ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:江戸幕府

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 今日は、江戸時代前期の1603年(慶長8)に、徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開くこととなった日ですが、新暦では3月24日となります。
 江戸幕府(えどばくふ)は、徳川家康が、1603年(慶長8年2月12日)に、征夷大将軍の宣下を受けて、江戸に開いた武家政権です。1867年(慶応3)に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還するまで、265年にわたって継続し、江戸時代と呼ばれました。
 家康以来続いた徳川の宗家は、第7代将軍家継の死で途絶えたのですが、御三家から将軍を迎え継続することになります。その後、将軍継嗣問題が起きたり、三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)を中心とした諸改革も行われましたが、幕府を立て直すことはたいへんでした。
 1853年(嘉永6)にペリーが浦賀に来航して開国を要求し、攘夷運動から倒幕運動へと進み、1867年(慶応3)の大政奉還によって、江戸幕府の終わりを告げています。

〇徳川家康(とくがわ いえやす)とは?

 戦国時代から江戸時代前期の武将・江戸幕府初代将軍です。1542年(天文11年12月26日)に、三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で、岡崎城主だった父・松平広忠の長男(母は於大の方)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。
 6歳のとき、人質として駿府(現在の静岡県静岡市)の今川義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られ、広忠の死後、今川・織田間の捕虜交換協定によって駿府に赴きます。1555年(弘治元)に義元の館で元服し、義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)と名のりますますが、1558年(永禄元)に初陣し、この頃元康と改名しました。
 1560年(永禄3)の桶狭間の戦いでは、大高城兵糧入で武名を挙げたものの、義元が敗死すると、岡崎城に帰り、今川氏から自立します。翌年に織田信長と同盟、1563年(永禄6)に名を家康と改めますが、三河一向一揆に悩まされました。
 翌年これを鎮圧、同年三河一国を平定し、1567年(永禄9)に松平を徳川と改姓、東方への進出を図り、1570年(元亀元)には浜松に本拠を移します。同年の姉川の戦いで信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破し、その後、武田信玄と絶って上杉謙信と同盟したものの、1572年(元亀3)の三方原の戦いで信玄に大敗しました。
 しかし、1575年(天正3)の長篠の戦で家康・信長連合軍は武田勝頼の軍に大勝し、1582年(天正10)に信長が武田氏を滅ぼすと家康は駿河を手に入れます。同年に本能寺の変において信長が死亡すると、天正壬午の乱を制して甲斐・信濃を手中に収め、5ヶ国を領有する大大名となりました。
 1584年(天正12)には、羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙しましたが、和睦して臣下となり、駿府に本拠を移します。1590年(天正18)に秀吉の小田原征伐に従軍、後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入りました。
 1596年(慶長元)に正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなします。秀吉の死後は朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮、石田三成と反目して、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに至ったものの、これに勝利し、1603年(慶長8)に征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。
 1605年(慶長10)に将軍職を秀忠に譲りましたが、大御所として実権を握りつづけます。1614年(慶長19)から翌年にかけての大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めたものの、1616年(元和2年4月17日)に、駿府において、数え年75歳で亡くなりました。

☆江戸幕府の歴代将軍(徳川家)一覧

【初代】家康(いえやす)[1603年(慶長8)~1605年(慶長10)]
・1603年 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
・1605年 将軍職を秀忠にゆずる(将軍職の世襲制を示す)

【2代】秀忠(ひでただ)[1605年(慶長10)~1623年(元和9)]
・1612年 幕府が直轄領に禁教令を出す
・1614年 大坂の役(~1615年)が起こる
・1615年 一国一城令が発布される
     武家諸法度・禁中並公家諸法度が出される
【3代】家光(いえみつ)[1623年(元和9)~1651年(慶安4)]
・1625年 関所・駅伝の制を定める
・1635年 武家諸法度で参勤交代を制度化する
・1637年 島原の乱が起こる
・1639年 ポルトガル船の来航を禁止する(鎖国の完成)
・1641年 オランダ人を長崎の出島に移す
・1644年 宗門改めの制を定める
・1649年 慶安の御触書が出される

【4代】家綱(いえつな)[1651年(慶安4)~1680年(延宝8)]
・1651年 慶安事変(由井正雪の乱)が起こる
・1657年 江戸で明暦の大火が起こる
・1673年 分地制限令が制定される

【5代】綱吉(つなよし)[1680年(延宝8)~1709年(宝永6)]
・1685年 生類憐れみの令が出される
・1688年 柳沢吉保が側用人になる
・1690年 聖堂を湯島に移し、昌平坂学問所を付設する
・1702年 赤穂事件が起こる
・1707年 富士山宝永噴火が起こる

【6代】家宣(いえのぶ)[1709年(宝永6)~1712年(正徳2)]
・1709年 新井白石の改革(正徳の治)が行われる
・1711年 朝鮮通信使の待遇簡素化される

【7代】家継(いえつぐ)[1712年(正徳2)~1716年(享保元)]
・1714年 正徳金銀の改鋳が行われる
・1715年 海舶互市新令が出される
・1716年 家継が8歳で没する

【8代】吉宗(よしむね)[1716年(享保元)~1745年(寛保5)]
1721年 目安箱が設置される
・1722年 上げ米の制をもうけ、参勤交代をゆるめる
・1723年 足高の制を定め、人材を登用する
・1732年 享保の大飢饉が起こる
・1742年 公事方御定書を出し、裁判の基準を定める

【9代】家重(いえしげ)[1745年(寛保5)~1760年(宝暦10)]
・1753年 薩摩藩に木曽川改修を命じる(宝暦治水)
・1758年 宝暦事件が起こる

【10代】家治(いえはる)[1760年(宝暦10)~1786年(天明7)]
  1772年 江戸で明和の大火が起こる
・1767年 田沼意次が側用人になる
・1782年 印旛沼・手賀沼の干拓工事
      天明の大飢饉(~1787年)が起こる
・1783年 浅間山天明大噴火が起こる

【11代】家斉(いえなり)[1787年(天明7)~1837年(天保8)]
・1789年 棄捐令が出される
・1790年 朱子学以外の学問が禁止される(寛政異学の禁)
・1808年 フェートン号事件が起こる
・1825年 異国船打払令が出される
・1833年 天保の大飢饉が起こる
・1837年 大塩平八郎の乱が起こる

【12代】家慶(いえよし)[1837年(天保8)~1853年(嘉永6)]
・1839年 蛮社の獄(渡辺崋山、高野長英ら処罰)
・1841年 株仲間解散令が出される
・1843年 人返しの法が制定される
      上知令が制定される
・1853年 ペリ-が浦賀に来航し、開国を要求

【13代】家定(いえさだ)[1853年(嘉永6)~1858年(安政5)]
・1854年 アメリカと日米和親条約を結ぶ
      日露和親条約(国境画定)
・1855年 長崎に海軍伝習所が設置される
・1856年 ハリスが総領事として着任する
・1853年 アメリカと日米修好通商条約を結ぶ

【14代】家茂(いえもち)[1858年(安政5)~1866年(慶応2)]
・1858年 安政の大獄が起こる
・1860年 桜田門外の変で井伊直弼が殺される
・1862年 坂下門外の変が起こる
      和宮が将軍家茂に降嫁する
      生麦事件が起こる
・1863年 薩英戦争が起こる
・1864年 禁門の変が起こる
      下関事件が起こる
      長州征伐(第一次)が行われる
・1865年 長州征伐(第二次)が行われる

【15代】慶喜(よしのぶ)[1866年(慶応2)~1867年(慶応3)]
・1867年 兵庫開港の勅許が出される
      大政奉還が行われる
      王政復古の大号令が発せられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

729年(神亀6)長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(新暦3月16日)詳細
1231年(寛喜3)第87代の天皇とされる四条天皇の誕生日(新暦3月17日)詳細
1386年(至徳3/元中3)室町幕府第4代将軍足利義持の誕生日(新暦3月12日)詳細
1823年(文政6)写真業創始者・写真家・画家下岡蓮杖の誕生日(新暦3月24日)詳細
1889年(明治22)黒田清隆内閣総理大臣が鹿鳴館において、地方長官らに対し超然主義演説をする詳細
1947年(昭和22)志賀直哉が会長となって日本ペンクラブを再建する詳細
1954年(昭和29)物理学者・冶金学者本多光太郎の命日詳細
1996年(平成8)小説家司馬遼太郎の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1859年(安政6)に、長崎海軍伝習所が閉鎖された日ですが、新暦では3月13日となります。
 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、江戸幕府が洋式海軍創設のため、長崎に開設した海軍教育機関でした。江戸時代後期の1855年(安政2)6月に、オランダ国王がスンビン号(後の観光丸)を幕府に献呈したのを契機として、長崎に海軍伝習所を設置することにし、同年7月29日に、矢田堀景蔵、勝麟太郎らが一期生に選ばれ、オランダ人より汽船運転術を学ぶよう命じられます。
 その後準備が進められ、長崎奉行所の西役宅を校舎に、オランダ海軍軍人 22名を教官として雇い、同年10月22日に出島のオランダ館にて開所式が行われ、24日に伝習が開始されました。第一期生は、幕臣70名、諸藩から129名で、その中に勝麟太郎(海舟)、矢田堀景蔵らの幕臣のほか、五代友厚、川村純義(薩摩藩)、佐野常民(佐賀藩)ら諸藩士がいました。
 目的が海軍の養成だったので、軍艦の操縦術のみではなく、造船術や医術、語学などの様々な教育が、日課を定め、海陸で行なわれます。翌年3月に一期生が修了、続いて二期生が入り、1857年(安政4)4月に江戸の築地講武所内に軍艦操練所が新設されると、総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地に教員として移動しました。同年8月にヤパン号(後の咸臨丸)でカッテンダイケが来日して教授したりしましたが、財政負担が大きいなどの理由により、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになります。その結果、1859年(安政6)2月9日をもって閉鎖され、オランダ人教官は本国へと引き上げました。
 しかし、長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の明治政府海軍創設の基礎となって活躍します。また、併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身ともなりました。

〇長崎海軍伝習所関係略年表(日付は旧暦です)

<1855年(安政2)> 
・6月 オランダ国王がスンビン号(のち観光丸)を幕府に献呈
・7月29日 矢田堀景蔵、勝麟太郎らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる 
・9月3日  昌平丸にて長崎海軍伝習所一期生が品川を出発する 
・10月20日  昌平丸が長崎へ着く 
・10月22日  長崎海軍伝習所の開所式が、出島のオランダ館で行われる 
・10月24日  長崎奉行所内西役宅を校舎に海軍伝習が開始される、

<1857年(安政4)> 
・3月1日  長崎海軍伝習所の一期生が修了する 
・3月4日  長崎海軍伝習所一期生が観光丸にて江戸へ帰途に就く 
・3月26日  観光丸が上関・御手洗・鳥羽経由で品川沖に着く 
・4月11日  江戸の築地講武所内に軍艦操練所を設置する 
・5月8日  長崎海軍伝習所一期生が軍艦操練所教授方などへ任命される 
・8月5日  ヤパン号(後の咸臨丸)でカッテンダイケが長崎へ来る

<1858年(安政5)>
・8月 咸臨丸が長崎海軍伝習所休講で築地の軍艦操練所所属になる 

<1859年(安政6)> 
・2月9日 長崎海軍伝習所は閉鎖され、オランダ人教官は本国へ引き上げる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1834年(天保5)政治家・佐賀藩士江藤新平の誕生日(新暦3月18日)詳細
1856年(安政3)外交官・政治家原敬の誕生日(新暦3月15日)詳細
1921年(大正10)小説家庄野潤三の誕生日詳細
1946年(昭和21)日本農民組合(日農)が再建結成される詳細
1948年(昭和23)国立国会図書館の組織及び任務、所掌事務などを定めた、「国立国会図書館法」が公布される詳細
1951年(昭和26)日本青年会議所が設立される詳細
1982年(昭和57)経済学者・浮世絵研究家・元文部大臣高橋誠一郎の命日詳細
1989年(平成元)漫画家・アニメ監督・医師手塚治虫の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1687年(貞享4)に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の命により、諸藩に初めて「生類憐みの令」が発令され、犬だけだったものを牛馬などにまで拡大した日ですが、新暦では3月11日となります。
 「生類憐れみの令」(しょうるいあわれみのれい)は、江戸時代中期に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉によって、1685年(貞享2)~1709年(宝永6)まで実施された、極端な動物愛護令です。「生類を憐れむ」ことを趣旨とした諸法令の通称で、憐みの対象は牛馬・犬・鳥類をはじめあらゆる生類に及びました。
 鷹狩・狩猟にも制限が加えられましたが、特に犬に関しては重視され、1695年 (元禄8) に、江戸中野、四谷、大久保などに犬小屋を建てて犬を養い、その費用を江戸町民に課しています。違反者は死罪・遠島などに処せられたので、世の不満を買い、悪政の評判が高く、綱吉は「犬公方 (いぬくぼう) 」と揶揄されました。
 しかし、1709年(宝永6)に、綱吉が亡くなると、第6代将軍徳川家宣によって、廃止されています。

〇「生類憐れみの令」(抜粋)

  (一)覚
馬の筋のへ(延べ)候儀、第一用方に不宜、其上不仁なる儀にて、御厩(うまや)に立候御馬共、先年より御停止(ちょうじ)被仰付候えとも、今以世上にてハ拵馬在之由候、向後堅御制禁被仰出者也、
 貞享二年丑九月十八日

  (二)覚 御台所張紙写
鳥類貝類海老、向後於御台所つかひ申間敷(もうすまじき)旨被仰渡候、乍然公家衆御馳走其外御振舞之節は可為各別事(かくべつたるべきこと)以上、
 貞享二年丑十一月七日

  (三)覚
惣て人宿又ハ牛馬宿其外にも生類煩(わずらい)重く候えハ、未死内(いまだしなざるうち)に捨候様粗(あらあら)相聞候、右之不届(ふとどき)之族有之は、急度(きっと)可被仰付候、密々左様成儀有之候ハヽ、訴人に出へし、同類たりといふとも、其科(とが)をゆるし、御褒美(ほうび)可被下者也、
 (貞享四年)卯正月日

  (四)口上之覚
今度書付出候上ハ、身体かろ(軽)きものハ、はこくみ(育み)かね(兼ね)可申候間、町人ハ町奉行、地方(じかた)ハ御代官、道中筋ハ*高木伊勢守、給所は地頭え訴可申者也、
 (貞享四年)卯正月日
     *高木守勝。大目付、道中奉行兼任

  (五)覚
 一 捨子有之候ハヽ、早速不及届(とどけるにおよばず)、其所之者いたハリ置、直ニ養候か、又ハ望之者有之候ハヽ、可遣(つかわすべく)候、急度不及付届候事、
 一 鳥類畜類人の疵付(きずつけ)候様成ハ、唯今迄之通可相届候、其外友くひ(共食い)又ハおのれと痛煩候計にてハ不及届候、随分致養育、主有之候ハヽ、返可申事、
 一 無主犬頃日は食物給させ不申候様に相聞候、畢竟食物給させ候えハ、其人之犬之様に罷成、以後迄六ヶ敷(むつかしき)事と存、いたハり不申と相聞、不届候、向後左様無之様可相心得(あいこころうべき)事、
 一 飼置候犬死候えハ、支配方え届候様相聞候、於無別条は、向後ヶ様之届無用事、
 一 犬計に不限、惣て生類人々慈悲の心を本といたし、あハれミ候儀肝要事、
    以上
 (貞享四年)卯四月日

  『御当家令条』巻33より

   覚
一、生類あはれみ候儀に付、最前書付を以て仰出され候所、今度武州寺尾村、 同国代場村の者、病馬これを捨て不届の至に候。死罪にも仰付けらるべく候 得共、今度は先ず命御たすけ、流罪に仰付けられ候。向後相背くに於ては、 急度曲事に仰付けらるべく候。御料は御代官、私領は領主地頭より、前方仰 出され候趣、弥堅く相守り候様に急度申付くべき者なり。
  貞享四年四月

   覚
本所相生町三町目大工善次郎弟子
   犬を切殺し候者市兵衛
右市兵衛犬切殺し候由、本所相生町弐町目左官嘉兵衛と申す者の娘しもと申す小女申し候に付、御□議相知れ候間、御褒美として金子五拾両しもに下され候。
  子八月
右の通仰付けられ候間、町中家持は申すに及ばず、借家店かり出居州召仕等迄、残らず申聞くべく候。以上。
  元禄九年子八月六日

 元禄十年丑四月廿五日迄書上高
一、三年以前元禄八年亥五月廿五日より四谷御囲え人に荒き犬納る、同年十一 月廿四日より中野御囲え納ね候事。
一、町方犬、中野大久保両御囲え納め候犬数、同亥十月書上高四万弐千百八疋、 其外出生書落。
一、同新御支配御囲え納高、去子六月書上高千九百疋。
 右の外出生犬弐千八百八拾壱疋、残り犬拾五疋、三口合納高四万八千七百四 拾八疋。残り犬百五拾壱疋

  『正宝事録』より 

☆生類憐みの令関係略年表(日付は旧暦です)

<天和3年(1683年)>
・2月3日:生類、高級織物などぜいたく品の輸入を禁止する。
・2月29日:「辻番ハ道路ノ病人、酒酔イヲ介抱スヘシ」。

<貞享元年(1684年)>
・会津藩に対し、「生類を憐れむ」ためとして、鷹の献上を禁じる。
・4月6日:上総国市場村の惣右衛門、御鷹場で鳥を捕まえ、老中指図により牢屋斬罪。ただしこれは、幕府の狩場での勝手な猟はそもそも禁止であり、生類憐みの令とは深い関係は無い。
・8月28日:生類憐みの令に反対の立場であった大老の堀田正俊が、若年寄の稲葉正休に刺殺された。

<貞享2年(1685年)>
・2月12日:高札立つ。「近ごろ江戸近辺でみだりに鉄砲を撃つ者がいる。捕まえた者、訴えた者に賞金を出す」。
・4月14日:駿河国上柚野村の佐野藤兵衛、武州羽生領下之村の伝兵衛の案内で鶴2匹を撃つ。2人とも品川獄門(鈴ヶ森刑場にて晒し首)。
・5月21日:上総国神納村の弥五兵衛、御法度の場所で鉄砲を使い鳥を撃ち、牢屋斬罪。首は神納村で獄門。
・7月14日:将軍御成の道では犬・猫を繋がずに放しておいて構わない
・7月14日:御成り道に犬が出ないよう門前の犬数十匹を捕まえ、俵に詰めて隅田川に沈めた浅草観音の手代、遠島になる。「僧侶の法にそむいた」と浅草観音別当知楽院忠運と代官閉門。8月6日忠運は追放。
・9月18日:以前からの禁止である馬の筋を延ばさないこと
・11月7日:江戸城において、鳥・貝・エビを料理に使うことを禁じる。
・12月16日:旗本清水権之助(清水政広)組の三郎左衛門、新吉原で網を張り鴨を捕る。翌年1月18日牢死。死骸取り捨て。
・12月25日:鷹匠頭の間宮左衛門の同心2人精進日に鶴を捕獲し死罪、鷹師切腹。間宮は職を奪われ閉門。

<貞享3年(1686年)>
・2月3日:「馬の尾を巻くのは雨天の時、縄二重までならよい。馬喰の馬は拵え馬と紛らわしく一切禁止」。
・2月7日:「馬の尾先を焼くのは養生(治療)のためならよい。尾ぐきを切り、焼きごてをあてるのは禁止」。
・6月6日:御小姓の伊東基祐(伊東淡路守)、服忌令を守らず、頬にとまった蚊を手で打ち殺し供奉したため、閉門処分。
・7月19日:大八車でイヌや猫を轢かないように注意することと、最前からの通達のように、野犬に餌をやらないことと、生類のやり取りをしない風潮があるとして、「生類あわれみ」の志をもって対応するように申し付けた法令。
・9月1日:伊予国西条藩主松平頼純(松平左京大夫)使用人の加左衛門、酒を飲み前後不覚、南青山で米を積んだ馬の尻を小刀で刺す。牢舎、追放。
・9月5日:芝車町(港区高輪)長蔵の大八車が船町(日本橋室町)で犬をひき殺す。長蔵は牢舎入り、8日後に赦免される。
・12月16日:永井直敬(永井伊賀守)家来召使、長谷川町(日本橋堀留町)で犬を突き殺す。酒狂い、揚屋(武士などが入る牢屋)入り、同24日赦免。

<貞享4年(1687年)>
・1月1日:病馬を捨てることを禁止
・1月28日:諸藩に初めて生類憐みの令が発令される。「生類の病気が重ければ死なないうちに捨てるように聞いている。不届きである。ひそかに捨てる者がいれば訴え出なさい。褒美を下される」。
・2月4日:江戸城台所頭の天野五郎太夫、八丈島に遠島。本丸の井戸に蓋を忘れ、猫が2匹落ちて死んだ。さらにそれを知らずに井戸水を使って料理を行ったため。
・2月11日:「町内の犬の毛色などを記しておきなさい。いなくなったら犬は探さなくてよい」。
・2月16日:「鷹場での殺生を禁じる。ひそかに鷹を使う者がいれば訴え出なさい」。
・2月21日:「老中に心得違いがあった。養い置いた犬が見えなくなったら尋ねて探しなさい。犬がいなくなった時、よそから別の犬を連れてきて数合わせをしてはならない」。
・2月21日:「(将軍、老臣への)鳥類献上は年に1度、少量。生きた魚、貝類は禁止」と諸大名に命じる。
・2月27日:魚鳥類を生きたまま食用として売ることを禁止(鶏と亀と貝類も含む)
・2月28日:「御触れが出て急に鳥を絞め殺すのはいけない。生きた魚、生いけすの魚、貝類のほか鯉、鮒、海老など生きたものの商売は禁止」貝採り漁民困窮の訴えでひな祭りのハマグリ解禁。
・3月26日:「鳥類(食用)飼育禁止。鶏、アヒル、唐鳥などは餌がないと飢えるので飼ってもよい」。
・3月28日:新銀町(神田司町)の奥平、板橋で犬を切り捕まる。酒酔い記録なし。4月6日江戸追放。
・4月:捨て子を養育すること、人が傷つけた鳥類・畜類は届け出るように通達。
・4月7日:駿河国田中藩主土屋政直(土屋相模守)中間、数寄屋町(中央区銀座)で犬7、8匹に吠えかけられ衣類にかみつかれ、脇差を抜き払い、犬を傷つける。揚屋入り。不意のことにつき、6月4日赦免。
・4月9日:病馬を捨てた武蔵国神流川領寺尾村(横浜市)の3人が三宅島へ遠流に処される。同領代場村の7人も流罪。(武蔵国村民10人)。
・4月10日:小石川御殿番・保泉市右衛門の奴僕角右衛門、喧嘩していた犬を脇差で切り逃走。のち出頭した。八丈島に流罪となる。主人の保泉は俸禄を召上げられる。
・4月11日:「捨て子は届けなくてよい。望むものにあげてよい。金銭は不要」「鳥類、畜類を人が傷つけたら届けなさい。とも食い、自ら痛みわずらう時は届けなくてよい」「主なき犬、居つかないように食べ物をやらないのは不届き。左様にしてはならない」「飼い置いた犬が死んでも別条なければ届けなくてよい」「犬に限らず、生類、人々、慈悲の心を元としてあわれむことが肝要である」。
同日:師匠の弔い帰りの権兵衛、神田鍋町(千代田区鍛冶町)で犬3匹が師匠女房の駕籠に吠えかかり、脇差を抜き追い払い、犬の耳を傷つける。「不届き」と揚屋入り後、6月24日江戸十里四方追放。
・4月21日:「犬猫が死んだら捨ててはいけない。埋めておきなさい」。
・4月23日:「町中で生きたイモリ、黒焼き商売を禁じる」。
・4月30日:江戸城中門を警護する持筒組与力、同心遠慮を命じられる。門上の鳩に小石を投げ追い払ったため。
・5月12日:岡部隠岐守六尺(駕籠かき)角左衛門、当月11日西ノ久保(港区神田町付近)で犬を切り殺す。辻番が捕え、牢舎入り。10月20日牢死。
・6月10日:大八車で味噌を運ぶ召使2人、宇田川町(港区浜松町)でアヒルをひき殺す。牢舎後同24日赦免。
・6月23日:宇田川町(港区)の文四郎、駄馬馬を脇差で切る。馬と百姓けが。酒で記憶なし。7月16日赦免。
・6月26日:多々越甚大夫(旗本秋田季品の家臣)が、徳川家綱の命日である6月8日に、吹矢で燕を撃ち、5歳児の病気養生に食わせたため死罪。これを見ていた同僚の山本兵衛は八丈島へ流罪。
・7月2日:「(江戸の町)どこでも生類売買禁止。虫を飼うこともいけない」。同日、京橋の虫売りが牢舎処分。桧物町(中央区日本橋)の三助、井戸の樋を転んで落とし、これが犬に当たり死んだ。牢舎後、同6日赦免。
・7月3日:馬を引いていた九兵衛、下舟町(日本橋小舟町)で鶏を踏み殺す。牢舎後、8月15日赦免。
・9月13日:「辻番人は生類を傷つけた往来の者がいれば人を同行させ、居所を確かめ、目付に申し出なさい」。
・9月29日:倒れた馬を放って帰り、死なせた武蔵国下仙川村(調布市)の次郎兵衛が牢舎。12月29日八丈島流罪。
・12月9日:「鹿猪の害があれば玉を込めずに鉄砲でおどしなさい」。
・12月12日:「最近も捨て馬する者がいる。この度も流罪を仰せ付けた。今後も重科とする」。
・12月23日:「捨て馬御慈悲をもって今度も流罪とした。理由によっては御代官、地頭の責任とする」。
 月不明:常陸国下館藩主増山正弥(増山兵部)の家来、犬にかまれ、その犬を切り殺した罪で切腹。土屋大和守の家来、犬にかまれ少し犬を切り江戸追放。大和守も遠慮を命じられる。土井信濃守[35]中間、犬をたたいた罪で扶持を奪われる。

<元禄元年(1688年)>
・1月29日:「屋号、人名などに鶴の字、鶴の紋の使用禁止する」。
・2月18日:トビとカラスの巣払い令を出す。江戸町人地を除く。(元禄6年2月から江戸町人地にも発令)。
・4月12日:餌差の弥兵衛、前夜浅草たんぼで網を張り鴨を獲る。揚屋入り後、翌年8月12日隠岐島に流罪。
・5月29日:1月20日に鶏2羽を売った飴売り伊右衛門、品川で獄門。仲介した増上寺門前町(港区)与四兵衛は4月8日に牢死。鳥を買った新堀同朋町与兵衛は5月10日に牢死。岩井町(千代田区岩本町)の清兵衛、品川などで鳥を獲ったと白状し、本所三つ目横堀で獄門。芝金杉(港区)の作右衛門、本所三つ目横堀で獄門。1月26日に同所八兵衛ら茶船を借り、もち縄を使い押上村(墨田区)で白雁4羽を捕らえる。八兵衛は牢中で患い病死。6月19日囚人待遇改善。
・5月30日:鳩をおびき寄せるための鳩笛が役に立たず小細工奉行大類次郎衛と手代ら3人追放、町大工1人手鎖。御城中門で鳩に小石を投げた御小人新右衛門を江戸から追放。
・6月19日:牢死が多く、囚獄(小伝馬町)の待遇改善を命じる。冬に風が吹き抜けないよう所々に格子を設け、行水は月に5度ずつ、宿無しには雑紙をやり、秋には布子を1枚増やして2枚与えるようにした。
・8月22日:餌差頭の内田市郎右衛門父子が佐渡島へ、子弟6人が薩摩国へ流罪。鳥銃を隠していた罪。
・8月27日:留守居番与力の山田伊右衛門、門外に子犬が捨ててあったのを養わなかったため追放。
・10月3日:武蔵国新羽村(横浜市港北区)の西方寺、コウノトリが巣を掛けた木を切り閉門処分。村人も罪を蒙る。
・10月9日:道中奉行御触れ「病牛馬捨ててはいけない。病気の旅人には薬をやり面倒を見なさい」。
・12月25日:武蔵国上忍田村で鳥を捕まえていた百姓の安左衛門、犬が吠えかかるので鎌を投げつけた。犬は左前足に少々けが。名主より訴えがあり、牢舎。翌年2月27日に神津島へ流罪。

<元禄2年(1689年)>
・1月9日:神田鍛冶町の久兵衛、鶏をしめ、毛をむしり捕まる。約2年間牢舎、のち赦免。
・1月16日:芝金杉(港区)の山伏法光院、犬2匹を切り怪我をさせた。酒で記憶なし。牢舎後、2月6日追放。
・2月2日:側用人で犬支配役喜多見重政が罷免され改易。
・2月27日:病馬を捨てた武士14人、農民25人、神津島に流罪。
・3月6日:湯島広小路辻番3人、水路内に犬の死体があり、番を申し付けられたが、近くを立ち回るうちに上流の堰板が外されて増水、犬の死体は押し流されて見えなくなった。3人は牢舎後、江戸五里四方追放処分。
・5月11日:生類憐みの令以前のことが罪に問われた。貞享3年(1686年)9月から同4年(1687年)2月まで持弓頭(城警備担当)の中根正和(中根主税)に捕えられ、牢舎入り。中根の交代[注釈 3]で身柄が後任に引き渡され、以下全員死罪となる。清兵衛・五郎左衛門・鮒屋市郎兵衛・善兵衛・勘兵衛、お堀で鯉鮒獲り、牢屋死罪。八兵衛、お堀の鯉鮒買い取り、牢屋死罪。安左衛門・仁左衛門・久兵衛、お堀で鯉鮒獲り、牢屋死罪後、獄門[37]。
・6月28日:「猪鹿狼は害になる時のみ銃で撃ってよい。死骸はそこに埋め、売ること食べることを禁止する」。
・10月4日:評定所目安読の坂井伯隆、閉門。評定所で犬が喧嘩をしているのを止めず、犬が死んだため]。
・10月9日:白金台(港区)の安右衛門ら6人、3月14日猪狩り。薩摩国の島へ流罪。ほか1人、隠岐島へ流罪。
・10月10日:病気の犬にも餌を与えるよう通達。

<元禄3年(1690年)4月18日:常陸国作屋村(つくば市)の酒屋平兵衛、馬を打ち殺し江戸十里四方と在所追放。
・10月25日:捨て子禁止令。「捨て子はいよいよ御禁制である。養育できなければ申し出なさい」。
・11月3日:7歳までの子供の届け出制。「子供の出生、死亡、奉公、養子、引越、名主方の帳面につけ置くこと」。

<元禄4年(1691年)8月12日:小野吉兵衛組の餌差弥五兵衛、隠岐島へ流罪。元禄元年(1688年)4月12日浅草たんぼで鴨を獲り揚屋入り。
・8月11日:「公方様に糞を落しカラス八丈島に島流し」。
・8月12日:上餌差町(文京区小石川)の忠兵衛、揚屋入り約3年半ののち隠岐島へ流罪。元禄元年(1688年)2月放し雀(寺社参りの人が放生する雀)売りの権七に雀50羽を売る。
・8月13日:小石川源覚寺前(文京区)、放し雀売りの権七、揚屋入り約3年半ののち薩摩へ流罪。甲州秋元摂津守領の百姓権左衛門、薩摩へ流罪。鉄砲で鳥打ちした。摂津守家来が召し連れ7年前に揚屋入り。牢内で患い、いったん外に出たが、回復し再度揚屋入り後、流罪。
・10月21日:蛇を使って客を集め、薬を売った南小田原(中央区築地)の藤兵衛、蛇を貸した市右衛門の2人捕まる、市右衛門は11月16日牢死、死骸取り捨て。藤兵衛は翌年2月江戸追放。
・10月24日:蛇使いの興行と、犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
・11月22日:旗本鳥居久大夫の召使三助ら3人死罪。11月11日門前にいた鷺を殺して食べる。

<元禄5年(1692年)>
・1月:喜多見(世田谷区)に病犬を収容する犬小屋を建設する。病馬も収容した。
・2月6日:1年前まで蛇を使い薬売りしていた又兵衛、半年前にやめた次兵衛、牢舎。6月6日江戸追放。
・8月石田坂村(青森県五所川原市)の次兵衛、熊を殺して食し津軽藩より老中に報告。牢舎11か月、新島に流罪。

<元禄6年(1693年)>
・4月30日:「遠国で猪鹿狼の害がある時はまず空砲、害がやまないなら鉄砲で打ち鎮め、下々が難儀しないよう後日大目付に書付を出せばよい。生類憐みは人々に仁心が備わるようにとの思し召しである」。
・8月9日:高田馬場(新宿区)で埋めた猪を掘り出し隠した非人3人、死罪。
・8月、趣味としての釣りを禁止する禁令が通達される

<元禄7年(1694年)>
・3月11日:「馬のもの言い」事件で浪人の筑紫団右衛門、斬罪。流罪を言い渡された八百屋の惣右衛門牢死。とばっちりで落語家の鹿野武左衛門、伊豆大島に流罪。この事件に関して口書(調書)を取られた江戸町民35万3588人。
・7月4日:霊岸島(中央区)の七左衛門、鶏のひなを食った家主の猫を殺す。牢舎後、同12日江戸十里四方追放。
・8月2日:歩行頭佐野内蔵丞の知行所の上飯田村(横浜市泉区)で猪狩りが行われ、内蔵丞は職を奪われ、逼塞処分。
・8月6日:上飯田村の百姓に猪狩りを命じた内蔵丞家来の酒井井伝左衛門、品川(鈴ヶ森刑場)で獄門。猪肉を切り取った百姓5人、隠岐島へ流罪。正直に話さなかった百姓4人追放。訴状を差し出した上飯田村百姓の忠兵衛、江戸市中引き回し品川で磔。息子は遠島。
・11月16日:江戸市中の金魚(赤色)・銀魚(白色)を清浄光寺の放生池に放つことを許可する。ただし放つときにはその数を目付に報告するよう求めている

<元禄8年(1695年)>
・2月10日:このころ千住で磔にされた犬2匹見つかる。「犬公方の威を借りて諸民を悩ます」と捨文。8月9日旗本次男で大番の河村甚右衛門が「無作法の体をなし、その上捨文いたした」罪で斬罪に処せられた。
・6月1日:四谷、大久保の犬小屋落成。同3日「町中の人に荒き犬」は四谷へ送るよう町触れ。「町中の牝犬残らずこの小屋(四谷)に入れ置かれる」と『加賀藩史料』に記されている。
・10月16日:大坂定番で三河国大給藩主松平乗成(松平縫殿頭)組の与力三浦伝之丞と同心8人、同心の子1人の計10人,鳥銃で殺生し鳥を売っていたとして切腹。ほかに浪人1人が死罪獄門、その子は遠島。同組の同心5人遠島、町人2人追放。
・10月25日:本郷菊坂(文京区)の旗本屋敷辻番の八兵衛、溝に捨てられた子犬を別の屋敷脇に捨てる。「母犬が来る所に置いた」と弁明したが、「養わず不届き」と牢舎。11月25日、浅草で斬罪獄門。辻番4人追放。
・11月13日:武蔵・中野村に野犬を収容するための16万坪の「お犬小屋」が設置される
・11月14日:中野犬小屋へ江戸町内の犬の送り込みが始まる。「不日に(すぐに)十万頭に及ぶ」(『徳川実紀』、「おおよそ犬拾金万疋なり」『年録』『柳営日次記』)。

<元禄9年(1696年)
・犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなった。
・2月7日:新材木町(日本橋堀留町)の半兵衛、子犬を絞め殺し、大伝馬町の孫右衛門の手代2人の名を書いて捨て捕まる。半兵衛の、孫右衛門への恨みによる犯行であった。半兵衛は26日に浅草にて磔。
・5月18日:犬小屋の犬を養うため御犬上げ金を徴収する、と江戸の町々に御触れがあった。7月4日に、御犬上げ金、小間一間(20坪)につき年に金3分を課すと通告。
・5月19日:小石川の水戸家上屋敷前で矢の刺った鴨の死体発見。8月21日小普請奉行の飯田次郎衛門、虚説を申し大島へ流罪、2人追放。犯人不明。
・7月6日:本所相生町3丁目(墨田区)で犬が殺された。大工善次郎の弟子市兵衛が捕えられ、磔となった。通報した娘しもに「ご褒美50両」と町触れが出る。西ノ久保(港区神谷町付近)で切り傷のある犬が見つかった。8月9日、村山長古の召使が掴まり、遠島となる。村山に遠慮仰せつけられる。
・8月17日:大酒飲み禁止令。「酒に酔い、心ならずも不届きする者がいる」。
・8月22日:「捨て子はいけない。妊娠、出産、傷産、流産、3歳までに死亡かなど大家、地主に知らせなさい」。

<元禄10年(1697年)>
・5月18日:御犬上げ金、小間一間につき年金3分を金1分に減額する。
・5月25日:旗本渥美友延(渥美九郎兵衛)召使の折茂小兵衛、死罪。2月24日、渥美家屋敷内で鳩を射殺したため。
・7月4日:芝で犬が切り殺された件で、筑後国久留米藩主有馬中務大輔(有馬頼元)の掃除人2人が牢舎となった。処罰不明。8月13日、有馬頼元、遠慮を命じられる。
・7月27日:銃で殺生をした男、大坂で斬刑。息子の遠島刑猶予を河内国通法寺が隆光を通じ嘆願し、認められる。
・10月9日:全国の造り酒屋に運上金(酒の値段の五割)上納を命じる。
・10月13日:青山宿での捨て犬の件で近藤德用(近藤登之介)組の同心2人、伊東出羽守の辻番人追放。
・10月26日:青山久保町の喜三郎、子馬3匹捨てた罪で、江戸市中引き回し品川鈴ヶ森刑場で獄門。

<元禄11年(1698年)>
・2月15日:本郷3丁目(文京区)の谷口与右衛門、犬を切り殺し千住小塚原刑場で磔。加賀藩屋敷脇で犬に囲まれ、脇差で1匹の頭を傷つけた。母は息子の死を嘆き鈴ヶ森刑場と小塚原刑場に石塔を立てた(『江戸真砂六十帖』)。
・8月8日:出羽国庄内藩の足軽が江戸に向かう途中、野間村(栃木県那須塩原市)で駄賃馬を切り殺した。酒に酔い前後不覚だったため幕府評定所、江戸十里四方と在所追放とする。
画家で芸人の英一蝶、三宅島に流罪となった。流罪に至った理由は諸説あるが、正式採用されたのは「釣りを行った罪」であるとされる。この年、釣り道具の販売禁止が追加で通達されている。

<元禄12年(1699年)
・10月2日:世田谷の20ヵ村に対し、中野犬小屋の犬の養育が提案された。1匹につき年に金3分の養育費を支払う。犬を養育する村はその後増え、宝永3年(1706年から5年(1708年)までに幕府が近郊の百姓に支払った養育金の合計は3万5430両になった(『竹橋余筆』)。1年平均で1万1810両。計算上、犬は1万5747匹養われていたことになる。

<元禄15年(1702年)>
・10月13日:伯楽(馬医)の橋本権之助、飼っていたアヒルを襲った犬を殺し、切腹を仰せ付けられた。

<元禄16年(1703年)>
・2月4日:幕領南山代官所管内(福島県)、南会津西沢村の馬喰彦八、捨て馬により磔。
・12月7日:火事地震につき(11月の「元禄の大火」と同月の「元禄地震」)、当年の犬扶持(御犬上げ金)が免除された。同18日、半年分返却。翌年も赦免。

<元禄17/宝永元年(1704年)>、改元して三月以降は年(1704年)
・2月18日:「生類憐みの志、いよいよ大事である。捨て子、捨て牛馬、捨て犬は堅く禁じる」。
・3月13日:宝永に改元。大地震後も天変地異、大火災、綱吉の肉親の死が続いた。綱吉は祈祷に頼り、生類憐みの令を連発したとされる。
・6月14日:大地震被害が甚大であったため、御犬上げ金赦免。翌年も赦免。

<宝永2年(1705年)>
・6月3日:「牛馬に重荷あるいは嵩高のあるものを負わせてはならない」。
・9月7日:漁師以外の釣り禁止。同20日、愛玩としての鳥の飼育禁止、同28日牛馬犬猫以外の獣類の飼育禁止、など新規項目の御触れが続々追加された。
・11月6日:「鳥方の者、鵜を捕えるのにモチ竿を投げつけるは生類憐みに背く」と追放、押込となる。
・11月25日:切手門番の肥田十郎左衛門の家人が鳥を獲り、肥田も飼育したため職を奪われ閉門。

<宝永3年(1706年)>
・8月18日:中野犬小屋へ犬移しの立ち会いに行った徒目付2人、犬をよく見ていなかったとして追放になる。
・8月21日:旗本岡野宗明(岡野孫市郎)の中間庄兵衛、庭掃除中に鶏と餌の奪い合いをするアヒルを箒で手荒に追い払い死なせた。庄兵衛は遠島。餌詰まりで死亡と検分した徒目付の石黒太夫、北条平七の両名遠島。
・8月30日:「鳥商売、ウナギ、ドジョウの商売禁止。牛馬に重荷だけでなく、かさの張る物も積んではいけない」。

<宝永4年(1707年)>
・2月22日:「雑説流言を申し触れる者がいる。落書捨文はいけない。牛馬に重荷、飼鳥、鳥獣商売一切禁止」。
・8月11日:「鳥商売厳禁。所々の茶屋でアナゴと称しウナギ蒲焼を売ると聞く。その者は召し捕り牢舎する」。
・8月27日:小石川御殿で放し飼いにされていた鶴が死に、御殿の鳥飼番4人が重追放処分を受けた。

<宝永5年(1708年)>
・7月19日:「前々より触れている通り漁師以外釣り、鳥商売、茶屋でのウナギ、ドジョウ料理は禁止である」。
・9月29日:小姓組の仙石左門、馬が途中で患い出したが、粗末に扱い、閉門を仰せ付けられる。
・10月27日:寄り合い番3人が酔って馬に傷をつけ、1人追放、2人は遠慮。
・12月16日:最後の生類憐みの令。「馬持ちの者、1人で2、3匹引き歩く者がいると聞く。万一馬が病気になったり、けがをしたりした時によろしくない。1人1匹にしなさい」。

<宝永6年(1709年)>
・1月10日:綱吉、はしかで死去。
・1月20日:生類憐みの禁が解かれた。町奉行御触れ「生類の儀、今後は(幕府から)おかまいはない。もっとも憐れむことは憐れみなさい」。小石川・鳥屋敷に飼い置いていたトビ、カラスを放す。
・2月1日:鳥獣が死んだ時の検死をやめ、将軍家の食材の禁制を廃止した。
・2月2日:小石川の野鶴畜養所を廃止し、野鶴を放す。
・3月1日:老中列座に仰せ。「鼠は衣類を害するので猫を飼い、鼠を捕らせなさい。鹿猪は田畑を荒らし人が困るので殺し、その皮は売り買い致し、肉は食べるものである」。
・3月2日:酒運上金を廃止。鳥、ウナギ、ドジョウの商売を解禁し、囚獄に入れられていた者(人数不明)を釈放する。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

712年(和銅5) 太安万侶が編纂した『古事記』が完成し、元明天皇に献上される(新暦3月9日) 詳細
1582年(天正10) 天正遣欧使節がローマに向かって長崎港を出港する(新暦2月20日) 詳細
1886年(明治19) 日本とハワイ王国との間で、「布哇国渡航条約」(明治19年勅令無号)が締結される 詳細
1912年(明治45) 放射線医学者高橋信次の誕生日 詳細
1924年(大正13) 上野公園・上野動物園が宮内省から東京市に下賜される 詳細
1946年(昭和21) GHQが「映画検閲に関する覚書」(SCAPIN-658)を出す 詳細
1948年(昭和23) 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で触雷して沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故) 詳細
1956年(昭和31) 日本が「万国著作権条約」を批准(効力発生は同年4月28日)する 詳細
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 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、徳川家茂が江戸幕府第14代将軍に就任した日ですが、新暦では11月30日となります。
 徳川家茂(とくがわ いえもち)は、1846年(弘化3年閏5月24日)に、江戸の紀州(和歌山)藩邸(現在の東京都港区)において、紀州藩第11代藩主徳川斉順の嫡男(母は松平氏みさ)として生まれましたが、幼名は菊千代と言いました。父は生まれる前に亡くなり、1847年(弘化4)に第12代藩主斉彊(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)には、斉彊の死去により、4歳で家督を継いで第13代紀州藩主となります。
 1851年(嘉永4)に元服とて慶福(よしとみ)と名乗り、従三位に叙位しました。1853年(嘉永6年10月23日)に、徳川家定が第13代将軍に就任しましたが、病弱で子がなかったため将軍継嗣問題が起きます。
 井伊直弼らの擁立で、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)を抑え、1858年(安政5年6月20日)に家定の世子となりました。その後、家定の死去に伴い、同年10月25日に第14代将軍に就任し、名を家茂と改めます。
 1860年(万延元)に桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が暗殺されると、老中久世広周、安藤信正らの画策により、公武合体を推進すべく、1862年(文久2)に孝明天皇の皇妹・和宮と結婚(和宮降嫁)しました。1863年(文久3)に朝廷の攘夷実施の求めに応じて、初めて上洛し、翌年の2回目の上洛時には、従一位に昇叙し、右大臣となります。
 この年、第1次長州征伐が始まり、翌年の第2次長州征伐の折りには、みずからも大軍を率いて、3度目の上洛の後、大坂城の征長軍本営に入りました。しかし、幕府軍敗戦の報が相次ぐうちに、1866年(慶応2年7月20日)、大坂城内において数え年21歳の若さで病死します。

〇徳川家茂関係略年表(日付は旧暦です)

・1846年(弘化3年閏5月24日) 江戸の紀州藩邸において、紀州藩第11代藩主徳川斉順の嫡男として生まれる  
・1847年(弘化4年4月22日) 第12代紀州藩主徳川斉彊の養子となる  
・1849年(嘉永2年閏4月2日) 斉彊の死去に伴い第13代紀州藩主となる  
・1851年(嘉永4年10月9日) 元服して慶福と名乗り、常陸介に任官、従三位に叙位する  
・1853年(嘉永6年10月23日) 徳川家定が第13代将軍に就任する  
・1855年(安政2年12月15日) 参議に補任する  
・1858年(安政5年6月20日) 大老井伊直弼らに推されて、第13代将軍家定の世子となる  
・1858年(安政5年10月24日) 正二位権大納言に昇叙転任する  
・1858年(安政5年10月25日) 第14代将軍に就任し、内大臣に転任、名を家茂と改める 
・1860年(万延元年3月3日) 桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が暗殺される  
・1862年(文久2年2月11日) 仁孝天皇皇女で孝明天皇の皇妹・和宮と結婚する
・1862年(文久2年6月) 慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁職に任じて幕政の改革を行なう  
・1863年(文久3年3月4日) 朝廷の攘夷実施の求めに応じて、初めて上洛する  
・1864年(文久4年1月15日) 2度目の上洛をする
・1864年(文久4年1月21日) 従一位に昇叙し、右大臣に転任する
・1964年(元治元年7月) 蛤御門の変が起ると薩摩と共同して長州藩兵を退ける
・1864年(元治元年8月2日) 第1次長州征伐が始まる  
・1865年(慶応元年閏5月22日) 第2次長州征伐のため、3度目の上洛をする
・1865年(慶応元年閏5月) 第2次長州征伐のため大坂城に入る
・1865年(慶応元年10月1日) 朝廷に将軍職の辞表を提出、江戸東帰を発表する
・1865年(慶応元年10月7日) 将軍職の辞表を正式に撤回する  
・1866年(慶応2年6月7日) 長州軍と幕府軍とが開戦する  
・1866年(慶応2年7月20日) 大坂城で脚気衝心のため、数え年21歳で亡くなる
 
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1637年(寛永14)島原の乱(島原・天草一揆)が起きる(新暦12月11日)詳細
1907年(明治40)第1回文部省美術展覧会(通称:文展)が東京上野で開催される詳細
1909年(明治42)写真家土門拳の誕生日詳細
1924年(大正13)明治神宮外苑に明治神宮競技場が竣功する詳細
1934年(昭和9)岐阜県の飛騨小坂駅~坂上駅間が開業し、国鉄高山本線が全通する詳細
1946年(昭和21)GHQが「石油製品の配給に関する覚書」(SCAPIN-1294)を出す詳細
1951年(昭和26)戦後初の国内民間航空会社日本航空が、東京~大阪~福岡間で運航開始する(民間航空記念日)詳細
1991年(平成4)「再生資源の利用の促進に関する法律」(リサイクル法)が施行(公布は前年4月26日)される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1614年(慶長19)に、江戸幕府が「伴天連追放之文(禁教令)」により、高山右近らキリシタン大名を含む148人をマニラ・マカオに追放した日ですが、新暦では10月27日となります。
 「伴天連追放之文(禁教令)」は、江戸時代前期の1614年2月1日(慶長18年12月23日)に、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠名で発布されたキリスト教禁止を全国に広げた法令です。それ以前の1612年4月21日(慶長17年3月21日)に、江戸幕府は江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して「禁教令」を布告し、教会の破壊と布教の禁止を命じ、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行っていました。
 しかし、一方でポルトガル等との貿易は継続していたので、その趣旨は徹底せず、潜伏する者もいて、一部で伝道者たちが残り、依然としてキリスト教の活動は続くこととなります。そこで、「禁教令」の全国への徹底を意図して、徳川家康は金地院崇伝に命じて、「伴天連追放之文」を起草させ、1614年2月1日(慶長18年12月23日)に徳川秀忠の名で公布しました。
 これは南蛮人と日本人たるとを問わず、またイエズス会、フランシスコ会の区別なく、伝道者たちを日本から徹底的に追放することを意図したものとなります。これによって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されました。
 以後、江渡幕府のキリスト教に対する基本法となって継続されていきます。
 以下に、「伴天連追放之文(禁教令)」の原文と現代語訳を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇高山右近(たかやま うこん)とは?

 武将・キリシタン大名です。戦国時代の1552年(天文21)に、摂津国(現在の大阪府)高山で、大和国沢城主高山飛騨守図書の長子として生まれましたが、幼名は彦五郎と言いました。
 父・飛騨守がキリシタンへ入信、それに連れて、1564年(永禄7)に受洗し、霊名をジュストと称します。1568年(永禄11)に和田惟政に従い摂津国高槻を預かりましたが、1571年(元亀2)に荒木村重が和田氏を討つと、1573年(天正元)には、荒木村重の下で高槻城主(2万石)となりました。
 1578年(天正6)に荒木村重が織田信長に叛した際、和平工作を進め、かえって高槻領を安堵された上、4万石に加増され、1580年(天正8)には、織田信長が安土城城下に新たに建築した邸宅の一つが授与されます。1582年(天正10)の本能寺の変で織田信長が討たれると、山崎合戦では豊臣秀吉に属し先陣を務め、翌年の賤ヶ岳の戦いでも秀吉に属して戦いました。
 その後も紀州根来征伐、四国征伐に参加し、1585年(天正13)には、明石6万石に移封されます。しかし、1587年(天正15)に秀吉は九州出兵の途次、「バテレン追放令」を発布、棄教を迫られたものの拒否して領地を没収され、1588年(天正16)には、前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしました。
 1590年(天正18)の小田原征伐にも前田軍に属して従軍、その後も加賀で客将として暮らしていましたが、1614年(慶長19)に江戸幕府の「伴天連追放之文(禁教令)」でマニラ追放されます。マニラでは歓迎されましたが、熱病に罹り、1615年(慶長20年1月8日)に数え年64歳で亡くなりました。

☆「伴天連追放之文(禁教令)」 (全文)  1614年2月1日(慶長18年12月23日)発布

乾為父坤為母、人生於其中間、三才於是定矣、夫日本者、元是神国也、陰陽不測、名之謂神、聖之為聖、霊之為霊、誰不尊崇、況人之得生、悉陰陽之所感成、五体六塵、起居動静、須臾不離神、神非求乎他、人々具足、介々円成、廼是神之体也。又称仏国、不無據、文云、惟神明垂迹国、而大日之本国矣、法華曰、諸仏救世者、住於大神通、為悦衆生故、現無量神力、此金口妙文、神與仏其名異、而其趣一者、恰如合符節、上古緇素、各蒙神助、航大洋而遠入震旦、求仏家之法、求仁道之教、孜孜矻矻、而内外之典籍負将来、後来之末学、師々相承的々伝受、仏法之昌盛、超越於異朝、豈是非仏法東漸乎、爰吉利支丹之徒党、適来於日本、非啻渡商船而通資材、叨欲弘邪法惑正宗、以改域中之政号、作己有、是大禍之萌也、不可有不制矣、日本者神国仏国、而尊神敬仏、専仁義之道、匡善悪之法、有過犯之輩、随其軽重、行墨劓剕宮大辟之五刑、礼云、喪多而服五、罪多而刑五、有罪之疑者、乃以神為證誓、定罪罰之条目、犯不犯之区別、繊毫不差、五逆十悪之罪人者、是仏神三宝、人天大衆之所弃捐也、積悪之余殃難逃、或斬罪、或炮烙、獲罪如是、勧善懲悪之道也、欲制悪悪易積、欲進善害難保、豈不加炳誡乎、現世猶如此、後世冥道閣老之呵責、三世諸仏難救、歴代列祖不奈、可畏、可畏、彼伴天連徒党、皆反件政令、嫌疑神道、誹謗正方、残義損善、見有刑人、載欣載奔、自拝自礼、以是為宗之本懐、非邪法何哉、実神敵仏敵也、急不禁、後世必有国家之患、殊司号令不制之、却蒙天譴矣、日本国之内、寸土尺地、無所措手足、速掃攘之、強有違命者、可刑罰之、今幸受天之詔命、主于日域、乗国柄者、有年於茲、外顕五常之至徳、内帰一大之蔵教、是故国豊民安、経曰、現世安穏、後世善処、孔子亦日、身体髪膚、受于父母、不敢毀傷、孝之始也、全其身乃是敬神也、早斥彼邪法、弥昌吾正法、世既雖及繞季、益神道仏法紹隆之善政也、一天四海、宜承知、莫敢遺失矣。
    慶長十八龍集癸丑臘月日
      御朱印

 『異国日記』より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

乾[1]は父と爲し、坤[2]は母と爲す。人其の中間[3]に生まる。三才[4]是に於て定まる。夫れ日本は元是れ神国也。陰陽[5]測られず、これを名づけて神と謂う。聖の聖為る、霊の霊為る、誰か尊崇[6]せざらん。況人の生を得る、悉く陰陽[5]の感ずる所成り。五体[7]六塵[8]、起居動静[9]、須臾[10]も神を離れず、神は他に求むるにあらず。人々具足[11]、介々円成[12]、廼ち是神の体也。又仏国と称する、據る[13]無からず。文に云わく、惟神明[14]垂迹[15]の国、而して大日[16]の本国たりと。法華[17]に曰く、諸仏の救世[18]は、大神通[19]に住す、衆生[20]を悦ばすが為の故に、無量[21]の神力を現す。此の金口[22]妙文[23]、神と佛と其名異なりて、而して其趣一なるは、恰も符節[24]を合するが如し。上古緇素[25]、各神助[26]を蒙り、大洋を航して遠く震旦[27]に入り、仏家の法を求め、仁道[28]の教を求めて、孜孜矻矻[29]たり。而して内外の典籍[30]負て将来[31]し、後来の末学[32]、師々相承け的々伝受[33]し、仏法の昌盛、異朝[34]に超越す。豈是仏法の東漸[35]に非ずや。爰に吉利支丹の徒黨[36]、適日本に來り、啻に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨るに、邪法[37]を弘め、正宗[38]を惑はさんと欲し、以つて域中の政號[39]を改めて、己が有と作さんとす。是れ、大禍の萠[40]なり。制せずんば有るべからず。日本は神国・佛国にして、神を尊び、佛を敬す。仁義[41]の道を専らにし、善悪の法を匡し、過犯[42]の輩有らば、其軽重に随い、墨劓剕宮大辟[43]の五刑を行う。礼に云く、喪多くして服五[44]、罪多くして刑五[45]、罪の疑有る者は、乃ち神を以て證誓[46]と為し、罪罰の条目を定め、犯不犯の区別、繊毫[47]も差わず、五逆十悪[48]の罪人は、是仏神三宝、人天大衆の弃捐[49]する所なり。積悪の余殃[50]逃れ難し、或は斬罪に、或は炮烙[51]に、罪を獲る是の如し、勧善懲悪[52]の道なり、悪を制せんと欲して悪積み易く、善を進めんと欲して害保ち難し、豈炳誡[53]を加えざらんや。現世猶此の如し、後世冥道[54]閣老[55]の呵責[56]、三世諸仏[57]も救い難く、歴代の列祖[58]奈ともせず、畏るべし、畏るべし。彼の伴天連[59]の徒党、皆件の政令[60]に反し、神道を嫌疑し、正法[61]を誹謗し、義を残ひ善を損じ、刑人有るを見ては、載ち欣び載ち奔り、自ら拝し自ら礼し、是を以て宗の本懐[62]と爲す。邪法[37]に非ずして何ぞや。実に神敵佛敵なり。急ぎ禁ぜずんば、後世必ず国家の患あらん。殊に号令を司って之を制せずんば、却て天譴[63]を蒙らん。日本国の内、寸土の尺地[64]、手足を措く所無し[65]。強いて 違命[66]有らば、之れを刑罰すべし。今幸に天の詔命[67]を受け、日域[68]に主となり、国柄[69]を乗る者、茲に年有り。外五常[70]の至徳を顕し、内一大の蔵教[71]に帰す。是故に国豊にして民安し、経に曰く、現世安穏[72]、後世善処[73]と、孔夫子亦曰く、身躰髪膚[74]、父母に受く、放て毀傷[75]せざるは孝の始也と。全きその身乃ちこれ敬神也。早く彼の邪法[37]を斥けば、弥々吾が正法[61]昌んならん。世既に澆季[76]と雖も、益々神道仏法紹隆[77]の善政也。一天四海[78]宜しく承知すべし。敢て違失[79]するなかれ。
 慶長十八年龍集癸丑臘月日
      御朱印

(現代語訳)  伴天連追放之文

天は父となり、地は母となる。人間はその二つの間に生まれたものだ。天・地・人すべてはこの道理によっている。そもそも日本は、元来神国である。陰陽の働きは人智を超えたものがあって測り知れず、これを名づけて神という。聖の中の聖であり、霊の中の霊であり、誰か尊崇しないものはいない。まして人の生を得ること、ことごとく陰陽の感ずる所である。体のすべて、煩悩のすべて、起きていても寝ていても、一瞬も神は離れず、神は他に求めるものではない。人にはそれぞれみな仏性が備わっていて、助け合って円満に成就している。すなわちこれが神の姿である。また仏の国と称するのは、よりどころがないわけではない。書に言うことには、「よく考えてみると仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために神々の姿となって示現する国である、それに加えて大日如来の本国である。」と。『法華経』に言うことには、「諸仏の救世は、偉大で無礙自在で超人的な不思議な力に定まる、いきとしいけるものを悦ばすがためによって、はかりしれないの神力の霊験を示す。」と。この尊い言葉と霊妙な経典、神と仏はその名前は異なっているがその目的とするところは同じであたかも勘合符がぴったりと合うようなものだ。大昔から僧侶と俗人、各々が神の慈悲の力による助けをいただいて、大洋を航海して遠く中国に入って、仏家の法を求め、仁道の教を求めて、たゆまず熱心に励んだ。そのようにして仏教と儒教の典籍を背負って持ち来たり、行く末の学者が、師から弟子へ引き継いでその正しきを伝授し、仏法が昌盛し、外国に勝った。まさにこれは仏法の東方への進出に他ならない。ここにキリシタンの一団がたまたま日本にやったて来た。彼らは、ただ、商船を遣わして貿易するだけでなく、勝手に邪悪な教え(キリスト教)を布教して神仏を惑わし、日本の政治を改め、自分の領土としてしまおうと望んでいる。これは明らかに大きな災難の前兆である。禁止をしないわけにはいかない。日本は神の国・仏の国であり、これらを敬っている。仁義の道を専らにし、善悪の法を正しくし、犯罪を犯す者が有れば、その重さに従って、墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)の五刑を行う。『礼記』に言うことには、「喪服は多くても五つ、罪人に対する刑罰は多くても五つ」と、罪の疑いが有る者は、すなわち神をもって誓いの証とし、罪罰の条目を定め、罪を犯したか犯していないかの区別は、極めてわずかでも違わず、五逆十悪を犯す罪人は、これ仏教・神教の本尊・布教者・経典においても、人と天そして大衆の捨てて顧みないものである。積み重なった悪事の災禍から逃れることはできない、あるいは首切りの刑に、あるいは火あぶりの刑に、罪を判断すればこのとおりで、善良な人や善良な行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲こらしめる道である、悪を制止しようと欲しても悪を積みやすく、善を進めようと欲しても害を保ち難いもので、どうしてあきらかな戒めを加えないでおかれようか。現世でもなおこのようであり、後の世の死後世界の高官の厳しいとがめ、過去・現在・未来の三世にわたって存在する一切の仏も救い難く、歴代の先祖もどうしようもない、畏るべきこと、畏るべきこと。あのバテレンの集団がみな幕府の政令に違反し、神道を疑い仏法を非難し、義や善い行いまで否定している。罪人として死刑になったものをみては、かえって喜び、走り回り、これを拝んでいる。これがこの宗教の正体である。これが邪悪な教えでなくてなんであろうか。まさに、神道の敵・仏法の敵である。急いで禁じなければ、後に必ず国家の禍になるであろう。わざわざ命令してこれを禁止しなければさらなる天の災いを被るであろう。日本国の内、わずかな土地でも、彼らが安心して身をおく場所は存在しない。強いて命令に背くことが有るならば、これに刑罰を課すべきである。今幸なことに天皇の命令を受け、天下の主となり、政権をつかさどる者、ここに年月が経過する。儒教の仁・義・礼・智・信の最高の徳を明らかにし、仏教で非常に重要な三蔵教に帰依する。これによって豊かな国となって、人々は心穏やかである。『法華経』に言うことには、「現世では安穏に生活でき、後生ではよい世界に生まれる」と、孔子がまた言うことには、「わが身体は両手・両足を始め毛髪・皮膚に至るまで、すべて父母から戴いたものであり、これを傷つけないようすることが孝行の始めである。」と。完全であるその身体すなわちこれは神を尊び敬うことである。一刻も早くこの邪宗教(キリスト教)を退け、われらが仏の御教えを盛んにしなければならない。世の中はすでに末法の世であるが神様の道、仏の道を開いていくよき政令である。天下の人々はこのことをしっかりと承知すべきである。決して間違ってはならない。

【注釈】
[1]乾:けん=そら。天。あめ。
[2]坤:こん=土地。大地。つち。
[3]中間:ちゅうげん=二つのものの間にあるもの、間に考えられるもの。
[4]三才:さんさい=世界を形成するものとしての天・地・人の称。三元。三儀。三極。
[5]陰陽:おんよう=易で、相対する概念。陰(いん)と陽。いんよう。
[6]尊崇:そんすう=尊びあがめること。尊敬。
[7]五体:ごたい=身体の五つの部分。筋、脈、肉、骨、毛皮の称。
[8]六塵:ろくじん=色・声・香・味・触・法の六境のこと。心を汚し煩悩を起こさせるのでいう。
[9]起居動静:きこどうじょう=起きること、居ること、働くこと、静かにしていること。日常の動作、生活をいう。
[10]須臾:しゅゆ=短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。
[11]人々具足:にんにんぐそく=人には、それぞれみな仏性(ぶっしょう)がそなわっているということ。
[12]介々円成:かいかいえんじょう=助け合って円満に成就すること。
[13]據る:よる=よりどころ。
[14]神明:しんめい=神。神祇(じんぎ)。
[15]垂迹:すいじゃく=仏教と神道とが結びついて生れた思想で,仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために,かりに神々の姿となって示現すること。
[16]大日:だいにち=密教の中心本尊である大日如来のこと。
[17]法華:ほっけ=大乗仏教の最も重要な経典の一つである法華経のこと。
[18]救世:きゅうせい=乱れた世の人々を救うこと。特に、宗教の力でこの世の苦しみや罪悪から人々を救うこと。
[19]神通:じんつう=無礙自在で超人的な不思議な力。また、そのはたらき。霊妙ではかり知れず、自由自在にどんな事をもなしうる働きや力。
[20]衆生:しゅじょう=迷いの世界にあるあらゆる生類。仏の救済の対象となるもの。いきとしいけるもの。
[21]無量:むりょう=はかりしれなく大きいこと。限りもなく多いこと。莫大であること。
[22]金口:きんこう=仏を尊んでその口をいう語。仏の金色の口。転じて、仏の言説。尊い言葉。
[23]妙文:みょうぶん=霊妙な経典。特に、法華経。
[24]符節:ふせつ=割符(わりふ)のこと。
[25]緇素:しそ=僧侶と俗人。僧俗。
[26]神助:しんじょ=神の慈悲の力によるたすけ。天佑。
[27]震旦:しんたん=振旦,真丹とも書く。中国の古称。
[28]仁道:じんどう=仁の道。人としてふみ行なうべき道。
[29]孜孜矻矻:ししこつこつ=たゆまず熱心に励む。
[30]典籍:てんせき=書物。書籍。本。
[31]将来:しょうらい=引き連れてくること。特に、外国など他の土地から持ってくること。
[32]末学:まつがく=学者が自分のことをへりくだっていう語。浅学。
[33]伝受:でんじゅ=伝え受けること。伝授されること。
[34]異朝:いちょう=外国。異国。
[35]東漸:とうぜん=勢力がしだいしだいに東方へと移り進むこと。
[36]吉利支丹の徒黨:きりしたんのととう=キリスト教の一団。
[37]邪法:じゃほう=人を惑わし、世間に害を与えるような教え。邪道。ここでは、キリスト教のこと。
[38]正宗:しょうしゅう=正しい肝腎の本旨。ここでは日本本来の宗教つまり、仏教・神教のこと。
[39]域中の政號:いきちゅうのせいごう=天下の政治。
[40]大禍の萠:たいかのきざし=大きなわざわいのきざし。大きな災難の前兆。
[41]仁義:じんぎ=儒教道徳の根本理念で、ひろく人や物を愛し、物事のよろしきを得て正しい筋道にかなうこと。
[42]過犯:かはん=罪科を犯すこと。また、犯した罪科。犯罪。
[43]墨劓剕宮大辟:ぼくぎひきゅうたいへき=罪人に対する五つの刑罰。古代中国では墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)をさす。
[44]喪多くして服五:もおおくしてふくご=喪服は多くても五つ。
[45]罪多くして刑五:つみおおくしてけいご=罪人に対する刑罰は多くても五つ。
[46]證誓:しょうせい=誓いの証とすること。
[47]繊毫:せんごう=細かい毛。きわめてわずかなこと、非常に小さなこと、ささいなことのたとえとされる。
[48]五逆十悪:ごぎゃくじゅうあく=父・母・仏道修行者を殺す、僧団の和合を壊す、仏の身体を傷つけるの「五逆」と殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡の「十悪」のこと。
[49]弃捐:きそん=捨てて用いないこと。捨ててかえりみないこと。
[50]余殃:よおう=悪事のむくいとして起こる災禍。先祖の行なった悪事のむくい。余慶に対していう。
[51]炮烙:ほうらく=あぶり焼くこと。
[52]勧善懲悪:かんぜんちょうあく=善良な人や善良な行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲こらしめること。
[53]炳誡:へいかい=あきらかないましめ。炯戒(けいかい)。
[54]冥道:みょうどう=死後の世界。特に閻魔王のいるところ。地獄。冥界。冥府。
[55]閣老:かくろう=宮廷の高官。江戸幕府の役職、老中の異称。
[56]呵責:かしゃく=厳しくとがめてしかること。責めさいなむこと。
[57]三世諸仏:さんぜしょぶつ=過去・現在・未来の3世にわたって存在する一切の仏。
[58]列祖:れっそ=代々の祖先。歴代の先祖。列宗。
[59]伴天連:ばてれん=キリシタン宣教師のうちの司祭。
[60]件の政令:くだんのせいれい=江戸幕府の法令のこと。
[61]正法:しょうぼう=正しい教法。仏教のこと。
[62]本懐:ほんかい=かねてからの願い。本意。本望。本願。
[63]天譴:てんけん=天のとがめ。天帝が、ふとどきな者にくだすとがめ。天罰。
[64]寸土の尺地:すんどのせきち=わずかな土地。せまい土地。
[65]手足を措く所無し:しゅそくをおくところなし=安心して身をおく場所がない。安んじて生活できる所がない。
[66]違命:いめい=言い付けにそむくこと。命令に背くこと。
[67]詔命:しょうめい=天子の命令。みことのり。
[68]日域:じちいき=日が照らす域内。転じて、天下。
[69]国柄:こくへい=国家を統治する権力。政権。国権。
[70]五常:ごじょう=儒教で、人が常に行なうべき五種の正しい道をいう。通例、仁、義、礼、智(知)、信。
[71]蔵教:ぞうきょう=天台教学で釈迦一代の教説を分類した四教の一つ。三蔵教の略称。
[72]現世安穏:げんせあんおん=現世では安穏に生活できるということ。
[73]後世善処:ごしょうぜんしょ=後生ではよい世界に生まれるということ。
[74]身躰髪膚:しんたいはっぷ=肉体と髪と皮膚、すなわち、からだ全体。
[75]毀傷:きしょう=そこない傷つけること。傷つけ、こわすこと。損傷。
[76]澆季:ぎょうき=道徳の薄れた人情軽薄な末の世。末世。
[77]紹隆:しょうりゅう=先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること。
[78]一天四海:いってんしかい=天の下と四方の海。天下全体。全世界。
[79]違失:いしつ=まちがうこと。しくじり。過失。落度。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1744年(延享元)江戸時代中期の思想家・石門心学の祖石田梅岩の命日(新暦10月29日)詳細
1877年(明治10)薩摩藩士・軍人・政治家西郷隆盛が西南戦争に敗れ、城山で自刃する詳細
1901年(明治34)歴史学者服部之総の誕生日詳細
1931年(昭和6)若槻礼次郎内閣が満州事変の不拡大方針を示す「満州事変に関する政府第一次声明」を出す詳細
1945年(昭和20)GHQが「政府からの報道の分離の件」(SCAPIN-51)を出す詳細
1966年(昭和41)熊本県の天草五橋(パールライン)が開通した日詳細
1971年(昭和46)「廃棄物処理法」(昭和45年12月25日公布)が施行される(清掃の日)詳細
1996年(平成8)国連総会で9月10日に採択された「包括的核実験禁止条約(CTBT)」に日本等71ヶ国が署名する詳細
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