ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:江戸

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 今日は、江戸時代後期の1825年(文政8)に、江戸中村座で鶴屋南北(四代目)作の『東海道四谷怪談』が初演された日ですが、新暦では9月8日となります。
 『東海道四谷怪談』(とうかいどうよつやかいだん)は、鶴屋南北(四代目)作の歌舞伎脚本で、通称「四谷怪談」とも呼ばれてきました。世話物で、5幕11場からなり、1825年(文政8年7月26日)に、江戸中村座で、3世尾上菊五郎(お岩・小平・与茂七役)、7世市川団十郎(伊右衛門役)、5世松本幸四郎(直助権兵衛役)らにより、初演されています。
寛文年間(1661~73年)に四谷左門町に住んでいた田宮又左衛門の娘お岩が嫉妬によってたたりをなしたという巷説などを素材としたもので、塩冶えんや家の浪人民谷伊右衛門は、仲間とともに立身のために妻お岩の毒殺をはかり、憤死させるが、その怨霊にたたられて破滅するというストーリーでした。怪談物の代表作とされ、お岩の髪梳きの場、戸板返しの場など、舞台効果にも富んでいます。

〇鶴屋 南北(四代目)(つるや なんぼく)とは?

 江戸時代の歌舞伎作者です。江戸時代中期の1755年(宝暦5)に江戸・日本橋の紺屋海老屋伊三郎の子として生まれたとされますが、本名は伊之助または勝次郎と言いました。
 生来の芝居好きで、20代初めに狂言作者を志し、1776年(安永5)に初代桜田治助の門に入り、翌年には、初世桜田治助の苗字をもらい桜田兵蔵の名で番付に載ります。1782年(天明2)に、道化方の俳優三世南北の娘をめとり、勝俵蔵を名のり、1786年(天明6)から狂言作者に専心、道外方大谷徳次を使った「おかしみの狂言」を書き、認められました。
 1797年(寛政9)に三世坂東彦三郎付きの作者となり、1799年(寛政10)の5歳の時、立作者となります。1803年(享和3)の49歳の時、三代目坂東彦三郎のために『世響音羽桜』を書き、翌年の江戸河原崎座で初代尾上松助のために書き下ろした『天竺徳兵衛韓噺』(天竺徳兵衛)が大当たりとなりました。
 1805年(享和5)に河原崎座で『四天王楓江戸粧』を成功させ、1806年(享和6)には五世松本幸四郎一座の立作者となります。1808年(文化5)に市村座『彩入御伽草』で怪談物の狂言を完成させ、1811年(文化8)には、四代目鶴屋南北を襲名しました。
 以後、25年間に五世松本幸四郎、五世岩井半四郎、三世尾上菊五郎のため、120編の作品を書き、中でも1825年(文政8)の『東海道四谷怪談』は代表作とされます。生世話(きぜわ)に巧みで、趣向に富むとされたものの、1829年(文政12)に『金幣猿島郡』を一世一代として引退、同年11月27日に江戸において、75歳で亡くなりました。
 尚、一般的に鶴屋南北といえば、四代目を指し、大南北と呼ばれ、孫の五代目は小南北とも呼ばれています。 

〇中村座(なかむらざ)とは?

 江戸にあった歌舞伎劇場で、市村座、森田座(のち守田座)と共に、江戸三座と呼ばれています。江戸時代前期の1624年(寛永元)に、猿若勘三郎(初世中村勘三郎)が猿若座と称して中橋広小路に創設し、後に中村座と改称されました。
 禰宜町、堺町を経て、1842年(天保13)に浅草猿若町へ移転し、1876年(明治9)に休座、のち都座、猿若座、中村座、鳥越座と名称をかえて、何度か再興したものの、長続きせず、1893年(明治26)に焼失して廃座となっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1651年(慶安4)軍学者・慶安の変の首謀者由比正雪が自害する(新暦9月10日)詳細
1881年(明治14)劇作家・演出家小山内薫の誕生日詳細
1940年(昭和15)第2次近衛内閣によって国家の政策の基本方針である「基本国策要綱」が閣議決定される詳細
1945年(昭和20)ポツダム会談(ドイツのポツダムで開催)で協議の上、ポツダム宣言が出される詳細
1981年(昭和56)全国8番目の地下鉄として、福岡市地下鉄初の天神駅~室見駅間(1号線)が開業する詳細
1992年(平成4)将棋棋士・15世永世名人大山康晴の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1851年(嘉永4)に、江戸幕府により、江戸に於て、「株仲間再興令」が布達された日ですが、新暦では4月10日となります。
 「株仲間再興令」(かぶなかまさいこうれい)は、それまでの「株仲間解散令」を改め、株仲間・問屋・組合の再興を許可した幕府法令でした。老中水野忠邦を中心とする天保の改革によって、天保12年12月13日(1842年1月24日)に、「株仲間解散令」が出され、株仲間・問屋・組合の解散が命じられます。
 株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるという認識から、冥加金の上納を停止させ、江戸十組問屋仲間を解散させたものでしたが、流通上の混乱を招き、また江戸・大坂以外へ商品が流れることになり、かえって物価が高騰し、意図した効果をあげることができなくなりました。そこで、多くの役人が株仲間の再結成を幕府に進言することとなり、「株仲間解散令」を撤回したこの法令が、嘉永4年(1851年)3月9日に江戸、3月21日に大坂、3月中の京都をはじめ、駿府、伏見、奈良などの直轄都市を中心に布達されます。
 しかし、株札の発行や冥加金の徴収を行わないなど、必ずしも天保の改革以前の状態に戻したものではありませんでした。その後、全体として仲間数や加入者数が急増することとなり、大坂では、11857年(安政4)に町人からの出願により冥加金の上納と株札の発行が復活、江戸でもやがて冥加金の再上納が行われるようになります。
 以下に、「株仲間再興令」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「株仲間再興令」 1851年(嘉永4年3月)布達

去ル丑年中諸問屋組合停止被仰出候処、其巳来問屋組合商法取締相崩、諸品下直二も不相成、却て不融通の趣も相聞候二付、此度問屋組合の儀、都て文化巳前の通再興被申付候、左侯迎元十組の者共冥加金上納等の御沙汰ハ弥以無之候間、文化以来の商法二不流、諸商人共物価引下ケ方の義厚心掛、実意二渡世相営候様得と申諭、取締方等精々可申渡候

   三 月

右の通町奉行え申渡候間,向々え可被相触候,
右の趣於江戸表二同所町奉行え被仰渡候段,此旨三郷町中可触知者也

   亥三月       加 賀
                日 向 

〇「株仲間解散令」(かぶなかまかいさんれい)とは?

 江戸時代後期の天保12年12月13日(1842年1月24日)に、江戸幕府が天保の改革の一つとして、株仲間・問屋・組合の解散を命じた幕府法令です。天保の改革の中心人物であった老中水野忠邦は、株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるという認識から、冥加金の上納を停止させ、江戸十組問屋仲間を解散させたものでした。
 翌年3月2日には、全国の商人・職人に対して、あらゆる業種の株仲間の解散を命じるものに拡大し、素人直売買など自由な取引が奨励されます。その結果、流通上の混乱を招き、また江戸・大坂以外へ商品が流れることになり、かえって物価が高騰し、意図した効果をあげることができずに失敗しました。
 そこで、1851年(嘉永4)3月9日には、「株仲間再興令」が出されることとなります。
 以下に、「株仲間解散令」(抄)を掲載しておきますので、ご参照下さい。
 
☆「株仲間解散令」 (抄文) 天保12年12月13日(1842年1月24日)発布 

仲間株札[1]は勿論、此外共都而問屋仲間[2]並組合[3]抔と唱候儀相成らず旨、十組問屋[4]共江申渡書。
             菱垣迴船[5]積問屋[6]、十組問屋[4]共
 其方共儀、是迄年々金壱万弐百両冥加上納[7]致来たり候処、問屋共不正の趣[8]に相聞に付、以来上納に及ばず候。尤向後[9]仲間株札[1]は勿論、此外共都而問屋仲間[2]並組合[3]抔と唱候儀は相成らず候。
一、右に付而は、是迄右船に積来候諸品は勿論、都而何国より出候何品に而も素人直売買[10]勝手次第[11]たるべく候。且又諸家国産類[12]其外惣而は江戸表江相迴し候品々も、問屋に限らず銘々出入りの者共引受け売捌候儀も、是又勝手次第[11]に候間其の旨存じすべし。
 (中略)

  天保十二年丑十二月十三日

     『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]仲間株札:なかまかぶふだ=株仲間構成員の鑑札。
[2]問屋仲間:とんやなかま=問屋の同業組合で、営業の独占権を持っていた。
[3]組合:くみあい=営業の独占権を持つ同業組合。
[4]十組問屋:とくみとんや=江戸の荷受問屋の株仲間で、1694年(元禄7)に大坂から江戸へ下る荷物を扱う問屋仲間として発足する。
[5]菱垣迴船:ひがきかいせん=江戸~大阪間の定期的廻船。
[6]積問屋:つみとんや=発送元と発送する商品が固定化されている事業問屋。
[7]冥加上納:みょうがじょうのう=株仲間が特権的に営業を独占する代わりに幕府に収めさせた税金、
[8]不正の趣:ふせいのおもむき=当時、不当に値をつり上げて儲けていたことを指す。
[9]向後:きょうご=今後、事後。
[10]素人直売買:しろうとじきばいばい=仲間に入っていない一般商人・在郷商人の直接取引のこと。
[11]勝手次第:かってしだい=自分の思いどおりにすること。勝手きままに振る舞ってよいこと。自由に行ってよいこと。
[12]諸家国産類:しょかこくさんるい=諸藩の国産品。 

<現代語訳> 

株仲間構成員の鑑札はもちろん、この他すべての問屋仲間や問屋組合などと称えることを禁止する旨、十組問屋たちへ申し渡す書。
              菱垣迴船積問屋、十組問屋たち
 その方たちは、これまで毎年金1万200両の冥加金を上納してきたが、問屋たちに不正行為があるとの風評が立っているので、今後は上納しなくてもよい。よって今後は株仲間構成員の鑑札はもちろん、この他すべての問屋仲間や問屋組合などと称えてはならない。
  
 一、右のことについては、これまで右の船(菱垣廻船)に積載してきた諸商品はもちろん、すべてどの国より持ってきた、どのような商品においても、一般商人・在郷商人の直接取引を自由に行ってもよい。また、諸藩の国産品その他すべて江戸へ運送してきた品々も、問屋だけでなく、それぞれ出入りの商人が引き受けて、売りさばいても、これまた自由に行ってよいこととするから、そのことを申し渡せ。
 (中略)

  天保12年丑12月13日(1842年1月24日)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1634年(寛永11)将棋師・一世名人大橋宗桂(初代)の命日(新暦4月6日)詳細
1894年(明治27)日本初の記念切手(明治天皇銀婚記念切手)が発行される(記念切手記念日)詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「学童疎開強化要綱」を閣議決定する詳細
1958年(昭和33)下関~門司間の海底道路トンネルである関門国道トンネルが開通する詳細
1968年(昭和43)イタイイタイ病の患者・遺族が原因企業の三井金属鉱業に損害賠償を提訴する詳細
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 今日は、江戸時代前期の1634年(寛永11)に、江戸幕府が、各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名火消を設置した日ですが、新暦では2月26日となります。
 大名火消(だいみょうびけし)は、江戸幕府が設置した、消防制度の一つでした。1634年(寛永11年1月29日)に、大名への課役とする新たな火消制度として、江戸城以下の重要建造物をはじめ、大名の藩邸とその付近一帯の消火活動を義務付けたものです。
 1643年(寛永20年9月)には、6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成し、1万石につき30名ずつ藩邸の武士を動員、1組が10日交代で常時消防に当たらせるように整備しました。火事が発生すると、火元に近い大名が出動し、武家地・町人地の区別なく消火を行なうとされています。
 その後、1657年(明暦3年1月18日)の明暦の大火の翌年に、方角火消が設置され、1658年(万治元)に、江戸幕府が旗本4人を火消役に任命して定火消制度が始まり、1720年(享保5)には、約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられるなど、江戸の消火組織も整えられていきました。

〇江戸の火消関係略年表(日付は旧暦です)

・1634年(寛永11年1月29日) 江戸幕府が、各藩邸から出動して江戸市内の消火にあたる大名火消を設置する
・1643年(寛永20年9月) 江戸幕府は6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成して、大名火消を整備する
・1657年(明暦3年1月18日) 明暦の大火が起き、約500~800町を焼き、焼死者が10万人以上に及んだとされる
・1657年(明暦3年) 方角火消が設置される
・1658年(万治元年9月8日) 江戸幕府が旗本4人を火消役に任命し、定火消制度が始まる
・1659年(万治2年1月4日) 老中稲葉正則の率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげ、出初(でぞめ)を行なう
・1695年(元禄8年) 定火消組織が15組に増やされる
・1704年(宝永元年) 10組の定火消組織が確立し「十人火消」といわれるようになる
・1720年(享保5年) 約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組47組と、東の本所・深川を担当する16組の町火消が設けられる
・1730年(享保15年) いろは47組を一番組から十番組まで10の大組に分け、大纏を与えて統括し、より多くの火消人足を火事場に集められるように改編する
・1772年(明和9年2月29日) 明和の大火が起き、934町を焼き、死者は1万4,700人、行方不明者は4,000人を超える
・1806年(文化3年3月4日) 文化の大火が起き、530町を焼き、焼失家屋は12万6,000戸、死者は1200人を超える
・1859年(安政6年) 定火消組織が8組に減らされる
・1866年(慶応2年) 定火消組織が4組に減らされる

〇明暦の大火(めいれきのたいか)とは?

 江戸時代前期の1657年(明暦3年1月18日)午後2時頃、北西風が激しく吹く中、江戸の本郷丸山本妙寺で、3人の女が法会(施餓鬼)のため振袖を焼いたのが出火原因となり、大風のため次々と延焼しました。翌日に鎮火するまでに、約500~800町を焼き、旗本屋敷、神社仏閣、橋梁など多数を焼失、江戸城天守までもが燃え落ち、焼死者が10万人以上に及んだといわれています。
 寒さのために、罹災者で凍死する者も多く、幕府は救小屋を設けたり、粥の施行をして救済にあたりました。明和の大火、文化の大火と共に江戸三大大火とされていますが、その中でも最大のもので、「振袖火事」、「丸山火事」とも呼ばれています。
 その後の火災対策として、1657年(明暦3)に方角火消、翌年には定火消が設置され、瓦葺屋根や土蔵造りなどの耐火建築が奨励されました。大火によって、江戸時代初期の町の様相は失われ、幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転、寺社の外辺部への移転などを進め、道幅、町家の規模が統一され、火よけの広小路を設置、さらに本所、深川にも市街の拡張が行われます。
 しかし、災害復興のため幕府貯蔵の金銀は底をつき、1695年(元禄8)の金銀貨改鋳(貨幣改悪)の遠因となったと言われてきました。 

☆江戸時代の大火一覧

・1657年(明暦3年1月18日、19日)江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日)江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830~3,500人
・1708年(宝永5年3月8日)京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日)大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日)江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日)江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日)京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日)江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日)江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日)大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日)大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日)京都の「元治の大火」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1293年(正応6)南北朝時代の公卿・武将・学者北畠親房の誕生日(新暦3月8日)詳細
1905年(明治38)週刊「平民新聞」第64号が赤字で発行され、「終刊の辞」が掲載されて廃刊となる詳細
1944年(昭和19)「中央公論」、「改造」の編集者が検挙され、横浜事件の一つ「中央公論・改造事件」の発端となる詳細
1946年(昭和21)GHQが「日本の行政権の行使に関する範囲の指令」(SCAPIN-677)を出す詳細
1991年(平成3)小説家井上靖の命日詳細
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 今日は、江戸時代前期の1653年(承応2)に、江戸幕府が、町人・清右衛門が建議した多摩川からの江戸への導水路(玉川上水)の着工を許可した日ですが、新暦では2月10日となります。
 玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた用水路で、神田上水、千川上水と共に江戸三上水の一つでした。江戸幕府第4代将軍徳川家綱の時代の1653年 (承応2) に、町人・清右衛門の建議を受けて、同年4月4日に庄右衛門・清右衛門兄弟が、多摩川中流羽村と四谷大木戸間の水路を着工します。
 2度の失敗を経て、総奉行松平信綱のもとに1654年(承応3年6月20日)に、この区間が竣工し、翌年に四谷大木戸から江戸城虎ノ門前までが完成しました。これ以後は、配水路が次々に延長されていって、江戸の南部方面に配水されます。
 多摩川の水を羽村(現在の東京都羽村市)で取水し、拝島-立川-武蔵境-下高井戸-四谷大木戸 (現在の東京都新宿区)間の約43kmは、自然流下により導水する開渠で、ここからは、石樋や木管で江戸城・武家屋敷・庶民の居住地等に給水されました。その後、野火止(のびどめ)、青山、三田、千川の各分水が設けられ、飲料水あるいは灌漑用水として利用されます。
 庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられ、その経営を請け負って、玉川両家で世襲されました。しかし、1739年(元文4)両家とも役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となります。
 明治時代になっても使用され、1898年(明治31)に東京に改良水道が完成した後も、1965年(昭和40)まで淀橋浄水場への導水路として利用され、現在は立川市砂川から東村山市浄水場へ送水されるようになりました。これに伴い、小平地点より下流部分は流水がとだえましたが、東京都の施策により1986年(昭和61)に清流が復活し、開渠部分の約30.4kmが、2003年(平成15)に国の史跡に指定されます。
 以下に、1895年(明治28)4月建立の「水道碑記」(所在地:東京都新宿区内藤町87)の原文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「水道碑記」1895年(明治28)建立(所在地:東京都新宿区内藤町87)

<原文>

(表面)
                従三位侯爵徳川家達篆額
詩曰瞻彼洛矣維水泱泱聖人之設都也以水為急蓋以人須水不可一日欠也徳川氏之開府
于江戸也諸侯会同工商簇聚者殆一百万地窄不能尽容乃塡海為陸而地無清泉民龥渇将
軍秀忠深患之乃親騎旁索四郊多摩郡有一沼水觱沸嘗之味甘大悦乃命工人浚汚泥鑿田
畝東導四里有半至関口村置閘築堰導至小石川埋石地下作闇溝踰神田川至小川街分為
両岐一過東神田瀉柳原溝一至神田橋分注城内百邸本流踰竜閑橋過常盤橋外到京橋此
間分二派一注銀街馬喰街入浅草溝一注本街折至堀留過小舟小網街至箱崎入大河人民
各捐私金自引地下闇溝如布網千区百街無処不注是為神田水道将軍自命曰井頭謂市井
之源也而水猶未足将軍家綱更開玉川水道玉川発源甲斐山梨郡東流三十八里入海家綱
擢市尹神尾備前幹事備前挙川傍富民荘左門清右門二人不別設官吏二人精工事測道遠
近度地高低預算経費六千五百両備器具傭役夫承応三年四月既肇羽村鑿渠八尺広十二
尺設閘若干以備暴溢之虞東導十余里至四谷費用不足二人以私金継之不復稟求埋木桶
作闇溝一如井頭水道至麴街分四流一下赤阪至虎門外分之三方東者入桜田門注西城外
諸区瀉呉服橋南者泝京橋滙八町堀木挽街入大河西者注芝百街入金杉海第二流注平河
永田霞関数街第三第四流入半蔵門一注西城一入大城為官園瀑布風光添趣余流環為城
溝十一月工事告竣闇溝長若干埋木桶若干無一所欠家綱嘉賞賜二人姓玉川給禄二百石
列之士伍云嗚呼水道之益于都下実莫大旱不枯雨不溢源源混混灕然不止三百年于今民
不病一日之渇且此水流遠性和百万人民不病癩疾疥癬為恵也大如玉川二氏尽力于此不
少為労亦捐金無吝色其事為後法其利及百世可謂偉也若神田水道雖有粗記之者不悉費
金多寡及役夫之数不可得而審為可惜焉余閲旧志略知其顚末恐歳月之久功績湮没後人
無可考因不顧不文乃記其大概与同志者合力刻石以垂不朽云
明治十八年四月              薩摩   肝付兼武撰
              内閣大書記官従五位勲五等金井之恭書
                             井亀泉刻字


(裏面)
 水道記念碑之裏銘
此碑成矣碑之告成原是所
出於良人西座真治之発起
也真治徇業而不惜斡旋多
年支出不貲有志之醵金不
充真治資力尽不董業而逝
焉真治臨死無他事遺妾以
此一事妾感奮鏤肺醵私財
以建設之時在明治廿八年
臘之某日嗚呼妾之微衷慰
霊於九泉之下併記発起之
誰何云爾
  未亡西座ふく識之

☆玉川上水関係略年表(日付は旧暦です)

・1653年 (承応2年1月13日) 江戸幕府が、町人・清右衛門が建議した多摩川からの江戸への導水路(玉川上水)の着工を許可する
・1653年 (承応2年4月4日) 庄右衛門・清右衛門兄弟が多摩川中流羽村と四谷大木戸間の水路を着工する
・1654年(承応3年6月20日) 総奉行松平信綱のもとにに、羽村~四谷大木戸間が竣工する
・1655年(明暦元) 四谷大木戸から江戸城虎ノ門前までが完成する
・1655年(明暦元) 分水の一つ、野火止用水が開削される
・1659年(万治2) 維持管理費用として水上修復料銀の徴収が始まる
・1660年(万治3) 分水の一つ、青山上水が開設される
・1664年(寛文4) 分水の一つ、三田上水が開削される
・1696年(元禄9) 分水の一つ、千川上水が完工する
・1739年(元文4) 玉川両家が共に玉川上水役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となる
・1898年(明治31) 東京に改良水道が完成する
・1901年(明治34) 東京の上水用としては廃止される
・1965年(昭和40) 淀橋浄水場廃止まで、導水路として利用される
・1986年(昭和61) 東京都の施策により、小平地点より下流部分の清流が復活する
・2003年(平成15) 開渠部分の約30.4kmが国の史跡に指定される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1199年(建久10)鎌倉幕府初代将軍源頼朝の命日(新暦2月9日)詳細
1945年(昭和20)東海地方で三河地震(M6.8)が起き、死者・行方不明者2,306人を出す詳細
1966年(昭和41)「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(古都保存法)が公布される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家舟橋聖一の命日詳細
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