
幕末オランダ留学(ばくまつおらんだりゅうがく)は、1862年(文久2)~1868年(明治元)にかけて、行われた江戸幕府による、オランダ留学生の派遣です。先進国の軍事技術・学問修得のため、優秀な幕臣と職人をえりすぐってオランダに派遣しました。
命を受けたメンバーは、軍艦操練所から榎本武揚(釜次郎)、沢太郎左衛門、赤松則良(大三郎)、内田正雄(恒次郎)、田口俊平、蕃書調所から津田真道(真一郎)、西周(周助)、そこに、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、さらに鋳物師や船大工等の技術者である職方7名が一行に加わり、留学先で海軍関連の技術や社会科学、医学等を学びます。1862年(文久2)6月18日に、留学生一行14名(残り2名は長崎から参加)は、品川沖に碇泊中の「咸臨丸」に乗船し、長崎に向けて出港しましたが、機関が故障や船内での「はしか」の流行があって遅れ、ようやく8月23日に長崎に到着しました。
長崎でオランダ船カリプス号に乗り換え、9月11日に出港しましたが、この船がインドネシアのバンカ島とビリトン島間の海峡で暗礁に乗り上げ座礁、別の船に乗り換えるという苦難を経て、翌年4月18日にオランダ・ロッテルダムに到着できます。その後、ロッテルダムを経てライデンに到着し、一部はハーグへ向かい、翌月には学習を開始しました。
各人は同地で長期にわたって勉強し、1865年(慶応元)~1868年(明治元)にかけて、順次帰国し、日本の諸科学の基礎を築いたとされます。
命を受けたメンバーは、軍艦操練所から榎本武揚(釜次郎)、沢太郎左衛門、赤松則良(大三郎)、内田正雄(恒次郎)、田口俊平、蕃書調所から津田真道(真一郎)、西周(周助)、そこに、長崎で医学修行中の伊東玄伯、林研海が加わり、さらに鋳物師や船大工等の技術者である職方7名が一行に加わり、留学先で海軍関連の技術や社会科学、医学等を学びます。1862年(文久2)6月18日に、留学生一行14名(残り2名は長崎から参加)は、品川沖に碇泊中の「咸臨丸」に乗船し、長崎に向けて出港しましたが、機関が故障や船内での「はしか」の流行があって遅れ、ようやく8月23日に長崎に到着しました。
長崎でオランダ船カリプス号に乗り換え、9月11日に出港しましたが、この船がインドネシアのバンカ島とビリトン島間の海峡で暗礁に乗り上げ座礁、別の船に乗り換えるという苦難を経て、翌年4月18日にオランダ・ロッテルダムに到着できます。その後、ロッテルダムを経てライデンに到着し、一部はハーグへ向かい、翌月には学習を開始しました。
各人は同地で長期にわたって勉強し、1865年(慶応元)~1868年(明治元)にかけて、順次帰国し、日本の諸科学の基礎を築いたとされます。
〇榎本武揚(えのもと たけあき)とは?
江戸時代後期から明治時代に活躍した幕臣・外交官・政治家です。1836年〈天保7年8月25日〉に、江戸下谷(現在の東京都台東区)において、幕臣で西ノ丸御徒目付・榎本円兵衛武規の次男として生まれましたが、通称は釜次郎と言いました。
12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。
1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。
同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。
1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。
1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。
その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。
旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。
12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。
1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。
同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。
1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。
1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。
その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。
旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。
〇西周(にし あまね)とは?
幕末から明治時代に活躍した哲学者・啓蒙思想家・教育者です。江戸時代後期の1829年(文政12年2月3日)に、石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医の家柄だった父・西時義の子として生まれましたが、幼名は経太郎(のち周助)と言いました。
幼少より学問を好み、1841年(天保12) から藩校・養老館で蘭学を学び、藩主の許しを得て医家より儒者に転じ、大坂・岡山遊学を経て藩校養老館の教官となります。1853年(嘉永6年)に江戸詰となりましたが、ペリー来航の情勢のなかで洋学へ転じ、翌年には洋学に専念するために脱藩し、手塚律蔵の塾に学び、中浜万次郎に英語を学びました。
1857年(安政4)に蕃書調所の教授並手伝となり、1862年(文久2)には幕命で津田真道・榎本武揚らと共にオランダに留学、ライデン大学でシモン・フィッセリングに師事し、法学、経済学、統計学などを学びましたが、J.S.ミル,A.コントの哲学に共鳴し、1865年(慶応元年)に帰国します。1866年(慶応2)に開成所教授に昇進、1867年(慶応3)の大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出、翌年に徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任、同年に『万国公法』の訳刊もしました。
1870年(明治3)には、明治新政府の命により東京に移って兵部省に出仕し、近代軍制の整備にあたり、1880年(明治13)には『軍人勅諭草案』を著します。一方で、1873年(明治6)に森有礼、福澤諭吉らと共に明六社を結成、翌年には機関紙「明六雑誌」を発行、功利主義に基づく倫理思想を展開した『人世三宝説』等の論文を寄稿、「哲学」、「真理」、「芸術」、「理性」など多くの哲学用語を訳出し、西洋哲学の紹介と啓蒙思想の普及に努めました。
1881年(明治14)に獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)の創立に参画、東京師範学校の校務嘱託ともなり、1883年(明治16)には獨逸学協会学校の初代校長に就任しています。また、東京学士会院会長、元老院議官、貴族院議員などを歴任したものの、体調を損ね、1892年(明治25)には神奈川県大磯の別邸に移りました。
1897年(明治30)に勲一等瑞宝章を受章、男爵ともなりましたが、同年1月31日に大磯の別邸において、数え年69歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
幼少より学問を好み、1841年(天保12) から藩校・養老館で蘭学を学び、藩主の許しを得て医家より儒者に転じ、大坂・岡山遊学を経て藩校養老館の教官となります。1853年(嘉永6年)に江戸詰となりましたが、ペリー来航の情勢のなかで洋学へ転じ、翌年には洋学に専念するために脱藩し、手塚律蔵の塾に学び、中浜万次郎に英語を学びました。
1857年(安政4)に蕃書調所の教授並手伝となり、1862年(文久2)には幕命で津田真道・榎本武揚らと共にオランダに留学、ライデン大学でシモン・フィッセリングに師事し、法学、経済学、統計学などを学びましたが、J.S.ミル,A.コントの哲学に共鳴し、1865年(慶応元年)に帰国します。1866年(慶応2)に開成所教授に昇進、1867年(慶応3)の大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出、翌年に徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任、同年に『万国公法』の訳刊もしました。
1870年(明治3)には、明治新政府の命により東京に移って兵部省に出仕し、近代軍制の整備にあたり、1880年(明治13)には『軍人勅諭草案』を著します。一方で、1873年(明治6)に森有礼、福澤諭吉らと共に明六社を結成、翌年には機関紙「明六雑誌」を発行、功利主義に基づく倫理思想を展開した『人世三宝説』等の論文を寄稿、「哲学」、「真理」、「芸術」、「理性」など多くの哲学用語を訳出し、西洋哲学の紹介と啓蒙思想の普及に努めました。
1881年(明治14)に獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)の創立に参画、東京師範学校の校務嘱託ともなり、1883年(明治16)には獨逸学協会学校の初代校長に就任しています。また、東京学士会院会長、元老院議官、貴族院議員などを歴任したものの、体調を損ね、1892年(明治25)には神奈川県大磯の別邸に移りました。
1897年(明治30)に勲一等瑞宝章を受章、男爵ともなりましたが、同年1月31日に大磯の別邸において、数え年69歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 764年(天平宝字8) | 孝謙太上天皇の寵臣・道鏡を除こうとする謀叛(藤原仲麻呂の)が発覚する(新暦10月10日) | 詳細 |
| 810年(大同5) | 藤原藥子・仲成らが平城天皇の復位を企てて失敗した、薬子の変が起きる(新暦10月12日) | 詳細 |
| 972年(天禄3) | 僧侶・民間浄土教の先駆者空也の命日(新暦10月20日) | 詳細 |
| 1008年(寛弘5) | 第68代の天皇とされる後一条天皇の誕生日(新暦10月12日) | 詳細 |
| 1900年(明治33) | 東京の上野・新橋両駅に日本初の公衆電話が設置される(公衆電話の日) | 詳細 |
| 1924年(大正13) | 東京天文台(国立天文台の前身)が三鷹に移転する | 詳細 |
| 1940年(昭和15) | 内務省が「部落会町内会等整備要領」を通達し、隣組(隣保班)が制度化される | 詳細 |
| 1949年(昭和24) | 明治大学考古学研究室が、相沢忠洋が発見した群馬県岩宿遺蹟の発掘調査を開始する | 詳細 |
| 1961年(昭和36) | 「世界野生生物基金(WWF)」(世界自然保護基金の前身)が設立される | 詳細 |



