ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:江戸幕府

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 今日は、江戸時代後期の1841年(天保12)に、江戸幕府の命により、高島秋帆が徳丸ヶ原洋式軍事演習を行なった日ですが、新暦では6月27日となります。
 徳丸ヶ原洋式軍事演習(とくまるがはらようしきぐんじえんしゅう)は、江戸時代後期の1841年(天保12年5月9日)に、江戸幕府の命により、高島秋帆が徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で実施した、日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習です。1840年(天保11年9月)に高島秋帆は幕府に上書して、アヘン戦争の戦況を伝え、清国側の敗北を砲術の未熟に帰して、西洋砲術の採用による武備の強化を進言しました。
 それにより、翌年幕命により出府し、徳丸ヶ原洋式軍事演習(洋式砲術と洋式銃陣の公開演習)を実施することになります。当日は、老中以下の諸役人が見守る中で、長崎から連れてきた門人のほか江戸で入門した者も加えて総勢129名で、二つの歩兵部隊を編成したうえに騎兵3騎、野戦砲3門の操演をも加えた本格的な調練を行いました。
 その内容は、①モルチール砲の操練(ボンベン-榴弾、8町目先へ3発)、②モルチール砲の操練(ブランドコーゲル-焼夷弾、8町目先へ2発)、③ホーウイッスル砲の操練(ガラナート-柘榴弾、8町目先へ2発)、④ホーウイッスル砲の操練(ドロイフコーゲル-葡萄弾、4町目先へ1発)、⑤馬上筒の操練(1往復3挺使用)、⑥ゲベール銃備打(97名が一斉射撃)、⑦野戦筒の操練(3門の砲を使用)、⑧剣付ゲベール銃による銃隊調練(99名)というものでした。その結果、幕府は、高島流砲術を採用することとし、輸入砲をすべて買い上げ、併せて、代官江川英竜(太郎左衛門)に砲術の伝授を命じています。
 尚、1922年(大正11)に、陸軍を中心に高島秋帆を顕彰する動きがあり、当時の徳丸原の弁天塚に徳丸原遺跡碑(その後、徳丸ヶ原公園へ異説)、松月院に紀功碑がそれぞれ建立されました。

〇高島秋帆(たかしま しゅうはん)とは?

 江戸時代後期の兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者です。1798年(寛政10年8月15日)に、長崎において、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれましたが、名は茂敦(通称四郎太夫)と言いました。父から荻野流、天山流砲術を学び、1814年(文化11)には、父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となります。
 通詞にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり、出島に来たオランダ人から直接に兵学・西洋砲術を学び、大砲の購入・鋳造に努め、1834年(天保5年)には高島流砲術を完成させ、教授するようになりました。翌年には、入門して学んでいた肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上しています。
 1840年(天保11年)のアヘン戦争に触発され、『泰西火攻全書』を著わし、洋式砲術の振興を幕府に進言しました。翌年幕命で出府し、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ない、幕府に高島流砲術が採用され、幕臣江川太郎左衛門、下曾根金三郎の二人に高島流を皆伝して長崎に帰ります。
 しかし、幕府町奉行鳥居耀蔵の讒言にあい、1842年(天保13)に謀反の罪を着せられ、お家断絶となって投獄されました。その後、幽囚10年の1853年(嘉永6)にペリー来航など世情も大きく変化したこともあって、赦免されて出獄、江川太郎左衛門の許に身を寄せます。
 1855年(安政2)に、幕府の普請役に取り立てられ、翌年には具足奉行格となり、さらに講武所砲術師範役も勤めるようになりました。1864年(元治元)に『歩操新式』等の教練書を編纂、「火技中興洋兵開基」と称えられ、日本の軍事近代化に大きな足跡を残したものの、1866年(慶応2年1月14日)に、江戸において、数え年69歳で亡くなっています。

☆高島秋帆関係略年表(日付は旧暦です)

・1798年(寛政10年8月15日) 長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれる
・1814年(文化11年) 父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となる
・1823年(文政6年) 26歳の時、出島に来たオランダ商館長スチュルレルから近代洋式砲術を学ぶ
・1834年(天保5年) 私費で銃器等を揃え、高島流砲術を完成させる
・1834年(天保5年) 肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門する
・1835年(天保6年) 鍋島茂義に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上する
・1838年(天保9年) 長崎の大火で、大村町(現在の万才町)の高島邸が類焼する
・1840年(天保11年) アヘン戦争に触発され、『泰西火攻全書』を著わし、洋式砲術の振興を幕府に進言する
・1841年(天保12年5月9日) 武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なう
・1842年(天保13年) 長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となる
・1853年(嘉永6年) ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄する
・1855年(安政2年) 幕府の普請役に任ぜられる
・1856年(安政3年) 幕府の講武所砲術師範役、具足奉行格となる
・1857年(安政4年) 富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤める
・1864年(元治元年) 『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂する
・1866年(慶応2年1月14日) 数え年69歳で死去する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)江戸幕府が豪商・住友家に別子銅山の採掘を許可する(新暦6月5日)詳細
1862年(文久2)江戸幕府が派遣した文久遣欧使節により、ロンドン覚書が締結される(新暦6月6日)詳細
1876年(明治9)明治天皇行幸で東京の上野公園の開園式が行われる詳細
1904年(明治37)小説家武田麟太郎の誕生日詳細
1906年(明治39)書家金子鷗亭の誕生日詳細
1915年(大正4)中国・袁世凱政府が日本の「対華21ヶ条要求」を受諾詳細
1942年(昭和17)「金属類回収令」に基づく閣令「回収物件の譲渡申込期間指定に関する件」が公布される詳細
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 今日は、江戸時代中期の1730年(享保15)に、江戸幕府が上げ米の制を停止し、参勤交代の期間を元の1年おきに戻した日ですが、新暦では5月31日となります。
 上げ米の制(あげまいのせい)は、江戸時代中期に幕府の財政窮乏を救うため享保の改革の一つとして、1722年(享保7年7月3日)に八代将軍徳川吉宗が諸大名に「上げ米の令」を出して課した制度です。諸藩に1万石につき 100石の割合で上納させ、その代償として、諸大名の参勤交代で江戸に在府する期間を半分にし、負担軽減を図りました。
 反対する意見も多かったので、幕府財政が一応安定した1730年(享保15年4月15日)に廃止され、参勤交代制も以前に戻りました。
 以下に、「上げ米の令」の原文と現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「上げ米の令」 (全文) 1722年(享保7年7月3日)発布

 上げ米の令

 御旗本[1]ニ召し置かれ候御家人[2]、御代々[3]段々相増し候。御蔵入高[4]も先規[5]よりハ多く候得共、御切米[6]御扶持[7]方、其外表立候[8]御用筋[9]渡方[10]ニ引合[11]候ては、畢竟[12]年々不足之事ニ候。然共只今迄は所々の御城米[13]を廻され、或ひは御城金[14]ヲ以て急を弁ぜられ、彼是漸く御取続の事[15]ニ候得共、今年ニ至て御切米[8]等も相渡し難く、御仕置筋之御用[16]も御手支[17]之事ニ候。それニ付、御代々[3]御沙汰[18]之無き事ニ候得共、万石以上の面々[19]より八木[20]差上げ候様ニ仰付らるべしと思召し、左候ハねば御家人[2]之内数百人、御扶持[7]召放さるべくより外は之無く候故、御耻辱[21]をも顧みられず仰せ出され候。高壱万石ニ付八木百石積り[22]差上げらるべく候。且又此の間和泉守[23]ニ仰付られ、随分詮議[24]を遂げ、納り方の品、或ひハ新田等取立の儀申付け候様ニとの御事ニ候得共、近年の内ニ相調へがたく之有るべく候条、其の内年々上り米仰付らるる之有るべく候。之ニ依り、在江戸半年充御免成され候[25]間、緩々[26]休息いたし候様ニ仰せ出され候。

    『御触書寛保集成』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<現代語訳>

 将軍直属の旗本として任用された御家人(家臣)は、将軍の代ごとにだんだん数が増えてきた。天領の貢租収入も以前よりは多くなっているが、切米・扶持などの俸禄米やその他主要な経常支出の支払高と比較すると、結局毎年不足なのである。しかしながら、現在までは軍事や飢餓対策などのために、幕府が備蓄した米や金を使って急場をしのぎ、彼是しばらく財政収支を取り繕ってきたけれど、今年に至っては、切米なども渡すことが難しく、政治向きの費用にも支障が出てきた。そのため、代々の将軍からこのような命令はなかったことなのだが、一万石以上の大名たちより米を上納するよう命じようと将軍がお考えになった。そうしなければ御家人の内数百人を辞めさせるより他はないので、恥を忍ばれてお命じになったものである。石高一万石について米100石の割合で上納せよ。かつまた、この間水野和泉守に命じられて、随分吟味をして、年貢納入の増強、あるいは新田開発のことを申し付けるようにとのことではあるけれど、近年の内にきちんとした状態になるのは難しい状況であり、その間毎年上げ米を命じられることである。この代わりとして参勤交代の江戸滞在を半年ずつ免除されるので、(国元で)ゆっくり休息するようにと命令された。

【注釈】
 [1]御旗本:おんはたもと=本来は、お目見以上の将軍直属の家臣のことだが、ここでは、将軍直属の家臣のこと。
 [2]御家人:ごけにん=本来は、お目見以下の将軍直属の家臣のことだが、ここでは、将軍家の家来という意味。
 [3]御代々:おんだいだい=将軍の代が替わること。
 [4]御蔵入高:おくらいりだか=天領からの貢租収入。
 [5]先規:せんき=以前。
 [6]御切米:おきりまい=春に1/4、夏に4/1、冬に1/2ずつ3期に分けて支給される旗本・御家人への俸禄のこと。
 [7]御扶持:おふち=月々支給された俸禄で、何人扶持(1人扶持持は1日玄米5合)という基準になっていた。
 [8]表立候:おもてだちそうろう=主要な。
 [9]御用筋:ごようすじ=経常支出のこと。
 [10]渡方:わたしかた=支出。
 [11]引合:ひきあい=比較すること。
 [12]畢竟:ひっきょう=結局。要するに。
 [13]御城米:ごじょうまい=軍事や飢餓対策などのために、幕府が備蓄した米のこと。
 [14]御城金:ごじょうきん=軍事や飢餓対策などのために、幕府が備蓄した金のこと。
 [15]御取続の事:おんとりつづきのこと=財政収支を取り繕ってきたこと。
 [16]御仕置筋之御用:おしおきすじのごよう=政治向きの費用。行政費。
 [17]御手支:おてつかえ=さしつかえること。支障をきたすこと。
 [18]御沙汰:おんさた=将軍の命令、指示、決定のこと。
 [19]万石以上の面々:まんごくいじょうのめんめん=大名のこと。
 [20]八木:はちぼく=米のこと。米の字を分解すると“八木”となることから来ている。
 [21]御耻辱:おんちじょく=はじ。はずかしめ。恥辱。
 [22]高壱万石に付米百石の積り:たかいちまんごくにつきひゃっこくのつもり=1万石に付き、米100石の割合で。
 [23]和泉守:いずみのかみ=勝手掛老中だった水野忠之のこと。
 [24]詮議:せんぎ=吟味。
 [25]在江戸半年充御免成され候:ざいえどはんとしあてごめんなされそうろう=参勤交代の江戸滞在を半年免除する。
 [26]緩々:ゆるゆる=ゆっくりと。

☆「享保の改革」とは?

 江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が幕藩体制の安定と強化のため、江戸時代中期に、その在任期間(1716~1745年)を通じて行なった諸改革で、寛政の改革、天保の改革と共に、江戸幕府の三大改革の一つと言われ、その最初に行われたものです。内容は、幕政機構の再編、法制の立て直し、都市商業資本の統制などで、具体的には以下の主要な政策が実施されました。

<享保の改革の主要政策>

【経済政策】

・質素倹約の奨励
・定免制を施行
 年貢収納の強化をはかる
・「足高の制」
 各地位ごとに授与される給与を定め、地位についている時に元の禄高に足されて支給した
・「上げ米の制」
 1万石につき100石を上納させる
・「相対済令」
 金銭貸借についての訴訟を認めず当事者間の話し合いによる解決を命じたもの
・元文の改鋳
 貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる貨幣改鋳策
・新田開発の奨励
 商人など民間による新田開発を奨励

【文教政策】

・キリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入の緩和
・武芸奨励

【社会政策】

・町火消の制
 江戸「いろは」47組を結成させる
・目安箱の設置
 施政の参考意見や社会事情の収集などを目的に、庶民の進言を集めるための投書箱
・堂島米市場の公認

【法制整備】

・「公事方御定書」
 幕府の基本法典。判例を法規化した刑事裁判の際の基準となる刑事判例集
・「御触書寛保集成」
 幕府法令の集大成

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1710年(宝永7)江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布する(新暦5月13日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1900年(明治33)日本画家山本丘人の誕生日詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1834年(天保5)に、水野忠邦(天保の改革を推進)が、江戸幕府の老中に就任した日ですが、新暦では4月9日となります。
 水野忠邦(みずの ただくに)は、江戸時代の大名・老中で天保の改革の主導者です。江戸時代後期の1794年(寛政6年6月23日)に、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男(母は側室中川恂)として、江戸の同藩上屋敷にて生まれましたが、幼名は於菟五郎と言いました。
 1805年(文化2)に、長兄の芳丸が早世したため、唐津藩の世子となり、忠邦と称し、1807年(文化4)に元服、従五位下・式部少輔に叙位・任官します。1812年(文化9)に父・忠光が隠居したため、家督を相続し、唐津藩第4代藩主となりました。
 1815年(文化12)に奏者番、1817年(文化14)には、遠江国浜松に移封と共に、寺社奉行兼任となります。その後、第11代将軍・家斉のもとで重く用いられるようになり、1825年(文政8)に大坂城代となり、従四位下に昇位し、1826年(文政9)には京都所司代となって、侍従・越前守に昇叙しました。
 1828年(文政11)に西丸老中、1834年(天保5)に本丸老中、1839年(天保10)に老中首座へと登り詰めます。1841年(天保12)に大御所・家斉が亡くなると御側御用取次水野忠篤らの側近を迅速果断に一掃し、第12代将軍・家慶の信任を得て、天保の改革を断行しました。
 しかし、きびしい奢侈取り締まりや年貢増などが反発を呼び、1843年(天保14)の「上知令」断行が大名・旗本の反対に遭うなどして、同年閏9月13日に老中を罷免されて失脚します。翌年復職しましたが、まもなく辞任し、1845年(弘化2)には、在任中の不正を理由に減封され、隠居・謹慎となりました。
 そして、出羽国山形に懲罰的転封を命じられましたが、忠邦は山形には同行できないままとなります。その中で、1851年(嘉永4年2月10日)に、江戸において、数え年58歳で亡くなりました。

〇天保の改革(てんぽうのかいかく)とは?

 江戸時代後期の1841年(天保12)から、江戸幕府第12代将軍徳川家慶の厚い信任を受け、老中首座の水野忠邦が主導した幕政改革で、享保の改革、寛政の改革と共に江戸幕府の三大改革の一つとされています。
 内憂外患の深刻な危機の打開をめざし、奢侈一掃と質素倹約を強調、特に都市に厳しい統制を実施しました。その内容は、株仲間解散、「人返し令」、「異国船打ち払い令」を撤回した「薪水給与令」、「上知令」、印旛沼工事、御料所改革、貨幣改革、日光社参などです。しかし、あまりに急激な改革で、大名・旗本から農民、町人に至るまであらゆる階層の利害と衝突して失敗し、水野忠邦は1843年(天保14年閏9月13日)に老中を罷免されて失脚しました。

<天保の改革の主要政策>

【経済政策】

・「倹約令」
 ぜいたくや初物の禁止
・「株仲間解散令」
 物価引き下げと在郷商人の直接統制を意図する
・「人返し令」
 都市に流入した農民を帰村させる
・「上知令」
 江戸と大坂周辺を直轄地とする
・印旛沼干拓工事
・御料所改革
・貨幣改革
 貨幣を改鋳して質を落とす

【文教政策】

・出版統制
 人情本の為永春水、合巻の柳亭種彦を処罰する
・江戸の歌舞伎三座を場末の浅草に移転する
・日光社参

【外交政策】

・「天保の薪水給与令」
 「異国船打ち払い令」の緩和

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)仏教排斥を唱える物部守屋が、疫病の流行が原因が仏教崇拝にあると奏上する(新暦4月5日)詳細
1871年(明治4)郵便制度が新設され、郵便物の取扱、最初の切手(竜文切手)の発行が始まる(新暦4月20日)詳細
1912年(明治45)余部鉄橋の完成により、山陰鉄道の香住駅~浜坂駅間が開業し、京都駅~出雲今市駅間が全通する詳細
1941年(昭和16)国民学校令」が公布される詳細
1952年(昭和27)小説家・劇作家・俳人久米正雄の命日(三汀忌)詳細
1954年(昭和29)第五福竜丸が太平洋のビキニ環礁のアメリカ水爆実験で被曝する(ビキニデー)詳細
1982年(昭和57)当時の日本国有鉄道が「青春18きっぷ」の前身にあたる「青春18のびのびきっぷ」の発売を開始する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1772年(明和9)に、田沼意次が江戸幕府の老中に就任した日(田沼時代)ですが、新暦では2月18日しなります。
 田沼時代(たぬまじだい)は、江戸時代中期に、田沼意次が側用人・老中として、長男の意知と共に、江戸幕政の実権を掌握していた時期を言います。期間は、意次が側御用人となった明和4年(1767年)から、老中を辞任させられた天明6年(1786年)の間とされてきました。
 その政策は、問屋、株仲間の育成を強化、貨幣の増鋳、貿易量の増加、下総印旛沼の開拓、商品農産物栽培の奨励などで、前代の緊縮財政策を捨て、商人資本を利用したところに特徴があります。しかし、商人と結託して、賄賂が公然と上下に横行し、田沼父子の専横に批判が高まり、天明の大飢饉や百姓一揆・打ちこわし続発の中で、第10代将軍徳川家治が死後に失脚しました。
 一方で、自由な世情の中で、新しい学問(古学、国学、蘭学など)や庶民文化(川柳、俳諧、狂歌、読本、絵画など)の発達の機運が高まったともされます。
 
〇田沼意次(たぬま おきつぐ)とは?

 江戸時代中期の幕臣・大名・老中です。1719年(享保4年7月27日)に、江戸本郷弓町(現在の東京都文京区)で、旗本の田沼意行の嫡男として生まれましたが、幼名は龍助といいました。
 1734年(享保19)、数え年16歳のとき第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となり、1735年(享保20)には、父の死去に伴って家督を継ぎ、1737年(元文2)に主殿頭に叙任されます。1751年(宝暦元)に第9代将軍徳川家重の御側衆となり、1758年(宝暦8)には、加増により1万石を与えられて大名へ出世しました。
 1767年(明和4)に、側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城し、1772年(安永元)には老中に進んで、たびたびの加封で5万7千石を領するに至ります。この間、幕政の実権を掌握するようになり、印旛沼・手賀沼の干拓による新田開発等の積極的な経済政策をとり、いわゆる田沼時代を現出しました。
 しかし、物価が騰貴し、賄賂政治を横行させることにもなり、折しも明和の大火(1772年)、浅間山天明大噴火(1783年)などの災害が続き、さらに天明の大飢饉が起こるにおよんで、批判が高まります。その中で、1784年(天明4)に子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に、将軍家治が死去すると勢力を失って失脚、老中も辞任させられ、藩領収公により、1万石に減封されました。
 これらにより、失意のうちに1788年(天明8年6月24日)、江戸において、数え年70歳で亡くなりました。

☆田沼意次関係略年表(日付は旧暦です)

・1719年(享保4)7月27日 旗本の田沼意行の嫡男として生まれる
・1734年(享保19) 第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となる
・1735年(享保20) 父の死去に伴って家督(600石)を継ぐ
・1737年(元文2) 従五位下主殿頭に叙任される
・1747年(延享4) 小姓組番頭格となる
・1748年(寛延元) 1,400石を加増され、合計2,000石となる
・1751年(宝暦元)4月18日 第9代将軍徳川家重の御側衆となる
・1755年(宝暦5) 3,000石を加増され、合計5,000石となる
・1758年(宝暦8) 5,000石の加増により、合計1万石を与えられて大名となる
・1767年(明和4)7月1日 側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城する
・1769年(明和6)8月18日 侍従にあがり老中格となる
・1772年(明和9)1月15日 老中に進む
・1772年(明和9)2月29日 明和の大火が起こる
・1783年(天明3) 浅間山の天明大噴火が起こる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉が始まる
・1784年(天明4)4月2日 子の意知が江戸城内で暗殺される
・1786年(天明6)8月25日 第10代将軍家治が死去する
・1786年(天明6)8月27日 老中を辞任させられる
・1786年(天明6)閏10月5日 家治時代の加増分の2万石を没収される
・1787年(天明7)10月2日 石高3万7,000石が召上げられ蟄居となる
・1788年(天明8)6月24日 江戸において、数え年70歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1862年(文久2)坂下門外の変が起きる(新暦2月13日)詳細
1872年(明治5)彫刻家平櫛田中の誕生日(新暦2月23日)詳細
1899年(明治32)雑誌「反省雑誌」を「中央公論」と改題して発足する詳細
1936年(昭和11)日本がロンドン海軍軍縮会議からの脱退を通告する詳細
1940年(昭和15)静岡大火が起こり、5,275戸を焼失、死者1名、負傷者788名を出す詳細
1961年(昭和36)横浜マリンタワーが開館する詳細
1974年(昭和49)長崎県の端島炭鉱(軍艦島)が閉山する詳細
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 今日は、江戸時代後期の天保10年に、蛮社の獄で、江戸幕府が渡辺崋山に蟄居、高野長英に永牢を命じた日ですが、新暦では1840年1月22日となります。
 蛮社の獄(ばんしゃのごく)は、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判します。
 これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。そして、幕政批判の罪により、同年12月18日に、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されます。
 これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。

〇蛮社の獄で逮捕された主要な人物

・渡辺崋山(田原藩年寄)47歳
・高野長英(町医者)36歳
・順宣(無量寿寺住職)50歳
・順道(順宣の息子)25歳
・山口屋金次郎(旅籠の後見人)39歳
・山崎秀三郎(蒔絵師)40歳
・本岐道平(御徒隠居)46歳
・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣)66歳

〇渡辺崋山(わたなべ かざん)とは?

 江戸時代後期の三河国田原藩の家老で、画家でも、蘭学者でもありました。本名は渡辺定静といい、1793年(寛政5)江戸詰の田原藩士である渡辺定通の長男として、江戸麹町の田原藩邸(現在の東京都千代田区)で生まれます。
 16歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕し、1823年(文政6)田原藩の和田氏の娘・たかと結婚しました。そして、1825年(文政8)父の病死に伴い32歳で家督を相続しています。
 その後頭角を現し、1832年(天保3)に田原藩の年寄役末席(家老職)となり、藩務に勤めながら、蘭学を学び、画は谷文晁に師事し、画才を認められました。天保の飢饉の時には、食料対策に「報民倉」を設け餓死者を一人も出さなかったなど、施政者としても評価されています。
 しかし、モリソン号事件に関わって、「慎機論」を著し、幕府の鎖国政策を批判したため、蛮社の獄で高野長英らと共に捕らえられました。その後、田原に蟄居していましたが、1841年(天保12)に、49歳で自刃しています。画作としては、「鷹見泉石像」(国宝)、「佐藤一斎像」(国重要文化財)、「市河米庵像」(国重要文化財)などが知られています。

〇渡辺崋山著『慎機論』とは?

 渡辺崋山が、1838年(天保9)10月15日に参加した、尚歯会の席上で近く漂流民を護送して渡来する英船モリソン号に対し、幕府が撃攘策をもって対応する(モリソン号事件)といううわさを耳にし、これに反対して著したものです。しかし、途中で筆を折り、公開しなかったのですが、蛮社の獄の際、幕吏が渡辺崋山の自宅を捜索して発見し、断罪の根拠とされました。
 その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。

☆『慎機論』抜粋

(前略)
今我が四周渺然[1]の海、天下拠る所の堺にして、我にありて世に不備の所[2]多く、彼が来る、本より一所に限ること能はず。一旦事あるに至ては、全国の力を以てすといへども、鞭の短くして、馬の腹に及ばざる[3]を恐るるなり。況んや西洋膻睲の徒[4]、四方[5]明かにして、万国を治め、世々擾乱[6]の驕徒[7]、海船火技[8]に長ずるを以て、我短にあたり、方に海運を妨げ、不備をおびやかさば、逸を以て労を攻む、百事反戻して、手を措く所なかるべし[9]。維昔[10]唐山[11]滉洋[12]恣肆[13]の風轉し、高明[14]空虚[15]の学盛なるより、終に其光明[16]蔀障[17]せられ、自ら井蛙の管見[18]にをつるを不知也。況や明末曲雅[19]風流[20]を尚ひ、兵戈[21]日々警むと云ども、苟も酣歌[22]皷舞[23]め士気益猥薄に陥り、終に国を亡せるが如し。嗚呼今夫れこれを在上[24]の大臣に責んと欲すれども、固より紈袴[25]の子弟、要路[26]の権臣[27]を責んと欲すれども、賄賂[28]の倖臣[29]、唯これ心有る者は儒臣[30]、儒臣[30]亦望浅ふして大を措き、小を取り、一々[31]皆不痛不癢[32]の世界と成れり。今夫此の如く束手[33]して寇[34]を待んか。
              田原藩  崋山邊誌

【注釈】

[1]渺然:びょうぜん=果てしなく広々としているさま。
[2]不備の所:ふびのところ=必要なものが完全にはそろっていない場所のこと。ここでは、海岸防備が手薄な場所。
[3]鞭の短くして、馬の腹に及ばざる:むちのみじかくして、うまのはらにおよばざる=鞭が短くて馬の腹に届かないことから、勢力が不十分で、周辺にその力の及ばないところがあるという意味。
[4]西洋膻睲の徒:せいようせんせいのと=西洋の生臭い連中。
[5]四方:しほう=自国のまわりの国。諸国。また、あらゆる所。諸方。天下。
[6]擾乱:じょうらん=入り乱れて騒ぐこと。また、秩序をかき乱すこと。騒乱。
[7]驕徒:きょうと=驕り高ぶった連中。
[8]火技:かぎ=小銃・大砲などを操作する技術。
[9]逸を以て労を攻む。百事反戻して、手を措く所なかるべし:いつをもってろうをおさむ、ひゃくじはんれいして、てをおくところなかるべし=十分休んで遠方から疲れてやってくる敵を迎え撃つ。この戦法に全く真逆のことをして手を付けることができなくなる。(孫子の兵法)
[10]維昔:いせき=むかし。
[11]唐山:とうざん=中国のこと。
[12]滉洋:こうよう=広くて深い海。
[13]恣肆:しし=自分の思うままにすること。また、そのさま。わがまま。放縦。
[14]高明:こうめい=立派ですぐれた見識、考え。
[15]空虚:くうきょ=実質的な内容や価値がないこと。
[16]光明:こうみょう=明るい見通し。希望。
[17]蔀障:ぶしょう=遮られること。遮断されること。
[18]井蛙の管見:せいあのかんけん=狭い見識。見識の狭さ。
[19]曲雅:きょくが=格調が高く上品な音楽。王侯貴族の歌。
[20]風流:ふうりゅう=上品で優美な趣のあること。優雅なおもむき。
[21]兵戈:へいか=戦争。いくさ。
[22]酣歌:かんか=心ゆくまで酒を飲んで、快い気分で歌う。
[23]皷舞:こぶ=鼓を打って舞わせること。
[24]在上:ざいじょう=上にあること。上の階層にあること。
[25]紈袴:がんこ=貴族の子弟。特に、柔弱な者をいう。
[26]要路:ようろ=重要な地位や職務。権力威勢ある役。
[27]権臣:ごんしん=権勢のある家来。
[28]賄賂:わいろ=自分に都合のよいようにとりはからってもらう目的で他人に贈る品物や金銭。まいない。そでのした。
[29]倖臣:こうしん=お気に入りの家来。
[30]儒臣:じゅしん=儒学をもって仕える臣下。
[31]一々:いちいち=一つ残らず。どれもこれも。ことごとく。
[32]不痛不癢:ふつうふよう=痛くもかゆくもない。通り一遍である。いい加減でおざなりである。何ら問題とするに足りない。
[33]束手:そくしゅ=手をつかねること。手出しをしないこと。反抗しないで傍観すること。手をこまねいて。
[34]寇:こう=外部から侵入してくる敵。外敵。賊。

<現代語訳>

(前略)
 今我が国の周囲は広くて深い海に囲まれ、世界の諸国との国境となしているものの、我が国においては海岸防備が手薄な場所が多く、外国が来寇するとすれば、もとより一ヶ所とは限らない。一旦危急のことがあるならば、全国の兵力を集めても不十分で、周辺にその力の及ばないところがあるのではと心配になる。まして西洋の生臭い連中、諸国の情勢に明るく、万国を支配し、世界の秩序をかき乱す驕り高ぶった連中なのだ。航海術や小銃・大砲などを操作する技術に長けているので、我が国の短所に付け入り、まさに海運を妨害して、海岸防備の手薄を突かれれば、「十分休んで遠方から疲れてやってくる敵を迎え撃つという戦法に、全く真逆のことをして手を付けることができなくなる。」(孫子の兵法)であろう。昔、中国が広くて深い海をほしいままにして風のように転じたのに、立派ですぐれた見識だが内容や価値がない学問が盛んになるにつれ、ついにその明るい見通しが遮られ、自ら狭い見識に落ち込んでいったことがわからなかった。まして、明時代末期には格調が高く上品で優美な趣が久しくなり、戦争を日々警戒していたと言っても、不相応にも心ゆくまで酒を飲んで、快い気分で歌い、鼓を打って舞わせたりして、士気はますます淫らで軽薄に陥り、終に国を亡してしまった如くである。
 ああ、今この事を(朝廷の)上層の大臣に訴えようとしても、もとより育ちのよい軟弱者であり、(幕府の)重責を持つ権勢のある者に訴えようとしても、賄賂を使うお気に入りの者ばかりなのだ。ただ心有るのは儒学をもって仕えている者ではあるが、その者でさえ志が浅く、大事を捨てて、小事に走り、どれもこれも皆、いい加減でおざなりであるという世界となっているのだ。今このように手をこまねいていて、外敵を待てというのか。
          田原藩   渡辺崋山記す

〇高野長英(たかの ちょうえい)とは?

 江戸時代後期の医師・蘭学者です。1804年(文化元年5月5日)に、陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市水沢)において、水沢領主水沢伊達家家臣の父・後藤実慶の三男(母は美代)として生まれましたが、名は譲(ゆずる)と言いました。幼いころ父と死別し、母方の伯父高野玄斎の養子となります。
 1820年(文政3)に、江戸に赴き、蘭方医術を杉田伯元や吉田長淑に学び、1825年(文政8)に長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学びました。1828年(文政11)にシーボルト事件が起こると、いちはやく姿をかくし、各地を転々としてから、1830年(天保元)に江戸に戻り、麹町貝坂で町医者となります。
 1832年(天保3)に翻訳『西説医原枢要』内編5巻を脱稿し、渡辺崋山や江川英龍らと情報交換のため尚歯会に参加して交際を深めました。1836年(天保7)の天保の大飢饉の際、『救荒二物考』で早ソバとジャガイモの栽培を説き、『避疫要法』で伝染病対策を訴えます。
 1837年(天保8)に起きた「モリソン号事件」を聞き、翌年『戊戌夢物語』を書いて幕府の対外強硬策を批判しました。それによって、1839年(天保10)の蛮社の獄で、崋山と共に逮捕され、永牢終身刑の判決を受け、投獄されます。
 しかし、1844年(弘化元)の牢屋敷の火災の際、放たれて戻らず、人相を変えながら逃亡生活を続けました。1848年(嘉永元)には、伊予宇和島藩主伊達宗城の保護を受け、蘭学を講述しながら、兵書『三兵答古知幾(タクチーキ)』などを翻訳します。
 翌年江戸に再潜入し、高橋柳助、沢三伯の名で町医者を営んでいたものの、1850年(嘉永5年10月30日)に、何者かに密告されて町奉行所に踏み込まれ、数え年47歳で自殺しました。

〇高野長英著『戊戌夢物語』(ぼじゅつゆめものがたり)とは?

 高野長英が1838年(天保9)に、夢に託して江戸幕府を批判した書物で、「夢物語」とも呼ばれています。同年10月15日に尚歯会の例会の席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに聞き及び、このモリソン号事件を憂えて書かれ、夢の中で討議を聞いた婉曲な形式をとりました。
 内容は、イギリスの国勢の情報で、とくにアジア、中国への交易進出問題を取り上げ、鎖国下にある日本に対して漂流民送還を口実に開国を迫っている現状を述べて、これを撃退しようととする「異国船打払令」がいかに無謀なものであるかを警告したものです。しかし、幕政批判の書として蘭学者弾圧の口実とされ、蛮社の獄の起因となりました。

☆『戊戌夢物語』抜粋

(前略)
西洋ノ風俗[1]ハタトヘ敵船ニ候モ、自国ノ者其内ニアルトキハ、放砲不仕事ニ候。然処、イキリスハ日本ニ対シ敵国ニモ之無ク、イハゝ付合モナキ他人ニ候處、今漂流人[2]ヲ憐ミ、仁義[3]ヲ名トシ、態々送来候モノヲ、何事モ取合不申、直ニ打払ニ相成[4]候テハ、日本ハ民ヲ不燐不仁[5]ノ国ト存シ。若万一其不仁[5]不義[6]ヲ憤テ、日本近海ニハイキリスノ属島夥シク之在、始終通行致候得ハ、後来、海上ノ寇[7]ヲ相ナシテ、海運ノ邪魔[8]相成候モ難計、左候得自然[9]国ノ大患[10]ニモ相成可申ヤ。譬右等ノ儀コレ無トモ、右打拂ニ相成候ハゝ、理非[11]モ分リ不申異国ヘ対シ不義[6]ノ国ト申觸レ、義国ノ名ヲ失ヒ、是ヨリ如何ナル患害[12]、萌生[13]仕候ヤモ難計、或ハ頻ニイキリスヲ恐候ヤウニモ考付ラレ候ハゝ、国内衰微仕候ヤウニ推察仕候、恐ナカラ、御武威[14]ヲ損シ候ヤウニモ相成候ハント、考ラレ候。
(後略)

【注釈】

[1]風俗:ふうぞく=習慣。
[2]漂流人:ひょうりゅうにん=アメリカのモリソン号が伴ってきた日本人の漂流漁師7名のこと。
[3]仁義:じんぎ=仁と義。道徳上守るべき筋道。
[4]直ニ打払ニ相成:ただちにうちはらいにあいなり=1837年に「異国船打払令」でモリソン号を砲撃して追い返したこと。
[5]不仁:ふじん=仁義のない。
[6]不義:ふぎ=人として守るべき道にはずれること。また、その行い。
[7]寇:こう=外部から侵入してくる敵。外敵。賊。
[8]海運ノ邪魔:かいうんのじゃま=沿岸航路による物資輸送の障害になること。
[9]自然:しぜん=当然。
[10]大患:たいかん=大きな心配事。大きなわざわい。
[11]理非:りひ= 理と非。道理に合っていることとそむいていること。是非。理否。
[12]患害:かんがい=これからどうなるかという心配。また、他に迷惑を及ぼす悪事。
[13]萌生:ほうせい=草木がもえ出ること。転じて、物事が起こり始まること。
[14]頻ニ:しきに=何度も何度も。しきりに。
[15]武威:ぶい=たけだけしい威力。武力の威勢。また、武家の威光。

<現代語訳>

(前略)
西洋の習慣では、たとえ敵船であっても、自国の者が乗船している時には、鉄砲を打ちかけたりはしない。しかし、イキリスは日本に対し敵国ではなく、いってみれば、付合もない他人であるから、今、日本人の漂流民を憐れんで、道徳上守るべき筋道として、わざわざ送り届けてくれたものを、何も取り合わずに、ただちに「異国船打払令」によって打払ってしまえば、日本は人民を憐れまない仁義のない国となってしまう。もし、万一その仁義がなく、人として守るべき道にはずれていることを憤れば、日本近海にはイキリスの属島を多く所有し、始終艦船が通行しているので、後に、海上の敵となって、沿岸航路による物資輸送の障害にもなるかもしれない、そうなれば、当然国の大きなわざわいともなるであろう。たとえ右のようなことがなかったとしても、打払いを行えば、道理がわからないとして、異国ヘ対し人として守るべき道にはずれた国だと言いふらし、仁義の国という名を失い、これよりどのような迷惑を及ぼす悪事が、起こり始まるか計り知れない、あるいは、しきりにイキリスを恐れるように思いこまされると、国内が衰微するようにも推察され、恐れながら、武力の威勢を損なうことになりはしないかと、考える次第である。
(後略)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1869年(明治2)日本2番目の洋式灯台である野島埼灯台が初点灯する(新暦1870年1月19日)詳細
1914年(大正3)東京駅の開業式が行われる(東京駅完成記念日)詳細
1917年(大正6)相模鉄道株式会社が創立総会を開催する詳細
1947年(昭和22)「過度経済力集中排除法」が公布施行される詳細
1948年(昭和23)連合国最高司令官総司令部(GHQ)が日本経済自立復興の為の「経済安定9原則」を指令する詳細
1997年(平成9)東京湾横断道路(愛称:東京湾アクアライン)が開通する詳細
2002年(平成14)「東京地下鉄株式会社法」が公布・施行される詳細
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