と揶揄されました。
 しかし、1709年(宝永6)に、綱吉が亡くなると、第6代将軍徳川家宣によって、廃止されています。

〇生類憐みの令関係略年表(日付は旧暦です)

<天和3年(1683年)>
・2月3日:生類、高級織物などぜいたく品の輸入を禁止する。
・2月29日:「辻番ハ道路ノ病人、酒酔イヲ介抱スヘシ」。

<貞享元年(1684年)>
・会津藩に対し、「生類を憐れむ」ためとして、鷹の献上を禁じる。
・4月6日:上総国市場村の惣右衛門、御鷹場で鳥を捕まえ、老中指図により牢屋斬罪。ただしこれは、幕府の狩場での勝手な猟はそもそも禁止であり、生類憐みの令とは深い関係は無い。
・8月28日:生類憐みの令に反対の立場であった大老の堀田正俊が、若年寄の稲葉正休に刺殺された。

<貞享2年(1685年)>
・2月12日:高札立つ。「近ごろ江戸近辺でみだりに鉄砲を撃つ者がいる。捕まえた者、訴えた者に賞金を出す」。
・4月14日:駿河国上柚野村の佐野藤兵衛、武州羽生領下之村の伝兵衛の案内で鶴2匹を撃つ。2人とも品川獄門(鈴ヶ森刑場にて晒し首)。
・5月21日:上総国神納村の弥五兵衛、御法度の場所で鉄砲を使い鳥を撃ち、牢屋斬罪。首は神納村で獄門。
・7月14日:将軍御成の道では犬・猫を繋がずに放しておいて構わない
・7月14日:御成り道に犬が出ないよう門前の犬数十匹を捕まえ、俵に詰めて隅田川に沈めた浅草観音の手代、遠島になる。「僧侶の法にそむいた」と浅草観音別当知楽院忠運と代官閉門。8月6日忠運は追放。
・9月18日:以前からの禁止である馬の筋を延ばさないこと
・11月7日:江戸城において、鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じる。
・12月16日:旗本清水権之助(清水政広)組の三郎左衛門、新吉原で網を張り鴨を捕る。翌年1月18日牢死。死骸取り捨て。
・12月25日:鷹匠頭の間宮左衛門の同心2人精進日に鶴を捕獲し死罪、鷹師切腹。間宮は職を奪われ閉門。

<貞享3年(1686年)>
・2月3日:「馬の尾を巻くのは雨天の時、縄二重までならよい。馬喰の馬は拵え馬と紛らわしく一切禁止」。
・2月7日:「馬の尾先を焼くのは養生(治療)のためならよい。尾ぐきを切り、焼きごてをあてるのは禁止」。
・6月6日:御小姓の伊東基祐(伊東淡路守)、服忌令を守らず、頬にとまった蚊を手で打ち殺し供奉したため、閉門処分。
・7月19日:大八車でイヌや猫を轢かないように注意することと、最前からの通達のように、野犬に餌をやらないことと、生類のやり取りをしない風潮があるとして、「生類あわれみ」の志をもって対応するように申し付けた法令。
・9月1日:伊予国西条藩主松平頼純(松平左京大夫)使用人の加左衛門、酒を飲み前後不覚、南青山で米を積んだ馬の尻を小刀で刺す。牢舎、追放。
・9月5日:芝車町(港区高輪)長蔵の大八車が船町(日本橋室町)で犬をひき殺す。長蔵は牢舎入り、8日後に赦免される。
・12月16日:永井直敬(永井伊賀守)家来召使、長谷川町(日本橋堀留町)で犬を突き殺す。酒狂い、揚屋(武士などが入る牢屋)入り、同24日赦免。

<貞享4年(1687年)>
・1月1日:病馬を捨てることを禁止
・1月28日:諸藩に初めて生類憐みの令が発令される。「生類の病気が重ければ死なないうちに捨てるように聞いている。不届きである。ひそかに捨てる者がいれば訴え出なさい。褒美を下される」。
・2月4日:江戸城台所頭の天野五郎太夫、八丈島に遠島。本丸の井戸に蓋を忘れ、猫が2匹落ちて死んだ。さらにそれを知らずに井戸水を使って料理を行ったため。
・2月11日:「町内の犬の毛色などを記しておきなさい。いなくなったら犬は探さなくてよい」。
・2月16日:「鷹場での殺生を禁じる。ひそかに鷹を使う者がいれば訴え出なさい」。
・2月21日:「老中に心得違いがあった。養い置いた犬が見えなくなったら尋ねて探しなさい。犬がいなくなった時、よそから別の犬を連れてきて数合わせをしてはならない」。
・2月21日:「(将軍、老臣への)鳥類献上は年に1度、少量。生きた魚、貝類は禁止」と諸大名に命じる。
・2月27日:魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止(鶏と亀と貝類も含む)
・2月28日:「御触れが出て急に鳥を絞め殺すのはいけない。生きた魚、生いけすの魚、貝類のほか鯉、鮒、海老など生きたものの商売は禁止」貝採り漁民困窮の訴えでひな祭りのハマグリ解禁。
・3月26日:「鳥類(食用)飼育禁止。鶏、アヒル、唐鳥などは餌がないと飢えるので飼ってもよい」。
・3月28日:新銀町(神田司町)の奥平、板橋で犬を切り捕まる。酒酔い記録なし。4月6日江戸追放。
・4月:捨て子を養育すること、人が傷つけた鳥類・畜類は届け出るように通達。
・4月7日:駿河国田中藩主土屋政直(土屋相模守)中間、数寄屋町(中央区銀座)で犬7、8匹に吠えかけられ衣類にかみつかれ、脇差を抜き払い、犬を傷つける。揚屋入り。不意のことにつき、6月4日赦免。
・4月9日:病馬を捨てた武蔵国神流川領寺尾村(横浜市)の3人が三宅島へ遠流に処される。同領代場村の7人も流罪。(武蔵国村民10人)。
・4月10日:小石川御殿番・保泉市右衛門の奴僕角右衛門、喧嘩していた犬を脇差で切り逃走。のち出頭した。八丈島に流罪となる。主人の保泉は俸禄を召上げられる。
・4月11日:「捨て子は届けなくてよい。望むものにあげてよい。金銭は不要」「鳥類、畜類を人が傷つけたら届けなさい。とも食い、自ら痛みわずらう時は届けなくてよい」「主なき犬、居つかないように食べ物をやらないのは不届き。左様にしてはならない」「飼い置いた犬が死んでも別条なければ届けなくてよい」「犬に限らず、生類、人々、慈悲の心を元としてあわれむことが肝要である」。
同日:師匠の弔い帰りの権兵衛、神田鍋町(千代田区鍛冶町)で犬3匹が師匠女房の駕籠に吠えかかり、脇差を抜き追い払い、犬の耳を傷つける。「不届き」と揚屋入り後、6月24日江戸十里四方追放。
・4月21日:「犬猫が死んだら捨ててはいけない。埋めておきなさい」。
・4月23日:「町中で生きたイモリ、黒焼き商売を禁じる」。
・4月30日:江戸城中門を警護する持筒組与力、同心遠慮を命じられる。門上の鳩に小石を投げ追い払ったため。
・5月12日:岡部隠岐守六尺(駕籠かき)角左衛門、当月11日西ノ久保(港区神田町付近)で犬を切り殺す。辻番が捕え、牢舎入り。10月20日牢死。
・6月10日:大八車で味噌を運ぶ召使2人、宇田川町(港区浜松町)でアヒルをひき殺す。牢舎後同24日赦免。
・6月23日:宇田川町(港区)の文四郎、駄馬馬を脇差で切る。馬と百姓けが。酒で記憶なし。7月16日赦免。
・6月26日:多々越甚大夫(旗本秋田季品の家臣)が、徳川家綱の命日である6月8日に、吹矢で燕を撃ち、5歳児の病気養生に食わせたため死罪。これを見ていた同僚の山本兵衛は八丈島へ流罪。
・7月2日:「(江戸の町)どこでも生類売買禁止。虫を飼うこともいけない」。同日、京橋の虫売りが牢舎処分。桧物町(中央区日本橋)の三助、井戸の樋を転んで落とし、これが犬に当たり死んだ。牢舎後、同6日赦免。
・7月3日:馬を引いていた九兵衛、下舟町(日本橋小舟町)で鶏を踏み殺す。牢舎後、8月15日赦免。
・9月13日:「辻番人は生類を傷つけた往来の者がいれば人を同行させ、居所を確かめ、目付に申し出なさい」。
・9月29日:倒れた馬を放って帰り、死なせた武蔵国下仙川村(調布市)の次郎兵衛が牢舎。12月29日八丈島流罪。
・12月9日:「鹿猪の害があれば玉を込めずに鉄砲でおどしなさい」。
・12月12日:「最近も捨て馬する者がいる。この度も流罪を仰せ付けた。今後も重科とする」。
・12月23日:「捨て馬御慈悲をもって今度も流罪とした。理由によっては御代官、地頭の責任とする」。
 月不明:常陸国下館藩主増山正弥(増山兵部)の家来、犬にかまれ、その犬を切り殺した罪で切腹。土屋大和守の家来、犬にかまれ少し犬を切り江戸追放。大和守も遠慮を命じられる。土井信濃守[35]中間、犬をたたいた罪で扶持を奪われる。

<元禄元年(1688年)>
・1月29日:「屋号、人名などに鶴の字、鶴の紋の使用禁止する」。
・2月18日:トビとカラスの巣払い令を出す。江戸町人地を除く。(元禄6年2月から江戸町人地にも発令)。
・4月12日:餌差の弥兵衛、前夜浅草たんぼで網を張り鴨を獲る。揚屋入り後、翌年8月12日隠岐島に流罪。
・5月29日:1月20日に鶏2羽を売った飴売り伊右衛門、品川で獄門。仲介した増上寺門前町(港区)与四兵衛は4月8日に牢死。鳥を買った新堀同朋町与兵衛は5月10日に牢死。岩井町(千代田区岩本町)の清兵衛、品川などで鳥を獲ったと白状し、本所三つ目横堀で獄門。芝金杉(港区)の作右衛門、本所三つ目横堀で獄門。1月26日に同所八兵衛ら茶船を借り、もち縄を使い押上村(墨田区)で白雁4羽を捕らえる。八兵衛は牢中で患い病死。6月19日囚人待遇改善。
・5月30日:鳩をおびき寄せるための鳩笛が役に立たず小細工奉行大類次郎衛と手代ら3人追放、町大工1人手鎖。御城中門で鳩に小石を投げた御小人新右衛門を江戸から追放。
・6月19日:牢死が多く、囚獄(小伝馬町)の待遇改善を命じる。冬に風が吹き抜けないよう所々に格子を設け、行水は月に5度ずつ、宿無しには雑紙をやり、秋には布子を1枚増やして2枚与えるようにした。
・8月22日:餌差頭の内田市郎右衛門父子が佐渡島へ、子弟6人が薩摩国へ流罪。鳥銃を隠していた罪。
・8月27日:留守居番与力の山田伊右衛門、門外に子犬が捨ててあったのを養わなかったため追放。
・10月3日:武蔵国新羽村(横浜市港北区)の西方寺、コウノトリが巣を掛けた木を切り閉門処分。村人も罪を蒙る。
・10月9日:道中奉行御触れ「病牛馬捨ててはいけない。病気の旅人には薬をやり面倒を見なさい」。
・12月25日:武蔵国上忍田村で鳥を捕まえていた百姓の安左衛門、犬が吠えかかるので鎌を投げつけた。犬は左前足に少々けが。名主より訴えがあり、牢舎。翌年2月27日に神津島へ流罪。

<元禄2年(1689年)>
・1月9日:神田鍛冶町の久兵衛、鶏をしめ、毛をむしり捕まる。約2年間牢舎、のち赦免。
・1月16日:芝金杉(港区)の山伏法光院、犬2匹を切り怪我をさせた。酒で記憶なし。牢舎後、2月6日追放。
・2月2日:側用人で犬支配役喜多見重政が罷免され改易。
・2月27日:病馬を捨てた武士14人、農民25人、神津島に流罪。
・3月6日:湯島広小路辻番3人、水路内に犬の死体があり、番を申し付けられたが、近くを立ち回るうちに上流の堰板が外されて増水、犬の死体は押し流されて見えなくなった。3人は牢舎後、江戸五里四方追放処分。
・5月11日:生類憐みの令以前のことが罪に問われた。貞享3年(1686年)9月から同4年(1687年)2月まで持弓頭(城警備担当)の中根正和(中根主税)に捕えられ、牢舎入り。中根の交代[注釈 3]で身柄が後任に引き渡され、以下全員死罪となる。清兵衛・五郎左衛門・鮒屋市郎兵衛・善兵衛・勘兵衛、お堀で鯉鮒獲り、牢屋死罪。八兵衛、お堀の鯉鮒買い取り、牢屋死罪。安左衛門・仁左衛門・久兵衛、お堀で鯉鮒獲り、牢屋死罪後、獄門[37]。
・6月28日:「猪鹿狼は害になる時のみ銃で撃ってよい。死骸はそこに埋め、売ること食べることを禁止する」。
・10月4日:評定所目安読の坂井伯隆、閉門。評定所で犬が喧嘩をしているのを止めず、犬が死んだため]。
・10月9日:白金台(港区)の安右衛門ら6人、3月14日猪狩り。薩摩国の島へ流罪。ほか1人、隠岐島へ流罪。
・10月10日:病気の犬にも餌を与えるよう通達。

<元禄3年(1690年)4月18日:常陸国作屋村(つくば市)の酒屋平兵衛、馬を打ち殺し江戸十里四方と在所追放。
・10月25日:捨て子禁止令。「捨て子はいよいよ御禁制である。養育できなければ申し出なさい」。
・11月3日:7歳までの子供の届け出制。「子供の出生、死亡、奉公、養子、引越、名主方の帳面につけ置くこと」。

<元禄4年(1691年)8月12日:小野吉兵衛組の餌差弥五兵衛、隠岐島へ流罪。元禄元年(1688年)4月12日浅草たんぼで鴨を獲り揚屋入り。
・8月11日:「公方様に糞を落しカラス八丈島に島流し」。
・8月12日:上餌差町(文京区小石川)の忠兵衛、揚屋入り約3年半ののち隠岐島へ流罪。元禄元年(1688年)2月放し雀(寺社参りの人が放生する雀)売りの権七に雀50羽を売る。
・8月13日:小石川源覚寺前(文京区)、放し雀売りの権七、揚屋入り約3年半ののち薩摩へ流罪。甲州秋元摂津守領の百姓権左衛門、薩摩へ流罪。鉄砲で鳥打ちした。摂津守家来が召し連れ7年前に揚屋入り。牢内で患い、いったん外に出たが、回復し再度揚屋入り後、流罪。
・10月21日:蛇を使って客を集め、薬を売った南小田原(中央区築地)の藤兵衛、蛇を貸した市右衛門の2人捕まる、市右衛門は11月16日牢死、死骸取り捨て。藤兵衛は翌年2月江戸追放。
・10月24日:蛇使いの興行と、犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
・11月22日:旗本鳥居久大夫の召使三助ら3人死罪。11月11日門前にいた鷺を殺して食べる。

<元禄5年(1692年)>
・1月:喜多見(世田谷区)に病犬を収容する犬小屋を建設する。病馬も収容した。
・2月6日:1年前まで蛇を使い薬売りしていた又兵衛、半年前にやめた次兵衛、牢舎。6月6日江戸追放。
・8月石田坂村(青森県五所川原市)の次兵衛、熊を殺して食し津軽藩より老中に報告。牢舎11か月、新島に流罪。

<元禄6年(1693年)>
・4月30日:「遠国で猪鹿狼の害がある時はまず空砲、害がやまないなら鉄砲で打ち鎮め、下々が難儀しないよう後日大目付に書付を出せばよい。生類憐みは人々に仁心が備わるようにとの思し召しである」。
・8月9日:高田馬場(新宿区)で埋めた猪を掘り出し隠した非人3人、死罪。
・8月、趣味としての釣りを禁止する禁令が通達される

<元禄7年(1694年)>
・3月11日:「馬のもの言い」事件で浪人の筑紫団右衛門、斬罪。流罪を言い渡された八百屋の惣右衛門牢死。とばっちりで落語家の鹿野武左衛門、伊豆大島に流罪。この事件に関して口書(調書)を取られた江戸町民35万3588人。
・7月4日:霊岸島(中央区)の七左衛門、鶏のひなを食った家主の猫を殺す。牢舎後、同12日江戸十里四方追放。
・8月2日:歩行頭佐野内蔵丞の知行所の上飯田村(横浜市泉区)で猪狩りが行われ、内蔵丞は職を奪われ、逼塞処分。
・8月6日:上飯田村の百姓に猪狩りを命じた内蔵丞家来の酒井井伝左衛門、品川(鈴ヶ森刑場)で獄門。猪肉を切り取った百姓5人、隠岐島へ流罪。正直に話さなかった百姓4人追放。訴状を差し出した上飯田村百姓の忠兵衛、江戸市中引き回し品川で磔。息子は遠島。
・11月16日:江戸市中の金魚(赤色)・銀魚(白色)を清浄光寺の放生池に放つことを許可する。ただし放つときにはその数を目付に報告するよう求めている

<元禄8年(1695年)>
・2月10日:このころ千住で磔にされた犬2匹見つかる。「犬公方の威を借りて諸民を悩ます」と捨文。8月9日旗本次男で大番の河村甚右衛門が「無作法の体をなし、その上捨文いたした」罪で斬罪に処せられた。
・6月1日:四谷、大久保の犬小屋落成。同3日「町中の人に荒き犬」は四谷へ送るよう町触れ。「町中の牝犬残らずこの小屋(四谷)に入れ置かれる」と『加賀藩史料』に記されている。
・10月16日:大坂定番で三河国大給藩主松平乗成(松平縫殿頭)組の与力三浦伝之丞と同心8人、同心の子1人の計10人,鳥銃で殺生し鳥を売っていたとして切腹。ほかに浪人1人が死罪獄門、その子は遠島。同組の同心5人遠島、町人2人追放。
・10月25日:本郷菊坂(文京区)の旗本屋敷辻番の八兵衛、溝に捨てられた子犬を別の屋敷脇に捨てる。「母犬が来る所に置いた」と弁明したが、「養わず不届き」と牢舎。11月25日、浅草で斬罪獄門。辻番4人追放。
・11月13日:武蔵・中野村に野犬を収容するための16万坪の「お犬小屋」が設置される
・11月14日:中野犬小屋へ江戸町内の犬の送り込みが始まる。「不日に(すぐに)十万頭に及ぶ」(『徳川実紀』、「おおよそ犬拾金万疋なり」『年録』『柳営日次記』)。

<元禄9年(1696年)
・犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。
・2月7日:新材木町(日本橋堀留町)の半兵衛、子犬を絞め殺し、大伝馬町の孫右衛門の手代2人の名を書いて捨て捕まる。半兵衛の、孫右衛門への恨みによる犯行であった。半兵衛は26日に浅草にて磔。
・5月18日:犬小屋の犬を養うため御犬上げ金を徴収する、と江戸の町々に御触れがあった。7月4日に、御犬上げ金、小間一間(20坪)につき年に金3分を課すと通告。
・5月19日:小石川の水戸家上屋敷前で矢の刺った鴨の死体発見。8月21日小普請奉行の飯田次郎衛門、虚説を申し大島へ流罪、2人追放。犯人不明。
・7月6日:本所相生町3丁目(墨田区)で犬が殺された。大工善次郎の弟子市兵衛が捕えられ、磔となった。通報した娘しもに「ご褒美50両」と町触れが出る。西ノ久保(港区神谷町付近)で切り傷のある犬が見つかった。8月9日、村山長古の召使が掴まり、遠島となる。村山に遠慮仰せつけられる。
・8月17日:大酒飲み禁止令。「酒に酔い、心ならずも不届きする者がいる」。
・8月22日:「捨て子はいけない。妊娠、出産、傷産、流産、3歳までに死亡かなど大家、地主に知らせなさい」。

<元禄10年(1697年)>
・5月18日:御犬上げ金、小間一間につき年金3分を金1分に減額する。
・5月25日:旗本渥美友延(渥美九郎兵衛)召使の折茂小兵衛、死罪。2月24日、渥美家屋敷内で鳩を射殺したため。
・7月4日:芝で犬が切り殺された件で、筑後国久留米藩主有馬中務大輔(有馬頼元)の掃除人2人が牢舎となった。処罰不明。8月13日、有馬頼元、遠慮を命じられる。
・7月27日:銃で殺生をした男、大坂で斬刑。息子の遠島刑猶予を河内国通法寺が隆光を通じ嘆願し、認められる。
・10月9日:全国の造り酒屋に運上金(酒の値段の五割)上納を命じる。
・10月13日:青山宿での捨て犬の件で近藤德用(近藤登之介)組の同心2人、伊東出羽守の辻番人追放。
・10月26日:青山久保町の喜三郎、子馬3匹捨てた罪で、江戸市中引き回し品川鈴ヶ森刑場で獄門。

<元禄11年(1698年)>
・2月15日:本郷3丁目(文京区)の谷口与右衛門、犬を切り殺し千住小塚原刑場で磔。加賀藩屋敷脇で犬に囲まれ、脇差で1匹の頭を傷つけた。母は息子の死を嘆き鈴ヶ森刑場と小塚原刑場に石塔を立てた(『江戸真砂六十帖』)。
・8月8日:出羽国庄内藩の足軽が江戸に向かう途中、野間村(栃木県那須塩原市)で駄賃馬を切り殺した。酒に酔い前後不覚だったため幕府評定所、江戸十里四方と在所追放とする。
画家で芸人の英一蝶、三宅島に流罪となった。流罪に至った理由は諸説あるが、正式採用されたのは「釣りを行った罪」であるとされる。この年、釣り道具の販売禁止が追加で通達されている。

<元禄12年(1699年)
・10月2日:世田谷の20ヵ村に対し、中野犬小屋の犬の養育が提案された。1匹につき年に金3分の養育費を支払う。犬を養育する村はその後増え、宝永3年(1706年から5年(1708年)までに幕府が近郊の百姓に支払った養育金の合計は3万5430両になった(『竹橋余筆』)。1年平均で1万1810両。計算上、犬は1万5747匹養われていたことになる。

<元禄15年(1702年)>
・10月13日:伯楽(馬医)の橋本権之助、飼っていたアヒルを襲った犬を殺し、切腹を仰せ付けられた。

<元禄16年(1703年)>
・2月4日:幕領南山代官所管内(福島県)、南会津西沢村の馬喰彦八、捨て馬により磔。
・12月7日:火事地震につき(11月の「元禄の大火」と同月の「元禄地震」)、当年の犬扶持(御犬上げ金)が免除された。同18日、半年分返却。翌年も赦免。

<元禄17/宝永元年(1704年)>、改元して三月以降は年(1704年)
・2月18日:「生類憐みの志、いよいよ大事である。捨て子、捨て牛馬、捨て犬は堅く禁じる」。
・3月13日:宝永に改元。大地震後も天変地異、大火災、綱吉の肉親の死が続いた。綱吉は祈祷に頼り、生類憐みの令を連発したとされる。
・6月14日:大地震被害が甚大であったため、御犬上げ金赦免。翌年も赦免。

<宝永2年(1705年)>
・6月3日:「牛馬に重荷あるいは嵩高のあるものを負わせてはならない」。
・9月7日:漁師以外の釣り禁止。同20日、愛玩としての鳥の飼育禁止、同28日牛馬犬猫以外の獣類の飼育禁止、など新規項目の御触れが続々追加された。
・11月6日:「鳥方の者、鵜を捕えるのにモチ竿を投げつけるは生類憐みに背く」と追放、押込となる。
・11月25日:切手門番の肥田十郎左衛門の家人が鳥を獲り、肥田も飼育したため職を奪われ閉門。

<宝永3年(1706年)>
・8月18日:中野犬小屋へ犬移しの立ち会いに行った徒目付2人、犬をよく見ていなかったとして追放になる。
・8月21日:旗本岡野宗明(岡野孫市郎)の中間庄兵衛、庭掃除中に鶏と餌の奪い合いをするアヒルを箒で手荒に追い払い死なせた。庄兵衛は遠島。餌詰まりで死亡と検分した徒目付の石黒太夫、北条平七の両名遠島。
・8月30日:「鳥商売、ウナギ、ドジョウの商売禁止。牛馬に重荷だけでなく、かさの張る物も積んではいけない」。

<宝永4年(1707年)>
・2月22日:「雑説流言を申し触れる者がいる。落書捨文はいけない。牛馬に重荷、飼鳥、鳥獣商売一切禁止」。
・8月11日:「鳥商売厳禁。所々の茶屋でアナゴと称しウナギ蒲焼を売ると聞く。その者は召し捕り牢舎する」。
・8月27日:小石川御殿で放し飼いにされていた鶴が死に、御殿の鳥飼番4人が重追放処分を受けた。

<宝永5年(1708年)>
・7月19日:「前々より触れている通り漁師以外釣り、鳥商売、茶屋でのウナギ、ドジョウ料理は禁止である」。
・9月29日:小姓組の仙石左門、馬が途中で患い出したが、粗末に扱い、閉門を仰せ付けられる。
・10月27日:寄り合い番3人が酔って馬に傷をつけ、1人追放、2人は遠慮。
・12月16日:最後の生類憐みの令。「馬持ちの者、1人で2、3匹引き歩く者がいると聞く。万一馬が病気になったり、けがをしたりした時によろしくない。1人1匹にしなさい」。

<宝永6年(1709年)>
・1月10日:綱吉、はしかで死去。
・1月20日:生類憐みの禁が解かれた。町奉行御触れ「生類の儀、今後は(幕府から)おかまいはない。もっとも憐れむことは憐れみなさい」。小石川・鳥屋敷に飼い置いていたトビ、カラスを放す。
・2月1日:鳥獣が死んだ時の検死をやめ、将軍家の食材の禁制を廃止した。
・2月2日:小石川の野鶴畜養所を廃止し、野鶴を放す。
・3月1日:老中列座に仰せ。「鼠は衣類を害するので猫を飼い、鼠を捕らせなさい。鹿猪は田畑を荒らし人が困るので殺し、その皮は売り買い致し、肉は食べるものである」。
・3月2日:酒運上金を廃止。鳥、ウナギ、ドジョウの商売を解禁し、囚獄に入れられていた者(人数不明)を釈放する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

805年(延暦24)天台の教えを受けた最澄(伝教大師)が、唐から帰国する(新暦8月12日)詳細
1810年(文化7)武士・医師・蘭学者緒方洪庵の誕生日(新暦8月13日)詳細
1871年(明治4)「廃藩置県の詔」(新暦8月29日)が出される(廃藩置県の日)詳細
1917年(大正6)映画文化の中心地であった東京市を対象とした「活動写真興行取締規則」が公布される詳細
1945年(昭和20)北海道空襲で、青函連絡船の翔鳳丸など8隻が米艦載機の攻撃を受けて沈没する詳細
1967年(昭和42)「世界知的所有権機関を設立する条約」がストックホルムで調印される詳細
1969年(昭和44)洋画家坂本繁二郎の命日詳細
1993年(平成5)当時日本一の超高層建築物だった横浜ランドマークタワーが竣工する詳細
2008年(平成20)言語学者・国語学者大野晋の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

nichiranshyuukoutsushyoujyo
 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、安政五カ国条約の一つとされる「日蘭修好通商条約」が調印された日ですが、新暦では8月18日となります。
 「日蘭修好通商条約」(にちらんしゅうこうつうしょうじょうやく)は、江戸時代後期の1858年(安政5年7月10日)に、江戸において、江戸幕府(永井尚志・岡部長常・岩瀬忠震)とオランダ理事官ヤン・ドンケル・クルティウスとの間で結ばれた条約で、安政五カ国条約の一つとされています。黒船来航後、日本とオランダとの間で「日蘭和親条約」及び「日蘭追加条約」が結ばれていましたが、「日米修好通商条約」締結に合わせる形で締結されました。
 全11条及び税則7則によって構成され、「日米修好通商条約」に準拠し、領事裁判権、蘭国側の関税決定権、最恵国待遇などを規定した不平等条約です。開市開港場での自由貿易を主眼とする主な内容はほぼ同じであるものの、開港場として新潟をあげずに西海岸の一港とするほか、オランダ人の日本語学習など特殊な規定がありました。
 尚、この条約によって、シーボルト事件におけるシーボルトの処分は免責され、翌年には、シーボルトが再来日を果たしています。

〇安政五カ国条約(あんせいのごかこくじょうやく)とは?

 幕末の1858年(安政5)に、江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国それぞれと結んだ通商条約の総称で、勅許なく調印されたため「安政の仮条約」とも呼ばれています。安政5年6月19日に、神奈川でアメリカ総領事ハリスと幕府の全権井上清直・岩瀬忠震(ただなり)とが調印した「日米修好通商条約」を嚆矢とし、「日蘭修好通商条約」は7月10日、「日露修好通商条約」は7月11日、「日英修好通商条約」は7月18日、「日仏修好通商条約」は9月3日に調印がおこなわれました。
 この一連の条約の締結により、鎖国体制を堅持していた日本は、世界資本主義の市場の一環に組みこまれることになります。これらの条約は、自由貿易を骨子として開港を規定、関税率協定制度、領事裁判権、片務的最恵国待遇の3条項は不平等なもので、のちの条約改正まで撤廃されませんでした。
 翌年から貿易が開始されると物価騰貴が起き、尊攘派による攘夷運動や幕政批判が激しくなる要因となり、安政の大獄や井伊大老の暗殺(桜田門外の変)を招くに至ります。

☆安政五カ国条約の一覧

・「日米修好通商条約」 対アメリカ合衆国 1858年(安政5年6月19日)調印
・「日蘭修好通商条約」 対オランダ  1858年(安政5年7月10日)調印
・「日露修好通商条約」 対ロシア帝国  1858年(安政5年7月11日)調印
・「日英修好通商条約」 対イギリス  1858年(安政5年7月18日)調印
・「日仏修好通商条約」 対フランス帝国  1858年(安政5年9月3日)調印

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1821年(文政4)伊能忠敬死後門弟らが編纂していた『大日本沿海輿地全図』が完成し幕府に献上される(新暦8月7日)詳細
1927年(昭和2)岩波文庫が創刊される詳細
1944年(昭和19)横浜事件を契機として、改造社と中央公論社に解散が命じられる詳細
1945年(昭和20)仙台空襲おいて、死者・行方不明者1,000人以上、焼失家屋11,933戸、被災者57,321人を出す詳細
1947年(昭和22)静岡県静岡市の登呂遺跡で総合的な発掘調査が始まる詳細
1948年(昭和23)「日本学術会議法」が公布され、日本学術会議の設置が決められる詳細
1948年(昭和23)「温泉法」が制定・公布される詳細
1969年(昭和44)「同和対策事業特別措置法」(昭和44年法律第60号)が公布・施行される詳細
1993年(平成5)小説家井伏鱒二の命日 詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ