ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:江戸幕府

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 今日は、江戸時代前期の1642年(寛永19)に、江戸幕府が譜代大名にも参勤交代を命じた日ですが、新暦では6月5日となります。
 参勤交代(さんきんこうたい)は、江戸時代に、江戸幕府が大名支配の手段として課した大名軍役の一つで、諸大名に時期を定めて江戸に参勤させた制度です。全国250以上ある大名家が2年毎に江戸に参勤し、1年経ったら自分の領地へ引き上げる交代を行うものでした。
 江戸初期に諸大名が自発的に江戸に参勤したことに端を発し、大名は忠誠を示すため、正室と子(男子であれば跡継ぎ)、有力家臣の子弟を人質として江戸に住まわせるようになります。1615年(元和元)に、制定された「武家諸法度(元和令)」により、参勤作法として従者の員数を定めて、100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定されました。
 1634年(寛永11)に、譜代大名の妻子を江戸に移すこととし、翌年には、「武家諸法度(寛永令)」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代が制度化されます。1642年(寛永19)には、制度改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となりました。
 享保の改革の一環として、1722年(享保7)に諸大名に1万石につき100石の上米を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半としましたが、8年後の1730年(享保15)には、参勤交代が旧制に復しました。1862年(文久2)に、再び参勤交代を緩和し、3年一勤百日在府制を実施しましたが、1865年(慶応元)に再び旧に戻そうとしたものの、命令に従う者がなく、事実上の廃絶となりました。
 この制度は、江戸幕府による大名妻子の人質政策であり、往復の旅費や江戸藩邸での巨額の出費は大名の財政を苦しめたものの、一方で江戸の繁栄、交通(街道や宿場等)・経済(貨幣流通や商工業)の発達、中央文化の地方普及を促したとされています。

〇参勤交代関係略年表

・1596年(慶長元) 藤堂高虎が弟の正高を証人として江戸に送り、参勤交代のはじめとされる
・1600年(慶長5) 関ケ原の戦後、外様大名の江戸参勤が増加する
・1602年(慶長7) 前田利長が母を人質として参勤する
・1615年(元和元) 「武家諸法度(元和令)」が制定されたが、参勤作法として従者の員数を定めただけで100万石以下20万石以上の大名は20騎以下、10万石以下の大名は分に応ずるよう規定する
・1634年(寛永11) 譜代大名の妻子を江戸に移す
・1635年(寛永12) 「武家諸法度(寛永令)」を改定し、その第2条に「大名・小名、在江戸交替相定むる所なり、毎歳夏四月中、参勤いたすべし」と規定し、参勤交代を制度化する
・1642年(寛永19) 制度の改正が行われ、譜代大名の交代期は6月、とくに関東の譜代大名は在府・在国半年、8月ないし2月交代となる
・1722年(享保7) 諸大名に1万石につき100石の上米を命じ、その代償として、参勤交代を緩和し、在府半年・在国1年半とする
・1730年(享保15) 参勤交代が旧制に復する
・1862年(文久2) 再び参勤交代を緩和し、三年一勤百日在府制を実施する
・1865年(慶応元)  再び旧に戻したが命令に従う者がなく、参勤交代制度が廃絶となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1691年(元禄4)江戸幕府が豪商・住友家に別子銅山の採掘を許可する(新暦6月5日)詳細
1841年(天保12)江戸幕府の命により、高島秋帆が徳丸ヶ原洋式軍事演習を行なう(新暦6月27日)詳細
1862年(文久2)江戸幕府が派遣した文久遣欧使節により、ロンドン覚書が締結される(新暦6月6日)詳細
1876年(明治9)明治天皇行幸で東京の上野公園の開園式が行われる詳細
1904年(明治37)小説家武田麟太郎の誕生日詳細
1906年(明治39)書家金子鷗亭の誕生日詳細
1915年(大正4)中国・袁世凱政府が日本の「対華21ヶ条要求」を受諾詳細
1942年(昭和17)「金属類回収令」に基づく閣令「回収物件の譲渡申込期間指定に関する件」が公布される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1858年(安政5)に、 彦根藩主・井伊直弼が江戸幕府大老に就任した日ですが、新暦では6月4日となります。
 井伊直弼(いい なおすけ)は、幕末の大老・彦根藩第15代藩主です。江戸時代後期の1815年(文化12年10月29日)に、近江国彦根城内(現在の滋賀県彦根市)において、彦根藩第13代藩主の父・伊井直中の十四男(母は側室お富の方)としてに生まれましたが、幼名は鉄之介、のち鉄三郎と言いました。
 1831年(天保2)の父の死後、三の丸尾末町の屋敷(埋木舎)に移り、32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしましたが、文武を修業し、国学者長野主膳に師事します。1846年(弘化3)に兄である第14代藩主直亮の養子となり、1850年(嘉永3)に、直亮が亡くなると家督を継いで第15代藩主に就き、掃部頭(かもんのかみ)と称しました。
 藩政改革に努め、1853年(嘉永6)ペリーの浦賀来航に際しては、彦根藩として相洲警備の重責を果たします。開国和親を主張し、尊王攘夷派の阿部正弘・徳川斉昭などと対立、将軍継嗣問題でも血統論から紀伊の徳川慶福を推し、一橋慶喜を推す尊王攘夷派と対峙しました。
 老中堀田正睦らの要請で、1858年(安政5)4月23日に幕府の大老に就任し、勅許を得ないまま同年6月19日に「日米修好通商条約」に調印して、尊王攘夷派の反感を買います。さらに、同年​10月25日には、一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて、第14代将軍を徳川慶福(家茂)とすることに成功しました。
 この中で翌年にかけて、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑とする、いわゆる「安政の大獄」が起こります。このため恨みを買って、1860年(万延元年3月3日)の桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に、数え年46歳で暗殺されました。
 尚、禅・国学・和歌など諸学芸に通じ、茶道では石州流を学んで自ら一派を立てるほどで、『茶湯一会集(いちえしゅう)』を著しています。

〇井伊直弼関係略年表

・1815年(文化12年10月29日) 近江国彦根城内(現在の滋賀県彦根市)において、彦根藩第13代藩主の父・伊井直中の十四男(母は側室お富の方)としてに生まれる
・1831年(天保2年) 父の死後、三の丸尾末町の屋敷(埋木舎)に移り、32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしましたが、文武を修業し、国学者長野主膳に師事します。
・1846年(弘化3年) 兄である第14代藩主直亮の養子となる
・1847年(弘化3年12月16日) 従四位下侍従兼玄蕃頭に叙任される
・1850年(嘉永2年12月16日) 左近衛権少将に任ぜられる(玄蕃頭兼任)
・1850年(嘉永3年11月21日) 兄・直亮が亡くなると家督を継いで第15代藩主に就き、掃部頭(かもんのかみ)と称する
・1851年(嘉永3年12月2日) 家中に向けて8箇条の書付を出す
・1851年(嘉永3年12月27日) 玄蕃頭から掃部頭に遷任(権少将如旧)される
・1852年(嘉永5年) 丹波亀山藩主・松平信豪の次女・昌子(貞鏡院)を娶とる
・1853年(嘉永6年) ペリーの浦賀来航に際しては、彦根藩として相洲警備の重責を果たす
・1856年(安政2年12月16日) 左近衛権中将に転任し、掃部頭は従前通り兼任する
・1858年(安政4年12月16日) 従四位上に昇叙、左近衛権中将掃部頭は留任する
・1858年(安政5年4月23日) 幕府の大老に就任する
・1858年(安政5年6月19日) 勅許を得ないまま「日米修好通商条約」に調印して、尊王攘夷派の反感を買う
・1858年(安政5年​10月25日) 一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて、第14代将軍を徳川慶福(家茂)とすることに成功する
・1860年(安政6年12月15日) 正四位上に昇叙、左近衛権中将掃部頭は留任する
・1860年(万延元年3月3日) 桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に、数え年46歳で暗殺される

☆安政の大獄(あんせいのたいごく)とは?

 江戸時代後期の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対する弾圧です。井伊直弼が、安政の五か国条約の調印に勅許を得ず、将軍継嗣問題(徳川家茂を14代将軍に定めたこと)に対しても諸侯の意見を求めることなく専断を行ないました。
 朝廷がこの専断措置に憤激し、同年8月に水戸藩に攘夷の密勅(戊午の密勅)を下したことから、井伊直弼の尊王攘夷派、ひいては一橋派に対する弾圧が開始されるに至ります。これにより、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑とし、水戸藩主徳川斉昭父子、越前藩主松平慶永らも処罰されました。
 この事件は、尊王攘夷運動を狂熱化させ、1860年(安政7)に井伊直弼が江戸城外で水戸浪士等18名により暗殺された、桜田門外の変の契機となります。

☆桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)とは?

 幕末の1860年(安政7年3月3日)に、江戸幕府の大老井伊直弼が、水戸浪士等18名により、江戸城の桜田門外で暗殺された事件です。井伊直弼が勅許を得ずに、日米修好通商条約に調印したことと安政の大獄で、尊皇派を弾圧したことに水戸浪士等が憤激して起こしました。
 この事件で、幕府の衰退が明らかになり、鎖国攘夷を主張する朝廷や諸雄藩の非難をさらに受けて危機が深まったのです。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「子供読書の日」です詳細
1265年(文永2)第92代の天皇とされる伏見天皇の誕生日(新暦5月10日)詳細
1342年(康永元)室町幕府初代将軍の足利尊氏が禅寺の寺格を制定(五山制度)する(新暦5月28日)詳細
1875年(明治8)日本画家上村松園の誕生日詳細
1895年(明治28)露・独・仏3国による「露仏独三國の遼東半島遷付勧告」(いわゆる三国干渉)がなされる詳細
1948年(昭和23)文部省が「全小中学校に学校給食を拡大」と発表する詳細
1954年(昭和29)日本学術会議が「原子力の研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」を出す詳細
2008年(平成20)陶芸家青木龍山の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1808年(文化5)に、間宮林蔵が江戸幕府の命により、樺太探検に出発した日ですが、新暦では5月8日となります。
 間宮林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の探検家・測量家です。1780年(安永9)に常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくばみらい市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれました。
 子供の頃から数学の才能があり、それをを幕吏に認められて、1790年(寛政2)頃に、江戸に出て、地理学を学びます。1796年(寛政8)に普請役雇として幕府に出仕し、1799年(寛政11)に村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡り、1800年(寛政12)に、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。
 1806年(文化3年)に択捉(えとろふ)を測量、1808年(文化5)には、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認しています。翌年に再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認し、6月にはアイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会いました。
 1810年(文化7)に村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著し、1822年(文政5)には、松前奉行廃止伴ない、江戸に帰り普請役となっています。1824年(文政7)に、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視し、1826年(文政9)には、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束しました。
 1832年(天保3)に、シーボルト著『日本』で日本辺界略図の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介されます。1842年(天保13)には、江戸幕府からカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ぜられましたが、1844年(天保15年2月26日)に、江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなりました。
 現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになっています。

<間宮林蔵主要な著作>
・『北蝦夷島地図』(1810年)
・『北蝦夷分界余話』(1810年)
・『東韃地方紀行』(1810年)

〇間宮林蔵関係略年表(日付は旧暦です)

・1780年(安永9年) 常陸国筑波郡上手柳村(現在のつくば市)の農家を営む父・間宮庄兵衛と母・(森田)クマの子として生まれる
・1790年(寛政2年) この頃、江戸に出て、地理学を学ぶ
・1796年(寛政8年) 普請役雇として幕府に出仕する
・1799年(寛政11年) 20歳の時、村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡る
・1800年(寛政12年) 21歳の時、蝦夷地御用雇に任ぜられる
・1806年(文化3年) 択捉(えとろふ)を測量する
・1808年(文化5年) 29歳の時、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認する
・1809年(文化6年) 30歳の時  再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認する、6月アイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会う
・1810年(文化7年)  31歳の時、村上貞助の協力で、「北蝦夷島地図」、「北蝦夷分界余話」、「東韃地方紀行」を著す
・1814年(文化11年) 35歳の時、蝦夷地測量をする
・1822年(文政5年) 43歳の時、松前奉行廃止、江戸に帰り普請役となる
・1824年(文政7年) 45歳の時、安房上総御前備掛手付となり,異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視する
・1826年(文政9年) 47歳の時、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束する
・1832年(天保3年) 53歳の時、シーボルト著「日本」で日本辺界略図」の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介される
・1842年(天保13年) 63歳の時、幕府、林蔵にカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ずる
・1844年(天保15年2月26日) 江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなる 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1776年(安永5)南画家・書家池大雅の命日(新暦5月30日)詳細
1818年(文化15)商人・測量家伊能忠敬の命日(新暦5月17日)詳細
1903年(明治36)福井県武生町明治の大火で、死者7名、重傷者2名、全焼1,057戸の被害を出す詳細
「小学校令」が改正され、教科書検定制から国定教科書制になる詳細
1941年(昭和16)「日ソ中立条約」が締結(同年4月25日発効)される詳細
1945年(昭和20)B-29爆撃機330機による城北大空襲(東京西部地域空襲)で、29.5平方kmを焼失、死者2,459人を出す詳細
1950年(昭和25)静岡県の熱海大火で、市街地の4分の1に延焼し、979棟が焼失する詳細
2001年(平成13)「配偶者暴力防止法」(平成13年法律第31号)が公布(施行は同年10月13日)される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1616年(元和2)に、徳川家康が太政大臣に任ぜられた日ですが、新暦では5月2日となります。
 徳川家康(とくがわ いえやす)は、戦国時代の1542年(天文11年12月26日)に、三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で、岡崎城主だった父・松平広忠の長男(母は於大の方)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。6歳のとき、人質として駿府の今川義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られ、広忠の死後、今川・織田間の捕虜交換協定によって駿府に赴きます。
 1555年(弘治元)に今川義元の館で元服し、義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)と名のりますますが、1558年(永禄元)に初陣し、この頃元康と改名しました。1560年(永禄3)の桶狭間の戦いでは、大高城兵糧入で武名を挙げたものの、義元が敗死すると、岡崎城に帰り、今川氏から自立します。
 翌年に織田信長と同盟、1563年(永禄6)に名を家康と改めますが、三河一向一揆に悩まされました。翌年これを鎮圧、同年三河一国を平定し、1567年(永禄9)に松平を徳川と改姓、東方への進出を図り、1570年(元亀元)には浜松に本拠を移します。
 同年の姉川の戦いで信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破し、その後、武田信玄と絶って上杉謙信と同盟したものの、1572年(元亀3)の三方原の戦で信玄に大敗しました。しかし、1575年(天正3)の長篠の戦いで家康・信長連合軍は武田勝頼の軍に大勝し、1582年(天正10)に信長が武田氏を滅ぼすと家康は駿河を手に入れます。
 同年に本能寺の変において信長が死亡すると、天正壬午の乱を制して甲斐・信濃を手中に収め、5ヶ国を領有する大大名となりました。1584年(天正12)には、羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙しましたが、和睦して臣下となり、駿府に本拠を移します。
 1590年(天正18)に秀吉の小田原征伐に従軍、後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入りました。1596年(慶長元)に正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなします。
 秀吉の死後は朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮、石田三成と反目して、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに至ったものの、これに勝利し、1603年(慶長8)に征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。1605年(慶長10)に将軍職を秀忠に譲りましたが、大御所として実権を握りつづけます。
 1614年(慶長19)から翌年にかけての大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めました。1616年(元和2年3月17日)には、太政大臣となったものの、翌年4月17日に、駿府(現在の静岡県静岡市)において、数え年75歳で亡くなっています。

〇徳川家康関係略年表(日付は旧暦です)

・1542年(天文11年12月26日) 三河国岡崎で、岡崎城主だった父・松平広忠の長男(母は於大の方)として生まれる
・1544年(天文13年9月) 広忠は於大の方を離別し、3歳で母と別れることとなる
・1547年(天文16年8月) 駿府へ送られる途中、織田方に捕らわれる
・1549年(天文18年11月) 今川・織田間の捕虜交換協定によって、今川義元の庇護下におかれる
・1555年(弘治元年3月) 義元の館で元服し、義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)と名のる
・1557年(弘治3年1月) 16歳で今川氏一門の女築山殿と結婚する
・1558年(永禄元年) 初陣し、この頃元康と改名する
・1560年(永禄3年5月) 桶狭間の戦いで大高城兵糧入で武名を挙げたものの、義元が敗死すると、岡崎城に帰り、今川氏から自立する
・1561年(永禄5年1月15日) 織田信長と同盟を結ぶ
・1563年(永禄6年) 名を家康と改める
・1564年(永禄7年2月) 三河一向一揆を鎮圧
・1564年(永禄7年6月) 三河一国を平定する
・1567年(永禄9年12月29日) 勅許を得て徳川と改姓し、従五位下三河守に叙任される
・1568年(永禄10年) 遠江を占領する
・1570年(元亀元年) 遠江引馬(浜松)に本拠を移す
・1570年(元亀元年6月28日) 姉川の戦で信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破する
・1570年(元亀元年10月8日) 武田信玄と絶って、上杉謙信と同盟する
・1572年(元亀3年12月22日) 三方原の戦で信玄に大敗する
・1575年(天正3年5月21日) 長篠の戦で家康・信長連合軍は武田勝頼の軍に大勝する
・1579年(天正7年) 信長の命により築山殿との間にもうけた長子信康を自殺させ、築山殿を処刑する
・1582年(天正10年3月) 信長が武田氏を滅ぼすと家康は駿河を手に入れる
・1582年(天正10年6月) 本能寺の変において信長が死亡すると、旅先の堺から岡崎へ逃げかえる
・1582年(天正10年9月) 天正壬午の乱を制して甲斐・信濃を手中に収める
・1584年(天正12年2月27日) 従三位の参議に叙任される
・1584年(天正12年) 羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦で対峙したが、和睦して臣下となる
・1586年(天正14年) 秀吉の妹朝日姫が家康の正室となって浜松に赴く
・1589年(天正17年) 7ヶ条の定書を領内の村々に公布して、年貢や夫役について規定する
・1590年(天正18年) 秀吉の小田原征伐に従軍する
・1590年(天正18年8月1日) 後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入る
・1591年(天正19年) 九戸政実の乱鎮定のため陸奥岩手沢に出陣する
・1592年(文禄元) 文禄の役では、肥前名護屋に駐留する
・1596年(慶長元年) 正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなす
・1598年(慶長3年8月) 秀吉が亡くなると、朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮する
・1599年(慶長4年) 五大老の一人前田利家の死後、秀吉の築いた伏見城本丸に入る
・1600年(慶長5年9月15日) 関ヶ原の戦で勝利する
・1602年(慶長7年) 京都二条城の造営を命じる
・1603年(慶長8年2月12日) 征夷大将軍の宣旨を受け、江戸幕府を開く
・1605年(慶長10年4月16日) 将軍職を秀忠に譲り、大御所として実権を掌握する
・1607年(慶長12年) 駿府城に引退する
・1614年(慶長19年) 大坂冬の陣が起こる
・1615年(元和元年5月8日) 大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす
・1615年(元和元年7月7日) 武家諸法度が定められる
・1615年(元和元年7月17日) 禁中並公家諸法度が定められる
・1616年(元和2年3月17日) 太政大臣となる
・1616年(元和2年4月17日) 駿府において、数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

806年(延暦25)第50代天皇である桓武天皇の命日(新暦4月9日)詳細
1880年(明治13)国会期成同盟が発足する詳細
1893年(明治26)埼玉県入間郡川越町(現在の川越市)において、川越大火が発生する詳細
1898年(明治31)小説家・俳人・評論家横光利一の誕生日詳細
1945年(昭和20)B29爆撃機309機が神戸へ来襲(最初の神戸大空襲)し、神戸の西半分が焼失、死者2,598名を出す詳細
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 今日は、江戸時代前期の1603年(慶長8)に、徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開くこととなった日ですが、新暦では3月24日となります。
 江戸幕府(えどばくふ)は、徳川家康が、1603年(慶長8年2月12日)に、征夷大将軍の宣下を受けて、江戸に開いた武家政権です。1867年(慶応3)に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還するまで、265年にわたって継続し、江戸時代と呼ばれました。
 家康以来続いた徳川の宗家は、第7代将軍家継の死で途絶えたのですが、御三家から将軍を迎え継続することになります。その後、将軍継嗣問題が起きたり、三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)を中心とした諸改革も行われましたが、幕府を立て直すことはたいへんでした。
 1853年(嘉永6)にペリーが浦賀に来航して開国を要求し、攘夷運動から倒幕運動へと進み、1867年(慶応3)の大政奉還によって、江戸幕府の終わりを告げています。

〇徳川家康(とくがわ いえやす)とは?

 戦国時代から江戸時代前期の武将・江戸幕府初代将軍です。1542年(天文11年12月26日)に、三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で、岡崎城主だった父・松平広忠の長男(母は於大の方)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。
 6歳のとき、人質として駿府(現在の静岡県静岡市)の今川義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られ、広忠の死後、今川・織田間の捕虜交換協定によって駿府に赴きます。1555年(弘治元)に義元の館で元服し、義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)と名のりますますが、1558年(永禄元)に初陣し、この頃元康と改名しました。
 1560年(永禄3)の桶狭間の戦いでは、大高城兵糧入で武名を挙げたものの、義元が敗死すると、岡崎城に帰り、今川氏から自立します。翌年に織田信長と同盟、1563年(永禄6)に名を家康と改めますが、三河一向一揆に悩まされました。
 翌年これを鎮圧、同年三河一国を平定し、1567年(永禄9)に松平を徳川と改姓、東方への進出を図り、1570年(元亀元)には浜松に本拠を移します。同年の姉川の戦いで信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破し、その後、武田信玄と絶って上杉謙信と同盟したものの、1572年(元亀3)の三方原の戦いで信玄に大敗しました。
 しかし、1575年(天正3)の長篠の戦で家康・信長連合軍は武田勝頼の軍に大勝し、1582年(天正10)に信長が武田氏を滅ぼすと家康は駿河を手に入れます。同年に本能寺の変において信長が死亡すると、天正壬午の乱を制して甲斐・信濃を手中に収め、5ヶ国を領有する大大名となりました。
 1584年(天正12)には、羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙しましたが、和睦して臣下となり、駿府に本拠を移します。1590年(天正18)に秀吉の小田原征伐に従軍、後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入りました。
 1596年(慶長元)に正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなします。秀吉の死後は朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮、石田三成と反目して、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに至ったものの、これに勝利し、1603年(慶長8)に征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。
 1605年(慶長10)に将軍職を秀忠に譲りましたが、大御所として実権を握りつづけます。1614年(慶長19)から翌年にかけての大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めたものの、1616年(元和2年4月17日)に、駿府において、数え年75歳で亡くなりました。

☆江戸幕府の歴代将軍(徳川家)一覧

【初代】家康(いえやす)[1603年(慶長8)~1605年(慶長10)]
・1603年 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
・1605年 将軍職を秀忠にゆずる(将軍職の世襲制を示す)

【2代】秀忠(ひでただ)[1605年(慶長10)~1623年(元和9)]
・1612年 幕府が直轄領に禁教令を出す
・1614年 大坂の役(~1615年)が起こる
・1615年 一国一城令が発布される
     武家諸法度・禁中並公家諸法度が出される
【3代】家光(いえみつ)[1623年(元和9)~1651年(慶安4)]
・1625年 関所・駅伝の制を定める
・1635年 武家諸法度で参勤交代を制度化する
・1637年 島原の乱が起こる
・1639年 ポルトガル船の来航を禁止する(鎖国の完成)
・1641年 オランダ人を長崎の出島に移す
・1644年 宗門改めの制を定める
・1649年 慶安の御触書が出される

【4代】家綱(いえつな)[1651年(慶安4)~1680年(延宝8)]
・1651年 慶安事変(由井正雪の乱)が起こる
・1657年 江戸で明暦の大火が起こる
・1673年 分地制限令が制定される

【5代】綱吉(つなよし)[1680年(延宝8)~1709年(宝永6)]
・1685年 生類憐れみの令が出される
・1688年 柳沢吉保が側用人になる
・1690年 聖堂を湯島に移し、昌平坂学問所を付設する
・1702年 赤穂事件が起こる
・1707年 富士山宝永噴火が起こる

【6代】家宣(いえのぶ)[1709年(宝永6)~1712年(正徳2)]
・1709年 新井白石の改革(正徳の治)が行われる
・1711年 朝鮮通信使の待遇簡素化される

【7代】家継(いえつぐ)[1712年(正徳2)~1716年(享保元)]
・1714年 正徳金銀の改鋳が行われる
・1715年 海舶互市新令が出される
・1716年 家継が8歳で没する

【8代】吉宗(よしむね)[1716年(享保元)~1745年(寛保5)]
1721年 目安箱が設置される
・1722年 上げ米の制をもうけ、参勤交代をゆるめる
・1723年 足高の制を定め、人材を登用する
・1732年 享保の大飢饉が起こる
・1742年 公事方御定書を出し、裁判の基準を定める

【9代】家重(いえしげ)[1745年(寛保5)~1760年(宝暦10)]
・1753年 薩摩藩に木曽川改修を命じる(宝暦治水)
・1758年 宝暦事件が起こる

【10代】家治(いえはる)[1760年(宝暦10)~1786年(天明7)]
  1772年 江戸で明和の大火が起こる
・1767年 田沼意次が側用人になる
・1782年 印旛沼・手賀沼の干拓工事
      天明の大飢饉(~1787年)が起こる
・1783年 浅間山天明大噴火が起こる

【11代】家斉(いえなり)[1787年(天明7)~1837年(天保8)]
・1789年 棄捐令が出される
・1790年 朱子学以外の学問が禁止される(寛政異学の禁)
・1808年 フェートン号事件が起こる
・1825年 異国船打払令が出される
・1833年 天保の大飢饉が起こる
・1837年 大塩平八郎の乱が起こる

【12代】家慶(いえよし)[1837年(天保8)~1853年(嘉永6)]
・1839年 蛮社の獄(渡辺崋山、高野長英ら処罰)
・1841年 株仲間解散令が出される
・1843年 人返しの法が制定される
      上知令が制定される
・1853年 ペリ-が浦賀に来航し、開国を要求

【13代】家定(いえさだ)[1853年(嘉永6)~1858年(安政5)]
・1854年 アメリカと日米和親条約を結ぶ
      日露和親条約(国境画定)
・1855年 長崎に海軍伝習所が設置される
・1856年 ハリスが総領事として着任する
・1853年 アメリカと日米修好通商条約を結ぶ

【14代】家茂(いえもち)[1858年(安政5)~1866年(慶応2)]
・1858年 安政の大獄が起こる
・1860年 桜田門外の変で井伊直弼が殺される
・1862年 坂下門外の変が起こる
      和宮が将軍家茂に降嫁する
      生麦事件が起こる
・1863年 薩英戦争が起こる
・1864年 禁門の変が起こる
      下関事件が起こる
      長州征伐(第一次)が行われる
・1865年 長州征伐(第二次)が行われる

【15代】慶喜(よしのぶ)[1866年(慶応2)~1867年(慶応3)]
・1867年 兵庫開港の勅許が出される
      大政奉還が行われる
      王政復古の大号令が発せられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

729年(神亀6)長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(新暦3月16日)詳細
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1947年(昭和22)志賀直哉が会長となって日本ペンクラブを再建する詳細
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1996年(平成8)小説家司馬遼太郎の命日詳細
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